けだものたちの百の企み / 2



 賑わう雑踏の隙間にその姿を見つけた時は一瞬、人違いかと思った。
 冬の寒い日だ。幾ら吉原が地下に築かれた繁華街とは言えど、今では長らくこの町を護っていた天井(空)は開かれ、人の行き来は勿論、空気も天候もこの冬の寒さも頭上に広がる江戸の町と変わらない。
 だが、紅を基調とした享楽的な色彩を纏った町は独特の熱気で以て、誰もが首を窄めて歩きたくなる様な季節でも暑ささえ感じられる程に賑わっている。それだけこの町の需要は大きい。
 そこに来て、地上との通行が容易になってからと言うものの、売る側も買う側も大幅な変化と進化とを遂げる様になっていると言う。多くの人間の出入りがあるとそれだけニーズも様々に増えると言う事だ。
 かぶき町とは同じ歓楽街の名を持ってはいても、矢張り双方の纏う気配は大分異なっている。あちらは酒も賭博も男も女も、あらゆるものを売り物にしているが、この吉原は主にその内の一つ、性風俗面に特化している町だ。それ故にか此処を訪れる人間と言うのは皆例外なく『解り易い』ひとつの目的を抱いている。
 だから銀時は真っ先に、人違いか見間違いと言う可能性を考えたのだ。だが、雪の降りそうな曇り空の下、首に巻いたマフラーに深めに顔を埋めている姿とは言え、その男の容姿は易々見間違えられるものでも無い。
 夜に紛れそうな黒地の着物に藍色の羽織。袴は穿かず長めの刀を帯に差している。丈は高く体格は引き締まって、武人らしく歩く姿勢は棒でも通した様に綺麗に背筋が通っている。
 それだけでも銀時の思い当たる知己の姿に当て嵌めるには十分だったのだが、極めつけに伺い見た顔は整った配置の癖に酷く物騒に固く顰められていて、これはもう土方十四郎と言う名の知り合いに相違なく、見間違いとは到底言えたものではないと、銀時は確信すると同時に眉を寄せた。
 見間違いで無ければ次に思い当たるのは、何か事件の捜査でもしているのではないかと言う事だった。だが、それにしては彼が本来纏うべき制服姿では無い上、全く己の正体を隠しているとは言えない様子である事が気にかかる。
 何より、吉原には警察不介入──と言う程ではないが、自治領としての権限が一応は与えられている為、自警団が主に町の治安を護っている。その為江戸で見る警察や同心は吉原には仕事目的ではまず入って来る事はない。已むなく入って来るにしても、自警団『百華』に筋を通し捜査協力を依頼すると言う手順を踏む必要がある筈だ。
 然し吉原の町を歩く今の土方からはそう言った──何と言えば良いのか、仕事、と言う気配が全く感じられない。つまりは私服と言う姿形の通りに、私的に花街を訪れている事になるのだろう。
 だが銀時の裡で生じた疑問の正体は、それがどうにも似つかわしくないと言うイメージに因るものだった。真っ先に、捜査か仕事か、と考えて仕舞う程には、彼の男が私用で吉原を漫ろ歩いていると言う事に妙な違和感を憶えたのだ。それこそ、見間違いかと疑う程に。
 土方+猥雑な花街と言うイメージがどうにも銀時の中では綺麗に結びつかなかった。そりゃあ土方だって男なのだから、そう言った店の戸を叩く事ぐらいあるだろう。寧ろ一見クールなその容姿のお陰で大層モテるらしいのだから、相手の方が勝手に寄って来る事も多いかも知れない。
 だからこそ、所謂そう言った店を訪うにしても、もう少し場所を選ぶのではないか、と思えたのだ。
 銀時の知る限り、彼は真選組と言う江戸随一の武装警察組織の二番手で、公には士としてそれなりの地位を持たされている。つまり身分が慥かであると幕府に保証されているも同然の公務員なので、収入も少なくない程度にはある筈だ。
 銀時が今居る場所は、吉原の中でも低から中と言った所の等級の店の連なる地区で、安くて気楽にそう言った欲を解消する事を目的としたサービス内容が多い。所謂一般人の懐にも優しい、即物的であったり、余りお上品とは言えない少々特殊な用途を求める客の好む界隈だ。
 お役人様などが好むのはもう少し上の見世や郭の方である事が普通だ。酒と戯事とを楽しんで、閨を単なる性行為だけではなく、仮初めの愛や情を含めて買う事を目的としたものを提供する高級な楼閣。そう言った所に通うのが上流の男の嗜みである事は勿論、金払いを要する代わりに口は固いしセキュリティも安全だからだ。
 然し土方の足がそう言った高級な界隈へと向く事は無かった。彼は、彼の身上には何だか似つかわしくないと思える雑多な町の通りを歩いて通り過ぎたかと思えば、どこかで引き返したのか同じ道をまた歩いて戻って来る。客引きをする人間や店先に飾られた看板に目を向ける事も無く、目的地も特に無いのか、その姿は本当にただふらふらと迷子が歩いているだけの様にしか見えない。
 だが、普通に考えれば吉原に来る目的は前述通りたった一つしかない。土方の職業から有り得たもう一つの可能性は、無造作に歩いているだけの彼の様子からも矢張り有り得ないから、たった一つの目的と言う銀時の推測は恐らく外れてはいまい。
 行って、そして戻って来た土方の顔をもう一度ちらと伺うと、銀時は極力軽薄さを意識した声を出そうと口を開いた。
 「そこのおにーさん、うちに寄ってかない?」
 その声は煩雑に賑わう花街の雑音全てを置き去りに、恐らく土方の耳に刃の気配に似た鋭さを以て向いた。街の賑わいの一切を注意しては聞いていなかったのだろう土方は、本当に刀でも向けられた時の様に、はっと顔を上げると声の出所を探して振り向く。
 立ち並ぶ店の一軒だ。何か特徴的な装飾や特徴がある訳でもない、山程に連なる風俗店の一軒。その入り口、柱の丁度影になる位置に立っていた銀時の存在には、周囲の雑踏の風景同様に全く気付いていなかったのだろう、声の出所を定め見た土方は足を止めて驚いた様に瞠目した。
 目の合った所で「よ」と軽く片手を挙げて見せる銀時に、土方は気まずさを憶えたのか、くわえていた煙草を指に挟むと、気さくに笑いかけている(様に見える)銀時から視線を游がせた。
 多分、知り合いになど絶対に会いたくはないタイミングだったに違いない。だからと言ってここまではっきりと目を合わせて仕舞ってから知らぬ振りをして立ち去る事も出来やしない。
 寸時悩んでから土方が選んだのは、取り敢えず状況から見た己の立場の悪さや決まりの悪さを誤魔化す事だった。
 「…てめぇも、こう言う所に来るんだな」
 『も』と言う響きから、矢張り土方が銀時の想像した通りの目的で花街に来たのだな、と確信が深まる。「同立場だろうから察しろ」と言いたいのだろうが、生憎と銀時は土方とは違う目的でここに来ている。
 「いや違ぇよ、仕事だよ。用心棒ってやつ。最近は強引な客とか迷惑な客もよく出るってんでな。
かと言って自警団を呼ぶ迄も無ェ様なトラブルが殆どだから、ちょっと荒事に慣れてる人間ってのが入り用なんだとよ」
 「……そうか」
 銀時が仕事中であると言う所に気後れを憶えたらしく、土方は謝罪を示す様に軽く目を伏せると、そそくさとその場を辞そうとした。『そう言う』目的で花街に来ているとしても、知り合いが入り口に立っている店など利用する気には到底なれないのだろうし、そんな所で広がらない世間話などしたくは無かったのだろう。ひょっとしたら追求や問いを避けたかったのかも知れない。
 「銀さん、そろそろ交代の時間だから」
 そこに女の声が割って入って来た事で、土方は思わず足を止めて仕舞う。銀時が振り向けば、店の中から従業員の女が出て来た所だった。明るく染めた金髪に、裾が短く帯を胸のすぐ下できつめに結んだ、若い娘の好む派手な柄の着物。両肩をかなり落として着ているのが如何にもそう言う商売の娘らしい。
 彼女は手にした給金入りの封筒を銀時に渡しかけた所で、店の入り口に佇む土方の姿を目に留めた。化粧で多めに盛った睫毛をぱちりと上下させて「あら」と慌てて、私用に無造作になりかけていた所作に商売用の品を作る。
 「お客さんかしら?」
 用心棒の男と向かい立っていたぐらいだ。果たして歓迎する客か迷惑な方か。疑問を挟む余地はあった筈だが、女は土方を前者と確信したらしい。素早く店先に出て来て商売用の行動に入る扇情的なその姿を、土方が見る。
 女は、商売柄か経験上か、聡かった。土方が『そう言う』ものを求めている上客であると直ぐに察したのだ。
 まあ確かに、と思って銀時は土方の顔を横目に伺う。常の涼しげな余裕など微塵も無く、物騒な眸の奥に晴らせぬ情欲を燻らせたお綺麗な男など、客としては最上のものだろう。
 「…いや、」
 女からそっと眼を──炯々と光る熱はその侭に──逸らして立ち去ろうとする土方の肩へと、銀時は手をぽんと乗せた。迷惑そうに顔を揺らす土方の唇が何か余計な言葉を紡ぐ前に、矢継ぎ早に捲し立てる。
 「悪ィけど、客じゃなくて俺の知り合いなんだよねこいつ。で、久し振りに会ったしちょっと一杯引っかけるかって話になってた所でさ」
 「あ…、あぁ、そうなの。…残念だわ」
 銀時の言葉は、立ち去ろうとしている土方の様子には全く合致せず、誰が聞いても嘘だと容易く言い当てられるだろう、適当で軽薄でどうでも良いものだった。女は上客を得る機会と、強引な嘘で間に割って入った銀時の不穏な様子とを秤に乗せようとはしたのか、ちらりと名残惜しげに土方の方を見遣ったが、然し諦める事を選んだ。何か──普通ではない何かを、ひょっとしたらそこに感じ取っていたのかも知れない。
 「じゃあ銀さん、これ今日の分。ご苦労様」
 「どーも。じゃ、また何かあったら宜しく〜」
 女の差し出した封筒を受け取って懐に仕舞い込むと、銀時は彼女に向けて愛想良く笑って手を振り、土方の背を押して歩き出す。ひょっとしたらもう二度とこの店から用心棒の仕事は来ないかも知れないが、他にも同じ依頼を抱えたお得意様は沢山居るから構うまい。
 そんな客よりも、こちらの当ての方が重要だ。何しろ、仕事とは言え丁度花街の色めいた空気に延々とアテられていたのだ。
 「じゃ、行くか」
 肩を組んだ、無遠慮と言える程に近い距離に土方は動揺を隠せない様だったが、この侭ここを当て所なく彷徨っていても仕方がないと判断したのか、銀時に促される侭に歩き出した。







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