ねがいよかなえ / 10 「解った。その旨伝えておこう」 「はい、お願いします。それじゃあ俺はこれで」 失礼します、と言い残して去って行く部下の地味な風貌を目線だけで見送ってから、近藤勲は、ふう、と大きな溜息をついて腕を組んだ。頭の中で、今し方受けた報告や案件をぐるぐると考える内、ばたりと背が畳に倒れて仕舞い、無秩序に浮かんでいた考えの幾つかが泡が弾ける様にして消える。 昔から悩ませる程の頭の回転に自信のある身では無かったのだが、いつからか『これ』が己の役割となっていた。 最初は、ただ武人として天子様のお役に立とうと、そればかりを青臭く語り合っていたものだったが、今では理想よりも腥い現実の方が目前には多くなった。責を負う立場となり、部下の命を預かり、一人の将として様々な采配を課された。 参謀役となる部下も居るが、飽く迄上司と部下と言う関係でしか無い為に、日々の些末事や昔の夢や現状の鬱屈などを語らえる様な者は居ない。失って久しい。 自然と熱くなった気のする目頭を揉んで、近藤は見上げた天井に向けてもう一度嘆息した。組織は大きくなって、世界も変わって行く。己でさえもその鋳型に押さえつけられ続ければいつかは変わり果てて仕舞うのかも知れない。否、もう既に変わっているのかも知れない。 それでもきっと、嘗て失った友だけはずっと変わらないもので在り続けてくれたに違いない。 友は戦友であって、親友であって、腹心であって、己を支えて自信を持たせてくれていた。その友が帰らなくなってから果たして幾年が経過したのか。 何処かで生きているのであれば良い。不意に戦う事に疲れて何処かへ逃げ去ったのでも構わない。生きて、変わらずに居てさえくれればそれで良い。 そんな僅かの希望を信じていたから、近藤は友の捜索を早々と打ち切った。山崎の報告では、恐らくもう命は、と言う話だったが、断固として信じようとはしなかった。 それは恐らく逃避に似た心地だったのだろうと思う。こうして、将としての重責に疲れた時に、友が居れば、と無い物ねだりをしてみるのもそんな感情からだ。 あの頃と異なって、己は偉くなった。人間として何がどう変わったとは具体的に思えないが、少なくとも身分と言う意味では偉くなった。だが、その代わりに失って来たものや払っている代償は大きい。大きいと言う事すら忘れて仕舞う程に。 (俺は、あの頃と比べて幾分かマシな人間になれただろうか) 浮かぶ問いは或いは躊躇いでしかない。身分と名を上げる度、部下が増える度、敵を討つ度に幾度となくそう繰り返しては自嘲する。それに己の望む答えを呉れただろう人間は、もう居ない。 「近藤さん」 将を、ではなく、友の名をそう呼んでくれた声は、もう居ない。 「………?」 そこまで考えた所で近藤は首を傾げた。今、想像していた声が『本当に』聞こえはしなかったか。無意識の内に閉じていた目蓋を開いて、近藤は室内へとゆっくりと視線を這わせた。 すれば程なくして、障子の向こうに人影が佇んでいる事に気付く。山崎──にしては背が高い。他に誰かこの、己の私室を訪う様な者はこの時間居ただろうか? 「誰だ?」 人影は少し前からそこに立っていたらしい。全くその存在に気付かなかった事を少々忌々しく思いながらも、まるでたった今気付いた様な素振りで近藤は落ち着いた声を上げた。よもや警備の厳しいこの館に刺客の類が入り込むとは思っていないが、気配もなく無言で部屋の真ん前に立たれていた、などと言うのは流石に気分が良くない。 「……」 声を掛けられた事に驚いたのか、人影は躊躇の気配と共に肩を僅か揺らした。部下であれば躊躇う理由など無いだろうし、そもそも近藤の私室の前で立ち尽くすなどと言う無礼は働くまい。と、なるとこれは一体何者なのか。近藤はそっと立ち上がると刀を手元へと探り寄せた。自然と顔が苦々しく歪む。外からの刺客ではなくとも、内からの裏切りと言う可能性をゼロとは言い切れない事が、将として恥ずべき事だと思えたのだ。 「……近藤さん、…その、」 障子へと近藤は少し距離を詰めた。警戒の気配は恐らくあからさまに伝わっている筈だ。敵であれば近藤が警戒するより先に打って出た方が早かっただろうに、薄紙一枚の向こうの人影は猶も何かを躊躇う様に──かぶりを振って口籠もった。 「……」 いよいよ違和感を拾い上げ具に観察せずにはいられなくなって、近藤は眉を寄せる。何か、最も重要な可能性を頭から排除してかかろうとした様な、そんな気がしている。障子を開いて相手を確認するも取り押さえるも容易い筈だと言うのに、それを押しとどめているのは恐らくは理性だった。 (……そんな、馬鹿な) 人影の姿形は記憶の誰とも符号しない。言葉を探して躊躇うその様子にも合致しない。だが、それでも己の記憶が拾い上げたのは懐かしい声。その正体を問うより先に、否定の返る、人の。 「トシ…か?」 「……………、」 震える声で紡いだ答えは果たして正解だったのか。俯き加減でいた人影の頭部が少し上を向いた。そして直ぐに、近藤の記憶にある、長い後ろ髪の揺れない頭は首肯とも否定とも付かぬ動きで再び俯く。 それは躊躇いか惑いしかない仕草だったのだが、近藤の目には、今までずっと希望か願望として宿していた幾ばくかの可能性を許す、明確な肯定に見て取れた。 「…トシなんだろう?お前、やっぱり生きて…!」 「近藤さん!」 思わず立ち上がって障子に手を掛けた近藤の動きを、強く制する様に声が返る。やめろ、とも、駄目だ、とも、制止された訳でも無いと言うのに、ただ名前を呼ばれただけの言葉に、然し近藤は雷にでも打たれた様に立ち尽くした。子供が戯れに伸ばした手をぴしゃりと叩かれた時の様な、逆らう選択肢を奪う絶対的な力を──強い拒絶を感じて動く事が出来ない。 障子へ向けて述べた近藤の指のその先で、俯いていた人影がその場に膝を付く。 「…………すまねぇ。俺はアンタの役に立つ事が出来なかった。未練がましく地獄から顔出しておいて、こんな事しか言えなくて、すまねぇ」 「──」 彼は俯いていたのではない。頭を下げていたのだ、と気付いた時、瞠られた近藤の両の目から涙がこぼれた。彼が何を謝罪しているのか、何で謝罪しているのかを、たったそれだけで悲しい程に理解して仕舞ったのだ。 これは過去からの言伝だ。本来在るべきものでは、起こり得る事では決して無い。夢か、幻か、ただの願いと望みか──諦めきれずここに留まろうとする近藤を叱り飛ばしに来た『何か』なのだと。 「違う、違うんだトシ、あの時お前が、お前が戻らねェって事で、異変があったに違いねェと山崎が気付いてすぐに俺に伝えて寄越したんだ。そしたらその晩には屋敷に曲者が押し入った。俺はお前と山崎のお陰で屋敷から逃れていて、難を逃れる事が出来たんだ…!」 彼が戻らなかったあの日。敵対派閥の内部に潜入していた彼と落ち合う予定にあった山崎は、都の貧民窟で起こった騒ぎからもその身に何かがあったに違いないと直ぐに察したと言う。 ──「土方さんが自分の正体がばれる様なへまをやらかすとは思えませんから、きっと正体を暴かれるよりももっと重要な情報を掴んだんです。そして動いた。そうなると、それは近藤さんに纏わる事しか有り得ない」 ある意味で近藤よりも彼の事を知悉していた山崎は、彼が戻らぬ事そのものを、近藤への危機を伝える合図だと解釈した。 そう結論付けられ、半信半疑になりながらも近藤は一旦屋敷を離れて、結果的に敵の暗殺計画から命からがらに逃れる事が出来た。それどころか、暗殺に仕向けられた刺客を捕らえて敵対派閥を討ち倒す事にも成功している。近藤が今こうして生きて出世しているのは、その時命を長らえて敵を削ぐ事が出来たお陰に因る所が大きい。 「お前は、お前は俺を、護ってくれたんだよ、トシ」 それから帰る事の無くなった友を、逃げたのでも、帰れないのでも構わない、生きてさえいればそれで良い、と、現実から逃避する様に言い続けて、近藤は断固としてその結末を今まで見つめる事をしなかった。 その友が、伝えに来たのだ。頭を下げに来たのだ。役に立てなかったと、悔いながら。 ──それは無い。そんな事は無い。だから近藤は必死で声を荒らげて言う。それが、今まで見ない様にして来た友の『死』を認める事に他ならぬのだと、解りながら。 『これ』はいつか通らなければならぬ途。過去の未練を断つ為に必要な決別なのだと。 「お前が伝えてくれたお陰で、護ってくれたお陰で、俺ァ今もこうして生きていられてる。なぁトシ、だから俺はお前に感謝こそすれど、役に立たなかったなんてこれっぽっちも思っちゃいねェんだ」 「…………」 膝をついた侭、友が──土方がそっと顔を上げる。 何故だろうか、きっと彼は笑ってくれたのだと理由もなく確信した近藤は、何かの呪縛から解かれた様に障子に手をかけ思いきり左右に押し開いた。 「トシ!」 然し声は静かな中庭へと吸い込まれず消えて、近藤は誰も居ない縁側を前に茫然と立ち尽くした。左右を素早く見回すが、そこには誰の気配も無い。庭にも人が瞬時に隠れられる様な場所は無い。 人影も、その気配も、懐かしい友の声も、瞬時にして夢幻の様に消え去っていた。それとも本当にただの白昼夢だったのか。 「……、」 だが、最後に見遣った足下には、少し草臥れた文が置いてあった。吹き飛ばぬ様に小石を上に乗せられた、近藤勲宛の文が、嘗てよく見慣れていた筆跡で綴られている。 近藤は震える手でそれを拾い上げた。中身は開かずとも解っていた。文の上にぼたぼたと己のこぼす涙が滴って丸い染みを幾つも作っていく。 (トシ…、) あの友は、役割を終えて猶、己と言う友人への義理を果たそうとしてくれたのだ。未だ過去に甘えて縋る情けない将に、先に歩いて行けと背を叩きに来てくれたのだ。 近藤は漸く、長い事行方の知れぬ侭になっていた友の死を認めて受け入れる事を決意した。そうして、彼の護って支えてくれた己を、これからも喪わぬ様に、恥じぬ様にして生きねばならないと、そう誓うのだった。 大柄な近藤の手が大事そうに抱えた文の隙間から、はらりと鴉の羽根が一枚落ちた。 * 縁側に膝をついて文を抱き締め涙にくれる近藤の姿から、十四郎は名残や悔いを思う事なくそっと目を逸らした。友の嗚咽も、その心も多分、己の裡に在った嘗ての自分は受け止め、そして昇華する事が出来たのだろう。今までに憶えの無い様な、奇妙な満足感にも似た晴れやかさが胸に宿っているのを確かに感じる。 樹上を見上げれば銀色に輝く九尾を抱く大妖怪が、酷く優しい目で己を見つめているのに出会い、十四郎は柔く微笑んでみせる事でそれに応えた。 背に翼を顕現させた十四郎は久方ぶりに自らの翼で風を打って飛び上がると、庭木の上で頬杖を付いて座っている銀時の隣へと戻った。 先頃までは、妖力の衰えた己では人界でまともに妖として振る舞う事など出来そうもなかったのだが、今はそんな気は全くしない。妖気の薄い事で多少は息苦しさに似たものは感じるが、普通にしている上では大した影響も無さそうだ。 (……やっぱり、『悔い』が俺を人間の側に無理矢理に留めようとしてたんだろうな。今は、妖で居る事が普通…、寧ろ楽に思えるぐらいだ) 『悔い』が果たされた事で、この身は漸く本当に一端の妖として生きる事が叶う様になった、と言う事なのだろう。今まであんなに弱っていた己がまるで嘘の様に感じられて、思わず己の翼を掴んでまじまじと見つめて仕舞う。 そんな十四郎の頭にぽんと銀時の掌が置かれた。見れば、彼は先程見上げた時と同じ様な穏やかで優しげな笑みを浮かべている。優しいだけの筈のそれが少し寂しげに見えて、十四郎は首を傾げた。 「銀時?」 「なァ、十四郎。お前、この侭都に残っても良いんだぞ?」 問いと問いとは同時だった。思わず眉を寄せる十四郎に構わず、銀時は相変わらず優しげに笑いながら、眼下で未だ、悔いと決別しようと努力している近藤の方を見遣る。 「そりゃ、山ん中よりは居心地は良くはねェだろうが、武人の住んでる所ならそれなり血腥ェ事も起きるだろうし、そしたら妖力の摂取も侭ならねェって程にはならねェ筈だ。まあ、人間の姿じゃ流石に難しいかも知れねェけど、鴉の姿ならきっと、」 言って、親や神の様に絶対的で優しい眼差しを寄越す銀時の両頬を、十四郎は掌でぴしゃりと挟んでその口を封じた。 「生きられ、って、」 「馬ぁ鹿」 驚きに目を瞠る大妖怪に向けて、十四郎は口を尖らせそう言うと、やれやれと大仰な仕草で肩を竦めて笑う。 十四郎はこの九尾の大妖怪が今までどんな生き方をして来たのか、どうやって妖になったのか、その経緯さえ知らない。 だが、それでも解る事はある。それは、この男が人間が好きである事、十四郎と一緒に居るのを嫌っていない事、それを口に出来ぬ程に優しくて臆病で不器用な事、そして、こう見えてとても寂しがりである事。 「俺は、悔いが消えたとは言えまだきっと当分は半端な妖の侭だ。何せ魂の一部が人間なんだからな。だから大妖怪様の迷惑や負担になっちまう事も、時々はあるかも知れねェ」 存在が妖になり損ねていた原因でもある、十四郎の、人間であった頃の悔いは確かに断たれた。少なくとももう『生前の』未練や無念に縛られる事はもう無いだろう。だが、それでもこの身が未だ不完全な妖である事に変わりはない。十四郎が銀時の様な完全な妖に変容するには、これからの永い刻か、或いは絶対的な妖力が必要になるだろう。 今までと同じ様に野山の深層に潜んで、銀時に妖力を与えられながら過ごすにしても、永い。もしも次に人界に来る事があったとしても、その時世界は全く十四郎の知らぬものへと変わって仕舞っているだろう。それを寂しいと感じないと言えば嘘にはなる、が。 「でも、俺はお前に命を与えられたお前の眷属だ。お前が望んでようが、望んでまいが、お前に寄り添って生きてェって思ってる、多分唯一の存在だ」 きっぱりとそう言い切ると、十四郎は掌の間に挟まれた銀時の眉根に寄った皺を親指でぐりぐりと擦った。困惑しているだろう至近の表情を見ぬ侭に、額同士を勢いよくぶつけて目を閉じる。 「それに、不器用な大妖怪様の意図を汲んでやれる、無遠慮な同居人でもある」 この優しい大妖怪は、十四郎の身を案じてくれている。悔いにして人に留まろうとまでしたその未練を、これからの生で叶え続けても良いのだと思ってくれている。 その、妖らしからぬ優しさが、人間への深い情が、十四郎には愛おしい。馬鹿だなあと、まるで人間の様に思える事が、嬉しい。 「……」 どう振る舞おうか、どう言えば良いのかを考え倦ねる程に、きっと十四郎よりも永い孤独に慣れて仕舞っているのだろう九尾の妖へと、ただ無遠慮に不作法に笑いかけながら十四郎はその背に手を回した。いつか己の畏れに寄り添おうとしてくれた恩に少しでも報いたくて背をとんと叩けば、銀時は困った様に尾を揺らした。 一緒に居たい。たったそれだけで良い言葉は、妖だろうが人間だろうがきっと変わらぬ思いの筈だ。 「厭だって言うんなら、眷属として完全に縛って、それから都にでも野にでも放てば良いんだ。その方が寧ろ楽だろう?」 「……しねェよ、そんな事」 いつでも引き離すは容易だろうと、少し意地悪く嘲る様に言う十四郎の背を、いつになくぎこちない仕草で抱き寄せて、銀時はゆっくりと息を吐き出した。ひょっとしたら、十四郎が都に残りたいと言い出すかも知れないとでもずっと思っていて、馬鹿みたいに悲観的に落ち込んでいたのだろうか。 敢えて訊こうとは思わなかったから、十四郎は少し強張っていた銀時の腕の力がいつもの強さに戻るまでじっと動かずにいる事にした。 「俺も、お前との時間を…、そうだな、人間の過ごす人生みてェに楽しみてェから、妖力を分けんのも一生かけてチビチビやるから良いさ」 ぐしゃりと十四郎の後頭部を撫でながら言う銀時に、十四郎は笑って頷いた。 不器用で寂しがりの大妖怪の願いを、今度は己が叶えてやりたい。それが妖としてこれから生まれる己の願いなのだ。 九尾は人間みたいになりたい妖で、人間を引き擦ってた烏天狗は妖になろうとしている最中。 ……あまあまでこれから仲良く暮らすと思います。 ← : ↑ * * * 蛇足かもしれない何か。 どうでも良いと思うので正直、黙って回れ右推奨。 ……まあさっぱりぶっちゃけるとアレなんです、ご主人妖銀から性行為的なものを通して定期的に妖力を与えて貰う妖土方、とそんなベタベタな下世話ネタをやりたかっただけでした。 …ら、想定以上にガチでイチャイチャし出したので何か申し訳なくなってそう言う描写が綺麗に抜け落ちて仕舞った次第でして…。 出し損ねたけど今後も書きそうもない銀狐の設定> 銀はその昔普通に野の狐で、怪我してた所を、田舎の寒村にて病で隔離されてた人間の松陽さんに助けられて懐いて人間に憧れて中略。松陽さんが病で死んだ後、その骸を食べて病に罹り(その時色素が薄くなった)、結果的に村に病を蔓延させた事で、死を呼ぶ狐だと畏れられながら死んで、後に妖になったとかなんとか。結局畏れだけが人の間に残って、気付いたら山に住む、病や不幸から人を護ってくれたり願いを叶えてくれるカミ様だとか話が変わっていって社が出来たりして、銀も人にお願いされたらこっそり叶えてやったり手助けしてやったりとかしてたとか、そんな使わなかった設定でしたとさ。 あとは、百年生きると尻尾が一本増えるとかなんとか。 約束は果たすものだけど、願いは叶えてもらうもの。 ▲ |