警戒の痕 / 4 「じゃ、またあの店で『会った』ら」 そう、口元を歪めた男が最後に耳元に囁いた、その約束(ことば)は、あれからずっと土方の事を縛っていた。 詰まる所、またその店に土方が足を運べば──そこにあの男が居れば、それは抱かれる行為を(或いは暴力を)受け入れに行く、と言う事である。 無言の符丁。形にもならない約束。男が自ら能動的に誘うでもなく、土方の方から来る様にと仕向けただけのそれは、幾らでも反故にする事が出来る筈だった。 何日、何時に、何処で。 そんな甘い口約束でも何でもない。行けば。居れば。必然的にそうなる。そんなつまらない取り決め未満の口約束。 土方の方には従わねばならない義務はない。役割もない。望んでもいない。 だが、足をその店に向ければ、男は必ず、示し合わせた様にカウンターの席に居て、隣を空けて『待って』いる。 ただ、呑みたいだけ。ただ、その店ならば土方のマヨ癖にも理解があるから。隣の男と喧嘩になっても「いつもの事だ」と笑ってくれるから。 ──そんな言い訳を引き連れても、払拭できない後ろめたさと、罪悪感にも似た苦味。 どうして、非番の度に、仕事の空く偶の日に──決して多くはないその度に、件の店へと足を運んで仕舞うのか。どうして、その日には必ず男が得た様に其処で待っているのか。 どちらにも説明が、納得の出来るだけの理由が付けられない。逃げるのが癪だなどと言う子供じみた感情ではなく、恐らくはただの愚かしいだけの選択の結果として。 きっと、それでも──抱かれながらも、嫌悪を憶えながらも、空しさを与えながらも。男との接点である逢瀬(などと言う甘い関係では断じてないが)を、土方は棄てる事が出来なかったのだ。 恐らく。土方が件の店に足を運ばなくなったとしても、男は別に催促などしないだろう。町で会っても、その事を嫌味めいた調子で投げたりもしないだろう。 ただ、土方が飽きたのだと判断して──そうして男は自らの恋情を苦しい記憶や消えない執着に変えるのだ。 男は、己の抱いた恋情は疾うに叶わないと知っている。今に至るまでだらだらと継続している、この感情の伴わない様なセックスをするだけの関係は、断じて恋愛事では無い。執着、或いは単なる性処理か、叶わなかった恋情の残滓と言うだけの事。 その証明の様に、男はあれから一度も『好きだ』とは口にしない。嘲りと欲情とをない交ぜにした表情で、土方の事を見下ろして、ただ蹂躙と執着を愉しむだけであった。 結局、どちらが間違った、とは言い切れないのだろう。 男の恋情は歪んで爛れて、相手の事なぞ考えもしない暴力と犯罪行為を犯すに至って。 対する土方は、それを受け入れる覚悟なぞ無い癖に、愚かしい恋しさだけを薄らと知った。 互いの心に爪を立てて傷痕ばかりを残して、最も深く最も非道い痕からは、双方気付かぬフリをして目だけを逸らす。 それは正しき関係だとは到底言えたものではない。恋人同士ではないどころか、セックスフレンドとも言えない。 一度擦れ違って仕舞った腕は、もう互いの手には届かないのだと、土方は痛い程に理解をしていた。そしてそれはきっと、男の方も同じなのだろうとも確信していた。 * そっと筆を置いて、土方は凝り固まった右肩をぐるりと回した。ぱきぱきと良い音が首から背中の辺りで鳴る。 連日、机仕事が嵩んでおり、少々根を詰めて居たのだ。見廻りに出る暇も碌に無いどころか、会議や風呂厠以外で部屋に缶詰状態でいた。実に滅多にない修羅場である。 その様子を見て呆れたらしい沖田には「その侭石像になっちまいなせェ」とバズーカを向けられた。石像になる前に墓石になるわ、と、辛うじて発射前に止めて事なきを得たが。 それもこれも、攘夷浪士と繋がりがあると噂されるとある企業グループの調査の為の地道な作業、その一環である。 資金の横流しを疑って捜査を行えば、職員の一人が横領罪で捕まった。見事な蜥蜴の尻尾切りを逆に怪しんだが、どう突けどそれ以上の黒い部分が何も出て来ない。 得た確信は、件の企業が攘夷浪士に手を貸している、どころではなかった。企業そのものが攘夷思想を抱く存在であったのだと言う推定事実。然し証拠はない。企業の大きさもあって如何な真選組でも何らかの理由が無ければ手は出せない。討ち入りの計画を立てていただけで弁護団が屯所の門を叩いた時には流石に肝が冷えたものだ。 そんな経緯もあり、松平は相手が大きすぎるから機を伺えと厳しく命じて来て、賄賂を受け取って黙り込み真選組に圧力を掛けて来る幕臣も多数。受けて、やむなく土方も、いつかは尻尾を出すだろうと長期戦を覚悟したのだが、そこに来て内部調査に入り込んでいた監察からの報告が問題だった。 それは近々噂される他の企業の買収であった。その企業が、危険指定されている薬剤や細菌も取り扱う薬品会社だったのである。 万が一にでもその技術が攘夷浪士の──幕府に仇なそうと言う思想を抱く者の手に渡る事となったら、事はBCテロの危機を孕んだ危険なものとなる。 今件の企業に乗り込んだ所で証拠なぞはあるまい。だが、事が運んでからでは遅すぎる。武力を以て一方的に企業の首根を押さえた所で、証拠が無い以上は放免となるだろう。そして自由になった企業は、幕臣とのパイプを利用して真選組に更なる圧力を掛ける事は必至。下手を打てばお取り潰しの危機さえある。 一商家と攘夷浪士との繋がりの様な簡単なものではない。こんな事態は真選組発足以降初めての事であった為、土方は監察の人間を総動員して慎重に事に当たらざるを得なかったのだ。賄賂を受け取っていると思しき幕臣らやそれに敵対する者に探りを入れて何とか『裏切り』を打診する事で足下を固める。法的に件の企業に付け入る隙が本当に無いかと調査する。 それらの作戦行動に加え、連日の通常業務。これらが、土方が机に貼り付き続ける羽目となった主な原因である。時期も時期で、幕府の予算会議と重なっていたのも災いした。 ともあれ、連日の激務の果てに作戦は大まかには固まった。数日中には偽造の『証拠』を元に捜査が行われ、それを切っ掛けに件の企業と繋がりのあった攘夷浪士グループが偽情報に因って行動を起こす手筈となっている。要する所、連中の繋がりから仲間割れを起こさせる訳だ。単純だが効果的な手である。 それだけに。上手く行かなければ首が飛ぶぐらいの覚悟はしなければならないだろう。 そんな、危ぶむ気持ちは多少あれど、それ以上に自信もあった。だから、土方の表情にも、真選組内の様子にも、大掛かりな作戦行動の前だと言うのに危機感や緊張は殆ど見ては取れない。 少しでも浮き足立ったり奇妙さが見えれば、敵は直ぐにそれに気付く可能性もあった為、日頃とまるで変化のない事は土方にとっても有り難い話である。それが沖田のバズーカ攻撃と言う、迷惑極まりない日常行事であったとしても。 溜息と同時にくわえた煙草から煙を吐き出して、随分と短くなっていた煙草を灰の山になった灰皿で揉み消す。 作戦の決行日時は、こう言ったケースの場合は相手(敵)の動き次第で急に決まる事が多い。仕事のひとまず片付いた今の内に休むのが得策だろう。思って携帯電話を開けば、時刻は既に日付を跨いだ所だった。早く着替えて風呂を済ませて寝よう、と思うのだが、疲労に浸された身体の行動は酷くのろのろと緩慢だ。 そんな中でも気持ちだけが急いて、刀架の刀を思わず見遣る。 決行の時には血が流れるだろう。土方や沖田と言った武力行使部隊は、企業の本社ではなく少し郊外にある工場の方を押さえる手筈になっている。工場と言うのは名ばかりで、浪士の訓練施設になっているとか、武器や薬物の製造を行っているとも噂されているそこは、企業側にとっての生命線でもある。確実に押さえて、決定的な証拠──誰の目から見ても明らかな幕府への反逆行為と取れる成果を──探し出さなければならない。 言葉通りの討ち入りとなる。もしも、土方にとって、真選組にとって必要な『証拠』が出なければ、世間的に見て『そうだった』偽装さえも拵えなければならない。 ……要するに『処分』──死人に口なし、と言った奴である。松平は、揉み消しの面倒さに溜息と小言を吐き散らしながら、飽く迄最終手段にしろ、とは言っていた。が。 何が正しいのか、どちらが正しいのか、何が為にそれが許されるのか。それを斟酌するのは土方ではなく、幕府の定めた法でしかない。 それでも、血の流れるかも知れない予感にも心なぞ奮い立たなくなった。使命感に胸を張る事も、嘘をつき慣れた口が嘆きらしきものを唱える事も、最早無くなった。 そう言う意味では、あの非道い男と己は同類でしかないのだと、思う。淡々と他者を組み敷くも弑虐するも叶う、愉悦と傲慢を知る者。また、それを理解して扱う事の出来る強さと権能と智慧を持つ者として。 使命だの、幕府の為だのと、崇高な理念を抱いた事なぞ無い。己のただ信ずる侭に、抱いた意志の侭に、全てを噤んで刃だけを研ぎ澄ませて来た。 その様は、国の行く先を真剣に憂う攘夷浪士や、護るものをはっきりと理解した智者にとっては、きっと非道く愚かな様なのだろうと思う。 「……………馬鹿な、話だな」 自嘲も空論も繰り言も、なにもかもが誤って、それでもそこから悪足掻きの様に手を伸ばす。正しさなどない、理解のない世界で、正しくなどない己を、それでも正しいのだと思う為に。 己の心も信念も疑う心算などない。ただ、そのうちの幾つかは過ちに程近いものであると、識っている。識っているが、違えない。誰かの責と詰る心算もない。何かの原因と憤る心算もない。是正しなければならないと、心を翻すでもない。 識って、苦しくとも、抱えて進むだけだ。正義も血も偽も己の複雑に絡んだ感情でさえも。全ては棄てる後悔ではなく、連れていかなければならない誤りとその責任だ。 築いた屍の数が正しさであるこの世界の法なぞ、端から信じるに値しない。 誤った事など、きっと数え切れないだけ在る。解らなかった事など、きっと飽く程に見過ごして来ている。 だれかになにかの傷痕を残した事など、きっと。数え切れないだけ、在る。 答えも埒もない自問は、遠くに置かれた侭で近付いて来ようとはしてくれない眠気をいよいよ本格的に諦めて蹴り飛ばした様だ。この際夜を徹して仕事の残りでも片付けようかと、土方が再び筆を手に取った丁度その時、机の上に置いてあった携帯電話が着信を知らせて来た。 発信者の番号は、作戦決行時用に定めた回線のもの。 「──」 一つ深呼吸をすると土方は、ワンコールで着信の切れた携帯電話を掴み、屯所内の通信室に招集の連絡を入れた。予めの準備もあって、それからの真選組の行動は早い。 ばたばたと慌ただしい気配の行き来を屯所全体に感じながら、土方は上着を手に取り、刀架で出番をじっと待っていた刀を佩いた。スカーフを巻いて廊下に出れば、まるでそのタイミングを計っていたかの様に、沖田の姿がそこにある。 「準備は」 もう就業時間は過ぎているし夜番でも無かった筈だが、沖田は土方と同じ様に隊服の侭でいた様だ。寛いでいたかどうかは知らないが、見た目に弛んだ所が無い事を上から下まで一瞥しながら短くそう問えば、愚問だと言わんばかりに鼻を鳴らされた。 既に駐車場には警察車輌がエンジンを噴かせて待機している。正門の前には一様に緊張の面持ちを浮かべた隊士らがずらりと整列し、作戦の開始をじっと待ち侘びていた。 彼らの視線と信念の一心に集まる、近藤が短めの訓辞を述べるその傍らで、土方はいつもより熱心にそれに耳を傾ける事で、ひととき余所に流れそうになる思考を繋ぎ止めた。公と私を切り分ける事にはもう慣れている。 己とその手、それの成す事が正しきだと言う傲慢は抱かない。清も濁も知ってそれでも選んだ信念を恥じる事も悔いる事もしない。ただ、責任と覚悟だけを忘れる事無く抱いて。 ……せめて、これだけは違えない様に。 。 ← : → |