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深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 10 かぶき町は歓楽街と言うその性質柄、夜遅くまで営業している店が多い。盛り場、酒場、飲食店、多くの店が軒を連ねる界隈は夜明けの頃までけばけばしい派手なネオンに彩られ、往来する客足は途絶える事ない賑わいを見せている。 そんな華やかな町の中心部からやや外れた所にあるそのラーメン屋は、どちらかと言えば住宅街に程近く、余り客足の流れ着きそうもない立地にも関わらず、繁華街の様に遅くまで営業を続けている奇特な店だった。 味は悪くないし、何でも値上がりしているご時世だと言うのに結構にリーズナブルな価格での提供を続けている点だけを取れば行列が出来てもおかしくないと思えるのだが、余り繁盛している所は見た事が無い。果たして飲食店として無事やっていけているのだろうかと疑問に感じた事は一度や二度では無いが、暖簾が上がっていないのは見た憶えがない。 北斗心軒、と屋号の書かれた看板の下に今日も、いつもと変わらず夜遅くまで上がっている、営業中である事を知らせる赤い暖簾を見上げると、坂田は煩わしいスカーフを首から抜いてその戸を開いた。 「いらっしゃい。ってあら、副長さん」 こぢんまりとした店内のカウンターの向こうから、この店の女店主である幾松が気易い声を上げて寄越すのに、坂田もまた慣れた笑みを添えて、「銀さんで良いってんだろ」と言って返す。 店内には坂田の他に客の姿は見当たらない。今日も今日とて繁盛はしていなさそうだ。もう日付の変更にも近いこの時間だ、寒い中わざわざ夕飯や夜食にとラーメンを求める者もそういないのだろうが、カウンター裏の厨房では鍋が湯を沸かせており、いつでも来客の注文に応えられる様になっている様だった。 暖房と煮えた鍋の熱気とで店内は温かい。坂田は窮屈で重い上着を脱ぐと空いているカウンターの椅子に置き、刀も外すと、自らはその隣に腰を下ろした。 「久し振りじゃない。何か食べる?」 「直ぐ出来るもん何か無い?」 カウンターに頬杖をついて言う坂田に、幾松は長い髪を結び直し、小さく笑いながら冷蔵庫を開けると中から叉焼を取り出して、湯の煮えている鍋の前に立った。 「じゃあラーメンだね」 「ああ。頼まァ」 どうせそれ以外無い癖に、とは言わずに坂田が笑って返す頃には、幾松はその返事を待たずに手際よく動き始めていた。 カウンターの上には深夜のやる気のないバラエティ番組を流しているテレビがあったが、絞られた音量の下では何だか滅茶苦茶な内容の紙芝居か何かの様にしか見えない。それでも店内には、調理に動き回る幾松とそのテレビ以外に動くものが他になかった為、坂田は草臥れた視線を旧型のブラウン管の中へと仕方なしに投げていた。 そうして数分の間を待つと、やがて出来立ての湯気を立てたラーメンが坂田の前へと「はい、どうぞ」と置かれる。脂の濃すぎない程度に浮いた醤油味。叉焼とメンマとなるとが、色気のない器の中に豊かな彩りを添えている。実に食欲をそそる見た目だ。 腹が空腹を訴えた気がして、坂田がカウンターの上の割り箸立てに手を伸ばした丁度その時、横合いから声が聞こえて来た。 「幾松殿、俺にもラーメンを頼む」 割り箸を抜き取って戻る坂田の腕にも動作にも淀みはない。別段驚いてはいないからだ。声のした方をゆっくりと見遣れば、カウンターの一番奥端の席に、いつの間にか黒い長髪の侍が座している。今し方裏口からでも入って来たのだろう、男の顔色は外気に触れてまだ冷えている様だ。 「そばじゃなくて良いのかい?」 幾松も坂田と同様に、その男の出現に特に驚いた様子は無い。慣れているのだろう。思いながら坂田は割り箸を割ると、温かな湯気を立てるラーメンの、さて何処から頂こうかと考え始める。 「あるのか?そばが」 「無いけどね」 「……ならラーメンを頼む。なるべく熱い奴を」 さらりと答える幾松にやや顔を顰めると、男は溜息をついた。その様子から、彼らの気易い様子が何となく伺えた気がして、坂田は気取られぬ程度に微笑すると、あつあつのラーメンを啜った。矢張りラーメンに限らずだが、食べ物は熱い時に食すのが一番だと頷く。 「何言ってんだヅラ、冷たいラーメンなんざある訳ねェだろうが」 「いや、解らんぞ。近頃は冷たい味噌汁などと言うものもあるらしい。若者の求めるものは日々意外性と言う方角に進化しているのだろう。美味いか不味いかではなく、単純に意に添うか添わぬかが重要なのだ。と言う訳で俺はヅラじゃなくて桂だ」 言って組んだ腕ごと肩を竦めてみせる桂の姿を横目に、坂田はつるつると啜ったラーメンを飲み込む。温かいそれが胃の腑まで温めてくれるのを感じながら、目の前のラーメンが冷たくなくて良かったとぼんやりそんな事を考える。 「して、一体何用だ銀時。幕府の狗としての任務(しごと)なら協力は出来んぞ」 思い出した様に首に巻いていたマフラーをほどきながら言う桂へと向けていた視線を、目前のラーメンの器へと戻した坂田は箸の先でメンマを一本探った。こり、とも、ぼり、ともつかぬ食感を前歯の狭間で噛み砕く。 ここに来れば桂に会えると確信があった訳ではないが、大体はそれで通る。今までもそう言うものだった。坂田がこの店を訪れると大概は桂が現れる。見張りでも置いているのか監視でもしているのか、そのカラクリは知れないが。 そうでなくとも、指名手配の攘夷志士と言う身にも拘わらず、桂はどう言う訳かこのラーメン屋にしばしば顔を出すのが習慣となっている様だった。真選組はそれを全く掴んでいない訳では無いのだが、一般人の店と市街地と言う場所を考慮してなのか、見て見ぬふり──と言うと言い方は悪いが、要するに放置されている。 指名手配犯とは言え、桂の行動が最近比較的に穏やかだから、と言う理由もあるだろう。攘夷志士を取り締まる事が目的の真選組だが、下手に名のある者に手を出す事で、収まりつつある火種を再び刺激する事になるのではないかと言う懸念があるのだ。 因って基本的に桂の様な攘夷志士に望まれるのは、自滅だ。勝手に捕まるか勝手に死ぬか仲間割れで死ぬか。幕府は古い時代の志士を、今でも扱いかねているのである。 桂自身にその自覚があるのかどうかは知らないが、彼は幾松が供した出来たてのラーメンを前に暢気に手など合わせている。坂田は、何の味わいも無い癖にいつも最後まで残って仕舞うなるとを突きながら、そんな桂の方は見ずに口を開いた。 「漆黒の翼、とか言う中二臭い名前の連中に心当たりは?」 つるつる、と音を立てて啜った麺を口の中で咀嚼しながら桂は何かを思い出す様な仕草で視線を天井へと游がせると、嚥下と同時に頷いた。 「ああ。それこそ冷たい味噌汁やラーメンと言った変わり種を好みそうな連中だ。まあ攘夷党の類では断じて無いが」 きっぱりとした調子でそう断じると、桂は再び目の前のラーメンの攻略に戻った。桂に続ける気配が取り敢えずは無いと察すると、坂田も折角のラーメンが冷める前に食べ終わろうと箸を動かす。冷めたラーメンなど胃を温めてくれないばかりか脂が浮くわ麺は伸びるわで美味しくない以外の何でも無くなる。 そうして暫し店内にはラーメンを啜る音以外の何の音もしなくなった。幾松は客二人の会話に不穏なものでも感じたのか、坂田と桂の席から離れた厨房の端に座って雑誌を読んでいる。無論、指名手配犯と警察と言う不穏な二人の会話が全く聞こえないと言う訳では無いだろうが、聞かない事にすると言う意味なのだろう。聡く利口な彼女らしい気遣いだ。 やがて、坂田の器の中の、ラーメンの残り本数が探すに苦労する程になった頃に、麺をすすりながらも再び口を開いたのは桂だった。 「戦争末期に攘夷志士だった年配者の武勇伝を、紙芝居の娯楽代わりに聞いて育ったのだろう。攘夷と言う志を、反社会の目的で暴れ回る大義名分にされては敵わん」 「娯楽が紙芝居ってオメーそれ古過ぎだろ。最近ならアニメとか漫画とかジャンプじゃねーの」 「どちらでも構わん。娯楽を憧れとして得たと言う意味ならな。まあ我々と直接の面識は無いだろうが、向こうは俺や貴様の名前ぐらいなら聞き及んでいるだろうよ。下手をすれば人相もな」 ツッコミを適当にいなして続ける桂に、坂田はレンゲに掬ったスープを飲みながら眉を寄せた。 「その、元攘夷志士の年配者とかが?」 「ああ。素知らぬ振りを決め込むには我らは有名になり過ぎた。望む、望まぬに限らずな。……貴様も、そんな身分にある以上は精々足下を掬われない様にするが良い」 「尾鰭背鰭のついた武勇伝に登場さして貰えるたァ、有名人は苦労するねェ」 口をもぐもぐさせながらも、警告の響きだけは真っ当に滲ませ言う桂の、こちらを向く視線から逃れる様に目を閉じて軽く言うと坂田は箸を置いた。 坂田や桂が攘夷戦争に、賊軍として参加していたのは事実だ。そして、もう末期のゲリラ戦を派手に戦い抜けて、生き延びた事も。 攘夷戦争初期の、生ける伝説の様な連中の様に殊更神格化されてはいないものの、坂田らを語る生き証人は多すぎた。鬼の様に強かった、悪魔の様に狡猾だった、一軍の機動力は他に類を見なかった──などなど、血腥さを昇華させた英雄譚は、要するにただの伝聞の物語として人々の、主に戦に憧れた者らにとって娯楽の一端を満たしたのだ。 或いは単純な畏れとして。憧れとして。名前と話だけは一人歩きし、彼らを喧伝し続けた。当人の預かり知らぬ所で。望む望まぬに拘わらず。 坂田自身も、血と硝煙との記憶の中では白夜叉などと言う名で呼ばれていた。実際に戦場を生きたのは己らと言う個人ではなく、その個人たちを鼓舞した一つの志の為に集った、何かの熱量の様なものだったのだろうが。 ともあれ、その『名』が現在に於いても生きており、一人歩きを続けている。そう言う事だ。そしてその『名』ゆえに、坂田が幕府に与した事を知れば、良く思わぬ者も出て来るだろう想像は余りに易い。 うんざりと、露骨な溜息をついてみせる坂田に、桂はラーメンの器の中を箸で掻き混ぜながらぽつりと呟く様に言った。 「それが先立っての襲撃グループと言う訳か」 「ややこしい背後関係がちっとばかしあってな。念の為確認しておきたかっただけだ」 別にお前の関与を疑った訳じゃない、と一応は礼儀の意を込めてそう言うが、桂の口調は別段普段通りであった。気分を害したと言うのならばもっとストレートに言う男だから、彼はきっと端から、坂田が己を疑うなどとは思ってもいないのだろう。 同時に、件の襲撃グループ──漆黒の翼とか言う如何にも中二臭い名前だ──は、桂や生粋の攘夷党から見ても碌でもない連中であると認識されているのだと察する。まあ確かにそのネーミングセンスからしても、国を憂う革命家の集まりだとは到底思えなかったが。 「で、近藤の様子はどうなのだ。重症とは聞いたが」 器の中から漸く見つけたらしい麺の一本を大事そうに啜って言う桂の方を、銀時は片眉を上げて見た。世間話や探りを入れると言うよりは、何だか友人でも案じている様な調子に聞こえたのだ。 「あのゴリラはおめーらにとっては宿敵なんじゃねーの?死ねば万々歳的な」 「宿敵だからこそ案じる、そんな関係もあるのさ」 坂田の問いに、桂は、ふ、と嫌味のない笑みを浮かべてみせた。箸とレンゲとを置くと「それに」と続ける。 「貴様がついて行こうと思う様な男だ。ただのゴリラと言うだけではあるまいよ」 「……まぁな」 得たり、と言いたげな様子の桂のそんな笑みに口端を弛めると、坂田ははぐらかす様に言って手をひらひらと振った。図星に照れているとでも映れば良いと思って。 「……最初は、遂に貴様も打倒幕府の為に動き出したのかと思ったが、その様子を見る限りでは、矢張り見当違いの様だな」 果たしてその通り受け取ったのかは知れぬが、桂は僅かに伏せた目の奥にほんの僅か、昏い炎を灯らせて小さく呟いた。そこに寸時過ぎる淀みを、然し坂田は見ない振りを決め込んだ。元より恐らく桂は坂田に、その答えを求めてはいまい。 少なくとも坂田の知る昔から桂はそう言う男だった。誇りが高いが狷介では無く、知を以て納得を得ようとする。幕府側についた坂田の事を裏切り者と糾弾はせず、今もこうして変わらぬ態度で相対しようと思う攘夷志士など、桂以外には恐らくいないだろう。 「生憎だが、俺ァ仲間を裏切る気は、今も昔も無ェよ」 それでも一応ははっきりとそう言えば、桂は「仲間、か」と、長年味わった苦々しさを蓄えた老人の様な口調で呻き、それを押し流す様にラーメンの器を両手で持ってスープを飲み干した。 「貴様を変えたのは近藤か?それとも──、」 「さぁ?」 それとも、の先に続く筈だったのだろう言葉をきっぱりと遮ると、坂田は上着と刀とを手にとって立ち上がった。ラーメンも、会話も、もうここで得られる目的は全て果たした。カウンターの上にポケットから探り出した代金を置くと、雑誌からちらりと顔を起こした幾松に向けて手を振る。 「ごっそさん。邪魔したな」 「また来ておくれよ」 厄介な警察にも、指名手配の攘夷志士にも、変わらず送り出される幾松の声を背に受けながら、坂田は店を出た。もうすっかり深夜の時間帯の町は静まり返って寒い。袖を通さず隊服の上着を羽織って、未だ賑わっているのか、灯りが雲までを照らしている歓楽街の方角をなんとはなしに見遣る。明るいが些かに眩しい。そんな、平和故の世界がそこには在る。 「銀時」 不意に声をかけられて振り向けば、桂が北斗心軒から出て来た所に出会う。どうやら桂の目的も、ラーメンと坂田との会話だけだった様だ。戸を閉めた彼は柳眉を僅かに曇らせ、それから溜息をついた。恐らくは良い言葉回しを考えていたのだろう。少し言いにくそうに重い口を開く。 「貴様のそれが単なる執着なのか打算なのか、それとも何らかの負い目や目的から来ているものなのかは俺には到底知れぬが、履き違えだけはせん様にする事だ」 矢張り己の言葉を、想像を、坂田が遮った事が気に掛かったのだろう。忠告と言うには余りに安定性を欠いた様な──確信の無い様な──物言いだったが、坂田は表情に出さず密かに笑った。それでも、苦味は隠さぬ口元に白い息がまとわりついて、坂田が笑んでいる事を知らせる。 「何言ってんのか解んねェよ」 「……」 その侭背を向けて歩き出すが、それ以上桂の声が追って来る事は無かった。物言いたげな視線は暫く坂田の背を追っていたが、やがて諦念の吐息と共に途切れる。 嘗て同じ途を歩いた者たちは、今はそれぞれ違う方角へと、異なった思惑や意志を持って歩き出していた。 攘夷4の関係は概ね原作通り。 ← : → |