もう誰が世界と和解するものか ※朱キ日とそれからのPIXIESの適当妄想。 ========================= 【六天】 ひやりとした冷気を膚に感じた気がしたが、恐らくは気の所為に違いないと矢矧は思った。そんなものはもう居ないのだと、そんな幻想は空しくも潰えたのだと、確かにこの目でそれを認めたからだ。 その瞬間に、心に沸いたのは恐らくは怒りだった。視線の先であっさりと吹き散らされる、見知った部下たちの命も、たったの一瞬で仕留められた世界最強の男への渇望も、全てをただの憤怒に変換した矢矧は、己の武器である拳を極東日没目がけて叩き付けていた。 岩や、山でも殴っているかの様な、圧倒的な無力感が、拳を繰り出すその度に沸き起こる。然し、だからと言ってその拳も歩みも止まる事はない。恐怖を思い出す前に、絶望を知る前に、身の裡を灼く怒りの侭に、戦い続けなければならないのだと、それだけははっきりと解っていた。 そしてその怒りと言う感情の前には、冷静な思考も価値判断も、命を惜しむ本能さえも、遠く感じられていた。 これが涯てであれば構うまいと薄らと思って笑う。焦がれ追おうとした者はもう既に失われたのだ。機を伺って退く必要などどこにも無い。 だから良い。後は、立ち止まった時が、拳を止めた時が、己の最期となる。せめて抗ってやろう、その他に選べる途などあろう筈もない。怯えて逃げ回るなど性に合わない。潜んで待つなど相応しくない。 ただ、駆けるだけだ。あれを、一発でも多く殴る為に。あれに、一矢でも届かせる為に。 虚ろな高揚感に嗤って拳を固く握り地を蹴る。距離数十米。拳に力を込める。 そんな時だった。聞き慣れた声が不意に耳朶を打った。 「矢矧!頭を下げろ!」 誰の声だとか、どう言う意味だとか──そんな事を考えるよりも先に、体が勝手に反応している。握った拳はその侭に、大地を駆けていた矢矧は咄嗟にその姿勢を低くする。その背中の直ぐ上を、黒い刃が貫いて飛んでいくのが見えた。 「…む」 一直線の軌跡を描き飛来したのは槍の様な、闇の塊。極東日没は僅かに表情を変え、それを正拳で正面から粉砕する。 「!」 次の瞬間、極東日没の足下の影が鎌首を擡げ、その顎を開いた。正拳を突き出した姿勢の侭のその身に向けて、闇より出た漆黒の牙が襲いかかる。 「ふん!」 吐かれたのは呼気。そして大地を踏みしめる足の音。筋肉質なその身から、気合いの声一つと共に巻き起こった圧力が、足下から伸びた漆黒を全て吹き散らす。 その隙をついて間合いの内側に入り込んだ矢矧の拳が極東日没を打つが、極東日没は自らの腕を引き寄せそれをいとも容易く防いでみせた。先頃までと大差ない、手応えのない攻撃に舌を打つと、矢矧は後方に飛び退いて一旦距離を取る。 その直ぐ横に、とん、と靴音と共に降りたのは、紛れもなく。 「……っ、貴広、あんた、」 矢矧はぎょっとなってその横顔を見る。だが、先頃確かに粉々に砕かれた筈のその面相は、己の知る神崎貴広のものと寸分違わぬ姿で確かにそこに在った。服が血に汚れていて眼鏡が無いほかは、何一ついつもと違えない姿だった。 「……、」 頭部を砕かれ生きている人間などいない。 砕かれた頭部を短時間で元に戻して再び立ち上がる人間などいない。 然し目の前に現れたそれは幻でも夢でも無いし、死体が動いている訳でも無い。 正しく。漆黒の闇を引き連れた、世界最強の存在。その名、Nursery Crime。 ──漆黒の神崎。 厳然たる事実と目の前の光景とが正しく結びつかず、矢矧は寸時沸いた混乱を必死に堪えた。きっとそれは論じても無駄なものなのだろうと、人智の外の何かがそうさせた。 「…隊長、ご無事な様で何よりや」 「最初から無事だっただろうが」 戦場を駆けていた島風が、事態を察知するなり駆け寄って来てその横に立ち止まる。乾いた声が言うのに、貴広は極東日没を見据えた侭で僅かに眉を寄せながら返す。脳味噌が吹き飛んだ事で記憶も吹き飛んだのだろうかなどと、寸時途切れた緊張の狭間で、ぼんやりとしかかる己の思考がそんな事を考えるのを、矢矧は茫然と聞いていた。 貴広の表情は珍しくも解り易い怒りに染まっていた。辺りに無数に散らばる部下たちの亡骸が彼にそうさせたのだろう。その足が大地を蹴った。一瞬にして懐に飛び込んだその利き腕の、漆黒を纏わせた拳が、極東日没の顔面に綺麗に命中する。 「そうか……、漆黒」 「!」 「主がそうであったか…。水気の王。北を司りし漆黒の主。我が土気相剋に位置するナーサリークライム」 ゼロ距離で放たれた拳に、然し極東日没は全く動じもせず、その身を僅かも揺らがせる事はなかった。顔面のほぼ中央に刺さった筈の貴広の拳は、然し何か透明な壁にでも防がれた様に、その表皮に触れられてすらいない。 「っくそ、!」 罵声と共に、続けざま垂直に蹴り上げた貴広の右足が、極東日没の顎を砕く勢いで放たれるが、極東日没は依然として動じない。 漆黒を纏わせ速度を乗せた足の一撃は、頭蓋ぐらい損壊出来る程の衝撃を持っていた筈だと言うのに。砕くのが無理だったとしても致命的な一打にはなっていた筈だと言うのに。驚愕に表情を歪める貴広の足を、大きな岩の様な無骨な手が、捕らえたとばかりに掴んだ。 「──!」 掴まれた足を支点にして、ぶん、と無造作な動きで振り回された貴広の身体が宙を游いだ。大きく振り上げられ、その侭の膂力で大地に向けて背から叩き付けられる。 「っぐ、はぁッ!」 背から思い切り、棒きれか何かの様に地に叩き付けられて、貴広の喉が血反吐を吐き散らす。普通の人間であれば脊髄から真っ二つに折られてとうに絶命していただろう。その身に纏う漆黒の力が直接的な威力を和らげはしたが、大地に叩き付けられた体がめり込む程の衝撃全てを殺しきる事は出来なかった様で、弱々しく呻く彼は即座に戦線復帰が出来る状況では無い。 「水は土に因って剋される。我らナーサリークライムを生み出せし五行の理は、主では打ち破れはせぬ」 貴広の右足を捕らえた侭、極東日没は戦意を剥き出しに向かって来る隊員たちに向け、その場で拳をぶんと突き出した。途端、拳の巻き起こす暴風の様な圧力が大地を抉り、その衝撃を真っ向から受けてまた死体が増える。 そこに、後方からじぐざぐの軌跡を描きながら島風が走って来た。その速度と複雑な軌道を拳の一撃で捉えるのは困難と感じたのか、極東日没は一旦構えに移る。島風は走りながら途中で、不発となって転がっていたタングステン鋼の榴弾の前に向かうと、重さ10kg以上にもなるそれを蹴り飛ばした。火薬の炸裂しない弾丸はただの金属の塊と同様なので、質量と、速度だけがイコール破壊力になる。 そして島風の脚力であれば、火薬も、長距離用の迫撃砲を飛ばす為に必要な長大な砲身も必要ない。問題点があるとすれば、軌道の微調整が叶わぬ事と、尖端が直進しないと言う事ぐらいだ。 「ふんぬ!」 然し極東日没は矢張り怖じける様子も見せず、己に一瞬で迫った弾頭を拳で迎撃する。縦に回転していた筈の弾頭が拳に衝突し、空気が軋む様な轟音が荒野に乾いた音を響かせた。衝突した弾頭は瞬時にしてその膂力に負けて粉砕される。 榴弾の破片など意味をなさぬ程に粉々になったそれに続いて飛び出した矢矧が、再びその自慢の拳を叩き付ける。今度は防御をする隙など与えなかった。 「──ぐ、」 だが、自身の腕が厭な音を立てるのを聞いた、矢矧の顔が激痛に歪む。拳同士が衝突したそこから、空気が撓む様に震え、呆気なく矢矧の体を押し返して吹き飛ばす。咄嗟に後方に退こうとしたが間に合わず、凄まじい衝撃がその身を襲った。 世界が歪む様な衝撃の中、大きく吹き飛ばされ岸壁に叩き付けられそうになる矢矧の体を、横から飛び出した雪風が何とか受け止めるが、勢いを殺し切れずに二人して大地を激しく転がって行く。 「こん、化けもんがァ!!」 怒号と共に島風が、その豪速たる二つ名の所以の速度で、回り込んだ極東日没の背後から駆けた。跳躍と共に、鉄板を蹴り砕き砲弾をも蹴り飛ばす彼の足が極東日没の頬に直撃する。 だが、その衝撃は矢張り、まるで岩にでもぶつかったかの様に手応えなく空しく霧散。それどころか、自らの足の方が砕けそうに軋む。 「なんやてめぇ、アホかぁ!」 意味もなさぬ罵声を上げた島風は、振り抜いた逆の足で極東日没の頭上に踵を叩き落とした。それを容易く腕で防いでみせた極東日没は、「良き!」と猛り笑う。 それは、殺し合いにも満たぬ、格闘を楽しむ強者の笑みであった。 「──!?」 然し次の瞬間、極東日没の強靱な肉体が、踏みしめる足が、大地にめり込む様にして沈んだ。凄まじいまでの形無き重量と、瞬間的に薄くなる酸素とに、極東日没の顔がここに来て初めて僅かながら驚愕の気配を見せる。 「重力……否、風圧…!」 至近でそれを見た島風が歯を見せて笑う。極東日没と同等の圧力をその身に受けながら、彼は天へと何とか視線を向けた。 「さっきまで死にそうな面晒しとった上、重役出勤とは恐れいるわ」 悪態を投げたからと言う訳ではないだろうが、めり、と更に加重が強くなる。逆巻く暴風の様な風の中、酸素の希薄さと気圧とで島風の意識が遠のきかけた時、横合いから吹き付けた別の風がその体を少々乱暴に吹き飛ばした。 「加減している余裕はありませんから!」 「自己責任で離れろ!」 五十鈴、伊勢と声が続いた。島風は己を吹き飛ばして重風の圏外へ追いやった五十鈴の号風に激しく転がされながらも、無理に笑って親指を立ててみせる。 「五十鈴!」 伊勢が叫ぶ。上空で気流を制御していた五十鈴は一つ頷くと、ちらと眼下を見遣った。極東日没と、その腕が未だ無造作に掴んだ侭でいる貴広の姿とを視界に捉えながら、伊勢を支えていた風を解除する。 「頼んだよ!」 自らを中空に支えていた気流から解放され、極東日没の上空から伊勢が真っ直ぐにその纏った風圧と共に落ちて来る。その腰溜めにした拳には更に強く圧縮された、刃の如きに研ぎ澄まされた風が渦巻いており、眼鏡の向こうの表情は、日頃の伊勢に見る事は叶わぬ様な激しい怒りを宿している。 質量さえ伴った気圧の中、極東日没の立つ地面が大きくひび割れて陥没する。然しそこに立つ極東日没はほんの少しだけ鬱陶しそうに目を細めるのみ。容易に動けはしない様だが、ダメージは与えられていない。 矢の様に落下した伊勢は、拳を突き出し五指をぴんと張った。高めていた風圧が最大速度で解放された事で、辺りはまるで凄まじい暴風域の中に入り込みでもした様であった。気圧を極一点に極限まで集中させたその切れ味は、伊勢の珍しい雄叫びと同時の吶喊と共に放たれた。 「その手を離せ…!」 眼下の極東日没は、気圧の下で回避や迎撃と言った行動を取れない。鉄風と呼ばれるそれは、伝説上の妖怪である鎌鼬の様に、見えない刃と化して極東日没を襲い、それはその岩の様な鉄の様な皮膚を僅かに傷つけ血を流させる。 だが、それだけであった。神風もまた漆黒と同じ。それらが極東日没の身に明確に触れるよりも先に、その巌の様な存在の前で和らいで殆どが無力化し消えて仕舞う。 有効手には程遠い。そうまざまざと目の当たりにした伊勢は、舌を打つと重風を解除した。この侭では極東日没が捕らえている貴広の身へ掛かる負担が余りに大きい。 身動きの叶わぬ質量から解放され、すかさず極東日没は伊勢に向けて拳を繰り出すが、その前に伊勢の体は、五十鈴の起こした再びの風に乗せられ大きく距離を取っている。 神風の吶喊を目にして、戦意を喪失しかけていた僅かの生存隊員たちが雄叫びを上げた。それに呼応する様に、重風から解放された貴広の体が己を捕らえる宿敵を前に藻掻いたかと思えば、漆黒が極東日没の身を襲う。 「っ、いつまでも、調子に乗ってんじゃねぇ!」 合わせる様に、貴広の怒号と共に蛇の様にまとわりついた漆黒が、一斉に槍と化して極東日没の身を貫く──寸前で、「ふん!」と気合いと共に大地を踏む四股の衝撃に因ってあえなく砕け散った。 いつもならば、漆黒の怒りの前に生きていられる者など居る筈も無かった。 だが、相手が悪かった。あらゆる生命を呑み込む冷えた漆黒は、岩の如き怪物を前に児戯に等しくあしらわれ霧散するばかり。 六天の誰もが、極東日没と言う巨大な岩の様な存在に、何一つ有効打を与えられない侭。ただただ時間と共に屍ばかりが積まれていった。 極東さんは手応えありそうな相手にはちょっと加減して、戦うのを長引かせて楽しんでるイメージがですね…、 ← : → |