警戒の痕 / 3 『好きだ』。 そう幾度も繰り返し口にして、伝える様にと言うよりは与える様に、知己を押さえつけて意の侭に犯した男の望みはきっと、応えて貰いたいと言う事なのではないだろうと──土方はあの時既に確信していた。 頭から滴る血に紛らわせる様に、男は腐爛しきった想いを衝動的で原始的な欲に換えて仕舞っただけだ。そんな獣じみた、何よりも最低で身勝手な行為でしか、男はその情を表現する術を知らなかったのだろう。 酒に酔って、そして血に酔って。抱え続ける事に堪えかねて、壊す事しか選べなかった。 それを理解する事も受け入れてやる事も赦してやる事も出来ない。する心算もない。ただ持て余す。良い様に『使われ』るのだろうかと恐れながらも、男の行動に対して何かのリアクションを起こす事が、土方にはどうしても出来ない。 けばけばしい看板を外に出した、雑居ビルにも似た佇まいの安ホテル。薄ら暗い照明に照らし出された室内は、別段珍しい類のものでもない。精算式のロックの掛かる重たい音。緊急時の避難経路を記した看板。凝った空気に漂う甘い香り。一つきりのダブルベッド。時計の埋め込まれたベッドボードにはゴムやローションなどの入ったトレー。ぐるりと見回せば我知らず溜息がこぼれた。 全く、酷く即物的で解り易い空間だ。 刀を壁に立て掛けると、ぐいと帯を後ろから引っ張られる。己の起こしたものではない挙動に、土方は反射的に足腰に力を入れかけるが、途中で思い直して力を抜いた。ふら、と踏鞴を踏んだその先には無駄に柔らかくスプリングの効いたベッドがあるのだ。怪我なぞすまい。 ぼす、とベッドに腕と腰を落とした土方は、直ぐ様に縁から下がる己の両足の間に身体を割り込ませて来る男の姿を静かな心地で見上げた。諦めに似ているのかも知れない。単に恐怖を感じたくなかっただけ、とも思えたが。何れにせよ、これから起こる事──或いは『される』事──を思えば、自然と平坦な心地にもなる。 そうでもなければ、今にも目の前の男を殴り倒して逃げ出して仕舞いそうだった。 互いに恋に恋でもしていれば、生娘の様に鼓動でも跳ねさせていたのだろうか。男の、欲を孕んだ無表情にさえ、何らかの愛情を感じて安堵していたのだろうか。 だが生憎、ここには──この彼我の空隙には、そんな甘やかで優しげな情なぞ存在しない。お互いにそんなものは望んでもいない。 空しさと悲しさと、恐らくは愚かなのだろう己に向けて、土方は小さく息を吐いた。 この現状に、然しはっきりとした後悔が無いのが、きっと一番愚かな事だ。 「……今日は随分と大人しくね?」 「…抵抗して欲しいのか」 すい、と目を細める男の、近付いて来るてのひらを視線だけで追い掛けながら問うた土方に、男は僅かに眉を寄せた。思う通りの反応が土方から返らない事が不満だったのか、すかさず意趣返しの様に質の悪い笑みを浮かべて寄越す。 「…………いや。面倒くせェから良いわ。強姦ごっこはこの間楽しませて貰ったし」 嘲りの篭もった言い種にあの日の屈辱がまざまざと蘇って、思わずふいと目を逸らした土方の頬を、男の手の甲が擽る様に撫でて行く。そうしてやおら、襟元に辿り着いた手はそこで唐突に乱暴な動きになって着物の袷を割り開いた。 大きく拡げられた胸元に空気の入り込む感触。舐め回す様な男の視線。男なのだから本来上半身なぞ剥いた所で羞恥なぞ然して感じない筈だと言うのに。まるで検分する様に見下ろしてくる男の視線に女の様な羞じを憶えて、土方は奥歯に力を込めてシーツを握りしめた。そうでもしないと、襟元を正して男の視線から自らの身体を隠したい衝動に駆られそうで。そうしたい、衝動と行動自体が己の羞恥心を煽り、酷く居た堪れなくなる。 男は暫し実験動物でも見下ろす風情でそうしていたが、やがて指先が気紛れの様な動きで肌の上にひたりと置かれた。鎖骨と胸の間辺りに乗った五指の感触に、土方は思わず身を強張らせた。首に鎖骨。そんな急所を晒した剣士の本能が自然と危険を訴える。それらの部位で感じる痛みは忘れ難い。 だが、痛みに身構える土方の身に、次に齎されたのは想像していた様な痛覚ではなかった。 「っ」 思わず息を呑む。男の指がするすると、まるで擽り遊びをする様な動きで酷く優しく肌上を滑って行っている。皮膚から少し浮き上がった鎖骨の上を、爪の先で、指の腹で。 竹刀でも、鎖骨なぞを打たれた日には痛みで転げ回る羽目になる。それに似た覚悟をした土方の身に、然し痛みとは真逆の、擽ったく心地よい感覚が与えられている。 「……ん、」 それが、快楽なのだと言う事を自覚した途端、土方の身はぞくりと甘く震えた。子供の時分であれば擽ったいとかこそばゆいとしか表現出来なかっただろう、そんな感覚と感触とは紛れもなく性感に相違ないものだ。 女を抱く時に、戯れ合いの様に探り合って施し合う愛撫の様なそれが──抱き人形の様に無言で横たわる男の我が身へと与えられる、その事実に土方の顔はかっと羞恥に熱くなった。 かと言って己も応えて男の身体に手を伸ばすも出来ない。無論、乱暴に押し返す事も。咄嗟に男の姿を睨み上げれば、男はふっと口の端を持ち上げて、実に厭らしく嗤ってみせた。 指の一本や二本だけの動きが、これ以上何の感覚も得まいと強張る土方の身体を逆に翻弄する。男は、土方がこの行為に酷い羞恥を憶えている事を解っていてそれでも止めようとはしない。 確かめる様な指の腹。擽る様な爪先。優しい温度の掌。探る様な観察眼と、笑みにも似た吐息。ような、ではない。正しくいとおしむ意図である愛撫としか言い様の無い男の所作に、土方は居心地悪く身じろいだ。 きっとそれは男の目には焦れる様に、もっと、とはしたなく強請る安い売女の様に映ったに違いない。嘲る様な笑みを孕んだ吐息が、男の屈み込んだ胸元に落ちる。 「……っ、ヤリてェなら、とっとと、」 言いかけた土方は思わずはっと口を噤む。これではいよいよもって、柔すぎる愛撫に焦れている様ではないか。 とっととやりたい事をやって終わらせろ、と言いたかっただけだ。無論、狼狽した土方に覆い被さった侭でくつくつと喉を鳴らして笑う男にもそんな事は解っているだろうに。寧ろ、解っていて態とそう仕向けられたのだろう想像ぐらい易いのに。 「そんなに我慢出来ねーの?」 「ふざけ、──ッつ、ア、」 男の嘲りの言葉に咄嗟に反論しかかれば、煩いとでも言う様に乳首をがり、と歯の間で転がされた。掌の甘やかな動きとは異なった、不意打ちの様な刺激に土方が身を強張らせれば、噛んだ事を詫びる様に、今度は舌と唇とが同じ事をして来る。 「っン、ぅ」 痛みにじんじんと疼いたそこを労る様な、癒す様な刺激が齎す痛痒感に、土方は息を呑んだ。歯を食い締める。 小さな傷を舐めた時の様な、痛みと唾液の染みる突き刺す様な疼き。それと僅かの安堵感。それに似た感覚は決して快楽では、無い、筈だ、が。 実際に性感であったかは問題ではない。戯れを通り越して、確実に快楽を与えようと言う所作で、女の様に乳首を舐められ吸われ弄ばれる、その屈辱感──或いは倒錯感に、土方は背筋を粟立たせた。逃げ出したくなる様な羞恥と、快楽未満の痛痒感。漏れそうになる息を堪える喉奥の音。 これではまるで。これでは本当に。 「………ふぅん」 そんな土方の葛藤なぞ、その原因たる感覚を齎している男からすれば一目瞭然だったのだろう。男は態とらしいぐらい感心した響きを乗せてそう呟くと、土方の肌の上をゆるゆると辿っていた手をその内股へと滑り込ませた。 「っ!」 咄嗟に閉じかかる膝は、足の間に陣取った男にやんわりと窘められた。自分で見なくても解る、土方の下着の中では既に性器は形を作り始めている。 内股を滑り降りた手が、持ち上がりかけた下着の形をなぞり、そうしてやおら、掌全体でぐっと掴まれる。 「ひ」 張り詰めつつある睾丸をやわやわと弄くられ、土方は羞恥より先立った恐怖に顔を青ざめさせた。急所を掴まれて怖くない人間などいない。 だが、そんな身の縮こまる様な感覚も、続けざまに性器にぐりぐりと刺激を与えられた事で吹き飛んだ。「やめ、」制止する声を無視して、男は掌の大きさで余す事なく土方の性器を撫でて、揉んで、憶え深い直接的に過ぎる快楽を与えて来る。 「ンッ、ん、ん、、」 思わず、口元を押さえた己の手の、指を噛む。腰が揺れそうになる快楽はそんな事をしたって堪えられるものではないのだが、兎に角土方は必死で、そして羞恥で身悶えそうだった。 「……なァ」 そんな土方の耳元に、男が不意に吐息を吹き込む様な距離に顔を近付けて、囁いて来る。 「何でお前がこんな事許してんだろう、って俺あれからずっと考えてたんだけど。んで、どうも同情とか甘さだけじゃ説明つかねェよなって思ってたんだけどさ、」 剣呑な響きのある声で、男はそう言うと、土方の下着をずるりと下ろした。すっかり形作られた性器が狭い下着から解放される感覚に、土方は憤怒も羞恥も何もかもない交ぜになって、腕で顔を覆った。そんな事をしても今更何の意味もないのだと解っていたが、それでもそうせずにいられなかった。 少しでも、男の視界や言葉の暴力から逃げたかったのだ、と。後になって思えばきっとそうなのだろう。 そんな一杯一杯の耳は、頭は。男の言葉なぞ──土方をこれ以上辱めて嘲る言葉なぞ、その一切を聞くその前から拒絶しようとしていた。下卑た言葉も、辱めの言葉も、己の決めた事を後悔させる様な言葉も。 だが、そんな事は叶わぬのは解りきっていたから、土方は耳を塞ぐ代わりに覆った腕の下で目を固く、固く瞑った。 どうしてか、など。自分が一番知りたかった。知りたかったが、聞きたくは無かった。知らされたくは無かった。きっと、解りたくも無かった。 男の事を好ましく思っていた故なのかも知れない。大した事などないと己に言い聞かせる為だったのかも知れない。拒絶が完全なる隔絶になるのだと何処かで理解していたからかも知れない。 馬鹿な、事だ。 馬鹿な、事だ──、が。 男の、爛れて腐爛した強すぎる情を、理解は出来ずとも、得たいと、思っていたのかも、知れない。 惜しむだけの情の強さを、男の繰り返した『好きだ』と言うその言葉から感じて、理解は出来ずとも、欲したいと、思って仕舞ったのかも、知れない。 全く、馬鹿な事でしかない。が。 「…………お前さ、」 「!」 溜息にも似た男の声は、嘲笑の様で諦めの様でもあった。同時に、男の手が乱暴に、土方が自らの顔を覆った腕を除ける。 思わず開いた目蓋の向こう、まだ少し歪んだ視界の中で、男が笑みを湛えた口元を歪めるのが見えた。 「ひょっとしなくても、ハマっちゃった訳?」 何を、と問うまでもなく。 何が、と問う暇もなく。 は、と男が嘲笑を浮かべた。上機嫌な獣の様に喉を鳴らしながら、羞恥と憤怒と屈辱とに固まった土方の性器を掴む。 「なっ、にが、」 びく、と手の中で脈を打つそれの反応を応えと取る事にしたのか。否定と拒絶とを反射的に口にしかかる土方の鼻先に顔を近づけて、男は三日月型に口を歪めた。嗤う。 「野郎に抱かれ……いや、ケツを掘られんの、結構気に入っちまったんじゃねぇのって、言ってんだよ」 「──、」 目の前が白くなる様な怒りと、誤ったのだろう己の選択を知った事に対する怒りとで、土方は茫然と──ただ、空虚な悲しさを憶えた。 それは悲痛さや、痛みではなく。ただの茫漠たる孔にも似た傷痕。ぽかりと穿たれたそこには堪え難い様な痛苦なぞ無く、代わりにただの欠乏感が在る。 恐らくそれは、何かを違えて何かを誤って何かを見落としたから起こった、決定的な隔絶。 理解の無い理解が虚しい。男の爛れて捩れた感情は大凡目の前にある『恋情』の対象に対して、執着的で、猜疑的で。酷く傲慢であった。 はは、と男の浮かべる乾いた嘲りが土方の、惑いに浸されて行く感情を猶も乱暴に、そして無情に引き千切って行く。 「そうだよな。そうでもなきゃ、プライドや生意気さだけは一丁前のてめぇが、大嫌いな男に抱かれにのこのこ出て来る訳無ェか」 何か得心がいったのか、男はひとつ満足そうに──それとも投げ遣りにか──頷くと。茫然と固まっていた土方の身体をぐるりと反転させ、俯せたその膝裏に足を乗せた。背にのし掛かられると言う過日の一見を想起させるその体勢に、漸く我に返った土方は肘を突っ張ってそこから逃れようと、声を上げる。 「っちが、てめぇ、何言っ──」 否定の声は途中で「ひ」と息を呑んだ音に混じって消えた。土方の背にのし掛かっている男の指が、括約筋の抵抗をまるで無視して、指を後孔へとねじ込んだのだ。 「あ、あぁ、あ、」 吐き気とそれ以上の嫌悪感や忌避感が、仰け反った土方の喉を無意味に震わせる。突っ張った肘ががくりと崩れて、身動き出来ない恐怖と体内を蹂躙されている怖気に背筋が冷えた。 思い起こす痛みや恐怖に奥歯が音を立てるのが耳障りで、目の前にあった枕を必死で噛んで顔をシーツに深く埋めれば、くぐもった呻き声がまるで嗚咽の様に響く。 厭だ、とか。止めろ、とか。そんな直接的な拒絶は出なかった。出せなかった。 まるで全てが言われた通りだった訳ではないが、同じ様なものだったからだ。男に触れられる快楽を得たい、でも。男の抱く感情を得たい、でも。諾々と従い、『こう』なる事を解っていてここまで来たのは、この現状を招く事を受け入れたと言う一点に於いては、違えようもなく事実だった、からだ。 己が愚かしかったのか。己の選択が誤りだったのか。それとも、男の抱いた情が歪んでいたからなのか。……或いはその全てだったのかも知れない。 男の手つきは、行動は、俯せられた侭碌な抵抗も止めた土方の全身を、あの時と同じ様に己の好きな様にし始める。ただ一つ違ったのは、そこには感情から来る必死さの一切はもう無く、愉しむ様に、暴き立てる様な蹂躙であった事だ。 土方が反応を示す性感帯や或いは痛覚、嫌悪感のひとつひとつを、男は順繰りに暴いては弄ぶ。そこには『好きだ』と口にし続けた『あの男』の純然たる恋情らしきものは、無い。 欲情は確かにあったのだろうと、身を貫かれる熱と力に確かにそう思わされたが、逆に言えばそれしか無かった。口々に土方の羞恥や矜持を苛む様な事ばかりを投げかけ続ける、そこには凝って形を変えて仕舞った情と、愉悦しか篭もってはいない。 欲しかったものは、見たかったものは、仮託したかったものは、果たして何と言う名をつけるべき情であったのか。解らない侭、ただ酷く傷ついた様な心地だけがしていて、土方は顔を埋めた枕に己の感情の正体と涙とを吸わせて仕舞う事にした。 それでも。男に負わせて仕舞ったのだろう、『傷』の報いは、きっとこんなものでは釣り合わない。 腐爛し歪みきった、男の悲しい強さの情を、受け止めもころしもしてやれなかった。 理解出来るだけの勁さも覚悟も無かった癖に、知りたいと、欲したいと望んで仕舞った。 それは、男へ抱いていた想いを棄てるも、避けられるも、憎むも、なにひとつも選べなかった己に対する、代償に相違ないのだと、土方は千切れかかる意識の端でそう思った。 誤りの。過ちの。それを理解しながらも正しさを取捨しなかった、互いに愚かな、愚かな恋だった。 。 ← : → |