けだものたちの百の企み / 1 立ち上る濁った色の煙をぼんやりと目で追う。薄暗い電灯の安っぽいセピア色の色彩が、絡まった糸みたいになった細い煙の筋に色を付けては薄くなって天井へと消えて行く。 消えると言った所で安ホテルの一室ではお世辞にも換気が良いとは言えないから、煙は消えた様に見えても散っているだけで、室内はすっかりつんと苦い臭いに満たされて仕舞っている。それは気付けばすっかりと嗅ぎ慣れた煙草の臭いだ。 銀時も煙草は嗜んだ事がある。若い時に、どんな理由だったか憶えていないが何となくくわえてみた。だが別に習慣化はしなかった。特別不味かったとは思わなかった筈なのだが、それほどヤニの臭いやニコチンの齎す薬物的な効能に魅力を感じなかったのだろう。 今でも吸おうと思えば吸えるが、最近すっかり値段の上がった煙草をわざわざ買うぐらいならば食料か甘味を買う方に金を使いたい。吸っては吐き出すだけの煙に貴重な金銭を使おうと思える程に、万事屋の経済事情は毎度の事ながら宜しくはないのだ。 だから、手を伸ばした事に特に理由と言う程のものは無かった。苦い煙を燻らせるだけのそれを、何が何でも欲していたと言う訳では無い。 手の先には、腰にタオルを巻いただけの格好でベッドの上に胡座をかいて座っている男の横顔がある。安っぽいシーツの上に直接アルミ製の灰皿を置いて、火種を手にしていると言う危なっかしさなど自覚していない様な表情をして、壁でも天井でも無いどこかをぼやりと見た侭動かない。ただ、自らの唇と灰皿との間を往復している手だけが機械的に同じ動作を繰り返していた。 整った面に何処か憂う様に伏し目がちになった眼。通った鼻梁。煙草をくわえて薄く開かれた形の良い唇。癖は多少あるが、十人中九人は確実に賞賛の意を持つ言葉で表すだろう顔の造作をした男の所作は、ただ人体に有害な煙を吸っては吐き出しているだけの姿でさえ妙に絵になる。 本人は全く意識して行ってはいないのだろうが、無造作とか適当としか言い様のない腕の動き一つでさえ、不思議と演者の形作る完璧な調和の様に見せる事がこうして時々ある。 尤もそれは見慣れた銀時にとっては、単に怠い目つきに怠い動きとしか言い様の無いものなのだが。それだけの仕草が傍目には絵になるとは、顔の造作の整った人間と言うのはそんな所でさえ狡いものだと思う。 迫る銀時の手の気配には気付いていただろうに、矢張り怠い所作を繰り返す男が何か反応を見せる事は無かった。こちらに視線すら向けようとせず、放心しているのではないかと思えるその指先から、銀時が大分短くなった煙草をひょいと取り上げると、そこで漸く男の眼球が僅かに動いた。迷惑を示してと言うよりはただの惰性の様に銀時の方を向く。 「……吸うのか」 言葉を紡ぐのも億劫だったのか、大分省略された問いの全容は恐らく、「てめぇも煙草なんて吸うのか」と言った所か。 「ま、偶には」 だから銀時も適当にそう応えると、短い煙草をくわえて肺に懐かしささえ感じられる苦い味を吸い込んだ。ついた肘で側頭部を支える、涅槃の姿勢で転がった侭、無言で寄せられた灰皿に時々手を伸ばして灰を落とす。 そんな銀時の様子を男は暫くの間観察する様に見ていたが、やがて飽きたのか単に疲れたのか、糸でも切れた様にばたりとベッドの上に背中から倒れ込んだ。スプリングの軋む耳障りな音と波間の様な振動とに銀時は眼を眇めてみせるが、仰向けに転がった男がそれに頓着する事も気付く事も無い。 一つのベッドしか無い宿の部屋の、一つしかないそのベッドの上で、ほぼ全裸と言う格好でだらだらと転がる大人の男二人。宿が主に休憩用途と言う看板を出していてもいなくても、その意味の指す所は概ねたったの一つである。 多分、日頃の銀時とこの男との関係性を知る者らから見れば、それは少なからず意外性を齎すものだと思う。よもや、折り合いが悪く日頃から口喧嘩を挨拶代わりにしている様な二人の男達が、身体を重ねる関係である、だなどと、聞かされた所でそう易々とは信じられないだろう。なお、かさねる、と言うのは無論言葉通りの意味だ。 そもそもにして、街の万事屋と、公儀の尖兵である。元攘夷志士の民間人と、対テロ用の物騒な警察官である。大凡そこに仲が良くなる様な要素は介在せず、負けず嫌いで張り合っては衝突する当人達の気性の問題もあって、普通であればまず好んで近付き合う様な手合いでは無かった。 だが、どうした事か気付いたら『こう』していた。ある何でも無かった冬の日から、そう言う事に、なっていた。 単純に言えば、二人にとってそれは、相手が居て、互いが居て、まあ満たされたりする事はどう転んだ所で無いだろうから良いか、と言う打算が働いただけの事だったのだろうと銀時は思っている。 仲が良い様に振る舞う必要は無いが、嫌っている必要だって無い。しっ放しの喧嘩と同じで、勝敗も発端もあやふやで良い。 銀時にとって彼は、土方十四郎と言う名前で、真選組の副長と言う身分である以上にただの知り合いと言うだけで、そこそこ見栄えが良くて、気持ちよくなれる孔があって、気は合わなくとも利害が──或いは利が──一致したと言うだけの存在で。 その中で一番重要なのは概ね最後の一つだけであったから、それさえ慥かであればそれで良いと銀時は結論付けていた。そして多分それは土方の方とて然程に変わらない筈だ。それだからこそ『こう』なったのだろうから。 普通の人々であれば、多分先にそう言った性癖や目的があって、だからこそ余計な悩みや疑問も付随して湧くものだろう。 だが。恐らくこれはお互いに。話し合った訳ではないが、何となくそう言うものは生じれば解るものだ。そしてその気配は未だに無いし今後も顕れはしない。 要するに結果が先に出来たのだ。過程が無かったから、煩雑な感情やら悩みやらの生じる隙なんて全く無かった。セックスに理由を探さねばならない様な余地など何処にも無かったし必要ともしていなかった。 何となく流れて、何となく辿り着いた。目的は三大欲求の一つである所の性欲で、その時伸ばした手の先に『彼(それ)』が居た。だからだ。利害と利とが一致した。だからだ。 簡単に摘んで取れた吸いかけの煙草の様に、それはあっさりと手の内に転がって来た。 吸っても大して美味いとは相変わらず思えないそれは、然し時折特に深い理由もなく手を伸ばしたくなるもので。 その度彼もまた、怠そうな目をちらと向けて寄越すだけで、互いにまるで示し合わせた様に解る、利害の一致と言う結果だけを求めて応じて来るのだ。 時々する喧嘩と同じで、時々身体を重ねる。偶然出会ったから顔を顰めつつも一緒に食事をするとか、口喧嘩をしつつもサウナに入るとか、そう言ったものと同じで『そういうこと』をする。 普通通り。今までと何ら変わらない。ただ一般的な規範で見れば少しだけ奇妙に思われるかも知れない『普通』の関係。 それがこの、万事屋の坂田銀時と、真選組副長の土方十四郎との単純な関係を説明する全てであった。 。 ↑ : → |