警戒の痕 / 2 門番の隊士たちの律儀な敬礼に「ご苦労」といつもの労いを投げながら、土方は玄関を通って一直線に自室へと向かっていた。 自然と遅くなりそうになる足を何とか機械的に前へと動かし、廊下を進んで行く。苛立ちに何度も手を振り上げそうになっては眉間に力を込めて踏み留まる。擦れ違う隊士らには、今日の副長は少し不機嫌だな、と取られるか、はたまた、この程度いつも通りの副長だろう、と取られるか。そのぐらいに酷い表情をしている自覚はあった。 沖田が夜番の日で良かったと思う。こんな時にいつもの襲撃──と書いてレクリエーションと読む──をされたら、上手い事躱せる気がしない。無意味な攻撃を受けるのも、不機嫌の理由を悟られるのも、どちらも御免だ。 半ば逃げ込む様に副長室の戸を引き開けると、土方は後ろ手に戸を閉じて──壁に向かって振り上げかかった手を何とか止めて、ぶるぶると震える己の拳をその侭壁にゆっくりと押し当てた。壁を殴って怪我をする事より、その行動が何に由来するものかと問われるのは矢張り避けたい。 沖田が居ようが居まいが変わらない事か、と気付いて、妙な所で冷静な己に苛々と舌打ちすると、土方は握った拳の上に額をぐっと押し当てた。憤慨や混乱や罵声や不甲斐なさ、様々な感情が胸の裡で嵐の様に荒れ狂っている。それらを堪えて、鎮めたくて、奥歯をぐっと噛み締めれば、ちくしょう、と情けのない呻きが漏れた。 どうか、している。 全く、どうかして仕舞っている。 銀髪の男の下卑た笑みに、この握りしめた拳の一つでも本当はくれてやりたいのに。やるべきなのに。それでも身は竦んで、感情は持て余されるばかりで、土方の直情的な行動を後押ししてはくれない。 腹立たしい事を言われた。屈辱の瑕を覆った瘡蓋をめりめりと剥がされる様な、そんな痛みを伴うあの相対には、真っ当な言葉などではなく、拳か、それこそ刃でも以て向かってやれば良かったとさえ、今となっては思うのに。 それでも、どうしても、どうやっても。どう思っても。どう思わされても。土方は、あの男の事を憎む事が出来なかったのだ。 三日間、思うとも無しにずっと頭の片隅で考えていた。勿論仕事を疎かにする事はなく、だが、それ以外の──真選組副長ではない時間は恐らくほぼずっと。迂遠の様な繰り言を考え続けていた。 酷い出来事のあった深夜、万事屋の建物から離れて直ぐ、呼んだ駕篭(タクシー)に乗って屯所に戻って。風呂を済ませてから逃げる様に眠った。現実を痛みとして何より正しく認識していたくせ、あんなことは夢だったのだと、何処かでそう思いたかったのかも知れない。 だが生憎、翌朝は酷い熱に見舞われた。身体中に考えたくもない様な激痛も残っていた。流石にその程度で業務はサボりなどしなかったが、土方が本調子ではない事が、深夜まで呑んで、駕篭を呼びつけてまで戻った深酒に因る二日酔い故だと周囲に思われたのは幸いだった。 何だかんだと言い訳をつけて、車から降りずに巡回をして。何だかんだと理由を探して、副長室の書類の山に向かって。 そんな逃げる様な三日間に腹が立たなかった訳ではない。自嘲と苛立ちとは確実に喫煙量を増やし、蟻塚の様になった吸い殻たちを見て露骨に顔を顰めた山崎には別件での叱責と共に拳骨をくれて。 思い起こしては羞恥と憤怒と屈辱に苛まれ、考えては自嘲と苦悩の狭間に佇み、そうして土方が落ち着こうとした結論は矢張り、あの男に対する忌避感だった。 受け入れる事は出来ない。理解する事も出来ない。憎む事も、突き放す事も、意味がない。 あの男の事を多分今でも──あんな目に遭わされても遭っても猶、好き、なのだと思う。それが明確な恋情と言う形をした感情なのかどうかは解らない。 だが、幾ら苦悩すれど、幾ら振り切ろうとすれど、あの男の『良い所』──土方が『惹かれ』たのかも知れない、記憶が邪魔をする。らしくない、感情的な思考が邪魔をする。 赦して仕舞えと。諦めて仕舞えと。飄々と笑う男の顔と、底意地悪く嗤う狡猾な男の顔とが。重なる。 (クソ、) 壁に押し当てた拳の背に額をごつんと打ち付けて、土方は強く目を瞑った。 いっそ受け入れて仕舞えば良い。囁く頭の中の声を煩いと切り捨てる。あの男の思いも行動も何もかもが受け入れ難く度し難い。だと言うのに、無かったものにも出来ない。 どうしたいのか。どうして欲しいのか。どうされたいのか。目的も望みも何もないから、いっそ悲しくなる。 (……そんなの、…) ぐ、と喉に詰まった苦味に似た疑問を無理矢理に嚥下して、土方は薄ら目蓋を持ち上げた。壁に項垂れた己の作る陰の下に凝っているのだろう、泥の海の様な躊躇いからそっと目を逸らして、吐息に乗せて呻く。 躊躇うだけの『理由』もそこに呑み込ませた侭。 「………知るか」 * 薬局はもうシャッターを下ろしており、店の前に設置されている自販機だけがぼんやりとした光量で道を照らし出している、その小さな光源の中に銀時はしゃがみ込んでいた。 街灯は切れかかって目障りな明滅を繰り返しており、すぐ下に下げられた誘蛾灯の中を羽虫がうろうろと旋回している。 自販機は有名な飲料メーカーのものだった。赤い色をしたそれの前にしゃがみ込んで、膝の上に肘をだらりと乗せる。いわゆる所のヤンキー座りと言う奴だ。浪人風体の不審者が深夜そんな姿勢で道端に居たら、普通だったら通報するか全力で避けて通るだろう。 だが、幸いにか薬局がもう閉まっているのもあって、付近には人影も無い。そもそも真選組の屯所の近くなぞ一般人が深夜通りすがる所でも無いと言うのもあるだろうか。それを見越して、土方が待ち合わせ場所としてここを指定したのも頷ける。理には適うと言う意味でならば。 土方は銀時との関係性──被害者と加害者と言う実情を、誰にも知られたくないと思っている。言い方を変えれば、強姦された方とした方だ。事が事だけに、まあそれも矢張り頷ける。真選組の鬼の副長が、同じ男の、しかも浪人風の一般人に暴力を受けて犯されました、などとは口が裂けても言えまい。近藤にも、部下にも、弁護士にだって、だ。 因って、土方が銀時と『落ち合う』のに目立たない場所を選んだのは理に適った話なのだ。そこには銀時も異論はない。 問題点は寧ろ、件の相手と『落ち合う』などと言う提案が出た事だ。 (……馬鹿通り越して、訳わかんねェな) まとまらない頭髪同様まとまらない思考を持て余して、銀時は腕に引っかけていたビニール袋を探った。表面にもう殆ど汗をかいていない、温くなりつつあった缶ビールを掴み取ると、勝手にプルタブを引き開けて、一口ぐいと呷る。 散々にアルコールを入れた胃に落ちて来るのは、清涼感ではなく不快感に近くて、思わず顔を顰めずにいられない。苦い心地に苦い表情。こんな気分のこんな夜には相応し過ぎた。 土方の負った瑕を徒に暴き立てる、その賭けに銀時は勝った。だが、その先までを具体的に考えていた訳ではない。馬鹿馬鹿しい事に、会いたいとは思った。思い出して下肢を熱くした。その事を考えてみれば、『先』に求める目的などひとつしかない。 (アイツを抱きてぇってのは、まあそりゃ間違っちゃいねェけど) 三日前に銀時が土方に強いたのは確かに無体ではあった。が、浅ましい事にそれは紛れもなく性行為だった。それも、惚れた相手との。少なくとも銀時にとっては、そう言うものだった。 虚しいのに、悲しいのに、酷い行為だと解っているのに。結果として見れば、それは酷く単純な快楽でもあったのだ。 惚れた相手を思いながら自慰を行うのとは明確に異なった、それは。酷い話である事は百も承知だが──確かな雄の快楽と愉悦でしかないのだ。 だから、叶うならば何度でも。ああしてみたい。こうしてみたい。そんな願望は後から後から湧いて来る。とかく人間とは性的快楽を娯楽として扱うイキモノである。全く浅ましい話ではあるが。 だが、銀時のその望みが叶う事は大凡もう起き得ない目算の方が高かった。 土方には「また同じ事をする」とは言ったものの、その言葉に強制力は何もない。あの自尊心が高く常識的な慎みのある男がそれに諾々と従う理由なぞない。それこそ『逃げる』事なぞ幾らでも叶うのだ。 土方に遭遇する、土方の負った瑕を目の当たりにする、その賭けに銀時は勝った。だから、もう少し叶うものがありはしないかと、『呑み』にと誘いを掛けた。勝算など全く無いと解っていながら。 (…………馬鹿な奴だよ) 銀時にとってそれは些細な意趣返し程度の心算、だった。土方がそれに従う道理などない。 だが、土方がそれを諾と取った以上。あの男はそれを反故にして逃げる事は絶対にしない。だから、銀時は二度目の賭けにも勝った事になる。 勝った。が、不可解さは増した。 初心な生娘でもあるまいし、誘いをかけた時の態度を見ても、土方は銀時の口にした額面通りの『呑み』に行く訳ではない事を察している筈だ。当然、諾と応えれば己がどうなるのかも、解っている筈だ。そこまで頭の回らない男でも無ければ、世間慣れしていない筈もない。 つまり土方は、銀時が以前口にした通りの「また同じ事をする」──「手前ェの身体を好きに抱く」事が履行されると承知で、落ち合う場所を指示して来た、事になる。 開けた缶の口から、アルコールの混じった炭酸が空気に溶けて消えて行く。冷たさを失いつつある缶を手の中で持て余して、銀時は溜息をひとつつくと膝の上に額を埋めた。酒臭い。 誤魔化しようもない。徹底的に嫌悪され憎まれて、それで良い、とまで思って行った筈の行為に『次』がまた起こり得た事に、不可解さ以上の歓喜が宿っている。雄の本能と快楽を求める人間の経験則が『期待』している。これから、惚れた相手をまた抱けるのだと、期待、している。 ただ土方が、銀時に傷を負わせた後ろめたさ──詰まるところの罪悪感で、こんな事を再び赦そうとする、その心理は理解出来ない。銀時は土方に、強姦紛いの酷い事をしたのだ。それこそ頭をテーブルに叩き付けられるぐらいの反撃などチャラになるぐらいの事を。否、或いはもっと無惨な事を強いたのだ。人間性を貶めて辱める様な事を。それなりに信頼されていただろう、心根や性質など放り捨てて。 それこそ、土方が『逃げ』たくなるぐらいの事をした。自覚はある。後悔は無いが。 だ、と言うのに、土方は真っ向からそれにまた、向かい立つ心算で居る。 単なる罪悪感だけで、そんな事が出来るだろうか。幾ら銀時の頭に傷の名残を示す包帯が巻かれていたとして。一度自らを食い散らかした獣を前に、再び自ら餌箱の中に入る様な愚行を冒すだろうか……? 銀時の感情も気持ちも行為も、全てが受け入れ難いと土方は言った。 だから、なのか。 「……………………………本当に、馬鹿な奴」 何度目かの呟きには、アルコールの臭いに混じって確かな嘲りと憤慨とが篭もっていた。 爛れたくるしい恋情が、行き先の見えない闇に疼きを憶えるより先に、感情にぱたりと蓋を落として、そっと顔を起こす。 銀時の佇む薄明かりの輪に、ざりざりと草履の音を引き連れた黒い着物の男が近付いて来る。 こんな静かな夜に足音を態と立てるのは、待ち人に己の訪れを知らせる為の合図の様で。これが──『これ』がそんなに甘い関係性のものだと、僅かたりとも思い違えをしない様に、銀時は出かかった軽口ごと缶ビールの残りを一気に呷って、喉の奥、どろどろとした臓腑へあらゆる情動を押し流した。 宣言した通り、私服の黒い着流しに着替えた男の口元で、煙草の火が心許なげに揺れているのを見上げながら、銀時はそっと立ち上がった。 「行き先、希望決まった?」 「………」 ちら、と一度だけ、足下に無造作に置き去りにされたコンビニの袋と、自販機横のゴミ箱に投げ入れられる缶ビールとを見たが、それについては特に何も言わず、土方はゆっくりとかぶりを振って返して来る。 まあそりゃそうだろうなと思いつつ、銀時は軽く指で繁華街の方角を指さした。所謂、花街やラブホ街のある方だ。 「じゃ、適当に選んで良いよな」 「………」 言外にしないあからさますぎる意図を持った銀時の響きに、土方は目を逸らして、矢張り無言で諾を示して来た。 無言で、怒りでも苛立ちでも、己の感情をなにひとつ表さず、全て食い締めた奥歯の間に擦り潰しながら。なにも言わない。これが土方の意には沿わぬ事なのだと、見ればはっきりと解るのに。 (馬鹿だろ、コイツ) 胸中に浮かんだ嘲りを直ぐさまに笑みに変えた銀時は、土方の背を押して歩くことを促す。強張った顔と握りしめた拳と、蒼白な表情は今きっと、土方の強がりひとつで均衡を保っている。 己を必死で保って鎧って、そこまでするのは。 自ら身を食われる愚行を冒すのは。そうしなければならないのは、罪悪感だけでは、きっと無い。 (……………………同情、されてんのか) そう、理解をして仕舞えば。舌打ちをしかかったその上には、非道く、無惨で、残忍な味がした。 土方は、銀時の叶わず腐爛しきった恋情を受け入れはしなかった。そして、一太刀の慈悲で葬ってもくれなかった。 その癖、未だ浅ましく食い足りないと訴える野良犬に、怪我をさせた申し訳無さも手伝って軽々しく同情して。ちょっと餌を与えるぐらいの心地で、手前ェの身体と矜持を差し出すと? 「………馬鹿じゃねェの」 漸く吐き出した言葉は酷く小さな吐息に紛れて、少し後ろをついて歩く土方の耳には届かない。 俯き加減に前を向き、袖の中で拳を固めている侍の、その憐れでちっぽけな矜持と、愚かしい判断とを、銀時は心底嘲笑ってやりたくて堪らなくなった。 。 ← : → |