もう誰が世界と和解するものか ※朱キ日とそれからのPIXIESの適当妄想。 ========================= 【伊勢】 救助ヘリを寄越したのは、近海にて待機していたカンパニー籍の空母であった。上空から見下ろした一面の朱い世界。そんな、荒ぶる海面に浮かぶ艦隊たちはまるで、波間を無力に漂う藻屑の様だった。 全てを朱き色彩に染められたこの日は、きっとこの光景を見ている誰もの記憶に、心に、歪な形を描いて焼き付くだろう。 荒れる海面を漂う救護船の群れ、その甲板まで一杯に詰められた人々の目は、ただただ虚ろであって、最早そこには恐怖も悲しみも嘆きも無かった。誰もが心を麻痺でもさせられた様に、眼前の光景を凝視している。 ヘリの窓から振り返って見ると、崩壊した大陸が少しずつ沈んでいく有り様が見えた。海面が上昇し、うねる黒い波の中に全てが呑み込まれていく。 果たしてそこには未だどれだけの人間が残っているのだろうか。どれだけの命がこのたったの一日で潰えたのだろうか。 正しく天変地異。だが、自然災害の引き起こすそれより理不尽と思えるのは、災害を引き起こした災厄としか言い様のないものが明確に存在していると言う事だ。 全く自らの生活とは無関係の、ただの怪物の寝返り程度の事が、世界を、社会を、秩序を、歴史を、こんなにも容易く壊して行くと言う事は、何だか信じられない事の様で、然しきっと当たり前の事でしかないのだろうと伊勢は思った。 輸送用のヘリは大きく、生存した八人全員を収容しても未だ空きがある。だが、仮に眼下で船が転覆しようが、波に攫われた人が投げ出されようが、この機体がその救助に降りる事はない。機体側部にカンパニーの海軍のエンブレムを付けたこのヘリの目的は、そこに搭乗する八人を──取り分け、神崎貴広を無事に、早急に、連れ帰る事にあったからだ。 その貴広は医療用の担架に体を固定され、座席にしっかりと横たえられていた。その枕元に腰を下ろしている五十鈴は、折られた自らの腕を気にしつつも、意識を失って静かな貴広から目を離そうとしない。 その向かいの座席には、頭に包帯を巻かれた隷が寝かされており、少し離れた所には矢矧と島風と雪風が腰を下ろしていた。 一番隅には、子供がする様に背を丸めた飯島が座っている。大柄な体躯の彼の負傷は最も浅かった様だが、精神的なダメージが大きかったのかも知れない。 伊勢はコクピットの直ぐ後ろの席に座して、手早く報告書をまとめていた。貴広の一刻も早い手当の為にもと思い、負傷部位やその細かな状態もカルテ代わりに記している。 記述の途中で、伊勢は一旦文頭へと視線を戻した。極東日没との戦闘についての書き出しだが、そこにはあの出来事は記していない。 それは勿論、死んだかに見えた神崎貴広が蘇ったあの経緯についてである。 別に示し合わせた訳ではないのだが、あれを目撃していた五人の誰もが、その事を疑問や驚きとして言葉にしようとはしていない。幻覚や夢だと思っている訳では無く、ただ当たり前の様な真実を目の辺りにしただけなのだと、誰ともなくきっとそう理解しているのだろうと、そう感じた伊勢は、だからこそ意図してその出来事に関する記述を避けた。 そしてこの事は恐らく、彼ら五人の間で暗黙の了解の様に、他の誰にも、貴広自身にも漏らされる事のない秘密となるだろうと、伊勢はそう確信していた。 ナーサリークライム。それは異能の枠にとどまらぬ、理不尽な力を持つだけの存在ではない。 元々、貴広には傷の治りが早いと言う特性があった。だがその程度であれば、未だ『人』の枠として扱える。異能の中には他者の傷を癒す者、自らの傷をある程度再生出来る者も少なくはないからだ。 だが。 僅かに目を伏せた伊勢は思い出す。下顎の僅かを残して砕けた頭部を。飛び散った血の温度を。砕けて撒き散らされた脳漿を。落ちた眼球の紅色をした光彩を。 ──脳を破壊されて生きていられる生物など存在しない。その身体が再生能力を持っていたとしても、脳と言う、その個体を構成する寄る辺を失えば、再生など出来はしない。 人の死は脳の死と同義だ。魂と言うものが存在するかどうかはさておいて、人を、その個体たらしめる思考や記憶を保持する電気信号を生み出しているのは、脳なのだから。 ナーサリークライムの不死性は、そんな当たり前の様な、人間であれば避けられぬ筈の現象を、死と言う結果を、然し凌駕した。 故に、至る結論は一つ。ナーサリークライムとは、きっと限りなく不死に近い存在なのだと言う事。 然し伊勢は同時に確信もしていた。不死の様に思えるナーサリークライムだが、きっと同じナーサリークライムであれば、滅ぼす事が出来るのだと。 極東日没に敗北し、右足をもがれた貴広は、死んではいないが目覚める気配もない。失われた足が、砕けた頭部の様に再生する様子もない。意識を失い続けているだけなのか、それとも他に何かがあるのか。 きっとそれは、貴広を害したのが、同じナーサリークライムであったからなのだろう。 神崎貴広は、不朽不死の存在かも知れないが。極東日没は、それを害する事の出来る存在なのだ。 (………つまり、神崎貴広は、ナーサリークライムは、決して不滅の存在ではない…) 自然と寄った眉間に手を当てて、伊勢はかぶりを振った。まさか、こんな形で希望と絶望とを目の当たりにするとは思いもしていなかった。 不朽にして不死。然し、不滅には非ず。 故に、我らが出来る事は何であるのか。護ると、仕え、共に在ると誓った人の、望んだ途の、その目前に聳えたあの巌の様な怪物を。 ただ怖れず向かい立つ以上に、一体何が出来ただろうか。果たして何が出来るのだろうか。 無力感は脱力にも似て、伊勢の両肩に静かに積まれていた。このヘリに乗り込めた、怪物から生きて逃れる事の叶った者たちは、ただ敗走する事しか出来なかった。正しく、それが現実であった。 神崎貴広が、ナーサリークライムと言う絶対的な強者であったが故に、誰もが自分たちを思い上がった。その結果だ。 授業料にしては高すぎた。三十人以上の犠牲は、大陸ひとつの犠牲は、人類の過ち以上に業の深いものとなったのだ。 再び窓から外を見遣るが、空と海とを染め上げた朱の色彩は、段々と闇の中へと消え往こうとしていた。聴色の鮮やかな雲間の光が知らせてくれているのは、ごく当たり前の様な一日の終わりの夕暮れだ。 これだけの惨劇を撒き散らして、然しそれはただの一日として余りに普通に終わろうとしていた。 世界の理の前には人と言う存在など、恐らくは然したる意味も持たぬのだと。そう突きつける様に。 * 右足の切断と言う重症などと、ナーサリークライムの力を取り除かれた事でか、貴広は酷い衰弱状態に置かれ、空母のメディカルルームでの緊急処置後も、酸素吸入や点滴と言った生命維持を目的とした機器を色々と繋がれ、延々と面会謝絶状態に置かれた。 本社までの帰路の洋上で、貴広が目覚めたのは数回だけだった。それ程にまで彼の損耗は激しかったのだろう。 その間にも本社やLABから医者や研究者が幾度も追加派遣され、貴広の容態の確認や隷の診断を行って、何やら本社へと報告を送っていたらしい。とは雪風の調査だ。 本社に戻っても面会謝絶の様な状態が続き、貴広が一般病棟(と言うべき場所)へと移されたのは、北米を脱出して一週間以上が経過した後の事だった。 件の調査について雪風は職業柄などと言い訳をしていたが、現状のPIXIESの置かれた状況から見れば、カンパニーへの背信を疑われるも已むなし、と言った所だった。 剣呑な話だ、と伊勢は思う。殆ど伽藍堂となった伊部隊のオフィスで、腕の動かせる者たちは事件の報告書を纏める作業に追われ、遺体の回収も儘ならなかった人員たちを悼む暇さえも与えられなかった。 オフィスの入り口付近には、あからさまに監査部のバッジを付けた者らが佇んでいる。カンパニーが今回の一件をかなり重く見て、生存者の行動や言動にまで神経を張り巡らせているのは明らかであった。 朱キ日と呼ばれる様になったあの出来事は、未曾有の災害、天変地異として扱われた。だが、あの光景を僅かでも目にした者たちでそんな言葉を信じる者は居ないだろう。あれは──余りに圧倒的でに過ぎる出来事であって、自然現象ではなく、神やそれに近い未知の成した災いに似た何かでしかなかった。 人々の間であの『日』はナーサリークライムの成した事であると実しやかに囁かれていたが、それを肯定しようが否定されようが、何か圧倒的で巨大で理不尽なものが世界を朱に染め上げ破壊せしめた、と言う厳然たる事実に違いはなく、人類にはそれに対抗する手段など存在する筈も無かった。 故に多くの人は、あれは天災であったのだと、そう頭の中で処理するほかなかった。あれを成したのが、人の姿をした『何か』であったなど。己でそう口にしてみた所で、妄言としか聞こえない空々しさがあった。 カンパニーにとっても多くの資源を保有していた北米大陸の消失は大きな打撃となったが、その原因や責任の所在を追求する事は無意味だとは誰もが理解していたのだろう。少なくとも、発端となったPIXIESに何か追求や罪状が寄せられる事は無かった。 それでもこうして露骨な監視が付けられていると言うのは、カンパニーが神崎貴広の処分を左遷──言葉通りの『島流し』と決定したからである。彼を信奉する部下である伊勢らが、それを黙って受け入れる事を望まない上司の意向に従い、カンパニーに叛逆するのではないかと疑っているからだ。 然し生憎と貴広は、己の処分をすんなりと受け入れた。真相は寧ろ逆で、伊勢の方がカンパニーへ叛逆してでも貴広を連れ出すべきと主張したぐらいだった。 だが、貴広の意志は変わらず、伊勢は貴広当人と、双子の弟である五十鈴にも短慮を起こさぬ様にと釘を刺されている。正直を言えば納得はしていないが、五十鈴らの協力無しに事を起こしたとして失敗する確率は高くなる。そこで生じる貴広へのリスクを思うと、今は諦めざるを得ないと言った所であった。 カンパニーの下した処分も、貴広の言い分も、全部放り捨てて仕舞いたいと今でも思う。叶うならば今直ぐにでも貴広の身を確保し、カンパニーの手の及ばぬ所へ逃亡してやりたい。 動機は義憤と言うよりはただの純然たる怒りだ。自分たちを頼らず一人で処分を受け入れた貴広も、そんな貴広を偶像として未だ搾取する腹積もりのカンパニーも、何もかもが度し難く許し難い。そんな遣り所の無い感情を頭の片隅で回しながら、伊勢は淡々と眼の前の職務を片付けて行く。 だが、それもまた言い訳だ。何よりも許し難かったのはきっと己自身だ。貴広を護る事が出来ず、力も及ばなかった。 人間のエージェントとして最強と謳われる己の経歴を、評価を、全て破棄してやりたい。そんな、人間の尺度で測れる様なものなど、あの朱の空の下では余りに無価値に過ぎた。無知蒙昧に過ぎた。 きりの良い所まで進んだ所で、伊勢は一旦手を止めて温くなったコーヒーを啜った。さりげなく伺うが、監視の目は変わらずそこにある。伊勢の動きを具に観察している。 貴広の身柄は現在洋上にある。昨晩、車椅子に乗せられた彼を本社の敷地内にある輸送機のヘリポートで見送った時にも、周囲には沢山の警戒網と、武力制圧も想定した人員配備が行われていた。 処分に従うふりをし今まで大人しく振る舞っていた貴広が、見送りに来た部下──伊勢に何か一動作で命じるだけで、その場で災害級の被害が出かねないと、そんな想定もされていたのだろう。 それでも本社が伊勢の見送りを許可したのは、いっそそれで叛乱が、本社の敷地内で起こるのであれば制圧も可能とみなしたからなのだろう。無論、本当に叛乱を起こすとすれば、伊勢には負けてやる気などこれっぽっちも無かったが。 だが、貴広は大した別れの言葉も残さず、警備部の人間の押す車椅子の上で大人しくしていた。だから、伊勢もそれを黙って見送った。憤りを堪えながら、黙って見送った。 カンパニー本社の人間たちは、それほどまでに神崎貴広と言う存在を畏れている。彼が力を喪ったと言う保証はないと、勝手に想像して怯えている。だからこそ、『島流し』と言う処分に対して、自分たちが復讐されるのではないかと怯え、警戒せずにいられなかったのだ。 (…愚かしい話だ) コーヒーカップを置いて、伊勢は息をゆっくりと吐き出した。彼らの反応は、誰もが神崎貴広をまともな人間であると思っていない事の証左の様だった。その事実にまた反吐が出そうなぐらいの憤りを覚える。 貴広は、己の為に殉じた部下を、無為に死んだ彼らを、護るどころか敗走する事しか出来なかった己に、きっとこれから長い間折り合いを付ける事も出来ずに苦しむだろう。その情があったからこそ、彼は己の処分を、如何に不当なものであると感じたとして、諾々と受け入れたのだから。 貴広の処分を決めた上層部の人間たちは彼の事を、世界を半壊させた化け物なのだから、罪悪感など抱かず、檻を破って逃げ出す。そんな醜悪な思い込みのレッテルを貼り、見ていたのだ。 「伊勢」 再び渦巻き始めたやり場のない憤りが、掛けられた声と共に霧散する。振り向けば、そこには山の様なファイルを抱えた島風の姿があった。 「民間から押収された資料の一部や。報告書、まだ仰山あるのに悪ぃがなぁ」 まるで悪いと思ってなどいないさらりとした調子でそんな事を言うと、島風はファイルの山を伊勢の横の、空いた机へと乗せた。周囲は既に資料が散乱して酷い有様だと言うのに、まだこれ以上酷くなろうとは。 「何、今更だ。書くものが一枚増えようが十枚増えようが同じだろう」 「せやなあ。ま、手伝える所は手伝ったるわ」 言って、ぽん、と島風は伊勢の肩を叩いた。その瞬間に素早く指をとんとんと鳴らし、仲間内の暗号を伝えて寄越す。 『余り物騒な顔してっと疑われんで』 「……そうだな。その時は頼む」 島風の言う『物騒な顔』がどんなものであったかは解らないが、裡の感情まではよもや滲ませてはいまい。ふっと肩を竦めた伊勢は、柔い笑みに表情を切り替えた。少なくともそのつもりでいたが、余り上手く行かなかったらしい。島風がやれやれと苦笑する。 「何や自分、弱気な声出しよって、ホームシックか?ま、ここん所ずっと働き詰めやしな。少しは休み」 じゃあな、と去っていく島風の姿にも別の監視の目が向けられている。彼らは隠れる事もなく、オフィスを出ていく島風の後を追っていった。 報告書を片付ける作業を再開した伊勢は、島風の置いていったファイルをそっと開く。中身は一見ただのスクラップブックの様な体裁だったが、そこに記された暗号のメッセージを何気ない仕草と共に読み解いていく。 計画の決行日に関する幾つかの情報をそこから正しく読み取った伊勢は、雪風に電話を掛け、昼食の話などをしながらそのメッセージを密やかに伝えた。 監視についている連中も素人ではないだろうが、何かを企んでいる、所までが知れたとして、具体的にその内容を知る事が出来なければ何の意味も無い。情報戦で相手を出し抜くのは、情報部の人間の本業であるし、PIXIESは仲間内での隠密行動のやり取りの手段は手法には事欠かない。 連絡を終えた伊勢は、何事も無かった様に仕事の手を再開させた。島風の警告を思い出し、余計な事は極力考えない様にしようと思ったが、一つだけ、最後に己に問いた。 己の憤りは、果たして貴広の罪悪感に値する様なものなのだろうか。少なくとも伊勢のこの感情は彼の意志に添ってはいない。だからこそ、貴広にカンパニーへの叛逆を囁いた後、五十鈴にも諌められたのだ。 (…怒りは、今は呑むべきだ。どの道、この感情は隊長にとって何の意味にもならない。隊長に感じたこの後悔や憤りは毒にこそなれど、殺して仕舞う事も出来ない) 貴広の事だから、伊勢がそう主張すればきっと、悲しそうな顔はするかも知れないが、否定はすまい。 ホームシック、と言う先頃の島風の軽口を反芻して、伊勢は苦い感情をそっと飲み込んだ。 確かにその通りだ。貴広と言う『上司』の身分が消され、立場上で本格的に引き離されてまだ一日と経っていないと言うのに、己は勝手に心配をして勝手に憤っている。 他者は伊勢の物腰穏やかな振る舞いをして、冷静で穏やかな人となりであると評価する。然し実際の伊勢の性質はそれ程に優等生なものではない。上辺こそ人畜無害だが、その感情は、己の操る暴風程に鋭く重たい。誰あろう自分の事だから、それはよく解っている。 ファイルのページをめくり、キーボードに指を乗せながら、伊勢は冷静で居る事を己に課した。 今はまだ、その時ではない。待つのは得意な方であった筈だ。 「添」と言う以前書いたPIXIES解体寸前妄想お伊勢篇の続きと言うか補完と言うか。 ← : → |