ゆめのすこしあと / 1



 「飽きた」
 
 不意に銀時のこぼした言葉の意味を、疲労に浸された土方の脳は、恐らく上手い事聞き取れてはいなかった。
 ぐたりと俯せた布団の中で、その言葉の指す所の意味を斟酌するより先に唇の間に挟んだ煙草の煙を吐息に乗せてゆるりと吐き出す。
 狭くて薄い、生活感と使用感の溢れる、言って仕舞えば小汚い布団だ。汚い、とは言ったものだが、大概は毎日の様に干されているから少々草臥れた感はあれど決して不潔な感じはしない。綿が程良く潰れて古びた印象なのが小汚いと感じて仕舞う所以だろうか。
 万事屋の押し入れで、寝室で、毎日の様に家主の体温と体臭とを受け止めている布団だ。如何にも実用的な使用感の溢れるそこで、乞われる侭に身を横たえ、銀時と閨を共にする様になってから果たしてどのぐらいの時が過ぎただろうか。当初は他人の生活の臭いのありありと伺える其処に身を置く事にさえ何処か居心地の悪さを憶えたものだが、今では寧ろ己の体臭もこの布団に馴染んで仕舞っているのではないかと言う錯覚さえ憶える。
 眠るにも、『寝る』にも、慣れた肌触りと匂いと居心地。時に刻んだ疵の様に、少しづつ染み込んで馴染んで行く己の気配。
 貰われて来たばかりの子犬が、元居た場所の匂いのする手拭い一つを与えただけで安心しきって丸くなる様な。己の得たテリトリーへのマーキングにも似た感覚は、土方に無防備な姿を其処に晒す事を酷く当然の事の様に慣れさせていた。
 そのぐらいの時間は共に此処で過ごしている。重ねている。
 だから、銀時のこぼした言葉にも特に何の意味も憶えなかった。「何が?」そう疑問は僅かに浮かんではいたが、直ぐ様に問い質すには今の土方の身には疲労感が強すぎた。埒もない会話の一つすら億劫だったのだ。
 暫しぼんやりと燻らせ、短くなった煙草を枕元に用意された灰皿へと押しつける。煙草の臭いも此処に随分と馴染んで仕舞った気はしていたが、一応日中は子供の居る空間だ。土方の常の喫煙量から比べれば、此処で消費する煙草の量は驚く程に少ない。その少ない一つが、事後の気怠さを誤魔化す為のこの一服だ。
 一本近くを吸い終えるだけの時間が経過していると言うのに、隣に横たわった銀時は先頃の一言以上を続けて来ようとはしない。
 ヤニを摂取して幾分活性化した脳をなんとか稼働させながら、土方は枕元に両腕を付いてゆるりと上体を起こした。背中に掛けられていた布団がばさりと落ちる。然程暑い季節ではないとは言え、激しい性行為の後だからそれなりに肌は汗ばんで湿っており、夜気に触れた所から忽ちにひやりと冷えて行く。
 座り込んだ侭で横目を向ければ、同衾している男は肘をついた涅槃の様な姿勢でだらりと寝そべっていた。常変わらずの重たげな目蓋の下から、退屈そうな色を湛えた眼球が覗いている。
 「……何がだ」
 返答するにしては随分と間が空きすぎてはいたが、土方は率直にそう問いた。ともすれば疲労感の侭に眠くなりそうな目元に力を保って、こちらをじっと見ている銀時の姿を、やぶ睨みの様な角度で見遣る。
 すれば。返答が返ろうが返るまいがどうでも良かったのか。銀時は気の無い仕草でちらりと視線を動かして口元を厭な形に歪めた。笑いとも嗤いとも、或いは不快感ともつかない、そんな表情を見下ろして、土方もまた眉根を寄せる。
 表情から見えたのは決して躊躇いではなかったと思う。
 「こうやって、お前と寝んのにだよ」
 かと言って。嫌悪感でも苛立ちでも況して怒りでも無い。
 諦念や寂寥や憂鬱でも、無い。
 嘘や冗談でも、無い。
 只の、淡々と紡ぐ程度の『事実』だ。
 「──」
 は。と肩を竦めて、一言。簡潔にそう投げると、銀時は歪めた表情の侭、唇だけを動かした。
 「まぁそりゃ最初は、プライドばっか高ェ野良犬を踏みにじるのとか?それなり興奮出来たけどよォ…、やっぱマンネリって奴?
 野郎相手でも普通のセックスと同じ様に気持ち良いんなら、手近な所で抱ける男(の)が居りゃァ楽なんじゃね?って思ってたが、」
 ぶっちゃけ、もう飽きた。
 そう、へらりと軽い調子で、嘲笑にも似た表情が告げて来るのに。
 「……え…?」
 土方は、辛うじてその一音を紡ぐだけが精一杯だった。
 心臓がぎしりと厭な音を立てて鼓動を跳ねさせる。冷えた背筋から更に血が下がる心地に、全身がふるりと震えた。
 「『え?』じゃねぇよ。だから、飽きたっつってんの。解る?」
 先頃まで身の内に溜め込んでいた熱が、交わしていた情が、男の放った言葉のひとつひとつに酷く冷たく吹き散らされて行く。
 肌の上を伝う汗も、情欲の名残も。熱を失えばそれは酷く重たい現実感だけを乗せて残される。
 現実の様な現実感の中でぐらりと眩暈を憶えた気がして、土方は我知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
 「……………何、だよ。今更抜かす台詞か、それ」
 声が震えるのを隠す様に、煙草を探る手も震えている。動揺を出来るだけ──否、完璧に、ほんの僅かたりとも悟られまいと、土方は銀時に背を向けて布団端に座り直すと、枕元の灰皿を引き寄せた。
 落ち着いて煙草を吸いたいだけだと言う動作の心算で──銀時から目を逸らしたくてそうしたのに、相変わらず指は震えて煙草をくわえる唇も戦慄いているのが何だか酷く無様で馬鹿馬鹿しかった。
 「……は。散々人の事好きに掘っといて、今更、言うに事欠いて『飽きた』かよ」
 言葉は望んだ様に、吐き捨てる調子で、煙草をくわえた唇からこぼれた。ライターを持つ手が震えているのが間近に見えて、思わず歯を食い締めれば、煙草のフィルターまで噛み潰して仕舞い、土方は銀時から背けた侭の顔に渋面を作った。
 追い縋る権利は無い。追い縋れるだけの情も無い。焦がれるに似た執着はあったかも知れないが。
 ぎくしゃくと震える手つきで煙草を灰皿に放り込むと、土方は殊更にゆっくりとした挙動で立ち上がった。
 『飽きた』と。言われてまで、男の横に裸身を横たえ朝まで眠れる気なぞしない。だから、もう深夜と言う時間帯だが、帰るほかない。
 否、それ以上に、この侭此処に居たら己がどんな醜態を曝して仕舞うか知れなかった。
 熱の冷めた身体にまとわりつく汗が酷く冷たい。先頃まで分け合っていた筈の熱の残滓は何処にも無い。ぐらぐらと揺れる脳を叱咤して、体裁を取り繕う様に黒い着流しを手早く身に纏う。
 土方が場を辞そうとしているのは明かだ。だから、もしも冗談か嘘で、銀時が止めるのならこのタイミングを於いて他にはない。
 「………」
 だが、結局銀時の動く気配を何ら感じられぬ侭。先頃彼の言い放った言葉のその通りに。追い縋る様な心算は──冗談で終わる心算は、銀時には無いと。土方はそう確信せざるを得なくなっていた。
 酷く冷えて乾いた空気の横たわる部屋の中で、土方は何分もかからず身支度を終えていた。引き留める言葉や、「冗談だって」と笑う声や伸びて来る腕を何処かで待ちながら。その期待は叶う事無いと冷徹な判断で知りながら。
 嫌う様な事があったとは思えない。互いの関係を変える程の喧嘩をした訳でもない。
 ただ、淡々と。まるで夢から醒めるかの様に。あっさりと。銀時は土方から手を離したと言う事だ。
 『飽きた』。きっとその言葉の通りに。
 「…………じゃあな」
 またな、とは言えなかった。土方の平坦な別れの言葉に、銀時はさも煩わしいと言う様な態度で軽く手を振ってみせるのみだった。追い払うのに似た仕草だ、と背を向ける寸前に思いはしたが、直ぐにその感想は振り捨てる。どの道今己のしなければならぬ振る舞いは変わらないのだから、これ以上心に何かを抱えたくなど無い。痛みや、惜しみや、悲嘆や、罵声や──或いは、無意味な問いかけを。
 寝室を出る。見慣れた居間の冷たい床を踏んで進む。凝った空気は深夜の、痛くなる程の静寂を掻き分けて直ぐ様に溶けて消えた。
 まとわりついていた筈の熱情も、無為の交わりも。するりと土方の身体から解けて消えていく。
 「………」
 玄関に脱いだ草履に足を落として、静かに戸を開く。
 声も、姿も、追っては来ないから、振り返らなかった。
 口から、今にも何かが飛び出して来そうで、思わず奥歯を噛み締める。
 胸を刺す空虚な不可解感に押し出される様に、外階段を下りた土方は足早に夜の中へと消えた。
 そうして朝へと、醒めて戻る。己の本来居るべき、在るべき、真選組の世界へと。







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