警戒の痕 / 5



 飲み屋に土方が姿を見せなくなって、一ヶ月近くが経つ。
 銀時にとっては多忙と言うのは全く無縁の言葉だが、真選組副長の激務をまるで知らない訳ではないから、土方がその『多忙』と言う言葉と寄り添う様に日々を過ごしているのだろうと言う想像は易い。
 特にニュースが騒がしくないのを見れば、きっと今ではなく、近々先に大きな捕り物でもあるのだろう。そのぐらいの事は想像程度で簡単に知れる。
 銀時は、土方が思う以上に彼の事をずっと前から『観察』していた。もっと真っ当に聞こえる言い方をすれば、熱視線を向けていた、と言うべきだろうか。土方の上司のゴリラの様なストーカーじみた事はしていないだろうとは自負していたが、まあ時にそれに近い事はしていたのだ。
 姿を目で追う様になって、好きだと自覚して、目が離せなくなって行けばやがて、見えない所も気になる様になった。今までは目にした事もない様な新聞やニュースも具に観て、真選組の動向を伺い土方の様子を探り、良く姿を見かける飲み屋や飯屋を見つければそこに足繁く通った。
 どうして好きなのだろうとか、いつから好きなのだろうとか、何が好きなのだろうとか。そんな事を改めて考え込める程に冷静では無かったし、望める程に贅沢でもなかった。ただ、見つけた接点を追って近付けば近付くだけ、この恋情はきっとどうやった所で叶うものではないのだろうと言う確信ばかりが強まるのを感じた。どんな時に捕まえても、どんな風に構っても、ほんの一時の充足を得るだけ。どう想像してみても、どう都合良く考えてみても、土方は銀時と同じ感情でこちらなど向いてはくれない。
 頭を叩きつけられる程に抵抗されても、全力で拒絶されても、それでも、どうしても、諦める気なぞ全く湧いては来ない。一度届きかかった手を引っ込める事が銀時には出来なかったのだ。
 なにもかもが、棄て難くて。爛れた恋も誤った感情も大凡人間として正しいとは思えない事をした己も。なにも、かもが。棄てられない。
 棄てられない癖に、壊して仕舞いたくて。誤った筈だと言うのに、当の土方がそれを肯定したから。拒絶を隠さないで、ただ赦しなどしたから。気付けばこれは誤りではなく過ちでもなく、ただの過程になった。そして、銀時にもその結果を喜んで受け入れた節がある。
 馬鹿な奴だとは、今でも思う。どうして今からでも、この強姦紛いの事をした挙げ句に辱めるに似た行為を繰り返す愚かな男を糾弾しないのか。拒絶しないのか。
 ……か、と言って、土方に本格的に拒絶されたい訳では当然無い。歪でも何かの誤りであっても、一度手に入ったも同然のものを今更失いたくなぞない。それが中身などない虚しさを伴うだけの関係と解っていても。
 土方が、漸く思い直して銀時の前から姿を消した、と言う可能性も無い訳ではない、だろう。男に抱かれるなどと言う行為に、やっと我に返ったのだとしても。或いは他の、銀時の様な素性の碌に知れぬ不審人物ではなく、もっとリスクの低い『遊び相手』を見つけたのだと、しても。
 壊す心算で手を出した癖、一度でも赦されれば全てを手に入れたくなるなど、随分の都合の良い事だ、と思う。
 好きだから、だ。大義名分の様にそんな言葉で片付ける。好意と言う感情は本当はもっと真っ当で無ければいけないものだとも、気付いていながら。
 きっとこの感情も関係も土方の愚かしい判断も、歪なのだろう。
 だが、それでも──その歪なかたちを崩す事が出来ない。
 こんな事は間違っている。そんな上っ面だけの正義感や価値判断だけでは、止まれない感情を知って仕舞っている。
 恋でも執着でも衝動でも、或いはもっと原始的な名前のものでも構わない。確かなのは、それを手放す心算が、どんなに愚かだと自嘲しながらもまるで湧いてなど来ない事だけ。
 土方が、赦したから悪いのか。銀時の事を糾弾せずに、同情や罪悪感の様なものを以て相対して来たから、悪いのか。
 銀時は、土方の『馬鹿』な心の運びと選択とを、同情めいたものに由来している動機だろうと確信していた。鬼だなんだと言われながらも、あの男は己の裡に居る人間に対しては面倒見が良く甘い。埒外の者に対しては淡泊で酷薄な態度を見せるくせ、その心根は滅法に『優しい』。
 そんな土方だ。多分に今は後に退けなくなっているだけなのだろう。あれから幾度か落ち合って幾度か身体を重ねるに至ったが、何れも明確な『次』の約束も打診もしなかった。殆ど『偶然』で続くだけの関係。
 だから銀時も特に日取りを尋ねるでも無い侭にしておいた。きっと何かの機会があれば、土方はこの歪な関係から抜け出す事を望むだろうから。
 例えば多忙が重なって暫く顔を突き合わせる事も無くなれば、その間に、後に退けなくなる程に意地を張り続けていた己に対して冷静な判断も出来る様になるだろう。
 そうなれば、この不自然でしかない歪な関係もお終い。否、元より始まるでもなかった筈のものだ。銀時は加害者で、土方は被害者だった。被害者が愚かな加害者に同情や共感めいたものを寄せ、そうする事で己の被害意識を、瑕を大したものではないと思い込もうとする。その心理自体はよくある話だ。警察である土方が易々そんな状態に陥るとは思い難いが、己の自尊心を保つ為の無意識の反応であった可能性と言う線は充分に有り得る。
 そんな『同情』の作り上げた歪な関係性など、矢張りどうした所で間違っているとは、それに甘んじている銀時でも思うのだ。だが、今更自分から手放す事が出来る程に、土方に抱いた恋情は容易いものではない。
 卑怯でも、愚かでも、歪でも、甘んじれるのであれば乗じてやろうと醜く思うのは止められない。いっそ倒錯的な程に執着して、食い散らかしても足りない程に餓えはいつまで経っても止まない。
 拒絶も、隔絶も。もう目が醒めたから終わりだと言い残した土方が去るのも、きっと黙ってなど見送れないだろう。酷い瑕を負いながら、負わせながらも追い縋って、今度こそ互いが誤らないぐらいに徹底的に壊して仕舞う迄は、銀時の感情は──恋情は、終われない。終われなくなって仕舞った。
 だから、思うのだ。早く我に返って、下手な同情なぞ棄てて、ここから立ち去る素振りを見せろ、と。
 そうしたら心おきなく、土方がもう二度とこんな馬鹿な男に同情など出来ないぐらいに、手酷く優しく壊して手に入れるのに。
 逃げて、徹底的に嫌悪と憎悪を向けて、そうしてくれれば癒えない痕を得られるのに。
 天然パーマの踊る髪の間に、もう白い包帯はない。毛も伸びてきて、皮膚の上には裂傷なぞもう跡形も残ってはいない。
 なにひとつ壊すにも足りなかった、まるで代償の証の様な傷は、銀時の身体にもうその名残すら残してはいない。
 では、逆にそれは土方の裡にどの様な痕を刻んだのだろうか。
 土方が罪悪感と同情との間に諦めを得た時に、男に抱かれる事にも馴染んだのではないかと──銀時は揶揄する様にそう口にはしたが、実際言う程に『そう』だとは思っていない。
 重ね重ね──土方と言う男は自尊心が高く、社会や組織の規範には厳しい為にか人並み以上の羞恥心を持っている。古くさいとでも言うのか、それとも慎み深いと言うべきだろうか。下ネタには応じるものの露骨な嫌悪感を隠さないし、他者の前で性的な気配を漂わせる様な事や言動を恥と思っている節さえある。
 そこに追加して、真面目で固くて真っ当な嘘以外の嘘が吐けない。そんな男が、仮に銀時の揶揄した通りの性的嗜好に目覚めて仕舞ったとして──それを自ら晒す様な真似が出来るだろうか。……否、出来ないだろう。それこそ、諾々と銀時に従う様な真似なぞ出来まい。寧ろ逆にとっとと逃げ出して、己の裡に生まれた嗜好を必死で隠すか消すかでもしている所だ。
 だから、あれは土方の──抵抗もせず大人しく寝台に組み敷かれた男への、その本心を掴み倦ねた故の純粋な疑問だった。単なる銀時への同情だけで、罪悪感だけで、自らの矜持を擲てるのだろうかと。そこまで愚かで甘い男だったのだろうかと。
 男に抱かれる事にハマったのではないか。そんな銀時の揶揄に対して、土方は純然たる怒りを顕わにしてみせた。相変わらず抵抗らしいものはしなかったが、顔色を憤慨に白く染め上げていた。
 それもあって銀時はいよいよ土方が何を考えてこんな愚かな真似に付き合っているのか──益々解らなくなったのだが。
 一度目は優しく壊す為に。二度目は嘲って辱める為に。三度目からはただ好きな様にして来た。そんな異常な状態の中で、土方の自衛の本能は己のダメージを減らす為に『そう』在ろうとしたのかも知れない。だから心も体も無抵抗でいた……?
 (……やめよう。意味も無ェわこんな想像)
 とん、とカウンターにグラスを置いて、銀時はのろのろと腰を持ち上げた。ちらりとこちらに視線を向けて来る店主に見える様に、安酒とツマミの支払いだけを置いて、ひらりと手を振って店を出る。
 時刻は未だ夕飯時を大きく回った辺り。飲むにも帰るにもいつもより大分早い。町もまだ明るく、街路には飲み屋に立ち寄った仕事帰りの人間たちが家路に着く、緩やかな人波が流れている。
 ほんの僅かの酩酊に脳を揺らされながら、銀時は人気の少ない方角──真選組の屯所などのある方に視線を遣った。あの時の様に偶然土方が歩いて来ると思った訳ではない。一ヶ月もの間仕事に専心しているのだろう真選組の副長が、今更また何事も無かった様に銀時に組み敷かれ抱かれる為に向かって来ると思った訳でもない。
 幾ら土方の本心を知ろうと、埒もない想像を巡らせた所で。一ヶ月姿を見せない理由を推察した所で。そんなものは無意味だ。既に拒絶を受けた身には、明確な答えしか与えられていない。
 同情であれど、罪悪感から赦した事であれど。そこに土方の心がなにも無い事に、変わりはないのだ。
 壊されることもなく。憎まれることもなく。ただ『何も無かった』。そう消滅する事は、一番堪え難いのに。瑕も痕も残さずに残せずに、ただ違えた道の様に過ぎて終わる。それを最も恐れていたのに。
 どうすれば忘れられるのか。どうすれば消せるのか。どうしたらまた触れる事が叶うのか。どうしたら好きになって貰えるのか。どんなことをすれば受け入れて貰えるのか。
 (……………………いっそ、何処にも行かねェ様に、)
 それは終わりだと解っているが。
 無理矢理捕まえて、写真の一つでも撮って、脅しでもしてみようか。
 そうすれば、土方は銀時のものにはならないが、他の誰にものになる事も無い。誰のものでもない事も出来ない。
 最低極まりない行為。否、もう既にそれに準じた事はしてきているのだから、今更だろうか。
 後ろ暗い感情を影に引き連れて、銀時は街灯の光の輪の外で足を止めた。どこかの民家から、こんな時間だと言うのにニュースを伝えるTVだかラジオだかの音声が聞こえてくる。
 餓えて堪らない理由など──満たされたいのに満たされそうもないから、それ以外に何があると言う。
 

 *
 

 ゆっくりと息を吸って、吐き出せば、大層埃っぽい空気が肺の中に満ちた。喉がガシガシとして痛く、思わず咳き込む。
 「その侭肺病で死ね土方」
 「落ちて来た屋根に潰されててめーが先に死ね」
 互いに投げ合う言葉はいつもより遠くて下らない。土方がそう思うのとほぼ同時に、瓦礫の壁の向こうの沖田が嘆息する音。あからさまなその態度は、取り敢えず止めにしましょうやとでも言う意味だろうか。疲労感の酷い土方はそう受け取る事にして、それ以上の口を噤んだ。
 溜息を──今度は少し慎重に吐き出して、辺りを見回す。
 地面の下。建物や機械の残骸の瓦礫。それはこれ以上説明しようのないぐらい見事なぐらいの崩落であった。
 土方が沖田を筆頭とする一番隊ほか数隊を隊長と共に率いて、警察用の装甲車輌──人員を運ぶ為のバスの様なものだ──に乗って現場に到着したのは一時間ほど前の事だ。そして近藤や腕利きの斎藤らを交えた本隊は都市部にある件の企業の本社へと『捜査令状』を持って乗り込んだ。
 それとほぼ同時に、真選組の流した誤情報に因って、企業と協力態勢にあった攘夷浪士らは動き、郊外にある工場へと向かった。捜査の手が回る前に、工場内に隠された攘夷思想の証拠、武器や兵器の密売とそのルートの仔細に記されたデータを速やかに確保する為──或いは奪い取る為──である。
 工場は真選組の人間が一晩足らずでその全てを捜索できる様な規模の広さではない。事前に監察(スパイ)を送り込んだが、めぼしい成果はまるで挙げられていない。工場の建築前の青写真はなんとか入手出来たが、それが何処まで正確かも知れない。
 そんな広い土地の中、のんびりとした証拠探しなどをしていたら、捜査令状の違法さとその捏造も露見し、捜査は違法行為となり忽ちに中断──どころか法的に訴えられ、真選組の立場が危機に晒される事は避けられない。
 それ故の罠である。本当に追い詰められると逸り証拠の始末に駆けつけた連中に、自ら工場に隠匿された違法性のある『証拠』へと案内させるのだ。証拠さえ掴んで仕舞えば、後は本丸を護るものは何もない。捜査の違法性が些少あれど、今の幕府の法では攘夷思想と言う危険への対処の方が何よりも優先される。簡単に言えば『結果が良ければ全て良し』なのである。
 無論失敗した時のリスクも高いのだが。故の、睡眠不足を背負った地味な下準備の成果もあり、土方らは工場付近で予め待ち伏せ。証拠を始末に慌てて駆けつけた連中が『お宝』の元に辿り着くのをのんびりと追い掛けるだけであった。
 抵抗は予想していなかった訳ではない。証拠が見つからなければ、皆殺しの後に証拠を捏造する準備も出来ていた。血の流れる事は土方の半ば想定内であった。
 ……の、だが。
 (味方に血の雨降らされるたァ……流石に考えて無かったな)
 思わず項垂れた視線の先に転がっている瓦礫を靴底で蹴り飛ばす。二次災害の危険性を考慮し煙草の火点けが出来ないのが実に腹立たしい。
 それもこれも、瓦礫の壁の向こうで恐らくは土方と同じ様に項垂れているだろう沖田が悪い、と言えば悪い。厳密にはそれを止められなかった土方にも責任はあるのだが。
 地下に密やかに作られていた工場内の火器製造ライン。そこに狙い通り入り込んだ攘夷浪士たちを追って真選組も即座に突入した。先陣を切る沖田の手にいつも通りのバズーカがあった事には土方も気付いていたのだが、まさかそれを火器を背にした浪士たちにブチかますとは流石に思わなかった。
 元より警告のつもりだったのだろう弾は、性能の良い電子誘導に従って、辺りの火器を拾って抵抗しようとした浪士たちの僅か数十糎横を通り抜けて──奥にあった小さな倉庫の様なものの付近に着弾した。
 急に発砲する馬鹿がいるか、と土方は沖田を怒鳴りつけたのだが、その唐突で躊躇いゼロの発砲に怖じ気づいた浪士たちはあっさりと投降し。「まあ結果が良ければ良いでしょ」とあっさり言って除ける沖田から苛々と視線を逸らす様に、着弾箇所に向いた土方の目が捉えたのは。
 「……総員退避」
 火気厳禁、の文字と、火の絵に×マークの乗せられた看板。脳がその意味を理解するより先にぽろりと漏れた命令に「え?」と振り返った部下達に向け、土方は大層引きつった表情で声を張り上げた。
 「総員退避しろォォッ!」
 鬼の副長の絶叫にも似た声に、「何?なんて?」などと問い返す馬鹿はいない。隊士らは捕縛した浪士達を引き摺って直ぐ様に出口の階段に向けて走り出し、きょとんとしている沖田の背を殴る勢いで押しながら土方も駈け、咄嗟に巨大なダイナモの様な機械の陰に潜り込んだ、その直後に背後で爆発が起こった。
 轟音と瓦礫の降り注ぐ中で土方が考えていたのは、工場と言う比較的に遮蔽物の無い空間を呪う事と、逆に柱の類が頑丈且つ少ないのに安堵する事。火気厳禁の印もでかでかと書かれた小さな倉庫が、総員が退避するまでの間保ってくれた事であった。
 無論どれにも感謝なぞする気にはなれなかったが。
 ともあれ。一時の爆音と爆風が去った後には、柱や機械に因って作られた小さな幾つかの空間の一つに取り残されたらしい己と、姿は確認出来ないが直ぐ近くで同じ様な状況にあるらしい沖田と。出口までの道が完全な瓦礫や土砂に塞がれたらしい現状が横たわっていた。
 曲がりなりにも爆発物を扱っていたからだろう、地下と言う場所であったのが災いした。鉄板で固められた外壁は到底掘削も破壊も易々とは行かないし、当然窓の類は無い。空調ダクトは人を通せる構造ではなく、また全て天井に付いていた。
 幸いか天井を支える柱は頑丈な鉄筋製だったらしく、幾本か細いものは倒壊してはいたが、天井の完全な崩落=生き埋めと言う最悪の事態だけは何とか回避してくれていた。
 ここまで下りて来た階段への道は崩落で完全に塞がっていたが、その向こうでは、脱出に成功した隊士らが救助の手筈を整えていると、鉄板を叩くモールス信号を用いて伝えて来ていた。なお、携帯電話は地下だったのもあり当然の如くに不通である。
 土方の取り残された空間は、機械のメンテナンスを行う辺りだったらしい。机や機械と言った機材と、生産ラインとを隔てる壁とが周囲二米程度の狭い範囲に散乱し、落ちて来たキャットウォークがぐにゃりと蛇の様に折れ曲がり、ただでさえ低い天井と狭い空間とをを更に低く狭くしている。奇蹟の様なエアーポケットだ。
 沖田はその瓦礫の向こうにいるらしい。乗り越えるも潜り抜けるも難しそうなので互いに安否を確認した後は数言の軽口を投げ合ったのみだ。
 緊急性を要して合流しなければならない必要が取り敢えず無さそうなのと、迂闊に瓦礫を退けた事で天井が傾いだり崩落して来るなどと言う事態も招きかねないので、何もせず大人しく二人とも救助待ちと言う結論に落ち着いている。
 はあ、と溜息の音が、立っている土方より下の方から聞こえてきた。どうやら沖田は両者を隔てる瓦礫の反対側に座っているらしい。
 先頃安否を確認し合った時に沖田は、ちょっと足を捻ったみてーです、などと珍しくも正直に口にしていたので、ひょっとしたら痛みでもしているのかも知れない。いつもの悪態にも今一つ冴えは無かった。
 「………これに懲りたら、軽率な発砲は慎みやがれ」
 「そうですねィ…」
 溜息混じりに言えば、返ったのは珍しくも素直な返事だった。土方はおやと思って顔を瓦礫の方へと巡らせる。よもや重症を負っていると言う訳ではあるまいか、と寸時考えるが、声音に苦痛の類は潜んでいなさそうだ。
 一応は己の行動の起こした事だ、と言うのもあって、多少は落ち込みでもしているのだろうか。
 「……結果オーライ、なんだろ。あの状況じゃ俺らが刀で斬りかかるより、連中が火器をブッ放した方が早かった可能性もある。手前ェのした事が間違えた事だと思ってねェなら、責任も手前ェ自身で取りやがれ」
 思ったら、自然と慰めるにも窘めるにも似た言葉が土方の口から出て来た。部下も親友も甘やかす心算は無いが、フォローの類を口にして仕舞うのはもう半ば癖の様なものだ。
 そんな土方の気休めの言葉を受けて、沖田はさも厭そうな調子で溜息をついてみせる。
 「止して下せェよ気持ち悪ィ。始末書だ切腹だって喚いてる方がまだ土方さんらしいや」
 「ちゃんと始末書は書かせるから心配すんな。で、怪我の程度はどうなんだ」
 「ちっと捻挫したくれェですんで心配無用でさァ。怪我で始末書が減るなら喜んで重傷者リストに入りやすが」
 「減るか馬鹿」
 軽口に僅かの笑みの気配を感じ取って、土方は密かに安堵の息を吐く。沖田とて気付いているだろうが、バズーカの軽率な発砲、以上に、土方の立案したこの作戦行動自体が、事件解決後にまずは問題視されるだろう。隊士に沖田以外の負傷者がいないのは不幸中の幸いだが。
 件の企業を叩き潰せたとして、真選組の足下を掬おうとする輩、乗じて嫌味を投げたいだけの輩──そんなものは沢山居るのだ。彼らには、結果が良ければ、などと言うお為ごかしは通じない。土方は些少なれど、己の言動と作戦指揮者としての立場と行動とに、何らかの責任を求められる。それこそ常に。
 (した事の、責任、か)
 抱える選択の、下した判断の、何がどう最良で正しいものかなどとは、誰にも知れない。犠牲が少なければ良いのか、命令があれば良いのか、誰にも損害を残さなければ良いのか──他者にとっての正しさなど、その都度に好き放題に変わるのだから。
 己だけの問題であれば、その重さは己の背にしかないものだと、思っていた。
 だが、実際は、土方はあの男の精神性をどこか歪めて、瑕を穿ったのだ。被害者でありながら、加害者と何ら変わりはない。
 沖田の事を糾弾出来た口ではない。あのバズーカを短慮で放っていたのは、己だったかも知れないのだ。
 「助けはまだですかねィ……。ヘリの音とか聞こえて来てますが」
 ふと沖田の声がそんな事を言うのに、瓦礫の下から天井越しに夜空を見上げる様にして土方は頭を巡らせた。天井の方には空調用のダクトがある。そこを通って、確かにヘリのローター音の様なものがばりばりと微かに聞こえて来る。
 まあ救助と言う事はあるまい。救助は恐らくひたすら坑を掘る作業だし、空からの搬送の必要性のある要救助者もいない。
 「あんだけ爆発が起きてんだ、報道が嗅ぎ付けでもしたんだろう。……つーかお前、本当に怪我は平気なのか?厭にさっきから弱々しいぞ。気持ち悪ィ」
 「だから、ドSってのは打たれ弱ェんですってば。俺も万事屋の旦那も、無神経な土方さんと違って繊細なんでさァ」
 「おいコラ誰が無神経だ」
 思いも掛けない呼称の存在を引き合いに出された事に、動揺を隠す様に拳を振り上げる真似をついしてみせてから、どうせ見えないのだった、と思い直して、土方は腕をそっと下ろした。「大体てめーらの何が繊細なんだよ」とぼやきながらかぶりを振って、壁に背を預ける。
 (…………繊細、ね?)
 沖田の常日頃の様子ばかりか、男の行動や言動を思い起こせば、何をどうしたところで繊細などと言う言葉には到底結びつきそうもないのだが。
 沖田がその侭黙り込んだので、土方もそれ以上を無理に続けるのを止めた。動き回る、壁の向こうや天井の人の気配を感じて、あともう一時間はかかって仕舞うだろうかと考え、疲労の侭に目蓋をそっと下ろして。そこに銀髪の男の姿をぼんやりと描いた。どの道こんな所では土方に出来る『仕事』はないのだ。暇潰しにしては些か胃に悪そうだが、気が抜けないと言う意味では悪くないだろうか。
 己の判断に後悔は無いし、間違って仕舞ったとも──少なくとも己に対しては間違ってはいないだろうと、そう思う。
 男の暴力や嗜虐行為に、諦めと覚悟で相対したのは、果たして贖罪の気持ちからだっただろうか。
 ……恐らくは違う。そう感じるのはただのエゴだ。
 己の、男に僅かなりとも抱いていた好意(らしきもの)に気付かなかった事も。こうされて初めて、それを惜しく思って仕舞った事も。男の寄せて来た歪んだ執着を、受け入れも拒絶もせずに目を逸らして放ったらかしにした事も。
 間違っていたのだ。解らなかった情の、棄てるも見るも止めた情の正体は、冷静になって考えてみれば容易く知れた。
 それに気付いた時に、土方は選ばなければならなかったのだ。受容でも拒絶でも隔絶でも、覚悟を以て選択しなければならなかった。
 代償だと。報いだと。瑕痕の責任だと。そう言って土方が逃れ続けたからこそ。男は己の途も情もどうして良いのかが解らなくなったのだろう。歪んだ情を何処にも昇華出来ず、土方が己を受け入れないと言う結果を先に知って仕舞った男には、土方の本心なぞ理解出来なかったに違いない。
 土方とて、己の本心と取るべく行動が解らず、逃げ続ける事しか出来なかったのだが──
 (……言い訳に過ぎねぇな)
 歪な関係を、歪に複雑に形を変えて行く関係性を、男の方から断ち切る事は出来ないのだから、土方の方が早く答えを見つけるべきだったのだ。
 己が想いを寄せたかも知れない男を、男の歪を赦し好きにさせる事は、贖罪でも罪悪感でも況してや同情でもない。ただの、理解を持て余し、受け入れる勇気も拒絶する覚悟も無かっただけの、感情の無聊を徒に慰め続けるだけの無為だ。
 あの男に、きちんともう一度向き合わなければならない、と土方は思う。
 今の己にはあの男の強すぎる執着を受け入れる事はきっと出来ない。それならば、もうこの関係は終わりだと、拒絶を示してやらなければならない。
 意趣返しの様に何か酷い目にぐらいは遭わされるかも知れないが、それこそここまでずるずると意気地無く逃げ回った己に対する代償だと思って、殴られるぐらいの覚悟と罰は必要だろう。然し拒絶の意志だけははっきりとさせよう。
 そうして──己の裡にあった、想いの様なものを、棄てよう。
 あの男にそれが出来ないのなら、土方がそれを選ぶほかない。
 それが、土方の事を『好きだ』と訴え続けた、あの男に対して取るべき責任だ。
 「繊細、って言うのも、一部分に於いてなら強ち間違って無ェのかもな」
 一途で強固なものほど壊れ易い。倒錯し歪む程に強かったあの男の情は、沖田の口にしたドS云々の例かどうかは知れないが、確かに酷く繊細なものだったのかも知れない。
 土方の小さな呟きは、幸いにか壁向こうの沖田に聞き取られることはなかった。
 やがて外から、かんかん、と鉄を叩く音がするのに、漸く救助が来たかと土方は重くなった腰を持ち上げた。







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