もう誰が世界と和解するものか ※朱キ日とそれからのPIXIESの適当妄想。 ========================= 【貴広】 融けていく。 沈んで、沈んで、深い底へと沈み行きながら、少しずつ全てが遠ざかっていく。 光が。声が。音が。酸素が。沈む闇の遙か向こうへと消えて行く。 苦しくはない。重たくもない。ただ、その何もない闇へと己が融け出して、そして沈んでいく。 水の中へ、闇の裡へ、黒い底へと、融けていく。 融けて、混じって、還っていく。 これは死なのだろうかと、不意に貴広はそんな事を思った。 安らかな眠りとは違う。深い漆黒の色をした水の底へと、錘でも付けられて沈んでいくかの様な感覚であった。 恐怖はない。融けゆくことは不快では決して無い。 ただ、何故だろうとだけ思った。 融けていく。 沈みながら、鎮められながら、それに抗ってみようかと手を伸ばした。 何故だろうとだけ思った。 未だ、此処へ還る訳にはいかない。 未だ、融けて仕舞う訳にはいかない。 必死で伸ばした五指が、何にも届かず、掴めず、融けて行く。 駄目だ。未だ、駄目だ。 誰かが──何かが、そう囁いたがした。 それはただの生存を求める本能であったのかも知れないし、ただの気の所為であったのかも知れない。 融けて、融けて、無為に追われる心地の中、貴広は声を上げた。 * 「──」 乾ききって貼り付いた喉が、ひぅ、と細く弱々しい音を鳴らすのが解って、貴広は小さく喘いだ。呼吸は出来ている。だからきっとここは水底ではない。沈んでも、融けてもいない。少なくとも酸素のある何処かだと、緩慢な思考で考える。 頭が重たい。思考が一定しない。眩しい白い電灯に灼かれ目蓋を開いていられない。 「 」 非道い耳鳴りの中、何かを聞き付ける。少しずつ活性化していく意識の中で、全身のあらゆる感覚器官が、物音や気配や音声や言葉を、ばらばらに感じ取っていく。 声だ。人間の、声。 そう思った途端、靄の中に居た様に判然としなかった意識が唐突に晴れる。 「隊長、」 震える、今にも泣きそうな声が聞こえた。多分、己を呼んでいるのだろうと思う。酷く不安そうな、子供が親でも探し求める様な声だった。 眩しい光に、目蓋が引き攣る様に震えた、ゆっくりと開いては痛い程の光に驚いて閉ざされ、薄く隙間を開ける。太陽でも直接覗き見た様な目映さに意識が眩んで、また閉じる。幾度か繰り返す。 「隊長……、隊長、隊長、」 (解った、聞こえているから。だから、そんな不安そうな声を寄越さないでくれ…) 幾度も目蓋を震わせながら、貴広は滲んで歪んだ視界をゆっくりと、眼球を動かして見つめた。 「隊長っ」 先程から必死に声を上げ続けている奴の影が、視界に漸く収まる。 (五十鈴…) 頬に大きな血の滲むガーゼを貼って、左の腕を吊った姿。彼はいつもの飄々とした表情ではなく、口端を歪めて、眉を寄せて、泣きそうな顔をして、貴広の事を見下ろしていた。 (なんだ、大怪我をしているじゃないか…。一体どうしたんだ、お前らしくもない…) 目が合うと、五十鈴はぐしゃりと表情を歪めて、ぐずる子供の様にしゃくり上げながら「たかひろさん、」と辿々しい声で名を紡いだ。 一体どうしたのだろう、と考えた所で、貴広の記憶に朱の色彩が蘇った。意識がぼやりとした世界の中に答えを掴む。 極東日没。朱に染まった世界の中で、その存在は絶対的な覇者の如く、ただ聳える山の様にそこに在った。 (……そうか。俺は、奴に負けたのか…) 至った途端、ずきりと足が痛んだ。思わず身じろぐが、右の脚は動かない。貴広は仰向けに寝転がった侭の首を僅かに動かす。すれば、集中治療室の様な風景がそこにはあった。 部屋の外から室内を伺う為の大きな硝子窓に映っているのは、傷だらけの自分自身の肉体と、そこに在ったものを失ったアンバランスな姿だった。 「 」 取り縋る様にして泣いている五十鈴に声をかけようとしたが、かすれた喉はまともな音声を紡いではくれない。乾いた呼吸を煩わしく吐き出しただけだった。 然し聞こえたのだろうか、五十鈴が涙に濡れた顔を起こす。 「あなたが、…っ死んで仕舞うと、、思っ、」 しゃくりあげ震える口を咄嗟に押さえて、五十鈴はかぶりを振る。そう言葉にするだけでも怖ろしいと言いたげに。 「どこ、にもっ、いかない…っで、くだ、さい……!ぼく、ったちを、置いて、いか、な…っ」 言葉の後半は涙に濡れて途切れた。五十鈴は泣きながら貴広の頬に震える手で触れて、何度も何度も五十鈴は繰り返した。 「あなたが、いきていて、、よかっ……、た…」 「………」 大丈夫だ、と言ってやりたかった。余りに悲痛な、子供の様な頼り無く不安に満ちた声の紡ぐ、その恐怖を、正体の解らないそれを、なんとか払って安心させてやりたかった。 然し貴広の喉は掠れ、唇も殆ど動かない。自由になる筈の腕も脱力して動かせず、ただ五十鈴が取り縋って泣きながら願うのを、聞いていてやる事しか出来なかった。 少し経ったら伊勢も駆けつけて来て、五十鈴を宥めながら、彼もまた同じ様にして貴広の生に安堵し、泣きそうな声で紡いだ。 あなたが無事で、良かった。と。 それからゆっくりと、伊勢は頭を垂れた。無力感に打ちひしがれる様に、奥歯を強く噛み締めて振り絞る様にして吐き出す。 「私は──我々は、あなたを、お護りする事が、出来ませんでした…」 申し訳ありませんでした、と紡ぐ声は軋って戦慄く。貴広はその言葉の示す所が、痛みだけを訴えて他の感覚の一切を失った、己の右の脚へと向けられているのだと直ぐに解った。 「…………、…、」 言葉を紡ごうとして、掠れた呼気だけが口から漏れた。ぼやりとした熱に意識が歪む。 部下を死なせたのも、無謀を止められなかったのも、全ては貴広も抱いていた驕りが原因だ。 本来、多くの命を預かる身なればこそ、貴広はもっと慎重でいなければならなかったのだ。 然し、ナーサリークライムと言う己の『名』が、部下の抱いた信頼が、確信が、名声が、栄誉が、あらゆる人間の、カンパニーの与えた価値判断全てが、皆を、貴広を、盲目にした。 これはその代償でしかないのだ、と思って見やった足が、ずきりと酷く痛み、貴広は呻いた。 五十鈴が、伊勢が、狼狽し声をかけてくる。 痛みが何処にあるのかが解らない。苦しさがそこにあるのだけは解る。 呻いていると、医者たちが処置室に入って来て慌ただしく動き始めた。伊勢と五十鈴の案ずる声が遠ざかる。 また意識が朦朧とし始めた。 融ける。 融けないのに、融けようと、闇が忍び寄って来る。 溺れそうな気がして、酸素を求めて喘げば、呼吸器が取り付けられた。 鎮痛剤と麻酔とに意識がざらざらとしたノイズに乱れて行く。 融ける。 否、まだ融けない。 消えない。 ただ、崩れていくだけ。 * あれからずっと、全身に重たく圧しかかる倦怠感が途切れる事はない。 それは恐らく、巷間よく言われる様な、罪悪感、と言うものとは趣が少し違う気がした。 悔いてはいる。間違いなく。 惜しんでも、憂いてもいる。恐らくは間違いなく。 ただ、償いとか、報いたいとか、そう言った感情は一切が湧いては来なかった。薄情な上司だと、人の情などない奴だと、そう罵られるのだろうと客観的に思える程度には、その後悔は悲しみと言う感情に直結してはいなかった。 どちらかと言えば、喪失感だろうか。何かが胸の裡にぽかりとした空白を穿っているのは解るのに、そこを埋めるべく本来在るのだろう感情を貴広は知らなかった。 例えば一般的には、泣くなり、喚くなり、恨むなりをすればそこに何かしらの種を蒔く事は出来るのだろうとは思う。思うのだが、その何れも値していない。しそうもない。 故に、孔の空いた心地をただ持て余してぼんやりと目の前だけを見つめる。覚えなければならない、今までと勝手の全く違う日々の業務や、仕事の仕方。杖で身を支える歩き方。それらを並べて、詰め込んで、埋まらない孔に蓋をする。 南国の空気は湿気を伴って暑く、重たい。それもまた気怠い感覚を想起させるのかも知れない。 軽く頭痛を憶えた気がして、貴広はそっと上体を起こした。額を揉むと、汗ばんだ気配をそこに感じて、顔を顰める。 カーテンのぴたりと引かれた室内は真っ暗だったが、時間の感覚から、まだ深夜と呼べる時間帯であろうとそう判断する。 窓は完全に閉ざされているが、それでも波が岸壁を叩いて砕ける音や、沖までうねりを上げる潮騒の全てを遮断する事は出来ない。もうすっかり慣れたと思っていたそんな騒音が、何故だか嫌に耳についた。 北半球で言えば冬と言ってよい月の筈だが、ここではまるで夏だ。湿った空気の纏い付く不快感を振り払う様にして、貴広は寝台を抜け出した。床に下ろす片足が小さく軋む音を鳴らす。腕の良い装具士の作ったそれは痛みも少なく、今では確かに貴広の生活を支える身体の一部なのだが、そこに本来在ったものが存在していない感覚と不安定さにだけは慣れる気がしない。 義肢だけで歩くのには未だ慣れなかったが、杖は部屋の入り口の杖立てに置いてある。取りに行くのも億劫で、壁により掛かる様にして貴広は窓辺へと向かった。 ゆっくりとカーテンを引くと、暗色の空とそれを映す海面とがただただ広がる風景がそこにはあった。 絶海の孤島への島流し。本社の連中も上手い事を考えたものだとそんな事を思う。 叛逆の畏れがなくとも火種には成り得る存在は、何処の国へ逃れたとして、カンパニーにとっては不利益にしかならない結果を生む。 かと言って、ナーサリークライムと言う神話を持つ者に易々死んで貰っても困る。他国に対する牽制としても、カンパニーの内側に対する神輿としても。 それで選ばれたのが、飼い殺しと言う処分。伊勢の憤りも理解は確かに出来るのだが、貴広にはそれに対して不満や不平を抱く様な気概が、既に失われていた。 窓を開いてバルコニーへと出る。寄せては砕けて帰っていく波音は、穏やかな海岸で聞くそれとは全く異なる。ずっと嵐の中にでも居る様な、天から地から響き渡る轟音だ。 胸の高さほどある手すりにだらりともたれ掛かって、貴広は目蓋をそっと下ろした。不定形な波音は重たく響くが、何故だかそんなに嫌いなものではない。じっと耳だけを澄ませていると、波間に飲まれて沈んで──融けていきそうな錯覚を覚える。 海などこうしてまじまじと見つめていた事は無かったが、こうして騒音にも慣れて仕舞えば、どこか懐かしい様な気さえしてくるから不思議だ。 そうして暫くの間じっとしていた貴広の耳に、不意に波音以外の重たい音が聞こえた気がした。 ばさ、と羽が空気を打つ音。それが遠くから、近づいてくる。来ては遠ざかり、また近づいて来る。海鳥でも飛んでいるのだろうか。 (……いや、今は真夜中だ…?) ぱち、と目を開いて顔を起こす。水平線の向こうはまだ暗い。夜明けには程遠い。ばさ、とまた波音に混じって羽音が聞こえた気がして、貴広が咄嗟に空を見上げると、上空を旋回する黒い、大きな影が視界へと飛び込んで来た。大きく翼を広げた黒いシルエットが、夜空にその形の黒い空白を穿つ。 「鳥」 思わずぽかんとそう呟いて仕舞ってから、我に返ってその影を目で追う。島の上空をゆっくりと旋回するその影は海鳥のそれではない。夜空を背負った、それもここから見上げるだけではかなり遠く小さいが、そのシルエットには紛れもなく見覚えがあった。 「──」 貴広の口から甲高い、金属の擦れる様な音が寸時鳴った。特殊な音律に乗せたコードに、鳥の影はぐるんと風に乗って大きく鋭く急旋回すると、矢の様にして貴広の見上げるバルコニーへと降り立った。 「蛍火…!」 手すりへと狙い違えず舞い下りた巨大な猛禽類に、貴広は声を上げ瞠目した。見た目には全く普通の鷲でしかないその造形の中、鋭い目が仄赤い光を揺らめかせて貴広を見上げてくる。 キィ、と鳥の鳴き声の様なものを喉で鳴らす猛禽の姿に、貴広は我知らずに目元を緩めていた。 「蛍火…、まだ一年も経ってはいないが…、お前の姿を見るのは酷く久しぶりの様な気がするよ…」 手を伸ばすと、鷲は喉元を擦り寄せる様な仕草をしてくる。普通の鷲であれば余程に人に慣れていなければ無い事だろう。何しろ愛玩動物の類では到底無いのだから。 蛍火はカンパニーの情報部で開発された動物型サイボーグの一体だ。遺伝子改良と人工孵化を経て生まれた鷲をベースに、生体を強化する人工物に因る加工が施されている。 養成所で貸与された時には、環境に紛れる動物型サイボーグの一種の実働データ収集の目的があった様なのだが、貴広は現場での継続使用を申請し、以降はその儘PIXIESの備品と言う扱いになっている。 元々その鷲のサイボーグに個体名称はなく、識別番号で呼ばれていたのだが、貴広はそれに、夜闇で光る赤い目を由来として蛍火と言う名を付けた。 以来、蛍火とは十年以上の付き合いになる。それは、PIXIESの部下たちより長い年数を共に過ごして来たと言う事だ。 遺伝子改良で知能を増強され、補助脳がそれを更にサポートしている。故に蛍火はいわゆる通常の調教動物よりも賢く、人間の感情の機微──とまでは行かないが、少なくとも長くを共に過ごした貴広の態度や様子には聡く反応を見せる。 だからか、貴広は蛍火の事を備品や道具と言うよりも、友達と称していた。幼い自分の傍で翼を休めるそれを慈しみ、頼って来た。それは、その感情は今でも変わっていない。 …と言った所で、本社ないし情報部にとって蛍火は飽く迄備品である。稼働年数も長く、極秘とされる様な情報に携わって来た為、貴広がPIXIES隊長の任を解かれるのと同時に蛍火もまた上層部に因って破棄が決定されていた。 だが貴広は当然これを良しとは出来ず、集中治療室を離れる事の出来た僅かの時間で対策を講じようとした。備品処理の資料の改竄と蛍火の識別信号の変更、そして退避。何れも大っぴらに露見すれば、左遷どころか首が飛んでもおかしくない行為であった筈なのだが、何故か全く問題は起きなかった。今に至るまで。何も。 単に、PIXIES一時解体のごたごたと、朱キ日と呼ばれたあの事件の後始末に世界中が追われる中では、備品ひとつの行方にそこまで深く調査されなかっただけだろうと思い込んでいたのだが、こうして蛍火が遥か海原を越えて目の前に降り立っている以上、どうやらそう言った『運の良い』だけの話ではなかったらしい。 「……伊勢か?」 少し気後れを覚えながらも問えば、蛍火は肯定を示す様に喉で鳴いた。脱力とも倦怠感とも取れない感覚が胸の底に落ちてくるのに、貴広は目蓋を下ろしてゆっくりと呼吸した。都会の機械や排ガスの匂いのしない、目にしみる様な潮風。喧騒の代わりに響く潮騒。そこに混じった羽音がただ静かに伝える事実。感謝すれば良いのか、後ろめたく思えば良いのか、たったそれだけの事さえも判然としない。 恐らくは、貴広の最後の『仕事』、蛍火の破棄を防ごうとした事を知った伊勢が、その続きを完遂してくれたと言う事なのだろう。否、それ以外にはあり得まいが。 「蛍火」 貴広が促す様にそう名を呼ぶと、得た様に蛍火は喉奥から機械に似た音律を紡ぎ出した。音律は暗号の圧縮コードで、最初の数音で解凍方法が解る様になっている。耳を傾けているだけでも貴広の思考は自然と、音から意味ある言葉を拾って解読して形にしていく。現役を離れたと言ってもまだ一年も経過していないのだから鈍ってはいないし、そもそもにして紡がれたのは簡潔で、簡単なメッセージのみだった。 「………」 聞き取った言葉が、記憶の中の伊勢の音声で再生される。ついこの間まで毎日の様に聞いていた声を、その紡ぐ調子を、忘れて仕舞う様な事など無い。 メッセージの内容は、簡単な挨拶だけだった。他人行儀でも無く、親し過ぎもしない。だが、伊勢ならこう言うトーンで口にしているのだろうなと言う想像はつく。どんな感情でいるのかも、きっと正しく解している。 本社のヘリポートで見送りを受けた時も、伊勢は特に小細工を弄して何かを貴広に伝えようとはしなかった。願おうとはしたかも知れないが、きっと堪えてくれた。 有り体の、上司の出立を見送る部下と言う体裁で、黙っていてくれた。本来ならばそうする事こそ、伊勢にとっては業腹であったに違いないと言う筈だろうに。 憤ってはいた。間違いなく。ただ、それを堪えて呉れただけだ。貴広の意志を珍しくも正しく尊重すると言う形を、選んで呉れた。 失われた右の足の在った位置にそっと触れる。指先に返るのは異物に触れる感覚。胸の裡に穿たれた儘の空白と同じ、決して埋まらない、埋められないものの有り様。 (ここで一生を終える事になろうとも、それで構うまいと、そう思っていたのに) この境遇が、罰だとも報いだとも思ってはいない。そう在る様にと仕向けられたのは間違い無いが、発端となったのは己の過失の一つであって、失わせたものに対して釣り合える様なものなど残ってはいなかった。だから、それで良いのだろうとそう思った。 本社がそう決定したのだから、それで良いのだとそう思う事にした。そうして消極的に途を取捨した。 どの途、己が世界から棄てられた兵器、壊れたがらくたの様なものなのであれば──そう思われる様なものでしか無いのであれば、遠からずいつかはこうなっていたのだ。 唯一、己が神崎貴広として何に憚る事もなく居られたPIXIESと言う場所も、その時に手放さざるを得なくなった。 (……それでも、お前たちは、) 五十鈴は言った。距離や時間がどれだけ空こうとも、貴方に添う途以外には選べないと。 伊勢は言った。貴方が命じるのであれば、貴方の為に生き続けると。 「……」 目を開く。蛍火は、その名の由来となった赤い瞳でじっと貴広の事を見つめている。指示を待つ様にか、それとも、案ずる様にか。 それもまた、伊勢が蛍火の破棄を阻止し、今この世界の涯てまで飛ばして来たのと同じ。思う儘に解釈する事にして、貴広は見渡す限りに黒い色彩しかない海原を見遣った。 ここに在るのは漆黒の空と海面。世界の両極の狭間で漂うだけの、無力な存在がひとつ。 然し目蓋の裏には今でもあの朱い世界が焼き付いている。いつでも、記憶から、背後から、それはきっと容易く手を伸ばして来るだろう。 逃れる事は叶わないのかも知れない。理屈ではない場所でそんな朧気な理解はしている。 己が世界の一欠片たる存在である以上それは何処までも付き纏う。それは自らが選んだ、選ばないに拘らない宿命の様なものなのだろうとは、思う。 「…そんなものに…、『俺』が負い続けるかなど判らないそんなものに、お前たちが付き合おうとする事などないのにな…?」 小さく溜息に乗せて呟く。蛍火は何も応えずそこにじっとしている。同意が欲しかった訳では無かったが、解っているだろうに、とその赤い眼で言われた気がして、貴広は忍び笑った。動き慣れない義肢を小さく鳴らせて、手すりに凭れていた体を起こす。 「誰もが、そう在れとは言わないから、俺も未だこう在る事に慣れる事が出来ないんだ。正直を言うと、慣れて良いのかも判らない。…だから、どう在ろうとするかはこれから決める。それが結果的に誰かの、誰かたちの意に沿わなかったとして──、」 そこで貴広は言葉を切った。意識しながら両の足でその場に立つ。 「………それでも良いと、そう言う事なのだろ?」 果たしてそれは肯定か否定かただの相槌か。蛍火が大きな翼を揺らした。こちらを見つめ続けている猛禽に向けてその頭部を撫でる様な仕草を向け、貴広は夜の海に背を向けた。室内に向かって歩き出す。 「…今のは、伝えても伝えなくても構わない」 メッセージは受け取った。それに対する積極的な返信は今は出て来ない。だからそう言う他にはない貴広の背に向けて「きぃ」と小さく鳴くと、続け様に重たい羽音が数度潮風を打ち、それから忽ちに遠ざかっていった。今振り向けば、黒い海の上を進む黒い大きな翼の姿を認められただろうが、解っているので振り向いて確認などわざわざしない。 責められている訳では決してないと言うのに。先頃より増した気のする倦怠を背負って貴広は寝台に身を横たえた。 目を閉じてみずともいつでも寄り添う漆黒の闇の裡へと、また、落ちて行く。 朱き色彩の世界の、再び描かれる時まで。 設定のほかは本編で断片的な事が語られるのみの”朱キ日”。 FBの記述に依りますと、水気のナーサリークライムの力が喪失寸前まで行った事で世界のバランスが崩れて大災害を引き起こしたとの事。 同時に、貴広が飼い殺し(厳密には回復待ち)にさせられ、六天五人がカンパニーから逃亡した出来事でもあります。 朱の世界で五人が『何』を見て、決意したのか。それはかすで飯島が口にした疑問であって、うちの妄想PIXIESの焦点でもあります。 ……なので、『今』はこんな妄想物語ですが、今後またうぞうぞと変わる事もあって、妄想なのですが妄想ですら余り確定はしていません。 ”時代遅れの不安と恐怖に、世界はすっかり癒着してしまったのさ” ”安手の倦怠と恍惚に、世界はすっかり癒着してしまったのさ” ”甘いさみしいエーテルさえあれば、生殖の夢を見ることなんかないんだって” ← : ↑ |