もう誰が世界と和解するものか

※朱キ日とそれからのPIXIESの適当妄想。
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【朱キ日】

 あの日に残された記憶、そして記録も、全てが『朱』の一色に染められている。
 それは嘗ての災害じみた出来事の引き起こした無惨な死と破壊の日の事だ。それに与えられた名前だ。不運にも現場を観測し、そして奇跡的に生存の叶った僅かの人々は、その時の事を誰もが口を揃えてそう語る。
 『朱キ日』──と。
 あらゆる視覚からも、あらゆる観測機器からも、遙か遠い天頂から水平線までが綺麗な朱に染まった光景だけが記憶され、記録され、残された。
 まるで血の様に。恰も災厄の現実離れした不吉さを物語るかの様に。
 故に、その日は単に『朱キ日』とだけ称された。その一言だけで、世界を如何な災厄が襲ったのか、あらゆる人々に遍く知らしめる事が叶ったのだ。
 それは、有史以来初めて観測されたナーサリークライム同士の戦いであった。
 それは、大陸をひとつ沈める程に壮絶な、正に災厄以外の何でも無いものでしかなかった。
 それは、正しく朱キ日と呼ぶほかない事象となった。
 犠牲者の正確な人数は未だ把握が出来ない程に、莫大な数に及んだ。大雑把な状況把握では、地球上の人類の数の、二十分の一ほどがその、たったの一日で世界から消えたとされている。
 全てを朱に染めた世界とは、地球が己の消滅を感じて黄昏を見せたものだったのではないかと、そんな荒唐無稽な話ですら誰もが疑う事無く受け入れた。受け入れる他になかった。
 ナーサリークライム。人の姿形をした災厄の主。
 彼らの一挙手一投足が、世界をこんなにも容易く破壊して仕舞う。
 人も、秩序も、社会も、歴史も、何も無い。彼らの前では、何の意味も持たない。
 たったの五人の、人間の形をした『何か』たち。
 人がそれを畏れるのは余りに当然の流れと言えた。そして怯えた。いつか彼らが再び、あの朱に染まった世界に顕れるのではないかと。
 朱一色に染まった世界の中で、一体何が起こったのか。そんな事はどうでも良かった。
 あの日、世界が朱となった。その恐怖と畏怖だけが事実として刻まれ、そうして人類は、いつか世界が再び朱に染まる時をこそ、ただ畏れ続ける事となったのだ。
 
 *
 
 "極東日没が現れた"
 
 その報告を受けた時、PIXIESの全メンバーはカンパニーのNY支社へと赴いている最中で、そして主要メンバーを含めて誰一人、急な任務を与えられてはいなかった。つまりは全員が奇跡的に手空きの状態にあった。
 命令は無かった。指示も。何一つ。
 或いは、だからこそ、彼らはその報告を前に口々に言った。
 極東日没を倒すのは今をおいて他に無いのではないか──、と。
 
 極東日没と言う個体名を持つ存在について知られている情報はそんなに多くはない。
 一つ、その男が嘗て日本と言う国の、大都市を一人で、拳一つで壊滅させた事。
 一つ、カンパニーと常時敵対している訳ではないが、何故か全く相容れもしないと言う事。
 一つ、カンパニーは今まで幾度もそれに挑み、そして全て返り討ちに遭っていると言う事。
 一つ──その男がナーサリークライムであると言う事。
 
 ナーサリークライムと言う存在について知られている情報もまた、そんなに多くはない。曰く、世界に五人しか存在しない者を表す称号だとか、一人で国家規模の戦力を相手取る事が出来るとか。その程度である。
 ただ、カンパニーは確かに、兵力としてナーサリークライムと呼ばれる存在の一人を保有しており、取り分けそれはPIXIESの人員にとって酷く馴染みの深い称号であって、それを冠する存在の名前でもあると言う認識でもあった。
 特殊情報課伊部隊PIXIES。三十六天と号される規格外の戦力たるエリートのみで構成された、世界最強の部隊のひとつ。それを率いる第壱天・神崎貴広。
 彼はカンパニーの擁する、ナーサリークライムと呼ばれていた。カンパニーの仇敵たる、極東日没と同等の存在であるのだとされていた。即ち、ナーサリークライムを自陣営に擁すると言う事は、国家間では戦術核を保有していると言う言葉以上の効力を持っているも同義だった。
 彼をナーサリークライムと言わしめたのは、主に漆黒と呼ばれる力であった。人の身には到底収まらぬその力は、最強と呼ばれるPIXIESと言う存在を更にその上、紛れもない畏怖へと押し上げるには充分過ぎる名前であって存在であった。
 貴広は、PIXIESを率いる者として、部下を護るのは己であると課して、共に前線に立ち続けた。
 PIXIESの隊員たちの誰もが、絶対的な強者であり、共に戦う貴広に対して畏怖と同時に限りない信頼、崇拝、畏敬と言った感情を覚えた。
 化け物ほどに、神ほどに畏れる存在が、然し自分たちの味方で居て呉れる。これ程に心強く、そして傲慢を逆撫でする感情があっただろうか。
 だからこそ彼らは神崎貴広を──漆黒の神崎に抱く畏敬を、自らの自信へと変換した。絶対的な過信を得た。
 故に、彼らはあの日、全てを喪った。
 全てを染めた朱の色彩の中で生き延びた僅かの者たち。彼らの裡でその時の全ての記憶は今も猶強く、濃く、無惨な程に鮮やかに焼き付いている。
 
 *
 
 ばすん、と。
 響いた音は余りにもあっさりとした、湿った厭なものだった。
 伊勢は己の半身を朱く染めた『それ』が何なのか、全く理解が出来なかった。生ぬるく、頬に貼り付いたそれが『何』であるのかを──どこの部分であるのかを、理解したくはなかった。
 「隊長…?」
 乾いた地面を打つ重たい音とほぼ同時に聞こえたのは、数メートルも離れていない後方に立っていた五十鈴の茫然とした声。その呟きから伝播した理解の二文字が、同じ様に傍に居る矢矧に、島風に、雪風に、困惑や戦慄の表情を刻ませる。
 「たい……、ちょ、う」
 崩れ落ちる様にしてがくりとその場に膝をついた五十鈴が、恐る恐る『それ』に手を伸ばす。あっさりとした音と共に、余りに呆気なく斃れた『それ』に。
 何が起きたのか、理解する事すら難しかった。予見し、躱す事も不可能だった。だから『こう』なったのだと、結果だけが唐突にそこに現れた。
 それは彼らが遠距離から極東日没の姿を確認した丁度その時だった。
 PIXIES総員の、対極東日没への攻撃作戦は簡単に言えばただの物量戦闘であった。貴広を含む六天が中心となって極東日没に一斉攻撃を挑み、残る三十天は別行動を取りつつ挟撃及び攻撃参加。補欠員たちは遊撃と情報収集と伝達。
 そして貴広を中心に、会敵次第打って出るべく六天は出撃。程なくして、人工物の存在しない山間の荒野にて本作戦の殲滅対象である極東日没の姿を確認するに至った。ここまでは予めの情報と予定の通り。
 不穏な気配を感じたのか、その場で立ち止まった奴はゆっくりと振り返り、そして──
 攻撃動作は殆ど見えなかった。拳を振るったのか、それとも石礫でも投じたのか。
 火器ではない。音がしなかったしそんな動作は見られなかった。そして何よりも極東日没は素手で戦う事で知られている。
 そもそも、伊勢に因る大気圧の領域内では火器や飛び道具など役に立たない。然し、その攻撃らしいものは圧縮された気圧の壁を容易く貫いた。狙撃銃程度であれば着弾前に推進力を失って落下する程の『重さ』を、全く物ともしなかったのだ。それだけの速度と質量を以て、全く方法も知れぬその攻撃は放たれた。
 故に。会敵すらしない内の、一瞬にすら満たない動作で。攻撃で。
 「………」
 伊勢は自らの頬にべったりと付着した、朱くどろりとしたものに指先でそっと触れた。その動きで、スーツの肩口に貼り付いていたものが、ぽろりと剥がれて乾いた地面に、潰れた様な音を立てて落下する。
 砕けた真っ赤な血塊や脳漿をまとわりつかせたそれは、眼球であった。伊勢の指についたのもまた、脳かどこか体組織の一部なのだろう。粉々になってどの部位の何であるかも判別のつかなくなったそれは、紛れもなく──、
 戦慄きながら伸ばされた五十鈴の手は、然し『それ』に触れる寸前で止まった。触れたら、認めたら、これが現実なのだと実感せざるを得なくなるからだ。
 地面に仰向けに倒れたそれは、つい数瞬前までは神崎貴広と呼ばれていた人間であった。
 格好はカンパニー謹製の戦闘服でもあるスーツで、皆ほぼ揃いのものだから、一見しただけでそれを神崎貴広であると言い切るのは難しいかも知れない。
 何しろ、仰向けに倒れた彼の頭部は、下顎の僅かな部位を残して粉々に砕け散っていたからだ。
 「…………、」
 心臓は緩慢にしか動いていない癖に、血流は早く、脳は酷い混乱状態に陥っている。伊勢は、極東日没に挑むに最も強力な刃となる筈であった貴広の骸を、己の全てを懸けてでも仕えようと誓った人の無惨な姿を──その死を、迂遠の如くに無駄な思考を続けようとする頭で、漸く理解するに至った。
 神崎貴広と言うナーサリークライムが居たからこその作戦であった。故に、もうそれは破綻した。極東日没は貴広と接敵すらしない内に、間合い遙か遠くからその頭部をどうやってか撃ち砕き、容易く仕留めて仕舞ったのだから。
 嘘だ、と叫ぶ声と、どうして、と無駄な吼え声とが脳内を繰り返しぐるぐると回る。恐らくはその場に居た他の四人とて同じ様なものであったに違いない。
 情報部の人間として、冷静な思考と行動とを常に取れる筈の者たちは、目の前の余りに信じ難い現実とそれを示す光景を前に、その瞬間はただ茫然と立ち尽くすほかにどうしたら良いのか見失い果てて仕舞っていた。
 その時、極東日没が彼らとは逆の方向を向いた。残るPIXIESのメンバーたちが、作戦開始の時間通りに挟撃に入ったのだ。
 彼らは、彼らを率いていた筈の神崎貴広の死をまだ知らない。重火器、単分子ワイヤー、肉弾戦、何らかの異能。様々なものが極東日没の巌の様な体目がけて放たれ、そして一瞬にして吹き散らされる。一人、二人、幾つかの骸が飛んで、踏み砕かれて、血煙となって消えた。
 「──っ!」
 その光景を目にし、くそ、と舌を打った矢矧が、五人の中では最も先に我に返った。彼は一瞬だけ、斃れた貴広の骸を見たが、振り切る様に直ぐ目を逸らすとその侭大地を駆けた。無力に死んで行く部下たちを護るべく拳を構える。
 「っ伊勢、どないす……──、」
 続けて動いた島風は伊勢の顔を見て、然しその茫然と漂白された表情を前に、何かを論じる事は無駄と判じたのか、言葉を続ける事なく直ぐ様に矢矧を追って駆けて行く。
 極東日没の拳が振るわれ、また幾つかの屍が出来た。真っ向からその拳を貰った隊員の体が、壊れた人形の様にひしゃげて大地に力無く落ちる。
 伊勢の喉が鳴った。神崎貴広は、この作戦の要だった男は、指示を出す隊長は、もういない。撤退を命じるべきか、それとも、この侭貴広と共に殉じるべきなのか。
 その惨い筈の選択肢が酷く甘美に感じられて、伊勢は自らの背筋が粟立つのを妙にはっきりと実感した。
 地平が朱い。空もまた、朱く変じ始めていた。昼間の筈なのに、荒野を染める色は朱の一色。誰と彼とも知れぬ色彩の中のこの一幕は、果たして誰の為に開かれているものなのか。
 これが死に魅入られると言う事なのだろうと、伊勢は緩慢になった思考の片隅で思う。双子の弟である五十鈴は既に絶望に戦意を喪失して、貴広だったものを前に力なく座り込んで動かない。
 その絶望の名をした感情はよく理解が出来た。きっと同じ事を考えているからだとも解った。
 部下たちの骸が、秒を追う事に増えて行く。伊勢は今にも叫び出したくなる口を歪めて力無く嗤った。貴広であったら嘆いているだろうか。それとも怒りの侭に立ち向かって行っているだろうか。
 彼の人にとって、PIXIESとは死を越えた先に生まれた絆の様なものだった。PIXIESと、隊長と言う役職。それは神崎貴広にとっては他者からはじめて与えられた、役割そのものであると同時に、人間として己の居場所と存在とを明確にするものでもあった。
 きっと、己の名前以外のはじめての、持ち物だったのだ。
 だから、彼はきっと怒り狂って立ち上がる。部下たちの命を奪う『それ』を止めるべく。
 「──」
 思ったその瞬間の事だった。大気が凍り付く様な悪寒を憶えた伊勢は咄嗟に振り返る。
 そこにあったのは、首から上の殆ど残っていない貴広の身体が、人形の様にぎくしゃくと身を起こした姿。
 頭部のないマネキンの様なシルエット。生命体であれば確実にもうその動作も生命活動も停止しているだろうに、『それ』は確かに其処に立ち上がっていた。
 ぞわ、と。踵から脳髄までを一気に駆け抜けた寒気は、果たして一瞬にして冷えた大気の温度の仕業だけであっただろうか。
 大気が凍り、冷えた世界にぱきぱきと霜が蔦の様に生える。貴広の口のあった場所から、ひゅ、と白い息が吐かれた。そこで伊勢は、五十鈴は、雪風は、目を疑う。貴広に残されていた顎部に溜まった血が黒く染まりながら泡立ったかと思えば、骨が、戦慄く口蓋が、震える舌が、息を吐いた唇が、鼻が、筋肉が、皮膚が、目が、脳が、髪が──全てが元通りに再構築されて行く。
 漆黒の裡より、『それ』が新しく誕生でもした様に。
 そんな、正しく人智を越えた光景が目の前にあった。
 「──」
 声にならない声を上げて、貴広が吼えた。激しい瞋恚を表すその叫びと共に、全身に漆黒を纏い付かせた『それ』は──その人は疾く駆けた。極東日没と呼ばれる存在へと真っ向から挑み掛からんとする。その目はずっと、極東日没と部下たちとの戦闘へ向けられていて揺らがない。
 「……ナーサリークライム」
 雪風が茫然とそう呟くのが聞こえた。その言葉を耳にした伊勢は過たず全てを理解する。
 ──そう。神崎貴広は、ナーサリークライムと呼ばれる存在。それが、たかが頭部を砕かれ斃れた『程度の事』で、脆弱な人間の様に死んで仕舞う道理は無いのだ。
 今までまるきり人間にしか見えなかった彼は、然し『人』を逸脱した『何か』であったのだ。
 それは人なのか、それとも人の肉の中で不自由に暮らす神なのか。
 戦場に向かって駆けた貴広の背を半ば茫然と見送って、そこで我に返った五十鈴が弾かれた様に立ち上がった。
 「っ隊長……!」
 「五十鈴!」
 今にも泣きそうな声を上げるなり、貴広の後を追おうとした双子の弟を、伊勢は咄嗟に制した。
 「だって隊長が…!」
 何故止めるのだと言いたげな恨めしげな弟の声。伊勢はぐいと己の顔を汚す血と脳漿とを──先程まで確かに神崎貴広の一部であった筈のものを腕で拭うと、得た理解と共に明晰さを取り戻した思考を働かせて声を張り上げる。
 「五十鈴は私のサポートを、雪風は下の連中を頼む!」
 言うなり、伊勢は自らの周囲に大気の壁を展開した。今度は先程までと異なり、圧を高めその分有効範囲を圧縮し狭めた。五十鈴は双子の兄のしたい事を即座に理解するなり、局地的な上昇気流を発生させ、伊勢と共に上空へともの凄い速度で上がって行く。
 地平が弧を描いているのが見えるほどの高度まで来た時、伊勢は世界の全てが黄昏よりも遙かに朱い色彩を拡げている有り様を見た。先程までは地平と空とが朱いだけかと思っていたが、今はもう違う。空が、海が、大地が、空気が、全てが朱と言うひとつの色彩に染まっているのだ。
 上空から見下ろした極東日没の姿は、砂粒ほどに小さい筈だと言うのに酷いプレッシャーを与えて来る。正しく巌。正しく威容。正しくそれは、ナーサリークライムと呼ばれる圧倒的な存在であった。
 そこに、同じくナーサリークライムと呼ばれる存在が──人であればとうに死んでいた筈の存在が、漆黒の刃を引き連れ立ち向かっていくのが見えた。





…朱キ日と六天離脱の完全な妄想物語です。

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