深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 9 ぼんやりと視線を遣っていた天井がいつの間にか暗い。電気を点けるべきか、上体を起こした土方は数瞬の間迷ったが、まあ構わないかと思い直して頭を掻いた。横になっていただけで眠っていた訳では無いのだが、部屋が暗く静かな所為なのか、まるで夜中に唐突に目覚めて仕舞った時にも似た、すっきりとしない気怠さが脳に残留している。 窓硝子を叩く音は今日も途絶える気配が無い。冬の長雨と言うのは空の薄暗さや冷たい雨粒と相俟って、自然と気分を陰鬱にさせていけない。 和室に敷かれっぱなしの布団から枕だけを拝借し、畳の上に仰向けに転がって物思いに耽って小一時間と言った所か。早朝から降り始めた小雨は上がる気配も無くだらだらと湿気を振り撒き続けている。天気予報では何と言っていたのだったか。仔細は憶えていないが、兎に角一日中上がらない事だけは確かだ。 よく、雨が降ると古傷が疼く、などと歴戦の者は言う。それが原因なのかどうかは知らないが、そろそろ治りかけている筈の右腕がじくじくと鈍く疼く様に痛む気がする。 痛み止めは処方されていた筈だが、端から飲む気も無かったのでどこにやったかすら憶えていない。元々飲み薬の類は余り好きでは無いのだ、仕事に迫られ鎮痛の必要があると言う訳では無いのにわざわざ飲もうとは思わない。 何故土方がそんな、飲む気もない薬の事を思い出したのかと言うと、そろそろ通院の時刻だったと思い出したからだ。そもそも、だから起き上がって、直ぐに出掛けるから電気を点ける必要はないかと思ったのだった、と反芻してから舌を打つ。たかだか数週間休んでいるだけで頭の回転が極端に鈍くなって仕舞っている気がした。 土方にそんな謹慎を言い渡した張本人である所の坂田は、昨晩は残業があるから帰れそうもない、とわざわざ連絡を寄越して来た。別に心配なんざしてねぇ、と返しながら、残業と言うのは本当なのか嘘なのかと、土方はそんな事を考える己を、嘲れば良いのか勤勉だと誇れば良いのかが良く解らなくなった。 あれから毎日この家への『帰宅』を欠かさなかった坂田が、昨晩に限って「帰れそうもない」などと言ったのだ。捜査に何かがあったのか、討ち入りでもあったのか。謹慎中の副長には知る由も無い事だが。 坂田は元々机仕事に対して余り勤勉な質ではない。寧ろ面倒臭い所は全て土方や部下に押しつけて、「俺は現場主義だから」などと飄々と嘯いてみせる様な男だ。 そんな男が『残業』などと言うのは余りに違和感が大きすぎた。果たして、『残業』の正体は、真選組の任務に纏わる何かなのか、それとも坂田の個人的なスケジュールに因るものなのか。何れにせよ、言えない様な『残業』がある事は土方に坂田への疑心を深めさせた。 今までにも坂田との間に全く嘘が無かった訳ではない。だが、信頼の揺らぐ様な嘘や偽りは無かった。坂田は大概の場合、もしも土方が嘘だとそれを問い詰めれば恐らくそれを認めただろうと言う程度の、然して当たり障りの無い様な偽しかついた事は無かったのだ。 (まあ、今となっちゃそれすらも俺の単なる──勘、でしか無ェが) 不快な物思いに嘆息すると、土方は頭をすっきりさせようと煙草に手を伸ばした。ここに来てから灰皿は直ぐに山盛りになる上に、逐一それを片付けてくれる地味な部下もいない。頼めばやりに来てくれるだろうが、わざわざそんな些事を申しつけて部下の仕事を邪魔するのは流石に憚られる。 だから今日もまず、吸い殻で山になった灰皿の中身を、火の気の無い事を確認してからゴミ箱に棄てて、それから布団端に座って新しい煙草に火を点ける。ゆっくりと幾度か噴かして心地が幾分冴えて来た事、空になった灰皿に吸い殻を放り込む。 いつもよりも面倒な手順を挟んでいる分、煙草に次々火を点けてばかすか吸う気にはなれなくなった。必然的に喫煙量も幾分減っている。単に仕事と言うストレスが無い所為だろうが。 一本の吸い殻を置いた灰皿に、水場まで行って軽く水を入れるとこれもまたゴミ箱にとっとと放り込んでから、土方はそこで初めて時計を確認した。予約の時間まではあと三十分少々程度。そろそろ山崎の覆面車が迎えに来る頃だ。 長押に掛けられた羽織を着て、冷えるからと首にマフラーを巻く。移動はどうせ殆ど車だし、外に出るのは温かい院内ぐらいのものだ。後は何処に降りる訳でもないのだから然程に防寒の必要もあるまい。 念の為に傘も持っていくか、と土方がそんな事を考えながら玄関へ向かった丁度その時、車の停車音とドアの開閉音、そして小柄な体躯の足音が外階段を昇って来る音が聞こえて来た。 * 「坂田副長は昨晩、捜査情報の裏取りの為に深夜まで走り回ってましたよ」 覆面車輌の後部席に座り、シートベルトに手を掛けた途端に突然そんな事を言われ、思わず土方はぱちりと瞬きをした。 「…そうか」 一応頷きはするが、礼も労いも言わない。山崎には確かに坂田の動向を調べろとは言いつけてあったが、坂田の、ひょっとしたら土方が知り得ていなかったかも知れない個人的な動きにまで報告をわざわざ寄越されるとは思わなかったのだ。 しかもそれは──決して言いはしないが──土方が一晩中悶々と気にしていた事柄だ。まるで上司がそうやって落ち着きなく過ごしていたのを知っていて放たれた言葉の様に思えて、舌を巻かずにいられない。 山崎が地味な顔をして妙に聡いだけなのか、土方の顔に何かしら感情が出ていたのかまでは解らないが。 「要点だけ報告しますと、襲撃グループは特定出来ましたが半数以上が逃走中です。で、捕まえた奴らからこの間のチンピラと同じ様な証言に行き当たったので、その裏を取っている最中です」 ゆっくりと踏み込まれたアクセルと同時に出て来た言葉に、土方ははっとなってルームミラーを見た。然しそこに映る地味な顔は、土方の狼狽を吹き消す様に容易くかぶりを振って返す。 「あの証言通り、グループ内に幾つか別に指示が出ていた様で、全く同じ証言は出ませんでした。捕まえた幾人から訊き出した中で概ね共通していたのは、彼の幕臣殿の子息が襲撃の依頼主だと言う点です」 「……」 我知らず強張っていた肩からすとんと力が抜けて、土方の背は硬くも柔らかくもないシートに沈んだ。そこで思い出してのろのろとシートベルトを装着する。 全く、こうもみっともなく感情を醜態にして表して仕舞うのはこれで幾度目になるのか。思って嫌気がじわりと胸に差す侭に渋面を浮かべた。 「これは別方面からの継続中の捜査ですが、どうもあのご子息は親に隠れて怪しげな商売に手を染めていたらしい、と言う話です。まあ親心ってやつですかね、隠蔽の痕跡がある様で、そちらで難航しそうな気配があります」 続く山崎の、ノートでも読んでいる様に淀みない報告とは真逆に、土方は正直その内容を咀嚼するのに多少の苦を労した。 親にとってはどんな犯罪者でも子だ。なまじ地位や家柄のある人間ほど、己や家の名誉を傷つけられる事を恐れ、ちょっとした過ち程度なら揉み消す事は残念な事に少なくない。あの老幕臣もその例に漏れなかったと言う事か。 (真選組に近付いたのも、ひょっとしたらそう言う目的あっての事だったのかも知れねェな。……まぁ、死んだ人間を悪く言いたくはねェもんだが…) 人を知るにたった数時間の事で足りる筈などない。数日でも数年でも恐らくは同じだ。近藤はあの通りの人柄だから誰とでも容易く無警戒に打ち解けて仕舞うが、土方としては矢張りあの老幕臣も裏を疑う対象の侭にしておくべきだったのかも知れない。 生憎と後悔するに足る瑕疵は見ていないし、敵とも味方とも知れぬ侭に相手は死んで仕舞った訳だが。 「…で、その馬鹿息子の身柄を押さえる事は出来そうなのか」 居た堪れの無さを少しでも誤魔化すべく極力押し殺した声音で問うと、ハンドルを握る両肩が軽く上下した。肩を竦めたらしい。 「そこは坂田副長の采配次第ですかね。社会的に信用の無い出所の証言ですし、それ自体が何者かの謀とも言い切れない。任意で引っ張る事は出来ても、暫定容疑者はあれだけ真選組を毛嫌いしてみせたお人ですしね。慎重にやらないとどんなしっぺ返しが来るとも知れませんから」 「……あの面倒くさがりの坂田に、それが出来るかってのが最大の懸念だな…」 社会的地位のある人間に何らかの容疑を掛けると言う事は組織として途方もないリスクを背負う事が多い。因ってそう言うケースでの大概の場合は土方が松平やその協力関係にある、それなりの地位に居る者などを仲立ちに交渉を行う事が殆どだ。協力、共謀、或いは打算と言ったものを材料に、上手い事真選組の勝利を勝ち取る作業と言うのは果てしなく面倒で果てしなく地味だ。 当然、真選組の他の幹部の誰にも余り向いているとは言えない。昔馴染みの幹部たちには頭脳労働を苦もなく得手とする最適な人材は生憎と存在していない。無論後からやって来て副長位に収まった坂田とて同様だ。 また後日ワイドショーのインタビューに、真選組の批判をする男の顔を見る事になりかねないなと、大凡愉快とは言えない想像に土方は溜息をついてみせるが、 「そうでも無いかも知れません。何せ、その裏取りですから。坂田副長の昨晩の残務は」 「………、」 信号で停車したタイミングでそんな事を山崎に言われ、土方は「え」と反射的に間抜けにも言いそうになった口を何とか無言で閉じた。ルームミラー越しにこちらの様子を見ていた山崎がそっと目を逸らした辺り、恐らくその動揺もまた容易く気付かれたのだろうが。 「土方さんが心配する程度には坂田副長はいい加減な所とかありますが、俺個人の意見としては、あの人は取り敢えず疑う対象には無いんじゃないか、と思います」 俺個人、と言う部分をそれとなく強調して言うと、変わった信号を見遣ってアクセルが踏み込まれる。殆ど振動なく滑る様に走り出す車中で、土方は意識して溜息をついた。折れている腕を庇う様に胸の前へ寄せると目を閉じる。 (…そんな事は、俺が一番解ってんだよ。クソが) 今度は悪態を口には出さぬ程には賢明だった。坂田への疑惑の命令を出した張本人が、多少の疑いを払拭するやもしれない殊勝な行動を取っていた程度の事で、それを取り消すなどそれこそどうかしている。二人の副長が共謀し権力を掌握しているなどと万一にも思われる訳にはいかないのだ。 「疑いが僅かでも生じたんなら、シロになるまで疑惑を叩いて叩いて叩き潰すしかねェんだ。どの道あの証言が全くの無から生じたものとは思えねェだろうが」 目を閉じた事で会話の断絶を土方が望んだと思ったのか、不意に混ぜっ返す様にそう吐き捨てた上司に山崎はほんの少し驚いた様だったが、やがて仕様のない人だとでも言いたげな様子で頷いた。 「解ってます。その証言が何処から、どうして出たのか、それを突き止めるのが俺の仕事と言う事でしょ」 言わずもがな。土方は後部席から運転席のシートを軽く蹴る事でそれに応えた。 そう。問題は、銀髪の男が襲撃の依頼を持ち込んだ、などと言う証言がどうして出たのか、と言う事だ。 今時、頭髪を銀だの金だのに染めている、或いは鬘を用いる輩は江戸でもそう珍しくは無い。ぽつんと居れば目立つかも知れないが、群衆に埋没すれば自然と融け込める、その程度には。 故に、"銀髪の男が"と証言が出た所で、特段問題は生じない。その、銀髪と言う容姿を持った男が幹部職に就いている、真選組以外には。 襲撃に関わった人間の一体何人が捕まったのかは知れないが、少なくともその中にはそれらしい証言をした者は居なかったと言う。だが、土方が偶々見つけて尋問したチンピラ男とその周囲の仲間幾人かは、"銀髪の男が"、と言う認識を持っていた筈だ。あのチンピラ男が咄嗟にそんな嘘を土方に吐けたとは思えないし、そうしなければならない理由も無い。 つまり、可能性としてだが──、襲撃者達は何れは真選組に因って確保される。その時その証言が出たら組の内部は、今の土方の胸中と正しく同じ様に荒れていた筈だ。 実際局長は襲撃で重症を負っている。その話が嘘であれ真であれ、真選組としては幹部の人間に一気に大打撃を負う事態になっていたかも知れないのだ。 だが、土方と真選組にとっては幸いな事にも、あの哀れなチンピラ男と同じ情報を持たされていた連中は未だ捕まっていないらしいと言う事だ。 (まぁ、解ったもんじゃねェが。坂田が逮捕前のチンピラを尋問して、俺と同じ事をしていた可能性は否定出来ねぇしな。それこそ俺に内容を言わねェ様な『残業』で) 坂田が、己の立場が危うくなるからと、都合の悪い者を口封じに殺める、そんな男だとは思えないのも確かだが、そう言い切れないのもまた確かだ。 真選組を解体しようと言う可能性。坂田が誰かに罠にはめられた可能性。或いは、坂田が本当に敵だと言う可能性。それとも全く想像も及ばない様な単純な真相の可能性。 どれもこれも、連ねればそれらしく聞こえて来るし見えても来る。何が正しいのかは解らないが、何かが正しいのだと決める事は可能だ。 全く、答えの見えぬ繰り言をあとどれだけ続ければ良いのか。冷たい雨に滲んだ窓に映った己の横顔にははっきりと見て取れる程に精彩も覇気もなく、土方はそんな冴えない己の肖像をただ無言で睨み付けた。 インターミッション的な何か。 ← : → |