風雨臥し聽くその夜闌けに / 2



 「ん?」
 衣装ケースの中を探っていた指先に、ふと固い感触が返る。それは古い布の端切れや手ぬぐいをまとめてある一角だ。指を伸ばして丁度掴める大きさのそれを、何だろうと訝しみながら銀時は引っ張り出した。
 何枚かの布きれを巻き添えに、出て来たのは木で出来た小さな箱だった。掌にギリギリ収まらない程度のサイズで、箱より一回り大きな蓋がぴたりと被さっている。箱書きの類は無く、草色をした麻紐で蓋は蝶結びに閉じられており、中身は全く伺えない。
 「…なんだったっけ?」
 猪口や湯飲みでも入っていそうなサイズだ。こんなものを仕舞っただろうか。持っていただろうか。眉を寄せながら軽く振ってみれば、想像通りに中からはかたことと固い音がする。
 この部屋は昔階下のお登勢が使っていた時期もあったと言う話で、例えば箪笥や食器などの一部のものは、置いてあったその侭に使わせて貰っている。当人が、部屋の備え付けの扱いとして好きにして構わないよと言って寄越したのもあって、それらについて余り深く気にした事は無い。
 押し入れの中の幾つかの衣装ケースもその類の一つだ。だからその中に、銀時の見覚えの無い、お登勢の所持品が混じっていたとしても今まで気付かずに仕舞われていたと言う事も充分有り得る話なのだが…、
 「いやいや。んな事やってる場合じゃねぇだろ」
 我に返った銀時は木箱をその場に置くと、再び衣装ケースを引っ掻き回す作業に戻る。土方が風呂に入っている間に、着替えになる着物を何とか見繕わねばならないのだ。その作業は制限時間つきで、木箱の正体を探ったり見極めたりするよりも優先すべき事項なのは明らかである。
 寝室の押し入れに入っている衣装ケースは、滅多に開かないだけあって見慣れないものが山ほど入っていた。この部屋に住み始めた頃にお登勢が、いつも着た切り雀でいた銀時を案じてか、昔旦那が着ていた着物だとか、貰ったけど着る人がいないからとか、色々と理由をつけて置いて行ったものがその殆どだ。
 結局面倒臭がりの銀時は、万事屋の仕事がし易いから、憶えて貰い易いから、などと言って、同じ拵えの着物を着回す事で落ち着いて仕舞った為に、貰った着物たちに袖を通す事は滅多に無かったのだが。
 期限のとっくに切れた防虫剤を取り除きながらケースを引っ掻き回せば、一番底に漸く目当ての物を発見出来た。紙に包まれた侭、皺にならない様に大きめに綺麗に畳まれているそれを、銀時は慎重に取り出す。
 暫く──どころか、お登勢が置いていった後は全く様子を窺っていなかったものだ、虫食いなど無い様にと半ば祈りながら包み紙を解けば、果たして中からは穴も染みも無い、濃い藍色の夏大島紬が姿を現す。
 軽く点検しつつ匂いを嗅ぐが、かび臭くもない。樟脳のどこか懐かしい匂いが僅かに鼻を突くだけだ。長期間放ったらかしにされていた割には何の問題も無さそうで、銀時はほっと胸を撫で下ろした。
 そろそろ暑くなる頃だから丁度良いだろう。揃いの角帯と一緒くたに抱えて脱衣所へと向かう。
 別に今更見栄を張りたいと言う訳でもなかったのだが、どうせなら持ち物の中では綺麗なものを出してやりたかったのだ。厳密には貰い物だが。
 (自分の着物を貸すってのも、何だっけ、彼着物?とかそんな感じで、何か下心が透けて見えそうだしよ…)
 ソファの上に放り棄ててあった、見慣れた己の白い着流しをちらりと見て、思わず溜息吐息鼻息。
 何より、何と言うかむず痒いし恥ずかしい。風呂から上がって一応は真っさらになった相手に、この上更に自分の匂い付けをしようとしている様ではないか。
 何となく咳払いをして、銀時は床板を裸足で踏んで浴室の前の脱衣所へと入った。音も気配も態と隠していない銀時の接近に気付いた土方が、磨りガラスの向こうでこちらを気にする様な素振りを見せるが、そちらを意識しない様に、何も言わずに先頃漸く発見した着替えを脱衣籠に入れてやる。
 代わりに、皺だらけになった土方の黒い、こちらも日頃よく見慣れた着物を回収し、洗濯機へと放り込んだ。
 湿度のそろそろ高い床は、歩く度に足裏にぺたぺたと貼り付く感触がする。そんな足音を引き連れて居間へと戻れば、卓の上にはビールのグラスやつまみの皿がすっかりと温くなって放置されているのが目につく。だが、直ぐに片付けなければいけない気もせず、ソファの横を通り過ぎ様に着流しを拾って肩から羽織ると、銀時は社長椅子にどっと腰を沈めた。
 手を伸ばして背後の窓を少し開くと、格子越しの夜空と出会う。落とした室内の灯りの所為か、家の中よりも外の風景の黒々としたシルエットの方がはっきりと見える。湿気も多く雲も多いが、風はあるらしい。程なくして月明かりがぼやりとした光を降らせて来るのに、目を細める。
 
 *
 
 恐ろしい程に長く、重苦しく感じられたあの戦いも終わって、江戸は迅速に復興し、世界は再び平和を食いつぶす穏やかな日々を取り戻していた。
 そこに戻って来たのは今までと何も変わらない生活だった。だが、経過した時の刻んだ新たな日々は本当の意味では、今までとまるで変わらない、などと言う事では無いものだった。
 例えば新八。いつも通り万事屋に出勤してくるが、余り依頼が舞い込まない中ではだらだらと過ごすばかりには任せず、依頼が来たら呼んで下さいと言って実家の道場経営を手伝いに行ったり、時々わざわざ休みを取って、見識を深める旅とやらに出て行く事もある。尤もそれには、お通のコンサートの地方巡業のついでと言う側面もある様だが。
 そして神楽も、今までの様に万事屋でだらだらといつも通りに過ごしている事が以前よりも少なくなった。その代わりに以前よりも外へよく出かける様になった。
 定春の散歩にしては遠出になったり長かったりするそんな外出に、銀時がふざけて「何処かに好きな奴でも出来たのか?」と、からかって言えば、「好きな物は増えたアルよ」と真っ向から笑って返された。江戸の、この世界の、色々な所をもっと好きになりたいのだとその後に付け足した神楽の横顔は、銀時のよく知る子供のそれから、少し大人びて見えた気がした。
 そんな子供らの姿を見て、年甲斐もなく──或いは年相応に──少し寂しくなったのかも知れない。銀時は、犬猿の仲と言う関係から、共闘や互いの裡を垣間見たりもした経緯を経て、段々と心地の良い存在と感じられる様になった気のする、土方とよく会う様になっていった。
 行きつけの居酒屋へ行って顔を合わせる事もあるし、示し合わせて家で呑んだり外で落ち合ったりもするし、偶にだが気紛れの様に土方から電話がかかって来る事もある。それは銀時がいつか、「奢ってくれんなら愚痴でも何でも付き合ってやるよ」と提案したからだ。
 土方とは、以前までの様にみっともない程に子供っぽい喧嘩は余りしなくなった。喧嘩になりそうな言葉を投げ合っても、上手く互いに躱して仕舞う様になったのだ。掴み合ったり殴り合ったりする様な事もめっきり減った。寧ろここ暫く憶えがない。
 意外な話ではあるのだが、お互いにまだ成長をする余地があったと言う事らしい。良い大人になって今更何を、とは思うのだが。
 ともあれ、そんな風にして少し変わった関係性は、銀時の裡で一定の得心としてやがて腑に落ちた。
 一生こんな奴と仲良くなれる気がしないと思える程に、嫌われているのだとずっと思っていたし、銀時も土方の鼻につく態度にいちいち苛立つ事もあった。だがこうなってみればそんな様相はなりを潜めて、今では気の置けない友人の様な関係にある。
 何故か、と言えばそれは多分、銀時が気付いたからだ。気付くだけのゆとりを得たからだ。
 ああ、俺はこいつに別に嫌われてはいなかったのだな、と。土方の態度や言葉の端々から、いつしかそう確信したのだ。
 そんな銀時の態度の軟化を感じたのか、土方の方もやがて無用な悪態をつく事を止めた。きっとお互いに、気に食わない野郎だと一番最初に顔に大書きをして仕舞ったから、そう言うものなのだと先入観としてインプットし、思い込んでいただけだったのだろう。
 そうして気付いた時には銀時は、俺は多分こいつの事が好きなのだろうと、己にそう許容を与えていた。そのぐらいには余裕が出来ていたし、今更むきになって否定する要素を探すと言うのも馬鹿らしかった。
 この侭いい年こいたオッさんになっても、気安くああだこうだと話せる友達が居てくれると言う事自体は悪いものではない。そう思ったら自然と安心して、子供らの成長も素直に喜べる様になった。
 ただ老成して行く日々でもお互いに楽しめる、そんな友達で居られれば良い。
 ──……そう思っていたのだが。
 ちらりと風呂場を、薄暗い居間にまざまざと残された、荒れた侭の卓とソファと言う痕跡を通り越しながら見遣る。
 一言で言えば「どうしてこうなった」と言う感想しか出て来そうも無い様な事なのだが。
 別に若気の至りでもその場の勢いでも(多分)無い。寧ろそうでは無かったからこそ今こうして空など見上げて平常心を必死で保とうとしているのかも知れない。
 ……まぁ何と言うか要するに。致して仕舞ったのである。友達で居れば良いなどと嘯きながら共に居た筈の男と。明らかに友達と言う言葉の枠を越えて仕舞った、言い訳も出来ない様な行為を。





すんどめ。

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