もう誰が世界と和解するものか

※朱キ日とそれからのPIXIESの適当妄想。
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【飯島】

 朱に染まった世界の中で、飯島はただ震えていた。
 目の前で起こっているその光景は、到底現実とは思えない程に現実離れした、悪夢かそれ以上の何かでしかなかった。
 極東日没が拳を振るい、大地が嘘の様に裂けた。まるで紙切れか何かの様に割れたそこに、何人もの仲間たちが呑み込まれていく。ひび割れから生じた衝撃が少しずつ伝播し、大陸全てが異常なまでの振動に包まれた。連鎖して大地が地層を剥き出しにしながら隆起し、地表が激しい地震に揺すられ、巨大な山体が崩壊する。遠く海岸線では海が波立ち荒れ狂い、壁の様な津波を引き起こす。
 朱の空の下、それは最早ただの、理不尽なだけの災厄をもたらす化け物でしかなかった。
 飯島はPIXIESの正式メンバーではない。補欠と呼ばれる予備人員の一人でしかなく、六天は疎か三十天にも及ばぬ、一般エージェントと殆ど変わらぬ存在だ。
 然しそれでも、普通の対人戦闘ならば易々遅れを取る事はないぐらいの能力はあると自負していたし、隊長である貴広にもその力の程度や使命感の強さは買われていた様に思う。
 六天の様な異能が無くとも、隊長の補佐が出来る。飯島ならずとも、PIXIESの誰もが抱いていたその思いは、純粋な崇拝にも似たものであったのだろう。
 然しその日降り注いだそれは災害だった。暴力だった。ただの純粋な力だった。
 最初の会敵で、幾人かの隊員が砕けた。言葉通りに、圧倒的な力で粉砕されたのだ。
 自分たちはまるで岩や山に向かって無謀に吼えるだけの存在だと、そう感じた。どうあってもこれは手を出してはいけない様な、ただの伝説上の怪物か何かだったのではないだろうか。そのぐらいに、余りに絶望と死しかない世界は、それを表した様な朱の色に彩られて、怯える事しか出来ない飯島の無様で矮小な姿をそこにただただ晒していた。
 
 極東日没が無造作に動く度、一秒毎に屍が増えた。茫然と座り込んでいた飯島のすぐ横にぐしゃりと音を立て、嘗て仲間だったものの千切れた上半身が飛んで来た。
 頼みの六天たちも、極東日没のふるう暴力的な力の前に次々陥落していく。最早それは一方的な、戦いですら無い遊戯の様だった。
 己の脚を未だ掴む手を振り解こうと足掻いた貴広が、今度は頭を掴まれて軽々と持ち上げられたかと思えば、後頭部から地面へと叩きつけられる。地面にめり込む程に掌で顔面を強く押さえつけられ、手は己を掴む丸太の様な腕を引っ掻き、足は空を掻いて暴れる。
 極東日没の腕の筋肉が膨らみ、更に加重がかかった。岩だらけの大地に貴広の頭部が更に沈み、足が大きく跳ねて、それから脱力する。
 だらんと力の抜けた様に見えた四肢は、然し倒れながらも再び動いた。肉食獣に仕留められるまでの僅かの時間を藻掻く小動物の様に、何とか立ち上がろうと弾かれた様に動く。
 大地を踏みしめようとした右の脚を、然し極東日没の脚が無造作に踏みつけた。大地を踏むが如くに、当たり前の様な動作だった。
 足の下に潰された大腿部で骨の砕ける厭な音がした。苦悶の表情を浮かべた貴広は、己の足を踏みしだく極東日没の足を、漆黒を纏わせた逆の足で思い切り蹴るが、効果は無い。
 続けて貴広の右の足首を再び掴んだ極東日没は、踏みつけた侭の足に力を込めてその腕を無造作に引いた。まるで虫の手足でももぐ様な簡単にすぎるその動作で、貴広の右足が、砕かれた骨の部分から引き千切られる。
 「  、      、!、、、!!」
 絶叫。弾ける様な血飛沫。大腿部から千切られた脚は不要物の様に投げ捨てられ、貴広の体は背を大きく仰け反らせて四肢を──否、残る三肢を突っ張らせて激しく痙攣する。膝上、関節ではない部分で無理矢理に粉砕されて千切られる激痛など想像もつかない。
 その上げた苦悶に、負傷し倒れていた伊勢と五十鈴の体がまるで条件反射の様に起き上がった。駆け寄るなり、極東日没に向けて竜巻に似た号風を叩き付ける五十鈴の、その直ぐ横で伊勢が鉄風を巻き起こす。
 そのひとを離せ。
 言葉にならない絶叫が飯島の脳をがつんと打った。
 そこで、漸く悟った。漸く解った。これは敗北なのだと。ナーサリークライムとまで呼ばれた神崎貴広の、死かそれに近しい敗北なのだと。
 世界最強とまで讃えられたPIXIESの、崩壊なのだと。
 護らなければ。逃げなければ。戦わなければ。生きなければ。死を覚悟しなければ。
 あらゆる感情が飯島の脳の中をめまぐるしく駆け巡る。彼の周囲には既に死体しか残っておらず、五体満足で動ける状態なのは彼しかいない。だが、それでも、恐怖と絶望に蝕まれた体は竦んで動かない。
 極東日没の拳の一振りが余りに呆気なく、風と共に伊勢と五十鈴の体を吹き飛ばした。その身は地面を鞠か何かの様に弾んで転がるが、双子は血を吐きながら、猶も足掻こうとする。続け様に矢矧が骨の砕けた拳をネクタイをぐるぐる巻きにして握り絞めて駆ける。そして叶わず地面にまた転がる。
 それは飯島にとってまるで悪夢の様な光景であった。世界最強の者たちが、自分の信奉する者たちが、然し誰一人として何も出来ない。
 何も出来ない侭、目の前で失われようとしているものが在る。
 逸らせない目の中で、貴広の体がその頭部を掴んだ極東日没の片腕に吊り上げられて地面から浮くのが見えた。悲鳴はもうその喉から搾り出されてはいない。意識がないのか、だらりと人形の様に脱力しきっている。
 断たれた右足からどくどくと滴る朱い血がそれよりなお朱い空の下、黒く染まって凍り付き、霜となって吹き散らされていく。
 次の瞬間には、がくがくと痙攣した貴広の喉が大きく仰け反って、苦悶を吐き出す。まるで伝説の吸血鬼か何かの様に、その化け物は神崎貴広から命の様な何かを、鷲掴みにしたその手から吸い出していっているのだと、何故かそんな気がした。
 捕食されているのだ、と思った。
 あの絶対的な強者であった漆黒が、神崎貴広が、怪物に為す術もなく喰らわれている。
 如何な強者であれど、食物連鎖には、理には勝てやしないのだと思い知った気のした飯島は、声もなく泣いた。畏れ、憧れ、敬い、崇拝して来た己の信じる絶対的な真理が、神が、信仰心にも似た心が、無造作に穢され喰らわれ打ち捨てられる光景は、飯島の中のあらゆる価値観をめちゃくちゃに引き裂いて砕き尽くした。
 朱一色の絶望。それを描いた世界。その中で未だ足掻いて、風が吹き荒れる。返せと叫びながら、伊勢と五十鈴が再び極東日没に向かい、今までに無い程に強い暴風の中にその動きが一瞬だけ止まる。
 そこに、突如朱い世界を裂いて強烈な白い閃光が走った。
 「飯島さん!」
 それはPIXIESの補欠隊員の中でも最も年若い、隷の声だった。飯島の、恐怖に呪縛された筈の体はその声に弾かれた様に動き、怪物の腕に捕らえられた貴広の元へと走っている。自分でもどうやって動いたのか、何を思っていたのか、それすらよく解らない侭。本能の様に。
 「む…」
 怪物の巨躯が動いた。が、直ぐに目元を覆ってかぶりを振る。片手にぶら下げていた貴広の体が手放され、壊れた玩具の様に無造作にその場に落下する。
 隷が極東日没の顔面ほぼゼロ距離まで接近し発動させた閃光弾の衝撃は──未だ有効。猶も囮の様に自動小銃を片手に銃弾を撃ち込み走り続ける隷を横目に、飯島は怪物の足下へと駆けた。
 「飯島ぁ!隊長を連れて離脱しろ!」
 伊勢の声だ。こんなに激しい感情を剥き出しにした声は聞いた事が無い。続け様、神風が、豪速が、壮絶が、浮沈が、一斉にぼろぼろの身体を引き摺って極東日没に襲いかかった。
 血に全身を染めて、弱すぎる呼吸を漏らしている貴広の体を担ぎ上げると、飯島は振り返らずに駆ける。六天の戦いか、隷が何かをしたのか、それとも他に援軍でも来たのか、続け様に爆発音や衝突音が聞こえて来たが、飯島は振り返らなかった。
 怪物から逃れる為には、怪物から無心に逃げるよりほかには無いのだ。
 
 *
 
 果たして怪物は追っては来なかった。荒野の外まで逃れて来て飯島は漸く、怪物の顎から己が逃れる事に成功したのかもしれないと言う事を実感した。
 然し振り仰いだ空は未だ朱に染まり、その朱の色彩に染め上げられた大地は何か強い力で揺さぶられる様に振動し続け、まるでこの世のものとは思えぬその一日の終わりを鮮やかに映し出していた。
 これはきっと世界の終わりの風景なのだと、直感する。
 飯島は疲れ切った足を、激しい息遣いに眩暈すら憶えながら、動かすのを漸く止めた。途端に膝が震えて、がくりとその場に膝をついて仕舞う。
 人里に辿り着いていたが、最早そこには誰の姿も無かった。さながらゴーストタウンと化した小さな田舎町は、近場の火山の噴火や地震の影響でかあちこちで火の手が上がっており、人々がとにかく慌てて逃げ出したのだろう事だけが伺える。
 覗いた、集会所の様な建物には遺体が幾つか安置され転がっていた。彼らの死因など解りもしないし、興味もない。どの道きっとこれから死体の数はもっと、もっと増えるだろう。もしも大陸中でこんな異変が起きているのだとしたら、既に国家は危機的な状況にある筈だ。
 否、国家などと言うものが意味を成しているのか、最早それすら定かではない。
 集会所の床に、肩に担いでいた貴広の体を下ろす。青白い顔を晒した貴広は、完全に意識を失っている様でぴくりとも動かない。思わず脈を確認するが、ちゃんと生きていた。飯島はほっと胸を撫で下ろす。
 だが、その安堵も長くは続かない。飯島はがくりと肩を落として、奥歯を軋らせ呻いた。この朱の空の下、ナーサリークライムと呼ばれる存在のたったの二人が戦っただけで、世界はこんなにも容易く悲鳴を上げて仕舞う。
 そしてそんなナーサリークライムであっても、敗れればこの様だ。PIXIESと言う世界最強を冠した名など、六天など、人間など、あの圧倒的な怪物の前では、何一つ抗う術すら持たない。単なる無意味に過ぎなかった。
 混乱と恐怖とに苛まれた飯島はぶるりと背筋を震わせ、泣き喚きたくなるのを辛うじて堪えた。然しそれは強さを探した殊勝な思いでも何でもなく、ただ、叫んで仕舞ったら怪物の足音が今にも聞こえて来そうな気がしたからだ。
 こんな状況にあっても、当たり前の様に、怖ろしい、などと思えるのがどこか滑稽で、不思議だった。世界の終わりの様な風景と朱に染まった空の下で、今更己の命ひとつ惜しんだ所で、何にもならないだろうに。
 断続的に微動する大地に建物が軋み続けている。そんな物音一つに怯えながらも、飯島は辺りにあるものを掻き集めて貴広の右脚の応急手当を試みた。膝の少し上から下には何も残っていない。対照的に位置する左の脚はすらりと綺麗に残されているのに、右の脚は途中から何も無い。引き千切られたその断面は血を流し続けていて、まるで腐食でもした様に黒く染まっていた。早く専門的な治療を行わなければ、出血多量で命にも関わるし、敗血症になって仕舞う。
 飯島が養成所で教えられたのは飽く迄応急処置だけだ。医療の知識など他は聞きかじりのものですらなく、それさえも怯え震える脳の中ではまともな記憶と言う形にすらなってくれない。
 こうして死ぬ仲間を沢山見て来た。今日。否、養成所で生死を分けていた日々から。沢山。
 それでいて怖ろしいのか。自分の番が来たと言うだけなのに。
 六天でも、ナーサリークライムの神崎貴広でも叶わなかった怪物を、自分がどうにか出来るとは思っていない。飯島は突きつけられた己の無力感を前に、ただ力なく呻く事ぐらいしか出来ない。
 何かアクションを取るだけでもあの怪物がすぐに目の前まで迫って来る様な気がしていた。故に、飯島が集会所に置かれていた無線機を震える腕を鼓舞し何とか手に取った時には、時間は随分と経過していた。
 PIXIESが緊急連絡用に用いているチャンネルに合わせて、幾つかの暗号を送信。六天たちの元へと現在地を知らせた。これで勘付かれて、もしも奴が追ってきたら、もう殺されるか死ぬかしか出来ない。
 カーテンの隙間から見上げた空は相変わらずの朱色の世界であった。大地は割れながら震え続け、火山も激しく炎を噴いている。沿岸部では黒い津波が全てを呑み込んだと、ラジオから漏れ聞こえるニュースが嘆きや悲鳴と共にそう伝えていた。
 救助の為の船や航空機がカンパニーやこの国の軍隊によって用意されているから、指定された大都市に避難しろと、急拵えの録音がずっと同じ調子で流れ続けている。
 本当に世界はこれで終わるのではないか。そんな気がした。正しく、大衆の娯楽映画などや黙示録に表現された通りの、世界の終わりとはきっとこう言うものだった筈だ。
 貴広は意識を途絶した侭ぴくりとも動かない。応急手当やその場凌ぎの止血はしたが、その顔色は青白く、呼吸もか細い。
 その有り様に、死、と言う言葉がちらつく。
 何故だろうか。この男は飯島が憧れ続けた、絶対的な強者であって、世界を滅ぼす程の存在であった筈だと言うのに。
 (死ぬ筈がない。隊長が、この人が、死ぬ筈など…、ない…)
 幾度もそう繰り返して、額に浮かぶ汗を拭って、飯島は座り込んだ侭床に手をついて背筋を震わせた。まるで祈っている様だと気付いたが、止められない。否定を、ただただ繰り返す、意味のないそれを、止める事が出来ない。
 己はきっと酷く弱いのだと、打ちのめされた心がそう叫ぶ。
 いっそ泣き喚いて仕舞いたい程に、無力だったのだと、知った。
 
 *
 
 それから一時間も経過しない内に、負傷した隷を担いだ島風と雪風と矢矧が到着した。よく隊長を連れて逃がれてくれたと褒められたが、飯島は言葉を返す事も出来ずに、頷くふりをして顔を背ける事しか出来なかった。
 三人は無線を使ってカンパニーの情報部へと直接繋げると、この街の座標に救援のヘリを呼び、貴広が重傷だから急げと念押しした。これで大慌てで来るだろうと言いながら、自らの手当をする矢矧の口調はどこか暢気で、それを聞いていた飯島は逆に背筋が冷え怖くなった。
 彼らはまるで、神崎貴広が『死なない』とでも思っている様だったからだ。
 それは飯島が今日まで抱いていたものと同じ、ただの荒唐無稽な想像や確信だったのかは解らない。それを問うより先に、伊勢と五十鈴も到着した。大分ぼろぼろであった彼らは極東日没の足止めを最後までなんとか努めたと言う。
 取り敢えず極東日没を撒く事には成功したと言うが、出来るだけ早く、迎えのヘリに乗って帰投した方が良い。貴広と隷は重傷だし、他の者も皆大なり小なり傷を負っている。もう一度極東日没との交戦が起きたら、もう誰ひとり生き残れはしないだろう。
 「飯島さんが居てくれて良かったです。僕一人だったら、とても隊長を助ける事なんて出来なかった」
 手当をしている時に、隷は飯島にそんな事を言って寄越した。至近の閃光弾に因って視力を失った隷だったが、それを悲観するでもなく、寧ろ貴広を助ける事が出来て良かったとでも言いたげな、満足に溢れた、いっそ無邪気にも聞こえる声だった。
 ──違う。怯えて動けなかっただけだったんだ。
 その言葉を飯島は飲み込んだ。隷の手当に集中しているふりをして、聞こえなかった事にして返事をしなかった。
 六天も、隷も、皆同じだった。大事なものの為ならば自らの命を捧げても悔いなどないと言い切れる程に、彼らは勁かった。
 彼らと引き替え己はどうだっただろうかと、飯島は考える。
 恐怖に囚われて、何も出来ぬ侭に大事なものを奪われる所だった。己に何かが出来たとも思えないが、あれを奪われるぐらいならば、いっそ己など死んでいた方が良かったのかも知れない。
 飯島は恐怖と、絶望とを思い知った。
 朱に染まった世界の中で、沢山の命が馬鹿馬鹿しい程に容易く潰えていく中で、恐怖を糧に絶望を受け入れて仕舞った己に激しい失意を憶えた。





ただ仕留めるのではなく、相剋で完全に消そうとしたイメージ。

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