風雨臥し聽くその夜闌けに / 1



 耳聾の様な、痛い程に閑かな空白の中で、不意に、ちりん、と可愛らしい音がした。
 誘われて意識がそちらを向けば、音の洪水が途端に鼓膜を叩き始める。脳がそれを環境音と認識して一つ一つを選別していくのに任せていればやがて、風の音や葉擦れの波や町中の騒音たちの中で一際響く、ころころと、硝子の器の中を小さなビー玉が転がっている様な不明瞭な音を捉える事が叶う。
 まだ遠く耳鳴りの響く微睡みの中で、それでもはっきりと聞き取れる。優しいが不自然な音。時折かちりと固い響きでぶつかり合うそれが、夏によく耳にするものである事を知っている。
 「………」
 不意に強く吹いた風に、硝子で出来た舌が踊ってかちかちと騒ぐ。小さなそれの奏でる賑やかな音の主張に負けて、ようよう銀時は重たい目蓋をぼやりと開いた。途端に目に飛び込んで来る、光の打つ硝子の乱反射が眩しくて、思わず眼を細める。
 ちかちかと光の残像がちらつく網膜の奥で、頭が抗議でもする様に痛んだ。湿度もあって重たい空気の中、銀時は手で光を遮りながら今一度目を開いて、小さく涼やかな音を奏で続けているそれを見上げる。
 寝室の窓に吊された、透明な硝子で出来た江戸風鈴だ。ただ硝子がぶつかり合っているだけの音は楽とも言えない、気紛れな鼻歌か何かの様だ。
 それでも、夏らしい音だなと思う。南部鉄の澄んだ鈴の様な高い音も、硝子がぶつかり合う素朴な音も、まるで暑気払いの様に作用して、聞く人の心に自然と落ちて来る。
 窓は半分ばかり開け放たれた侭で、そこからぬるく重たい風が静かに吹き込んで、風鈴をかちかちと鳴らす。音を打ち鳴らしている舌に下げられた、押し花の飾られた短冊がくるくると風に吹かれて揺れて、回って、踊っている。
 軒を通って僅かに見える空は薄く灰色の雲を泳がせていて、湿気をまとった空気が水を含んだ土の匂いをどこからか運んで来ている。
 (こりゃ、一雨来そうだな…)
 目を閉じて鼻を鳴らせば、慣れた頭がすぐにそんな予想を導き出すのだが、布団から動く気は起きずに、銀時はごろりと寝返りを打った。寝間着の上からでも、ぬくまった布団がどことなく湿っぽいのは解る。不快だなと思うが構わずに目蓋を閉じる。無理に閉じようとする間もなく、重量のある怠さが自然とそうさせた。
 枕を片腕で頭の下に抱え込んで、逆の掌をシーツの上へと這わせてみる。然し、掌で幾ら探れど、一昨日の晩にそこで一夜を共にしていた情人の気配はもう何処にも残ってはいなかった。
 あのつんとくるヤニの匂いの残滓ぐらいなら、ひょっとしたら鼻を押しつけて辿れば見つかるかも知れない。だが、泥の様な湿った温度と、空気の重さとが億劫になったので諦めた。そこまでして探した所で、別段何にもならないと気付いて仕舞った。
 目蓋の遙か裏側で、ざわざわと大きな木が風に揺すられる音がした。きっと隣の屁怒絽さんの家の木だろう。何の樹木かは怖くて聞いていないが、あれだけ大きければ少しは夏の暑さを和らげる事に貢献してくれているのかも知れない。光合成とか、木の枝の作る日陰とかで。多分。
 木の葉のこすれる小さな音も、あれだけ木が巨大なものなればまるで何かのざわめきに等しい。風が重たく吹いている事を知らせてくれるそんな木の葉擦れの波の後に、ちりんちりん、と控えめに江戸風鈴が素朴で涼やかな音を奏でる。
 (……アレ?風鈴なんて家にあったか?いや、あるにはあったけど、確かずっと仕舞いっぱなしになってた様な…。いつ出したんだっけ…?)
 思考がぐるぐると螺旋を描いて撹拌されていく。今や昔やその前が出鱈目な時計の様にばらばらに動いて記憶を再生させて行くが、なかなか自分の探す答えには辿り着かない。
 (確か神楽が買って来て…、そんで……アレ、割れたんだっけ?ああいやそれは──…)
 考えるそばから泡が弾ける様に消えて閃いて思い出す、様々な場面や言葉やそれに対して憶えた感情などが段々と微睡みの意識へと呑まれて沈んで行く。
 まぁいいやと、迷子の舟の様に漂う意識を、銀時はあっさりと手放す事にした。大した事でも無かったし、何もかもが億劫だった。
 (寝よ…)
 俯せになった頭にまで布団をのろのろと引っ張り上げながら、脳内の決定に違わずに睡魔に身を任せて仕舞えば、あっと言う間に風も湿った空気も風鈴の抗議する様な音も遠くなる。
 具合の良くない時は眠るのが一番だ。そうしたくなくとも、生物の体はそう言う風に出来て居るのだから。







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