警戒の痕 / 1



 安酒を呷る。隣の空席を見る。つまみを口に運ぶ。入り口の暖簾が揺れないかを見る。店の入り口に黒い影が立っていないかを見る。
 単純な動作の繰り返し。
 酒は旨い。つまみも美味い。今日も今日とて申し分無く。その代わりの様に、懐の重さが軽くなって行くだけ、胸の裡にちりちりと焦げる様な鬱積が嵩を増して行く。
 稼いだ日銭を安く度数の高いアルコールに換えて、喉を灼きながら心を醒ませている。馬鹿馬鹿しくなる程に酔えない。消化に悪いだけの成分を、そうと理解しながら只管に呷り続ける。
 空気を読む店主は、気も漫ろな客を前にしても特に何かを指摘する事もからかう事もしなかった。酔客の数が大分減る頃まで、安いコップ酒の数杯で居座り続ける銀時に余計な声を掛ける事もなく、閉店の時刻の訪れを暖簾を引っ込める事で示すのみだった。
 店内で酔い潰れている客を適当にいなしながら外に追い払う、そんな声を背中に聞くとも無しに聞きながら、銀時は無言で勘定をカウンターの上へと置いた。木刀を腰に佩いて居住まいを正す様子を一度だけちらりと振り返ったものの、片付けの作業を行う店主が矢張り何か言う事は無かった。
 ありがとうともまた今度とも言わず、景気の悪い客をただ無言で送り出す。
 何度か通った憶えもあるし、銀時の目立つ形もあって、店主にも一見ではない客としての認識はあった筈だ。故に、もう来ないで欲しい、と言う無言の訴えとも取れる接客態度は少しばかり癪だった。
 店主が単に無口で面倒くさがりなだけなのか。そんなにも銀時の様子が声を掛ける事すら憚られるものだったのか。或いは──頭に包帯を巻いて木刀を提げた、浪人風の男と言う形の方の問題か。
 まあ確かに、自分でも客観的にまともそうだとは百歩譲っても思えないだろう。宜しくはちっとも無いが、『そう』見える自覚はある。
 包帯の下にあるのは然程大きくもない裂傷だ。出血は派手だったが、傷そのものは深くも大きくもないし、『中身』に影響が出ている訳でもない。銀時が医者だったら迷う事無く「軽傷だ」と診断するだろう。
 もう包帯を取っても構わない──どころか包帯を巻く必要もさして感じない──程度なのだが、頭の怪我だからと、手当をしてくれた新八からは大事を取る様にと散々口を尖らせて言われている。なお神楽には、銀ちゃんの頭はいつも怪我しているようなものネ、などと微妙に痛い事を言われたのだが。
 なお、二人には傷の経緯は、酔って電柱に頭を打った、と説明してある。迷いも疑いもなく秒単位で納得をされた事には少々微妙な心地にさせられたが。
 ともあれ、そんな風にがっちりと巻かれた包帯のお陰で髪も碌に洗えやしなかったこの数日間。天パは一日でも手入れを怠ると熱帯雨林のジャングルも真っ青な様相になるのだと、天パ以外の全人類に切実に訴えたい。
 当然だが、血行の良くなるアルコールも控えた方がと新八には念を押されていたのだが、そちらは怪我をした翌日からさらりと無視をさせて貰っている。その所為もあってか益々に包帯を外し辛いのが銀時の心理である。
 他にも色々と心配される要素を無視しているのだ。このぐらいは誠実で居る素振りをしていた方が懸命だろう。そんな事を投げ遣りに考えながら、がりがりと頭を引っ掻く。ガーゼ地に圧迫された皮膚が少し痒い。痒いが、解いて仕舞う訳にも行かない。フリならばあと数日ぐらいは。せめて。
 あれは現実だったのだ、と──思えるまでは。
 飲み屋でも街路でも。不意に面を突き合わせた時、土方が銀時の頭に巻かれた包帯を前に、罪悪感や後悔や恐怖や屈辱を思い出すまでは。せめて。
 そんな事を思って安酒を傾けて店の入り口を見つめて待ち続けて。『待ち』続けて。結局あれから三日間、銀時は飲み屋どころか町中でもTVの中にも、土方の姿を見出してはいない。
 さして酔ってもいない頭を、夜風が無駄に冷やして通る。それでも決して消えない燠火の様な衝動と情動とがじりじりと身の内を焦がすのに任せて、口元をそっと歪める。
 可笑しくて、嗤い出しそうだ。酷く馬鹿げた、碌でもないだけの経緯。それでも思い起こせば、何処にも遣り場を失った熱がじっと凝るのだから堪らない。
 馬鹿馬鹿しい。非道くどうしようもない。それでも本能と衝動とが胸を灼く。今にも下半身に血の集まりそうな、憶えの深い感覚であるそれがまた可笑しくて。銀時は喉を鳴らして嗤った。
 どうせこんな暗い夜。午前様もいいところな時間の市街地の外れになぞ、時代錯誤な辻斬りや職務に熱心な同心ぐらいしか通りすがるものなぞいない。そして辺りにはそのどちらの気配も無い。酔っ払いが一人夜道に佇んで箍の外れた笑い声を上げた所で、それを気に留める様な物好きもいないのだ。
 思い出して罪悪感に胸でも痛めるのであれば、まだ解る。
 だが、思い出して下半身を熱くするなぞ、到底まともとは思えない反応だ。我が事ながら。
 三日前の晩、銀時は決定的な過ちを犯した。それは犯罪に類される行為であり、感情面での情状酌量を訴えた所で救いようのない身勝手さの起こした──そう、言い切って仕舞えば衝動としか言い様のない所業であった。
 恋して、焦がれて、どうにもならなかった、知己の男を犯した挙げ句に猶も辱めた。質の大層悪い事に、後悔も無く瑕も無く、いっそ嫌われて仕舞えば良いと思い詰めて起こした短慮。
 応えて欲しかった訳ではない。答えが欲しかった訳でもない。ただ、堪えられなかっただけだ。
 言い訳も弁明も何もない。ただ、これで楽になれるかな、ぐらいは思ったかも知れない。応えられようが答えがあるまいが、銀時は『それで終わり』だとしか思っていなかったのだから。
 ………だが、そこには銀時の期待していた様な終わりは無かった。
 ……………だが同時に、銀時の望んでいた様な始まりも無かった。
 三日。まだたったの三日だ。あの日銀時が風呂場に篭もっている間に姿を消していた、土方と別れてからは、たったの三日間しか経ってはいない。
 だが、町中を巡回もせず、飲み屋にも姿を見せない。そんな土方の様は、たったの三日とは言えど、銀時には一種の『逃げ』に思えてならない。
 或いは己のした事が非現実であったのか。
 少なくとも、銀時の知るところ、土方と言う男は負けず嫌いで何にでも挑みかかる手合いである。勝ちには再戦を。負けには返礼を。そんな男が、同じ男に暴力的にねじ伏せられた挙げ句犯されるなどと言う目に遭わされて、泣き寝入りをするとは到底思えなかった。
 現実味の無さの不快感と、得た歪みの結実とが、じわりと銀時の裡に熱を凝らせる。若い頃でも憶えの無いぐらいに衝動的に、扱いて抜いて吐き出したい心地が脳の奥にじっと居座って動かない。
 思い出せば、出すほどに。あれは現実ではないのかと、疑えば疑うだけに。
 「………はぁ」
 肥大化していく衝動に、酒臭い溜息をそっと吐き出して、壁に背をとすりと預ける。まだ枯れた訳でもない齢だ、この侭だと収まらないのは己の身体だけによく知っている。酔い切れなかったアルコールの気怠さがそれを萎えさせる癖、脳裏に描く記憶ばかりを鮮やかに再生するのだから益々に堪ったものではなくなる。
 会いてェ。そんな真っ当な呟きがふと己の口から漏れた事に気付いて、銀時は一瞬きょとんとしてから、腰をくの字に折って嗤った。
 何を言っているのか。『会いたい』?──馬鹿馬鹿しすぎて、有り得なさすぎて、笑えなさすぎて、いっそ滑稽だ。
 恋い焦がれた相手を思って胸を熱くする──そんな可愛らしく大凡まともな感情を楽しんでいられる時間なぞ疾うに終わったと言うのに。
 終わらせたと、言うのに。
 可能性すら端から放棄して、己の欲と衝動とで壊したと。言うのに。
 「…………」
 感情は酔えぬ酩酊同様に酷く醒めた心地をそこに置いて、その癖に咽せる様な熱だけは変わらない。無惨な現実のその侭に。
 そんな、本当の所ではっきりとした理解があったからだろうか。軽く背中を預けた壁に己の温度が移るよりも先に──都合の良い事に想像よりも大分早く──、『会いたかった』姿が現れた事にも、銀時はさして驚きはしなかった。
 寧ろ、銀髪の中に覗き見える白い布地にその注視が行くのを、酷く満足気な心地で見ていた。『待って』いて、見ていた。
 息を呑む音。
 「……よォ。ひとり?」
 つい、と細めた目だけをそちらに向ければ、闇の中にぽかりと一つ残された様な街灯に因って、黒い輪郭を夜の中に浮き彫りにされた男は、あからさまに狼狽えて肩を揺らした。眉を寄せるのと鼓動を跳ねさせるのと同じタイミングで。まるで何かに怯える様に。
 カサ、とその左手に提げられた白いビニール袋が耳障りな音を立てる。指のぎりぎり縁に引っかけられたそれは、彼が臨戦態勢になった時には無造作に落とされるのだろう。だが、意識してか、刀の柄に伸び掛かっていたその右の手は辛うじて留まっていた。
 幾ら深夜とは言え。幾ら浪人風の風体の男相手とは言え。一般人の、知己に──それも、一度は『赦した』相手を前に抜刀する無様は晒さなかったとは言った所で。仮に、そう指摘してやった所で。
 「………見りゃ解んだろ」
 固い声で短くそう応じる、土方の声からも態度からも、警戒と緊張と──怯えは一向に消えない。身体の前面で作りかかった拳を、何でも無い風情でそっと両脇へと戻す。カサ、とまたビニール袋が重たげに揺れた。
 「お仕事帰り?」
 「……それも、見りゃ解んだろ」
 「ふぅん」
 す、と土方の視線が銀時の顔──否、頭の包帯から逃げる様に逸らされた。くわえていた煙草を掴むと、足下に投げ捨ててぐしぐしと踏み付ける。そんな、内心──苛立ちか焦燥か──の顕れの様な癇性めいた仕草に、喫煙防止条例、と茶々を入れかけて止めておく。
 怒らせれば、苛立たせれば、それを機に土方はその手を翻す。怯えを怒りで上塗りして銀時の横を通り過ぎて、残り数十米の距離にある、真選組屯所の門を逃げる様にして潜るだろう。
 銀時が帰り道に、寄り道と言うには些かに遠すぎる距離を歩いて真選組の屯所の前に居たのは偶然でも何でもない。これは、その外壁に背を預けた所までを含めて、勝算の少ない賭け──或いは戯れ言──の様なものだった。
 それが、こんな時間のこんな場所で、まるで狙い澄ましたかの様に出会う──否、遭遇する。これは賭けに勝ったと言えるだろうか。銀時には、土方が屯所の外に居て、深夜まで忙しく立ち働いていると言う確証さえなかったのだ。まるで、賭けを通り越して、偶然か何かの陥れて来た寓意の顕れの様ですらある。
 屯所を囲う外壁は、門までまだ長い。近いが、遠い。警察車輌の乗り入れも往来もあるのだから道幅も広い。だが、別に道を塞いでいる訳でもなく壁際に佇んでいた銀時を、土方は回避も出来ずに足を止めた。
 果たして、変態の性犯罪者が、と土方が一言罵って通り過ぎるのを躊躇わせたのは、銀時の頭にまとわりついた白い包帯の存在があったからだろうか。
 或いは、土方自身にも明確な後ろめたさがあったから、だろうか。
 「……」
 一度包帯から目を逸らした土方には、その話題に触れる心算はないらしい。無言で、足下でぐしゃぐしゃに潰れた煙草の吸い殻に意味もなく視線を落としている。何か言葉を探しているのだろうか。
 怪我の具合は?などと訊く筈もないから。
 済まない、とでも謝ろうと言うのか。
 なんとか誤魔化して逃げる口上を必死で探しているのか。
 携帯電話が鳴るのでも待っているのかも知れない。言い訳が出来れば、ここから離れられるから。
 いつになく消極的な『待ち』の判断を下そうとしている気配さえ感じる、そんな土方の姿に銀時は勝手に苛立ちを憶えた。空いていた数米の彼我の距離をさっさと埋めて、びくりと顔を強張らせる土方の、左手の袋の中を覗き込む。
 「缶ビールぅ?何お前、これから部屋で淋しく一人酒?」
 かさり、と土方の狼狽を示す様に揺れるビニール袋の中には、缶ビールが一本と煙草の箱らしきものが見えた。ツマミの類は入っていなさそうだ。一人酒にしても何だか味気無いと思って、銀時は呆れた風情その侭に口を尖らせてみせる。
 すれば、その小馬鹿にした様な調子に腹を立てたのか、土方はむっと唇に力を込めた。への字の形を作った唇の隙間から、反論。
 「…呑みに行くって時間でも無ェんだ、仕方無ェだろ。何処ぞの万事屋と違って、こちとら今の今まで仕事で駆け回ってたんだ」
 「馴染みの飲み屋にも、深夜まで営業してる飲み屋にも行く気にゃなれねェと。三日もフルで忙しくて。仕事上がりに缶ビール一本ツマミも無しで」
 「…………何が言いてェ」
 水を向けるどころか頭からぶち捲ける気も隠さず、まるで何かを揶揄する様につらつらと言い紡ぐ銀時に、土方はぐっと眉を寄せた硬い表情を向けた。眉間に皺を刻んで、瞳孔の開きかけた目が上目気味に相手を睨む様に眇められる。だがそんな、慣れない人間や子供が目にすれば怯える事請け合いの、真選組の『鬼の副長』のそんな凄味も、生憎と銀時には何の効力も齎さない。
 「ひとりでそんな味気無ェ酒呑んだってつまんねェだろ?」
 そんな、とコンビニのビニール袋を示して、何か提案のある口調で切り出せば、先の想像がついたのか土方の視線がまた、ついと逸らされた。
 「つまらんとか、そう言う問題じゃ、」
 「一緒に呑まねェ?」
 「──」
 それでも律儀に回避策を取ろうとした土方の機先を制して、はっきりと明確に銀時がそう誘いを掛けてみれば、返って来たのは絶句にも近い強張った表情がひとつ。
 あの日の『誘い』の繰り返しの様な言葉に、土方は何か助けとなる糸口でも探す様に視線を辺りに彷徨わせた。俯いて唇を噛み締めた、頬が紅みを帯びているのが街灯の下にはっきりと曝されているのに気付き、銀時は少しだけ胸が空いた。
 「呑む、ったって…、それこそ飲み屋なんざもう殆ど店じまいの時間だろうが」
 ややしてから土方の『反論』として取り出されたのは、言い訳にしては無理のあるものだった。失望した訳ではないが、は、と小さく息を吐いて、銀時は肩を竦めてみせる。
 「ウチ……は今日神楽いるけど。まあアイツは寝たらちょっとやそっとじゃ起きねェし?オメーが良いなら構やしねェよ?」
 「っ待て、それは……、」
 意地の悪さの篭もった銀時の言葉に、土方は己の反論が無意味なものと化した事を悟った。酷く居た堪れない、苦々しい表情で何度かかぶりを振って寄越すと。
 「それ、は…、厭だ…」
 「あっそ。『呑む』だけなのに、随分潔癖なこって」
 酷い苦悩の末に漏れた弱々しい拒絶に、銀時はこれ以上嬲るのもつまらないと感じて直ぐに手を引いた。元より悪ふざけであったとして、子供らの気配をその侭感じる様な環境に土方を連れ込もうと言う気など端から無いのだ。それで土方が思いの外に狼狽してくれたのは、まあそれなりに小気味の良い様ではあったが。
 同時に、そこまで見境のない野郎だと思われているのだろうか、と考えて──まあ、そうなのだろうなと自嘲めかして思う。三日前に土方に銀時のした仕打ちは、『見境がない』と言う表現のそのものであり、ついでに言うと強制力があり暴力的であった。
 からかう様に続ける言葉の──『呑む』、それが額面通りの意味などではないのだと、互いに承知でいると言う事は確認出来たので、銀時はまずまずの成果に満足した。
 言外にしないその指摘に、かっと表情を羞恥の色に歪めながら銀時を睨みつけてくる土方を軽くいなす様に続ける。吹けば飛びそうに軽い調子で。どうでもよい事の様に。
 「じゃあ何処で『呑み』てェの。土方くんは」
 「…………っ」
 通り過ぎようとする動作に似た素振りで、銀時は土方のほぼ真横まで距離を詰めて、そして停止した。悪戯に伸ばした指で、黒い隊服の上から太股をついとなぞり上げてやれば、戦く様に息を呑んで震える気配。
 「希望があんなら聞いてやるけど?」
 飲み屋なぞ開いていない。そう言って断ろうとした土方には、端から銀時の持ちかけた『一緒に呑む』のを断る選択肢が無い様に聞こえた。それが無意識なのか、意識しての作為なのかは解らないが。
 ともあれ今の土方は、本来眉を吊り上げて反論をするだろう、銀時の尊大で横暴な言い種には真っ当な返し方を持たない様だ。そしてそれは、三日前の出来事と、今も銀時の頭に巻かれた侭の真白い包帯の存在とを由来にする理由があってこそ、の反応に相違無かった。
 「………」
 無言の肯定。そんな沈黙の中に、ぎ、と奥歯を食い締める音が聞こえる。
 そんなに悔しいのなら、そんなに赦せないのなら、抗えば良いのに。別に脅迫している訳でもないのだから、簡単な事の筈なのに。
 (馬鹿な、奴)
 思って、苛々とした仕草で銀時が頭の邪魔な包帯を引っ掻けば、それが答えの無さに焦れた故のものと感じられたらしい。土方は屈辱と苦痛とをない交ぜにした、解り易い嫌悪の感情を乗せた横顔をふいと持ち上げた。その視線の先には、真選組屯所の正門がある。本来土方がこの侭帰る筈だった『家』がある。
 (本当に、馬鹿な奴)
 浮かぶのは矢張り嘲りより苛立ちだった。壁に凭れる酔っ払いの事なぞさっさと躱して通り過ぎて、門の中へと逃げ込んで仕舞えば、それで良かったと言うのに。人待ち顔で居たとして、逃げる心算なら追い縋りもせず見送ったのに。
 俺の事で瑕を負ったから、逃げた。それはそれで、その結果に銀時は満足して嗤えただろう。賭けに勝とうが負けようが、お互いに何も損失を被る事は無かった。ここで失うものなぞもう疾うに失い尽くしているのだから。
 「隊服で勤務時間外の私用には出れねェ。……着替えて来るから、角に薬局がある、この先の四つ辻で先に待ってろ」
 若干背後にずれた距離からそう聞こえ、銀時は振り返った。すれば、丁度その横を一歩通り過ぎた土方が、手にしていたコンビニのビニール袋を無言で突き出しているのに出会い、問いを重ねるより先にそれを自然と受け取っている。
 銀時の手が袋をちゃんと受け取った事を確認すると、土方はその侭の歩調で──一時の停止なぞ無かった様な風情で真っ直ぐに歩いて行く。背筋のぴんと張った背中には、先頃まで両者の間に落ちていた緊張感や躊躇いの一切は残ってはいない。
 街灯と余り明るくない月の見下ろす真下に、黒い影が名残惜しげに引き摺られて行く様に見えたのは、果たして銀時の見た錯覚なのか。
 馬鹿な奴。
 もう一度だけそう呟くと、銀時は土方の去った方角に背を向けた。待ち合わせに指定された四つ辻は真選組の屯所の占める区画から通りを一本だけ隔てた所で、人通りは少ない。
 屯所の中へと逃げ込んで仕舞えば、土方を追う手立ては銀時には残されていない。し、そこまでして追い掛ける心算もない。詫び賃の様に買い物袋を寄越して、その侭土方がそこにやって来る事なぞ無いのではないか。
 可能性としてはそれは高い目算である筈なのに、何故か銀時には確信があった。
 やって来ない訳はない。すっぽかして逃げる様なタマでも無い。奥歯を音がするぐらいに噛み締めて苦悩している癖、その怒りを顕わにする事もあるまい。
 する心算であったら、今のこの状況そのものが有り得てはいないのだから。





悉くフラグをヘシ折った、マイナスからのスタート。