ねがいよかなえ/1 男は死に体だった。 地に伏した身は最早苦痛を訴える事も忘れたのか、呻く声一つ漏らそうとはしない。だが、生を求め足掻く事を已めたと言う訳ではない様で、体の下に作った赤い血溜まりを引き摺りながら這いずって進んでいる。何処へとは知れない。ただ、前へと。 男がゆっくりと手を伸ばして顔を擡げた。血塗れの五指をぴんと伸ばした腕が苦しげに戦慄く。乱れた長い黒髪の間から手の向ける先をじっと見つめて、男は血の滴る唇を上下させて死の吐息を吐き出す。 戻らなければ。 ただその一念だけを糧に、男は疾うに死してもおかしくはない程に損傷した身を引き摺り、前へと進もうとしている。 向けた手の先、眼の見つめる先に一体何があるのかは解らない。ただそこへと向かって進まねばならぬと言う事だけが解る。男の体を動かしているのは単純な生への希求と言うよりは最早ただの執念なのだろう。 這いずった距離は、男の目指す場所まではきっと全く足りていなかった。魂を振り絞って前へと進もうが、無常にもその手が何かに届く事は無かった。 乾いた土の上に血の殆どは吸われ、歪に伸びる僅かの筋だけが男の、最期の抗いの痕跡。その行動は死への苦痛をより長く引き延ばしただけに、恐らくは過ぎないものだ。 やがて、男の手は力を失って地へと落ちる。何にも届く事なく、程近い死へのささやかな抵抗は土に血を僅か余計に吸わせるだけで終わったのだ。 生温い風の通り過ぎるばかりの荒れ果てた地には男と、二つの亡骸以外には何も無い。人の気配も、動物も、何も。見渡す限り大凡生の匂いのしない場所だった。 そんな中であっても、真新しい死の臭いを嗅ぎ取ったのか、遠くで鴉の鳴く声がした。 * 「十四郎」 頭の上の方で声がする。よく聞き慣れた声によく聞き慣れた名。眠りの浅いところでゆらゆらと揺れる己の意識を優しく揺すり起こすその感覚に抗わず、十四郎は重たい目蓋をゆるりと開いた。 「十四郎」 重ねられる呼び声に、わかってる、と応えようと声のする方へと腕を伸ばしかけて、そこで漸く十四郎は違和感に気付いた。見上げた筈の視界に入るのは遠い地面。ゆっくりと瞬きをして、何だか痺れて痛む足を動かせば、ずるりと膝裏を硬いものの滑る厭な感触がした。 (あ) 次の瞬間、重力の軛に囚われた十四郎の全身は総毛立った。見下ろした先に見えるのは青く繁る樹と空の色。葉を落として揺れる一本の太い枝がぐんぐん遠ざかるのに、己が逆さまに落下している事に気付き、咄嗟に羽ばたこうとするが遅い。空気を打つ翼が揚力を得るには落下速度があり過ぎて落下距離も短く、それを無理矢理に補う妖力も足りない。 (落ち、) 程なくして全身を襲うだろう落下の衝撃の予感に思わず目を瞑るが、次の瞬間やって来たのは、予想していた様な痛みではなく、ぼす、と己の体重が地面に叩きつけられると言う現象からは到底考えられない柔らかな音だった。 「ほいお早う」 遙か樹上から落下して来た十四郎の身体を綺麗に両腕で受け止めて見せた男は、そう言って口端を持ち上げ笑いかけて寄越した。 「……おはよう」 目の前の笑顔に、若干ばつが悪くなった十四郎が口を尖らせ答れば、笑顔の主はますます目を細めると、塞がっている両手の代わりなのか、鼻先を十四郎の頭髪に擦り寄せて来る。慣れた過保護な触れ合いに少し顎を引きつつ、然し厭な顔はせずに十四郎は小さく嘆息した。 受け止めた時点で妖力を使っていたのだろう、自身と同じ様な体格の十四郎とその落下分の衝撃とを抱えながらも平然と立っているこの、銀髪の男は大妖怪だ。自らを銀時と名乗る、九つの尾を持つ妖狐。 この辺り一体の山を縄張りにしていて、大妖怪であると同時に小さく古い社の万事神でもあるのだとか適当な事を嘯いている男だが、共に幾年かの時を過ごした十四郎にとってはただの愛すべき保護者の様なものである。 上機嫌なのだろうか、銀時の尾はゆらゆらと揺れている。その動きを見る内、銀色でふわふわのそれを枕代わりに抱きしめ眠っていた頃を何となく思い出して十四郎の目元も我知らず弛んだ。 「で、お前また樹の上で転た寝してたのか?鴉っつーより蝙蝠みてーな寝相だったけど」 やがて顔を元の位置へと戻した銀時がからかう様に言うのに、十四郎の弛みかかっていた表情は決まり悪く歪んだ。樹に腰掛けた侭膝で引っ掛かって逆さまに眠っていたばかりか、落下して飛ぶ事も出来ず墜落するなど鳥類──妖怪だが──としての沽券に関わる。 「…今気に入りの寝方なんだよ」 苦々しく吐き出された苦し過ぎる言い訳に、銀時はくっと喉を鳴らして笑うと、十四郎を横抱きにした侭でくるりとその場で踊る様に回った。かわいいやつめ、とでも言いたげなその様子からは、銀時の手が空いていたら両腕で抱え込まれてぐしゃぐしゃに撫でられていただろう想像が易い。一体今の何がツボだったのか良く解らないが、銀時は折に触れてはやたらとそうやって十四郎の事を子供や小動物の様な可愛がり方をする。 上機嫌な銀時のステップはやがて森の中をふわふわと歩き始める動きへと変わる。人間など立ち入らぬ源初の森の大地は決して平坦な道ではなく、木々も草花も生い茂っており、視界には見渡す限りの深い緑しか無い。それでも森に棲む妖たちを木々は決して遮らない。銀時の足は身軽に飛んでは苔生した土の上を弾み、山の更に深い森へと進んで行く。 そうして、動物も余り迷い込まぬ様な霧の濃い深奥へと入り込んで暫くすれば、眼前に古びた社が見えて来る。木々の狭間から覗く天然の洞窟の、ぽかりと開いた口にまるで誂えた様に嵌り込んでいる、そんな不思議な社の全容が近付いて来た頃、歩調を弛めた銀時がぽつりと呟く。 「また、いつもの夢ってやつか?」 銀時の腕に揺られる内に、またうとうととしかかっていた思考に差し挟まれたそんな問いに、十四郎は伏しかかっていた目を開くと小さく一度だけ頷いた。 「そうか」返るのは意味の無い納得。だから十四郎はこれも意味なくもう一度頷いた。 それは十四郎が何故か繰り返し見る夢だ。何処か知らぬ荒れ果てた場所に居る死に体の男。顔も知らぬその男が死ぬまでの時間の夢で、内容と言う内容は無い。ただそれだけの夢なのだが、それが酷く悔しくて苦しくて哀れだと感じられて、その夢を見る度十四郎の胸は穴が空きそうに引き絞られ痛むのだ。 社の目前で銀時は足を止めると、十四郎の頭に頬を擦り寄せた。まるで動物の様な仕草だと思う。姿形はお互いに殆ど人間と言っても良いのに、感情を示す所作は言葉よりも余程に伝わり易く雄弁だった。 「なかなか帰って来ねェから心配してた」 「……悪い」 今度はばつの悪さは忘れて、十四郎は正直に謝ると目を伏せた。ちょっとした散歩のつもりで外に出て、樹上で寝入って仕舞うなど無防備にも程があった。先程の為体では、銀時が来てくれなければ、目を醒ましてその侭落下していた可能性も高い。そうなれば幾ら妖の端くれとは言え、命に関わる大怪我を負っていたかも知れないのだ。 それこそ尾があったらしゅんと垂れていただろう十四郎の額へと、宥める様に銀時が唇を落とす。 未だ半端な妖怪である十四郎は、度々こう言った小さな失敗をやらかす。ここ最近は特に多い。ただでさえ余り強くは無い妖力を必要以上に消耗し、不意に眠くなって飛ぶ事も侭ならずにその侭眠って仕舞うのだ。 それを解っているからこそより気を付けて行動しなければいけなかったと言うのに、また銀時に心配を掛けた。そう思うと申し訳がないし不甲斐なくて辛い。 銀時の胸に額をぐっと押しつけると、銀時は十四郎のそんな感情を癒やし包み込む様に酷く優しく微笑んでくれた。彼の、時折こうして見せる百年も二百年も年上の者の様な表情を十四郎は好いている。包容力とでも言うのか、大きな誰かに背を支えて貰っている様な安心感を憶えずにいられないのだ。 それを感じられる時、十四郎は己が庇護される身であると知りながらも、銀時の事を酷く護りたくなる。未熟な妖の身で大それた事だと思うのだが、彼に寄り添いたくて、その為に強くなりたくて、堪らなくなる。 夢の中の、知らぬ何処かの誰かにもこんな存在が傍に居てくれれば良いのに。そうすれば独りきりで寂しく迫る死に抗う苦しさ、虚しさを感じずに済んだだろうに。 詮無き思いに何だか悲しくなって、十四郎は銀時の首に腕を回して縋り付いた。銀時は矢張り優しく、そして鷹揚な仕草で、十四郎をしっかりと抱きかかえている腕に力を込めてくれた。 イラっとする様な暑苦しいいちゃっぷるを目指します。 ↑ : → |