深淵に臨んで薄氷を踏むが如し / 12



 文字を長々と書くのも読むのも好きではない。口で言えば事足りるだろうが、と常々そう思うのだが、生憎と坂田のそんな考えには沿わず、口で言っただけの言葉には然したる効力が無い、と言うのが世の中の決まりなのである。
 そんな訳で坂田は普段殆ど使われる事などない己の机に山と積まれた書類をうんざりと斜めに読み続けていた。報告確認連絡相談。そして情報。真選組副長へと届けられる書面は日々様々で、適当に判を押せば良いものから、じっくりと熟慮して上に持ち込み採決を待たねばならぬ案件まで、兎に角多種に渡る。それが坂田の机の上に特に整頓されるでもなく積み上がっているものだから、坂田の頭はあらゆる事柄の間を行ったり来たり忙しなく動かされていた。
 普段ならば書類仕事の殆どはもう一人の副長である所の土方に任せ、両副長の把握しなければならないものだけ寄越してくれと言っているだけで良かったのだが、今はそうもいかない。
 坂田付きの、事務方を行う隊士も居るのだが、それらを通しても猶、机には日々山が出来る。土方とて本来こんな机仕事は好まぬ質な筈だと言うのに、よくも毎日大人しく淡々と事務に励めるものだと関心する。
 意に添わずともやるしかない。寧ろ、不得手でも面倒であってもそれを役割と自負する。それは、それだけ土方が真選組と言う組織に心血を注ぎ心を砕いて全てを捧げていると言う事の表れだろう。それは無論坂田とて知る所であるのだが。
 そりゃ煙草の本数ぐらい増えるか、と、ヤニ臭漂う部屋で机に向かう土方の顰め面を思い出しながら書類を繰っていた坂田の手がふと止まる。目に留まった文字から数行を戻って再び文字を追って行く内にそれが己の欲しかった情報であると確信し、思わず「よし」と声が出た。早速その情報のコピーが纏められたファイルを机の上に開いて置き、身を乗り出して解読にかかる。
 それは先立っての真選組の大捕物のあった料亭の利用客の名簿だ。その中にはここ数ヶ月の間、幾度も登場する同じ名前がある。その名が捕り物の当日にある事までを確認すると、坂田は浮かぶ捕り物の裏の一幕の想像に溜息をついた。
 その名が、頭の悪そうな組織名の攘夷浪士崩れの用いている偽名だとは既に裏が取れている。大和疾風丸黒雲斎、などと言う、中二を通り越した浅慮さが丸出しの名を名乗る者が他に何人もいるとは流石に思えない。
 その大和何某の名のある他の日を調べると、今度はそれと対称的に全く特徴の無い、鈴木三郎太と言う名が同時に出て来る。特徴を通り越した主張の激しい名前と、特徴の無さ過ぎて逆に特徴的な名前。この二つが同時に現れる日が殆ど被っている事は最早ただの偶然ではあるまい。
 そして坂田の取った裏では、鈴木何某が店に現れている日のアリバイ──と言うよりは所在確認程度だが──は何れも不完全だった。誰のアリバイかと言えば、近藤と共に襲撃され死亡した老幕臣の息子の、である。
 つまりは鈴木何某イコール、土方曰くの馬鹿息子と言う訳だ。彼は漆黒の翼を名乗る頭の悪い攘夷浪士崩れのチンピラ集団と付き合いがあり、幾度かこの料亭で会合(と言うレベルかどうかは不明だが)を行っていたのだと考えられる。
 そして、奇しくも同じ店にて行われる大店と攘夷志士との取引の日──つまりは真選組の捕り物の日、息子が巻き添えになって攘夷活動(わるいこと)に荷担していた事を知られまいと、彼の老幕臣は料亭に駆けつけたのだ。少しでも真選組の足を引っ張る為にか、密かに息子を逃がす為にか。
 そして老幕臣にとっては幸いな事に、騒動のごたつきの中で馬鹿息子は何とか逃げおおせた。真選組はそんな小さな裏話を知らぬ侭、目標だった捕り物を成功させたと言う訳だ。
 推定事実だけを言葉にすれば簡単な事でしかないが、土方にしてみればさぞ頭の痛くなる話だろう。それは何者かが老幕臣に忖度し、真選組の捕り物があると言う情報を流していたと言う事になるからだ。警察組織の誰かか、真選組内部の者かは知れぬが──どちらにしても問題は避け難い。
 ともあれ、この事件で老幕臣は息子の危機を感じたのか、彼を政治に多少なりとも関わっていた今の役職から退ける措置を取った。まあ言うなれば反省の時間と言う訳だ。
 だが、馬鹿息子は残念な事にも父親の気持ちを正しく酌めなかった。直後に父親が真選組の局長を招いたと言う話を、己を司法の裁きに掛けるつもりなのだと思い込み、件の『悪い友達』に金を払って頼み込み、逆襲に打って出たと言う訳だ。全く、親の心子知らずとはよく言ったものである。
 真選組の局長である近藤を逆恨みするのは未だ理解出来るが、親までを、己を裏切ったと思って殺させるとは、流石に理解も共感も想像も及ばぬ所であったが。
 ともあれ件の馬鹿息子は、土方を生かして帰す事で大っぴらに真選組を批判し溜飲を下げ、父が死亡したと言う事で跡継ぎとして地位に返り咲くつもりだったのだろうが──浅はかにも程がある話だ。
 料亭の顧客名簿などは、老幕臣の生前の隠蔽工作などもあって原本を手に入れるのに非常に苦労したが、ともあれこれで一応話は一繋ぎにはなったと言える。
 問題は、襲撃の実行犯である漆黒の翼を名乗る連中の半数近くが未だ逃げおおせていると言う点。馬鹿息子と付き合いのあった中心人物──桂曰くの、攘夷戦争の話を紙芝居代わりに聞いて育った様な奴ら──たちの足取りが全く掴めていない事だ。
 こう言った、攘夷を反社会と定義している小さなチンピラの集団には、大概の場合本場の攘夷志士のグループが背後に居る事が多い。体良く使える囮、身代わり、或いは鉄砲玉として、良い意味で思想の無い若者たちを彼らの意識していないレベルで上手く扱うのだ。
 桂が敢えて『元攘夷志士の年配者』と出したのは恐らくそれを示唆した故だ。漆黒の翼と言う頭の悪そうなチンピラたちの裏には、彼らを隠れ蓑にしている攘夷志士が居て、件の馬鹿息子と付き合いがあったと言うのも恐らくはそちらの方に本命があったと言う事だろう。そうでなければ事はもっと早くに露見していた筈である。
 その攘夷志士たちが手を回し、漆黒の翼の構成員たちを逃がすか始末するかをしているのだ。
 そこまで至ると、そんな身分にある以上は足下を掬われない様にしろと言った桂の警告めいた言葉が不吉な意味を以て坂田に危機感を憶えさせる。
 ここ数日の土方の妙な様子も、己の周囲を嗅ぎ廻っているらしい地味な監察の動きも、ひょっとしたら坂田に何かの疑惑を起こさせられている、故ではないだろうか──と。
 (まあ、疑われるのは仕方ねェとしても)
 土方の猜疑心は確かに元から強いが、そうでなくとも己が余り土方に、本当の意味では信用されていないと言う事は坂田自身よく解っている事だ。だがそれでも、坂田の入り込んだ隙間を土方が易々棄てる事が出来ないだろう事も、解っている。故にそこまで酷い危機感を抱くには至っていないのだが。
 (ジミーに調べさせているって辺り、割と今回はマジなのかも知れねェけどな)
 我知らず浮かんだ苦笑は、子供の児戯を窘める大人の様なそれだった。昨晩もラーメン屋一つを訪ねるだけだと言うのに、しつこい尾行を捲かなければならなかった。直接口で問いてくれれば何とでも答えは呉れてやれるのだが、疑心を念頭に立ち回られると弁解は容易くないので始末に負えない。
 坂田は資料に付箋を貼ってから閉じると、今日も一向に片付く気配のない机を離れて立ち上がった。当面情報入手の目的が達成出来た以上、まだ数日は片付かないだろうとは思ったが、こつこつと片付ける気にもなれない。そうして見上げた時計は既に早朝を過ぎている。じきに定例の朝議の時間だ。
 (会議が終わったら一度戻るか。土方の奴、拗ねてたら飯とか食って無さそうだしな。そしたら怪我の経過を聞いて、そろそろ現場復帰させてやんねェと…)
 そう思いながら見遣った机の書類山は、本来それを片付けるべき者を待っている様に見えなくもない。仕事を溜めやがって、と文句を言うだろう鬼の不機嫌顔の想像に、こっそり胸中でだけ謝っておく。
 危険やそれに準ずる──例えば沖田との悶着など──は極力避けたい所であるが、出来るだけ早く土方を現場に復帰させる必要は、こう言った事務仕事の面の都合ばかりではなく、ある。折り合いの悪さで通っている副長二人の片方がいつまでも戻れないとなると、隊内にも余り良い影響をもたらさないのは言う迄もない。
 心なしいつもよりぼさついている気のする頭髪を掻いて、坂田は上着を肩に掛けると廊下に出た。雪でも降り出しそうな灰色の空模様は朝だと言うのに精彩を欠いていて余り気分がすっきりとしない。
 朝議の前に風呂へ行く時間はあるだろうか。今日もまだ証拠集めの地味な作業が待っている。気分ぐらいはすっきりとして戦いに赴きたいものだが。
 
 *
 
 鍵は開いていた。別にその事自体に特別な何かを感じた訳ではなかったが、坂田は眉を寄せると己の刀を視線だけで確認して、それから玄関の引き戸をゆっくりと横にスライドさせた。
 町は動き始めた朝。今日も連日に倣って余り天気は優れない。とは言えいつもの日だ。何か行事が起こるでも無ければある訳でも無い、ありふれた平日の一日の始まり。
 「…………土方?」
 玄関を後ろ手に閉めながら、坂田は静まり返った廊下に向けて声を放った。
 ここは坂田の借りている物件だが、帰る回数がそう多く無い為に生活感の無い家だ。それでもここ暫くの間は生活の臭いが漂う様になっていた。坂田に謹慎を命じられた土方が、屯所を離れて此処で寝泊まりをする様になってからは、人の暮らす家の気配が──家財など殆ど無いがらんどうの中にだからこそはっきりと嗅ぎ取り易い、人間の生活している臭いや温度があった。
 だが、今はそれが全く感じられない。人の気配の無さに特有の、拒絶さえ感じる様な冷たい静けさだけが、がらんどうの家屋の中に拡がっている。
 靴を脱ぎ捨てると坂田は廊下に上がり、閉まっている居間の戸を開いた。居間は──本来は居間であるだろう広い室内は、有り体に言って何も無い。隅にテレビが一台。床には座布団と畳まれた毛布。冷えるからと数日前買ってきた小型のヒーターがその横に静かに佇んでいるだけの、板張りの寂しい空間だ。
 正面の窓からやんわりとした朝日の陽光を差し込ませている、その中に照らし出されている風景には、人の生活して『いた』様な気配だけが不気味に残留しているだけで、ただただ静かだった。
 開かれっぱなしの襖で遮られた寝室にも誰の気配も無かった。畳の上には敷いた侭の布団が一つきりで、そこには少なくとも昨晩誰かが眠る為に使った様子は見受けられない。とは言え、冷えたシーツに幾ら掌で触れてみた所で、果たして何時間前か何分前かに誰かが眠っていたのか、全く使われていないのかどうかすらも知れなかったのだが。
 「……」
 坂田は最後に視線をゆっくりと、床の間の刀架へと向けた。そこには見覚えのある、土産物の木刀が一つ。それ以外のものは幾ら見つめれど見当たらない。
 この家に身を寄せてから、土方はこの刀架に自らの愛刀を置いていた。と言うより他に刀を置く様な場所などこの家には無い。
 そして土方は一応は謹慎中と言う状況にある為、病院などに行く時も帯刀はしていない筈だ。帯刀をしていると目立つ。負傷中の真選組副長が厄介事を避ける為には、厄介事を払い除ける為に自衛し刀を持ち歩くのではなく、端から刀など所持していない方がマシだからだ。
 普通は白昼の賑わう町中や病院などの公共施設で堂々と襲撃が起こる事など無い。それでも、万一襲われた時の為にと護衛を連れている。自衛と言うならばそれで十二分に足りているだろう。
 ──つまり、土方の刀が無く、土方自身も不在と言う事は、彼が本来護衛が必要な場所や時間帯に外出したと言う可能性に行き当たる。
 土方の護衛や世話は、土方自身の希望もあって山崎一人に一任してあった。予備人員が必要な時は状況に応じて山崎が自ら手配しただろうが、謹慎状態にある土方がそれを受け入れたとは思い難い。
 そこに来て、坂田の察知している限りでは、山崎は昨晩は坂田の監視任に就こうとしていた、と言う事実だ。
 「…………」
 憶えたのは怒りか寒気か。我知らず詰まっていた呼気を吐き出した坂田が、土方の外出先の手がかりを探そうと頭を巡らせたその時、隊服の上着の中で携帯電話が振動した。良すぎるタイミングに厭なものを憶えながらも携帯電話を取り出してみれば、ディスプレイに映し出された発信元の名は、正しく坂田のたった今まで探し求めていた、土方十四郎となっていた。
 「……もしもし」
 《坂田銀時だな》
 半ば出そうになる舌打ちを堪えて通話を取れば、耳には変成器でも用いている様な濁った音声が届く。
 坂田の携帯に掛けて来た電話自体は土方の携帯電話だが、その携帯電話を使って今話しているのは土方自身ではない。つまりそれは、坂田の浮かべた最悪の想像を肯定する事に他ならない。
 「で、お宅らはどちらさん?」
 言って坂田はこの部屋と外界との唯一の接点となる窓を見遣った。だが窓はぴたりと閉ざされていたし、カーテンも閉まっていた。居間の窓は格子が填められているし、そちらも硝子戸自体は閉まっている。
 と、なると、この電話の主は窓の外から様子を伺って掛けて来た訳ではなく、家自体を何処からか見張っていて、坂田が土方の不在を確認しただろう頃合いを見計らって連絡を寄越したと言う事だろう。そうでなければこんなにもタイミングが合う訳はないと、確信を以て思う。
 同時にそれは、この電話の主が坂田についてよく知り得ていると言う事でもある。真選組の屯所以外に普段戻らぬ家がある事、そこに土方を置いていた事。
 そしてもう一つ。土方の携帯電話を用いてのコンタクトに、坂田が動揺するだろうと言う事もだ。
 《我々はこの国を変えるべく戦う攘夷の徒だ》
 果たして、動揺を欠片も見せず応じた坂田の口振りから何を思ったのかは知れぬが、電話の主は濁った音声で、どこか誇らしげにそう自らの身上を告げると、一呼吸を置いてから続ける。
 《真選組副長が一人、土方十四郎の身柄と命運とは我らの掌中にある》
 短い間の中で、恐らく電話の主は得たりと笑んだのだろう。勝利さえも確信した言葉には、機械を通しても猶はっきりと読み取れそうな、正義と言う熱病の気配が宿っていた。






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