深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 11



 煙草が切れた、と気付いただけで落ち着かなくなった。悲しいがそれが愛煙者の性である。
 土方は自他共に認めるヘビースモーカーだ。江戸に来た当初は興味本位で、次にはストレスの紛らわしになって、やがては惰性になって行った。そして気付いた時には中毒と言ってよい現状である。
 煙草が無くなると苛々として仕事の効率が悪くなるものだから、最早煙草と言うものは土方にとっては手放せない嗜好品である以上に、食事などと同等に扱われるべき必需品なのだ。
 だから、買いに行かなければ、と思った。屯所に居る時であったら、多忙を理由に部下の誰かを買い物に遣る事ぐらいはしていたかも知れないが、生憎と今の土方は多忙と言う言葉とは無縁であったし、屯所にも居なかったし、仕事中でも無かった。
 それだと言うのにストレスを憶える事と煙草とを要する頻度は普段のそれより増えているので、全く碌でもないとは自分でも思ったが。
 昼間、山崎に連れられ病院に行ったついでに買っておけば良かったと後悔が過ぎるが、遅すぎた。静かな家屋には土方ひとりしか居ない。そして時刻は到底、謹慎中の土方が一人歩きを考えるには相応しくなさ過ぎた。
 山崎に電話を入れるか、と一瞬は考えるが、直ぐさま思い直す。山崎には今坂田の動向を伺わせると言う大事な役目を与えてあるのだ。煙草が足りない程度で呼びつけて、任務を中断させる訳にはいかない。何しろ今日も坂田は帰れそうもないと連絡を寄越していたからだ。
 煙草の無さとそれに因って生じるだろう己への負債とを考えた所で、それは天秤の分銅にすらならない。溜息を吐きながらも土方は久し振りに刀を手に、この家から最も近いコンビニへ向かう算段を浮かべつつ家から出ていた。
 ……出なければ良かったのか。煙草の一つ程度と思って、苛立ちを忘れる為に早く布団でも被って仕舞えば良かったのか。
 曇った夜空の下、土方は、恐らくは偶さかの運かタイミングの良さ──或いは悪さ──に遭遇して仕舞った。
 例えるならばそれは、身を焦がされる程の灼熱に似ていたかも知れない。
 少なくとも憎悪ではなかった。苛立ちに似て、それでも異なったものだった。憤慨でも、況して諦めでもなく、寧ろそれに最も近しい感情。考えるに飽くと言う事は無いが、考えてもどうせ結論が出ない事は解っていたから、それはそれで良かった。
 とりあえず最も適切だと思ったのは『焦燥』だった。
 深夜と言って良いこんな時刻まで暖簾を上げている、珍しい飲食店の灯りは遠目にもよく目立つ。暗闇に一つだけ灯った誘蛾灯の様に視線を惹き付けられるそこには、銀髪の男と、長い黒髪の男との姿があった。
 黒髪の男には見覚えがある。手配書で、或いは直接、幾度と無く目にして来た男だ。桂小太郎。攘夷戦争末期の英雄の一人。現在も猶江戸市中に潜伏し、幕府から公式に手配を掛けられている戦争犯罪人。
 二人は二言三言交わした様だったが、直ぐにそれぞれ別の方角へと消えて行った。後に残っているのはただの、深夜営業の珍しい飲食店が一軒だけ。
 然しそれはコンビニも無く繁華街からも離れたこの一角では、夜闇に輝く一等星の如くに存在感を際立たせていた。
 監視カメラの類。或いは己と同じく深夜ふらりと外に出た者の目──目撃者の可能性を思って土方は咄嗟に辺りを警戒し見回した。切れかけの街灯に見守られているだけの深夜の町中で、きっとそれは余りに滑稽な有り様であった。
 真選組の副長を名乗る男の、して良い行動では無かった。
 「──」
 ぐらぐらと揺れる脳髄の奥で、冷静な己が冷めた様に言う。矢張り坂田は攘夷志士と未だ繋がっていたのだ、と淡々と指摘を寄越してくる。
 それを隠されていた事実。否。それどころかその可能性を今に至るまで問いもしなかった事実。可能性と思っていても触れずにいた、怠慢。
 それどころか、土方は今まで坂田が攘夷志士であった事実をひた隠しにすべく立ち回って来た。それは坂田を、引いては坂田を懐の裡へと加えた近藤と真選組とを護る為にと。
 元攘夷志士の英雄と言う男が、それでも嘗ての仲間にさえ刀を向けて、真選組の為に動き、近藤や土方の味方となる事を選んでくれた、坂田銀時と言う男を信じていたからだ。信じていたかったからだ。
 だから自らの護る真選組の法度にさえも背いて、土方は坂田の過去を隠蔽し、護ろうと努めて来た。真選組を護る為に、真選組を裏切ると言う矛盾を抱えて来た。
 だが実際はどうだ。土方のそんな必死の決意と思いになど拘わらず、坂田は今でも平然と攘夷志士と、こんな目立つ場所で会って話などをしているのだ。
 仮にそれが他愛ない世間話であろうが何だろうが、真選組に、近藤や土方にとっては思わぬ瑕になりかねないと言うのに。
 銀髪の男が、近藤を襲撃すると言う依頼を持ち込んだと言う証言は確かに在った。だがそれすら土方は己の裡以外の誰にも漏らすまいと、その為に人ひとりを容易く殺めた。
 坂田の事を山崎に調べさせながらも、その本意として土方は、坂田への疑いが晴れる事を期待していたのだ。寧ろ、昼に山崎にも指摘された通り、坂田はその過去を理由に填められようとしているのではないかと、その可能性の模索を始めていた所だ。以前にもあった事だから、坂田の裏切りよりもそちらの可能性の方が有り得るだろうと確信していたと言っても良い。
 それだと言うのに坂田は、土方のそんな思いとは裏腹に、酷く無造作に振る舞っている。
 それとも坂田は矢張り、真選組の事などどうでも良いと端から割り切っていたのか。昔仲間であった攘夷志士たちと今でも付き合いがあって、その目的として近藤を弑す為に近付いて来たのか。土方の信頼と言う確実な保証を得る為に、下衆な関係を結んだと言うのか──浮かぶ疑心には答えが無いから際限も無い。
 (…………これは、ただの俺の空回りか。手前ェばかりが馬鹿になってただけか)
 坂田へと信頼を置くと決めてから、坂田を護ろうと立ち回って来たのは、決して坂田自身に頼まれたからではない。土方が真選組とその副長である坂田とを護る為にと勝手に行っていた行動だった。
 だが、その感情が──私情が、本格的に真選組へと累を及ぼす様になって仕舞うのだとしたら。己が真選組に尽くせぬ程に暗愚に成り果てて仕舞ったら。土方から鬼の副長と言う仮面を剥ぎ取ろうとする、あの優しい手を。優しい言葉を、裏切り者と言う一言と共に斬り捨てる事を、本当に選ばなければならない。
 ここ何日もの間、土方はずっと坂田を疑うべきなのか信じるべきなのかを迷い続けていた。疑いが真実ならば切り捨てようと覚悟は出来ていたつもりだったし、真実でなければただの納得になるだけだと、言い聞かせては猶予を不安定な疑心と信頼との狭間で擦り減らしていた。
 そこに来て坂田は自ら、土方に決定的な『裏切り』と言っても良い行動を晒したのだ。少なくとも土方の裡に涌いた疑念を裏付けて仕舞う様な事態を招いてはいる。
 そこまで突きつけられて猶、どうして未だ反論の生じる余地があると言うのか。躊躇いを憶える必要があると言うのか。是非はどうでも良い、ただ坂田は土方の思いなど何処吹く風と、真選組にとってはよくない行動を行っている。それだけで、理由には足りて仕舞った筈だ。
 「…………ふ、」
 これも所詮同じだ。幾度と無く今までにも繰り返して来た、繰り言。忍び笑った土方は灰色の雲が重たく遮る夜空を見上げた。
 失望と後悔の味は似ている。どちらも、取り戻しようがないと言う意味では殊更に。
 それでも賢しく振る舞おうとするのだろう鬼は何処までも滑稽だ。道化である事でさえ受け入れても猶、譲れない侍としての矜持の様なものが、本来ならばそこに在った筈だと言うのに。
 今は何が居座っているのか。根付いて仕舞ったのか。
 ──問うまでもない。全ては今更の事。それでも未だ躊躇うものに縋ろうとしている己は愚かで、そして近藤にとっての害にしかならない。断つのなら今ここだ、と、鬼は理性的な答えをその手に疾うに抱いていたと言うのに。
 そうして、煙草を買いに行くのだった、と思い出せる様になるまでの間、土方は行き詰まった思考同様にその場に木偶の様に立ち尽くしていた。原動力になれる感情をひととき見失い果てて、呆けていた。
 目的を思い出した足がふらりと歩き出したその後を、存在を隠す気など端から無かったのだろう、幾つかの足音が追い掛けて来ているのに程なくして気付いた時、土方は己の失態を悟り舌を打った。
 夜の町に一つだけ開いている飲食店が目立つのと同じ道理だ。その前に、手負いの有り様で供も連れずただぼんやり立ち尽くしている間抜けな幕府の狗が居る事もまた、異質に目立つ。
 或いは、身を寄せていた坂田の家から尾行されていたとしても。土方が何も碌に考えず一所に留まっているその間に、幾人の手勢が用意を整え待ち受けるだけの猶予を与えたか。
 方向転換をしようと立ち止まった四つ辻の、その全ての方角に鋭い敵意と不穏な気配とを感じ取った土方は、走ってなんとか退路を開くか、立ち止まって幾人かを捌いて血路を開くかの選択を迫られていた。
 「……」
 道のある方角には数の差こそあれど追っ手の気配が向かって来ている。四方向から同時に囲まれては勝ち目も逃走に成功する目も無い。
 逡巡は長くない。懐に手を突っ込んで、指先の憶えている動作で携帯から短縮を発信すると、土方は元来た方向に向けて踵を返した。追われている事も囲まれている事も互いに解っているのだから、悠長に歩きなどせず走り出す。
 土方が後ろに戻って来るのが予想外だったのか、背後から迫っていた四人の男たちが慌てた様に各々刀を抜いて道を塞ぐ。そこまでは土方の想像通りだ。背後、三方向から合流した連中が追いついて来るより先に何とかこの一方向を切り抜けるしかない。
 文字通り、斬ってでも抜けるしかない。
 土方は腕を吊っていた固定具を毟り取ると刀を抜いた。走る激痛に上げそうになる声を堪えて男達に向かって身構える。未だ刀など振れない状態なのは解っているが、この侭では勝算どころか死ぬか、それ以上に最悪な事が起こるだけだろう。
 「てめぇら、攘夷浪士か…?!」
 刀を振りかぶって向かって来た男の動作を躱し、土方は今更の様に気付いたその事実に目を瞠った。
 近藤を襲撃したのはあの老幕臣の馬鹿息子が雇ったと思しき、チンピラ風情のグループだった。だが、今土方の目の前に立ちはだかっている者たちは明かに浪士だった。そこいらの悪漢とは立ち居振る舞いも手にした得物も全く異なっている。
 (って事は、他の余計な客を招いちまったって訳か…)
 己の命を隙あらば狙いたいと思っているのは、雇われの悪漢だけではないのだったと、今更の様に思いだして──同時に、坂田の無造作な行動に文句など言えた筋合いではない、己自身の愚かな為体に土方は口を歪めて笑った。
 (ここに来て、一連の事件と全く関わりなんて無ェ様な連中にタイミング良くも襲われるたァ…、)
 このタイミングの良さが、狙われたものなのか仕組まれたものなのか、それとも単なる偶然なのかは解らない。だが、襲撃者達は土方が手負いである事など容易く見抜いていたのだろう、ただ道だけは開けぬ様に、命をあからさまに狙うでは無く攻めて来ている。土方の今の腕では、切り結んだ所でそう簡単に相手を仕留める事など出来ない。相手が無力に地面に蹲っているチンピラでも無い限りは。
 この連中には、土方を捕らえる事が恐らく最優先したい目的なのだ。この場で殺す方が容易いのにそれをしないと言う事は、人数にも自信があり、土方の手負いの状態に勝算を確信しているからだ。
 攘夷浪士には蛇蝎の如く忌み嫌われている土方だ、殺して死体を晒すにしても易々とは行うまい。
 くそ、と罵声を喉奥の唸り声へと変えると、あからさまに脅しの様な動作で刀を突き出して来る男の一撃を避け、土方は相手の懐へと無理矢理に踏み込んだ。互いに間合いの内過ぎる距離に、男が慌てて距離を置こうと一歩下がろうとした所で、土方は両手で掴んだ刀の柄頭でその顎を思いきり突き上げ殴った。
 声もなく蹌踉めいた男の喉を、迫った侭の至近距離で短く横薙ぎに掻き斬ると、仰向けに倒れる男を蹴り倒し、土方はその勢いの侭に前方に向けて走り出そうとした。
 だが当然の様に男の仲間が左右から退路を塞ぐ。
 右か、左か。どちらかを選ぶ事に特に意味は無かったが、選んだ左側の男に向けて土方は走り出した勢いの侭再び肉薄した。兎に角相手の不意をついて押し通るつもりであった。相手が土方の事を今すぐに仕留めようとはしていないのならば猶更。多少強引に向かった方が良い。
 左の男は土方の至近からの刺突を躱すと、自らの刀で土方の得物を弾いた。普段ならば耐えられただろう衝撃に、然し負傷した腕では耐えられない。伝わる痺れと痛みとに、土方の五指から勝手に力が抜けて刀が地面へと落下する。
 土方は、それを拾い上げようとして体勢を崩すよりも反撃を選択する。寸時詰めた呼気を吐くのと同時に振り上げた足で、刀を咄嗟に防御の為に立てた男の脇腹を蹴り飛ばす。動き易く痛打の威力も異なる隊服やブーツであったら頭を蹴る選択肢もあったが、生憎今は冬地の、余り動き易いとは言えない着流し姿だ。
 ぐ、と腹を折った男の横に、土方の目指す退路が見えた。後は追いつかれない様に、囲まれない様に、出来るだけ助けの駆けつけ易い様な場所まで走って逃げるだけだ。
 だが、脳内に浮かぶ地図を土方が見据えたその時、痛打され呻いていた男の腕が駆け出そうとしていた土方の足を掴んだ。転ばなくて良かったと、咄嗟に急ブレーキを掛けて男の腕を逆の足で蹴り払う。
 その隙に、もう一人の──先程右側に立った男が土方の背後に向かって来た。斬りかかるつもりか、掴みかかるつもりか。思って振り返った土方の眼には、先頃の己の様に想像以上の接近をして来た浪士の姿があった。
 その手に刀は握られていない。では殴られるのか、動きを封じる為に飛びかかられるのか。何れにせよ恐らくこいつは、至近距離で土方を行動不能にする手段を何か持っている筈だ。
 幾つもの可能性をシミュレートしながら、咄嗟に回避行動を取ろうと身構えた土方の首元に何かが触れた。動いている家電製品からコンセントでも無理矢理に抜き取った時にも似た厭な音がしたと思ったその時には、皮膚を流れた電流に土方の身体は勝手に跳ねた。スタンガンか、或いはそれらの機構を内蔵した鈍器。己に致命の隙を晒す事となった原因の得物の正体を妙に冷静に思い浮かべながら、後はもう抗い様もなくその場に崩れ落ちている。
 「──を、取り戻す為に、貴様は…、」
 男の一人が吐き捨てる様に呟くのが、ふつりと途絶える土方の意識に最後に残った。




一応>坂田なんでもう信じない!と言いつつ結局そう出来ない辺りが、多分に坂田の意図せぬ罠。
〜刷り込み現象的なアレみたいなもんです。

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