深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 8



 まだ固定具の取れない土方の身を思ってか、それともいつになく破滅的に積極的な土方の様に思う所があっての事か、床に座した坂田の上に土方が自ら腰を落とすと言う、対面座位の形で繋がった。
 「ふ…、ッう、」
 坂田の身体を大きく開いた膝で挟んで、反り返った爪先で背を掻いて切れ切れに呼吸を繰り返す。自由な左腕はだらりと垂れ下がって床を引っ掻こうと藻掻き、不安定な姿勢に丸まった土方の背を坂田の腕がしっかりと抱えている。
 身動きをしないと少しもどかしくて辛いから、内股に力を込めて腰を僅かずつ前後に揺すると、応える様に坂田が腰を突き上げて、土方に痺れる様な快感を送り込んでくれる。
 滴る汗が体温を奪って背筋を冷やす。それでも繋がった部分と触れあっている膚の間には酷い熱が淀んでいて、温かくて熱くて心地よい。縋る様に、むずがる様に頭を振る土方の行動に何を思ったのかは知れないが、坂田の手は土方の背を、矢張りあやす様に優しく撫でていた。
 見下ろした己の性器ははしたなく持ち上がって震えては雫をこぼしていて、その先では隙間なくみっちりと繋がって埋まった肉と肉の交わりがある。
 そこでするセックスを土方に教えたのは坂田だった。こんなものでも呉れてやろうと思ったのは土方だった。だからこれは解り易い、情の示し方。そんな関係だからこそ得られる、信頼の保証を知れる方法。
 「……俺は、てめぇの事が、嫌いだ」
 途切れ途切れに目の前の男に縋り付きながら呻く。感情は矢張り握り締めた拳と、折れた腕の裡。揺すられて擦れる肉の熱さと、押し上げ開かれる体内の、苦しさにも似た眩暈のしそうな感覚に啼き喘いでいるのだから、さぞ滑稽な事を言っている様に聞こえるだろう。自分でもその自覚はあった。
 だが、坂田はあやす様に抱いた土方の背を指先で撫でて、「…解ってる」と答えるのだ。肯定されると言う気休めを土方が求めているのだと、恐らくは解っていて。
 打算で繋いだ情だけが、この行為の正体であって目的だ。土方副長は坂田副長と反目し合う関係だから。土方は坂田との関係性を打算の末の手段であるとしたいから。
 それでも、段々と揺らぐ己の心が苦しい。坂田の存在に本当の意味で捕らわれて、抜けられなく、諦められなくなっている、愚かな恋情に近付いた何かが。
 「…っ嫌い、だからこそ、こんな酔狂を、許してる」
 それでも。それでも、言い訳を、建前を、防衛線の様に張っては己を騙して、こんな事を続けようとしている。坂田の存在を切り捨てねば最早、土方の思う『元の』自分になど戻れないと解っているのに、それが出来ない。どれだけ自嘲すれど、この情を棄てる事が苦しい。
 この、恐らくは恋に至ったのだろう情を、棄てる事が、できない。
 今や、真選組の為に尽くす事と、坂田銀時個人を想う事とを天秤に掛ける事にさえ躊躇いを憶える程に、どうしてかこの情は土方の裡に根付いて仕舞った。
 ──それでも。そうだと、しても。
 "あんな目立つ、銀髪の男が──"
 「──」
 残された言葉が疑念を生んだ事は確かだ。それが嘘か誠かはさておいて、心にそれを正さねばならぬと刺すものである意味としては、確かだ。
 土方には、坂田が己が近藤を裏切るとは到底思えなかった。己が坂田からこうして──こうして居なくとも──いる関係と向けられる感情とに、欺かれているなどとは思いたくもなかった。
 以前にもこうして坂田へと疑いを向けた事があったが、あの時は筒井と言う幕臣を騙し仕留める為の演技だった。
 だがそれがもしも、現実にあるものだとしたら──?
 残念ながら可能性としては有り得ない話ではない。土方は、有り得ない、と言い切れる程、坂田銀時と言う人間の事を知り得てはいないからだ。
 身体と、或いは心までを明け渡し、信頼をそれで確信に導く事が出来るのに、そんな単純な事にさえ至らない事に、然し苦しみも悔しさも無かった。何故ならば当初から、そう言う関係(もの)で良いと、選んだのは土方自身だったからだ。
 裏切られたとしたら、それは土方自身の過失だ。坂田と言う男を勝手に信じて勝手に見誤ったと言うだけの話。坂田は土方の信頼を得て欺く為に、こんな酔狂を良しとしていただけの、話だ。
 では、己を信じきって身体まで預ける愚かな男を抱いている時、彼は一体どんな表情をしているのだろうか。
 「っ…、」
 想像は不快感を通り越して背筋を冷やして落ちた。坂田を疑いたくは無いと、その想像だけは嫌だと、冷えた背筋に触れる掌の温かさの中に思う。
 嫌だと、それを厭おうとする己の感情が──真選組よりも坂田への情を選ぼうとした事こそ、何よりの罪悪の様に土方には感じられた。
 この恋情を、真選組との二択であっても、切り捨てるに躊躇うなど、有り得てはならない事だ。真選組副長の土方十四郎には、あってはいけない感情だ。
 だから、あの路地裏でチンピラ一人を斬り殺したのは、坂田の為ではない。真選組の為だ。坂田を疑う事を土方は選んだ。あの男の口を封じる事は、真選組を護る為に取った、副長として当然の選択だった、筈だ。
 この、苦しいばかりの情とは関係なく、真選組の為に坂田を疑う事を、それに否を幾度も唱える己の声を無視して、副長として最善の解答を選んだ、筈だ。
 土方はあの路地裏で山崎に告げた。今の証言の裏付けを取るべく調査しろ、と。
 坂田の行動に不審なものが無いかを調べあげろ、と。
 
 *
 
 「……見なかったし、聞かなかった事にしますね」
 証言などもう出来ぬ身と成り果てた亡骸を、冷めた目で見下ろしていた土方に、やがてぽつりと山崎が呟きを寄越すのが聞こえた。
 命令違反を積み重ねた上に、殺人と言う決定的な犯罪まで犯した上司に対するものとしては、山崎の言葉は破格のものであった。捜査をする上で本来必要であった、偶然見つけた容疑者の一人を台無しにすると言う、失態とも言える事をやらかした者に対する言葉としては、組織人として考えれば大凡失格と言えるものだっただろう。
 それでも矢張り土方には確信があった。この地味な部下ならば、真選組の為にと土方の行うあらゆる不正をも黙って見逃すと。或いは、隠蔽に協力すると。
 土方が真選組を第一に考える副長である限りは、土方自身がそう思う限りは、裏切りはしないと。
 だから土方は山崎の大らかすぎる決断を「いや」と否定の言葉で遮った。これが、この行動が、無益で身勝手な殺生一つが、坂田を庇う為のものと言うよりも、真選組を護る手段なのだと己にも言い聞かせる為に。
 「聞かなかった事にはしなくて良いから、今の裏付けを調査しろ」
 顎に滴った雨の雫を拭って、土方は血に塗れた刀を自らの袂で乱暴に拭うと、山崎の腰に空っぽの侭下がる鞘へと戻した。汚しておいて何だが、アフターケアは自分の仕事ではない。
 「……良いんですか?」
 収められた刀をちらと見下ろしてから、山崎がおずおずと訊いて来る。直接に説明した事も、問われた事も無いが、山崎は恐らくは土方と坂田との間に、反目し合う二人の副長と言う以上の何らかの関係性がある事に気付いている。どの程度を知っているかは定かではないが、少なくとも安易に口にはしない程度に、そして是非を問う程度には、知ってはいるらしい。
 坂田には幾ら望んだ所で得られぬ確信が、仕事の上での付き合いしか無い様な部下の元にしか無いと言うのが何だか滑稽に思えた。
 「構うな」
 本日幾度目かになる言葉に躊躇いは無かった。
 ただ無性に気分が悪くなって、早くこの死体が一つ転がるだけの出口の無い隘路から出たかった。
 狭く、圧迫感があって苦しく、逃げ場が無く、遣り場も無い、明るみに決して出してはならない、この想いから。──早く。
 
 *
 
 今の土方にとっては、坂田を疑う事と真選組を護る事とは密接に結びついていて、そのくせどちらを選ぼうとしても途方も無い苦痛が生じるのだ。
 坂田を裏切りたくはない、疑いたくはないと言うのは本心だが、証言の通り疑う事は利に適う。その程度には土方は坂田の過去や行動を把握出来ていない。
 だから、攘夷志士であった過去を持つ坂田を疑うのは真選組の副長である土方にとっては当然の事の筈だった。寧ろ、本来ならば何かある度真っ先に疑ってかかるべき存在なのだ。
 だが、坂田は土方に情を交わす事で信頼を寄越した。故に、坂田を疑うと言う事は土方にとっては生じた情を棄てるも同義だった。
 (棄てるも何も、本来あっちゃいけねェもんだった、筈だ)
 脳の奥底で涌いては消えて苛む己の声から逃れようと、土方は喘ぎながらただただかぶりを振った。解っている。血迷っているのは、誤っているのは己の方なのだと、解っている。
 だから坂田は、解っている、と答えるのだ。触れあわせた膚の狭間にも、向かい合っては目を逸らす土方の本心にも、恐らく聡いこの男が気付いていない筈はない。だから、ただ意味のない肯定を寄越す。
 「信頼だけは、呉れてやる。でも、ッそれ、以外は許容する訳、にはいかねェ、ん、っ、だ、」
 肉を交えて情をも交わそうなどと、浅ましいと思う。それでも、繋がった一点の確かな熱と、互いに急所も弱味もなにもかも晒け出す事を許し合っているこの間だけは、どんな真実よりも坂田を信じる事が出来る。
 それが本来、互いに虚構を塗り固めた、ただの信頼を得る為だけの下らなく下衆な関係だったとしても。
 背に回って土方の苦悩をあやす様にしている坂田の腕と、間断なく快楽を送っては快楽を貪っている両者の明け透けな肉欲とが土方に、確かな情の様な何かを伝えてくれる。坂田の優しさや仕草や籠もった熱の一つ一つから、土方はそれを必死に感じ取るのだ。
 「解ってる。解ってるよ、土方」
 熱を孕んだ坂田の弾む息に乗った声が耳朶の直ぐ近くで吹き込まれ、土方は背筋に走った怖気に膚を心地よく粟立てながら、もう近い頂点に上り詰めるべく呼吸を詰めて、坂田の性器が深い所まで出入りしている括約筋を引き絞った。そうすれば益々に強く、己の体内を拡げて溶かしては犯すものの存在を感じ取る事になる。
 「、」
 ふ、と坂田の唇から漏れる快感を示す吐息に堪らなくなって、土方は自由な唯一の左腕で坂田の首から背を掻き抱いた。近くなった距離は互いの膚から立ち上る熱の放散を直に感じさせてくれた。
 「あ、っあぁ、あ、あ…!」
 小刻みに前後していた坂田の、熱を持った質量で、ずん、と思いきり腹に突き込まれて掻き回され、熟れてとろけた後孔がはしたない粘ついた音を立てる。そんな音にすら興奮を煽られて、土方は両足で挟んだ坂田の身体にもっと近づきたくて、もっと深い心の奥まで届く様なものを欲して、がむしゃらに目の前の膚に縋り付いては啼き喘いだ。
 ぎんとき、と掠れた悲鳴の合間に呼べば、小さく息を飲んだ坂田が荒々しく土方の唇を貪った。本当にはしたなくて、明け透けに過ぎて、どうしようもない光景なのだとは思うが已められる訳もない。
 縋る唇を無理矢理に振り解いて、坂田は荒々しく快楽を追う事に専念し始めた。背に回していた手でその臀部を両側から掴むと、目を白黒させている土方の肚の底めがけて激しく腰を突き上げて来る。
 「あッ、あぁあ、っあ、ぁ、あ、あ、、──ッ!」
 抜いては刺され、押し潰されては擦り上げていく激しい動きに、土方は喉と背を大きく反らせて達した。自然と突き出される恰好になったその性器からぼたぼたと粘りの無い精液が滴って、今や全身で繋げられた両者の入り口の様な土方の後孔と坂田の性器との結合部を欲で濡らして湿らせて行く。
 絶頂感にびくびくと小刻みに痙攣する土方の中へと、坂田が短い吐息を吐きながら射精しているのを繋がった部分で感じ取って、土方は酷い快感に白く濁る脳の中で必死に思考を手繰った。
 『これ』は確かに確信だ。坂田の熱も情もこんな酔狂も、ただの嘘偽りではきっと成し得ない。
 だが。
 ぐったりとした土方の背を再び抱くと、坂田はその頬に小さく音を立てて口接けてから、ゆっくりと互いの欲に濡れそぼった箇所から身を引いた。それから土方の背を、床上に適当に放り出してあった己の隊服の上着の上へと横たえる。
 汗ばんだ膚に、汗を吸わない厚い布地が触れる不快な感触に目を眇める素振りで、土方は後始末に立ち上がる坂田の姿を目で追った。
 だが、これが覆せぬ程の信頼であったとして。
 自分の後始末をして、下着を纏って戻ってくる坂田に腕を引かれ、のろのろと上体を起こしながら土方は顔だけを俯かせた侭、掠れて声にならぬ声で呟いた。
 (信頼を寄越しておいて、ここから抜けられねェ様に俺を変えちまった、てめぇの事が、嫌いだ)
 ティッシュを箱から引き抜いた坂田が、まだ晒された侭の土方の後孔を拭い始める、その手を軽く制止して自分でやると示しながら、土方は仄暗く涌いた自らの感情を嘲り笑った。
 「何笑ってんの」
 「……いや。段々慣れて来たもんだと思ってな」
 見咎められ、咄嗟に掠れた声で言いながら、坂田の吐き出した精液と自らのこぼした精液との混合物をティッシュで拭う土方に、今度は坂田の方が小さく噴き出した。
 「そんなん、慣れねェ訳無ェだろーが。もう長い付き合いでしょうが俺らも」
 「………そうだな」
 相槌を打って笑いながら、土方は恋情と恐らくは等価に値するだろう憎悪の欠片をそっと飲み込んだ。
 風呂を沸かして来る、と歩き出した坂田の背が廊下の暗闇へと消えて行った後。己の、未だ穏やかとは言えない呼吸の音しかしない、静かで、暗くて、何も無い部屋の中、土方は口を開いた。
 (もしも、坂田が本当に、近藤さんの命を狙った首謀者だと言うのなら──その時は、)
 「絶対に、赦しはしねェ」
 掠れ消えそうな小さな声にはどの程度の効力があったのか。静寂を憚る様に静かに拡がらず落ちた言葉の先を続ける事は無く、土方は先頃まで繋がり全てを分かち合っていた己の一部分を見下ろしていた目を閉じた。
 (俺は、真選組副長の、土方十四郎だから)
 疑うべき事は誰であろうと疑う。それが部下であろうが仲間であろうが、情を明け渡した愚かな関係性の先に居る男であろうが。
 その先の答えが、己の意には決して沿わぬものであったとしても、この鬼はそれを躊躇わない。その為だけに存在しているのだから。






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