咽の奥深く揺れる林檎

※十年前のPIXIESのお仕事とかの適当妄想。
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 人の手の殆ど入らない地を吹く風は、荒涼とした大地をただただ平坦に流れて行く。
 吹いて過ぎる、たったそれだけの現象が、然し眼下に広がる奇岩だらけの谷の、不思議な造形を創り上げたのだと言う。
 それはこの地球上に人類の生まれるよりも遙かに昔の事だ。こうしてこんな風景を見下ろせば、人は芸術的な赴きさえ漂わせるその有り様に感銘を受けもするが、この風景は決して人間の感性に働きかける為に作られた作品でも何でも無い。誰の為でも無くただ創り上げられ其処に存在する、正しく途方もない年月と、人為には因らぬ力のみの成せる業だ。
 赤茶けた奇岩には地層の堆積がまざまざと刻まれ、吹き抜ける乾いた強い風に因って今でも少しずつ、ほんの少しずつ、その表面を削り取られて行っている。人類が滅んで更にもっと永い時を経る頃になって漸く、足下の岩山一つが音もなく砂礫となって崩れているのかも知れない。そしてそうなる頃には新たな他の造形が周囲には出来ているのかも知れない。
 滑らかな縞模様の数えた幾星霜もの時を追うと、眩暈のしそうな感覚に陥る。貴広は視線を巡らせると眼下の風景を、今度は観光気分を抜きにして見下ろした。だが幾ら見渡せど、そこには目当ての痕跡は何一つ見当たらない。先頃までと何ひとつ変わらない、大自然の作り出した威容が存在するだけであった。

 任務の内容は、反カンパニーを掲げる小国に対する工作である。
 元々その国の反政府抵抗組織が、敵の敵は味方と言う計算の元にカンパニーの密かな援助を受けて活動をしていたのだが、その組織の頭目が先日内部紛争に因って入れ替わり、結果的に反政府よりも反カンパニーへと向いたと言うのが主な流れだ。
 国家であっても反政府組織であってもカンパニーにとっては取るに足らない程度の『敵』だが、かと言って捨て置く訳にもいかない。何しろ状況次第ではカンパニーの内政干渉やテロリズム助長の工作が明るみに出──、
 (る前に殲滅せよ、と。出来ればカンパニーの介入を気取られずに仲間割れを装うのが望ましい)
 言葉にすればその内容は紛れもなく汚れ仕事だが、仕事内容の選べない情報部に於いてそんな事は常日頃から当たり前の様に行われている。情報は利用するもの、盗むもの、そして作るもの。それが情報部の理念である。
 派遣されたのは特殊情報課のエリートで構成された伊部隊PIXIES。隊長である神崎貴広を筆頭に、貴広自らが選出した少数人員での遠征となった。戦闘行為の想定がある以上、汚れ仕事だろうが雑事だろうが万全の構えで任務に臨まねばなるまい。
 件の反政府組織は、活動拠点としているこの見事な景観の荒れ地のどこかに巧みに潜んでいるらしいとの事だが、如何せん広大且つ複雑な地形である。こうして崖上から周囲を睥睨した程度では、人ひとりどころかその痕跡ひとつ発見するのにさえ苦心させられる。
 つまり、目視でのアジトの発見は困難。
 投げ遣りにそんな事を思って貴広は、こんな何も無い荒れ地の中、場違いにもダークグレーのスーツに紅いネクタイをきっちりと締めている自分と、ほぼ同じ姿で近くに佇んでいる、伊勢を振り返った。
 「こんな時でなければゆっくりと観光でもしたくなる風景だな」
 そんな貴広の言葉に頷いた伊勢は、ゆっくりと首を擡げて辺りを見回した。視界のあちこちに点在する乾いた色の奇岩たちの織りなす風景は、時代が時代であれば自然公園だの、保護対象だのになっていてもおかしくないものだ。
 「そうですね。…とは言え、件の反政府組織の活動に因って、これらの景観も大分破壊されていると聞きます。元々この辺りに住む人々にとっては見慣れた光景であろうが、貴重な地球史の一つなのですが…」
 「全くだ」
 伊勢の意見に同意しながら、貴広は再び眼下へと視線を投じた。岩陰、灌木の茂み、谷底の複雑な地形。人が隠れそうな場所も、隠れられなさそうな場所も山とある。陽光の影響や小さな生物の生息数もあって、温熱反応の探査も使い難い。
 結局最もましなのが、視覚と言う原始的且つ不確実な手段と言う訳だが、それもまた、まるで風景に溶け込んだカメレオンを探す様なものだ。余り時間を掛けられる任務ではないだけに、出来るだけ速やかに事を成したいのだが……、
 「──隊長」
 辺りを見回していた貴広に、やがて伊勢が声を掛けて来る。その声音の固さや意味には気付いていたが、貴広は「何だ?」と軽く応じた。
 「申し訳ありませんが、もう三歩ほどこちらに寄って頂きたいのですが…」
 「……問題はないと思うが…」
 「念の為にです」
 正直億劫だったので、貴広は余り気乗りしていなかったのだが、伊勢はきっぱりとそう言い切ると「さあ」と掌を差し伸べて移動を促してくる。
 「心配性め」
 肩を竦めると、貴広は伊勢の方へ向けて歩き出す。一歩。
 「自信はありますが、貴方を万全にお護りする為には、100%を備えていても足りませんので」
 二歩。眼鏡を直しながら言う伊勢の表情だが、矢張り貴広の思った通りに、自信の無さなど欠片も無い様な、憎らしい程にはっきりとした笑みを浮かべている。つまりは、単に自分の気が済まないと言うだけの事だ。
 三歩。そこで伊勢は貴広の腕を引くと、自らの身で庇う様にして身構えた。ほぼそれと同時に、音のない衝撃が大気を揺らした。続けて二度、三度。
 その光景を端から見たものがあれば、何かのシネマかトリックかと思っただろう。伊勢と貴広の佇む崖上の周囲10mは離れた中空。そこに三つの紡錘型の鉄塊が浮かんでいる。否、何もない空間に突き刺さる様にして急制動を受けたそれは、次の瞬間には上から恰も超質量の何かに押し潰されたかの様に落下。地面にめり込む程の強い圧力は爆発の威力さえも押さえ込み、三箇所でほぼ同時に景気の悪い爆発音が響いた。
 伊勢の構築している大気の加圧領域の前には、貫通力のある狙撃銃も、単純な推進力を備えたロケット砲も、全てが無力だ。如何なる兵器も壁の如く圧縮された大気に因って緩やかに速度と威力とを減衰され、そして墜ちる。
 「ご無事ですか」
 「ああ。RPGが三発か。景気の良い事だ」
 もうもうと周囲に沸き立つ土埃一つその身には浴びていない伊勢の問いに、同じ様な状況の貴広は頷くと溜息を吐いた。伊勢の『神風』に因って直撃こそしてはいないものの、落下点では派手な破壊が起きている。
 「被害は軽微と言っても、全く因果なものだ。大っぴらに銃撃戦が始まらなかっただけまだましか」
 かぶりを振った貴広は、自分をまだしっかりと確保した侭でいた伊勢の腕をとんと叩いた。珍しくも失念していたのか、彼は一瞬きょとんとしてから慌てた様にぱっと腕を解く。
 「お前の護衛は、他の何よりも信頼しているんだ」
 「…性分ですから」
 心配し過ぎにも程があるぞ、と暗に言うのだが、眼鏡を直しながら言う伊勢に譲る気配はない。まあ慣れたものだがと思いながらも貴広は再び崖の淵まで歩き、「さて」と一息ついた。
 「こちらが捕捉された以上、隠密行動は無しだな」
 発見されずに事を為し得るのが最も楽だったのだが、RPGなどが飛んで来た以上、少なくとも確実に目視はされている。こちらから発射地点が未だ発見できないのは、ステルス装置などを用いて付近に巧妙に隠れているからだろう。
 そして不意打ちの狙撃で敵を仕留められなかったのだから、狙撃手の次の行動は移動だ。貴広は耳に装着した小型の無線機に手を当ててスイッチをオンにした。
 「島風。狙撃地点の確認は?」
 《俺を誰と思ってんですか。三箇所共にばっちり捕捉しとります》
 「なら、後は任せた」
 《了解ぁい》
 戯けた様な声と共に無線が切られ、次の瞬間には対岸の崖で衝撃音と共に爆煙が舞った。続け様に二回。
 「……島風(あいつ)にも、景観を大事にしろと言っておいた方が良かったか?」
 「………まあ、已むないでしょう。どの途我々が来た以上、多少の戦闘や破壊は避けられませんから」
 貴広の軽口に、伊勢は大袈裟な仕草でかぶりを振った。その様子からも、どうも言う程には響いていないらしいと判じた貴広は、気取られない程度に息を吐く。わざわざ問わずとも知れた事だが、伊勢にとっての優先度の差は、景観を護る事よりも貴広を護る方にあるのだ。その為の作戦行動の一環であるのならば、RPGの爆発が地面に穴を穿とうが、島風が奇岩を破壊しようが、些事としかカウントされていないに違いない。
 人並みに景観を愛でられる程度の感性はある癖に、己の任務や役割の方が何に於いても優先される。伊勢の場合それが顕著だ。杓子定規と言うよりは、意志や目的がはっきりしているだけなのだが、実にエージェント向けの性格と言えるだろう。
 「それにしても到底人間に撃ち込む代物ではないな。三発は装甲車両相手でも釣りが出る」
 「そうですね……。カンパニーから派遣された我々を襲撃するまでは想定の内ではありましたが、来たのが『どこ』の『誰』とまでは知られていない筈です。が…、」
 然し、貴広と伊勢とに向けられたのは対人に撃ち込むものでは無い様なロケット砲三発での襲撃。それが明らかなオーバーキルである事は誰にでも解る。同じ狙撃と言う手段を用いるならば、銃弾一発で人の身を砕く方が容易だ。仮に、確殺の為にロケット砲を選んだとしても一発で事足りる。普通はそう判断する筈だ。
 意見を伺う様な貴広の視線を受けて、眼鏡の向こうの目を細めながら伊勢は人差し指を立てて言う。
 「一つ。情報の伝達が想像以上に遅く、取り敢えず手近にあった兵器を使わざるを得なかった。但しこれだと三発も撃ち込むと言う説明はつきませんが」
 続けて中指。
 「二つ。訪れた我々についての情報をある程度持っており、少なくとも、通常の狙撃や乱戦では仕留められぬ様な相手であると判断し、全力で迎撃に当たった」
 最後に親指。
 「三つ。……最初から、訪れる者がPIXIESの漆黒の神崎と知っており、それ故に確実に仕留めなければならぬと、行動を起こした」
 「三つ目の説だと、情報部の活動を横流し(リーク)している鼠が潜んでいると言う事になるな?」
 「ええ。ついでに言うと目的が、カンパニーへの敵対行動と言うよりも、隊長(あなた)の暗殺と言う事にもなりますね」
 伊勢の伸ばした三本の指を見つめた貴広は、溜息をつきつつ肩を竦めた。情報部の活動、それもPIXIESの主導する作戦行動の一部が漏らされたのだとしたら、疑わねばならなくなる人物の幅こそ絞れるが、組織としては余り楽しい話ではなくなる。
 然し貴広は薄く笑う。端から見る者があればそれを、底冷えのする様な、とでも形容したやも知れない。
 そうなるとカンパニー本社を遠く離れた僻地での任務にも得心がいく。カンパニー内部にも、神崎貴広と言う存在を畏れ、叶うならば排除をと思う人間は多い。貴広が個人的に恨みを買っていると言う訳ではないのだが、そこはそれ、ナーサリークライムと呼ばれるのも何かと楽ではないのだ。
 「三つめに一票」
 「同感です」
 笑って自らの暗殺の可能性を肯定する貴広に、伊勢も頷くと笑んだ。こちらはどちらかと言えば苦みの強い質であったが。
 「民主主義にもならんな。他の連中にも訊いてみようか」
 「訊くまでもありません。皆きっと同じです」
 「…と言うと?」
 瞬間、ぎち、と大気そのものが軋む音がした。遅れて、馬鹿みたいに大きな銃声の様な、轟音。
 振り向けば、貴広の立つ位置の5メートルほど前方、中空に大口径の筒が浮かんでいた。緩やかな円錐形を描いたそれが、もう一発。銃声と共に真っ直ぐに貴広に向けて飛来し、同じ様にして静止、そしてぱかんと破裂する。
 先頃飛来して来たRPGの弾頭よりは、貫通力が高い。だが、届きはしない。
 「貴方を、お護りします。それだけです」
 いつの間にか貴広のすぐ横に立っていた伊勢が、鋭く細めた瞳で二発の、届かなかった弾丸の残骸を酷く無感情な目で見つめている。
 「今度はAMRか。どうも本格的に、『人間ではないもの』を『殺す』腹づもりらしいな。もしもそれが主目的で、反政府勢力の動きを誘導したのもその一環となると、随分と大がかりな手間をかけているが…」
 「ナーサリークライムを害するとなれば、決して大袈裟な事ではありませんよ。尤も、如何な手段を用いられようが、通させるつもりはありませんが」
 飛来した大口径の、対物砲の弾丸をもその大気の壁に因って平然と受け止めてみせた伊勢は、「愚かしい」と吐き棄てる様に呟いた。表情に出てはいないが、どうやら珍しくもお冠らしいと思った貴広は、再び無線に手をやる。
 「島風、状況把握は?」
 《二度目の狙撃でまぁ大体は想像つきましたわ。で、どうします?》
 仮にも情報部のエリートだけあって、島風に慌てたり困惑したりする様子はない。ただの襲撃ではなく貴広個人が狙われているとまでは至ったのだろう。狙撃音の判別はしても、端から伊勢や貴広が狙撃され負傷するなどと言う可能性は考えていない様だ。
 《この、隊長にRPGなんぞ撃ち込んだ阿呆の所持してた端末から、アジトらしき場所のデータは取れとりますが》
 言って、島風は座標を示す数字を幾つか伝えて寄越す。
 「そうか。ではとっとと乗り込んでくれ…、と言いたい所だが…、」
 それに頷いた貴広がそう言った所で三度目の、AMRの発砲音。装甲車両であっても遠距離からの狙撃で貫く、圧倒的な貫通力を持った弾丸が、長大な砲身から放たれて飛来する。耳をつんざく様な銃声に、思わず耳に掌を当てて顔を顰める。
 「……取り敢えず煩いから黙らせたいよなぁ…」
 貴広が思わずそう呟くのに、伊勢も同意を示して頷く。自分たちに被害が一切無くとも、煩いのは堪らない。
 それが効かない事は既に明白であったが、だからと言って黙って見ていると言う訳にはいかないと言う事なのだろう。
 螺旋の軌跡を描いて真っ直ぐに飛んで来る巨大な弾丸。AMRの貫通力を以てしても、伊勢の構築する大気圧の壁を貫く事は出来ない。本来であれば、人体など着弾どころかその横を通っただけでもばらばらに破壊して仕舞う様な兵器だが、今は余りに無力であった。
 (相手が悪い…と言うのも気の毒だが)
 ひっそりと嘆息する貴広の直ぐ横で、伊勢は緩やかに静止しようとする弾丸に向けた掌を、無造作に払った。何をした訳でもないその僅かの一動作だけで、途端に弾丸は嘘の様に垂直に『墜ち』て、崖下で小さな音を立てて爆発する。
 「弾が勿体ない。無駄なのだから諦めれば良いものを」
 「着弾の座標が少しずつずれています。恐らく、狙い所に因っては貫き通せるのではないかと思っているのでしょう」
 「……まぁそりゃなぁ…。ぱっと見て、どう防いでいるのかなど解らんだろうしな。何かトリックや仕掛けがあるのならば、破れぬ道理は無いと、普通はそう思うだろ」
 「それに、こうも諦め悪くも手を変え品を変えとなると、暗殺以外の目的がある事も懸念されますが…」
 伊勢の『神風』と称される力の正体を知る者は恐らく世界にまだ少ない。況してこんな小国の反政府ゲリラ組織如きがそんな、カンパニーの軍事機密と言って良い情報を知る訳などない。
 貴広とて同じ状況に立たされたのであれば、よもや大気圧に因ってAMRが防がれているなどとは、可能性としてすら考えられない事だろう。『神風』の正体が解らない以上、何らかの大がかりな装置などを用いて弾道を逸らしているのではないかと、きっと無難にそう考える。
 故に、何とか打開策を考えながらも無駄な狙撃を諦めないで居るのだろう。或いは伊勢の懸念通りに、何か目的があるのか。例えばPIXIESの性能を探るとか、そう言ったものが。
 (狙撃地点の大凡の方角を知られて仕舞った以上、狙撃手にはこちらを確実に仕留めるか、逃げるかの二択しか無いからな…。そして後者を選ばない理由は、それ以外の目的が何かあると言う事になる)
 『神風』などの能力は知らされていないが、少なくとも殺害対象がRPGやらAMRと言った、大凡対人に使うものではない様な兵器を用いて殲滅すべき存在であると言う事のみが伝えられているのだとすれば、仕留める事が最終目的になるのだろうが。
 (情報部は確かに、何かと敵を作り易い組織ではあるが、こんな手段で個人的に命を狙われるなど、良い気はやはりしないな…)
 先頃の伊勢の言葉を借りるのであれば、ナーサリークライムを害するのであれば決して大袈裟ではない、と言う通りなのだろうが。
 ともあれここに立っていても銃声が煩いだけだ。移動して射角が変われば静かになるだろうと、貴広が崖の縁へと歩きだそうとするのを制して、伊勢は「失礼します」と言い置くと、貴広の耳に装着されていた無線機のマイクをひょいと外して自らの口元に近づけた。伊勢も無線は一揃え装備しているのだが、貴広が一緒だからと、今はオフラインにしてあるのだ。
 「島風、AMRの狙撃地点は把握しているか?」
 《んや。こっからじゃ角度が悪ぅて、発砲音しか確認出来ひん》
 「四時方面の、ここよりも高い岩場だ。迎撃を任せる。距離は大体──」
 《四時……っと。成程、任しとき》
 あっさりと請け負う島風の言葉に、これで漸く目先の事が一つ片付いたとばかりに、ふう、と息を吐いた伊勢は、無線を貴広へと返す。
 「では行くか」と貴広が足下を蹴って自由落下するのを伊勢が追う。二人の身は奇岩の高みから遙か下に見える地上へと真っ直ぐに落ちて行った。
 その頭上やや遠くで何やら派手な音が鳴った。島風の迎撃が行ったのだろう。
 地上まで数秒とかからぬ速度での落下は、然し地面まで残り数メートルばかりの所に到達した瞬間、何か柔らかいものに受け止められる様にして落下速度を緩やかに変えた。それもまた伊勢に因る、高い気圧の凝縮に因って生じたクッションの様なものの効果である。
 若干息苦しさを憶えるのが難点でもあるので、なるべく地上に近い位置で発動する様にしている。ふわ、と一瞬だけ弱まった落下速度に助けられながら、貴広の足は地面に到達した。膝を折って着地の衝撃を殺すと、島風に伝えられた座標の地点へと向かうべく素早く歩き出す。早いところ反政府組織を壊滅させなければならない。叶うならば内通者の正体も割り出したいが、そちらの期待値は半分未満と言った所か。
 情報戦は秒単位の戦いでもある。貴広の暗殺に失敗した事が知らされれば、首謀者は即座に尻尾を巻いて逃げ出す事だろう。
 そいつがカンパニーに叛逆したとか、そう言った事に興味は無い。ただ、任務はそこに存在している。反政府組織の壊滅ないしそれに程近い状況を作ることとして。
 殲滅戦は貴広の最も得意とする分野だ。後味の良いものでは決してないが、それが己に出来る、課せられた『仕事』である。
 崖上は風景の良い山であったが、地上は存外に複雑な地形となっていた。大小連なる奇岩が、永年の侵食や雨季に現れる河などに因って迷路の様な形状を描いている。見晴らしが悪いから狙撃の心配はもう無いだろうが、複雑にくねった岩場で、角待ちもとい待ち伏せなどされた日には堪らない。
 島風と行動していた部下たちが合流しようと追って来るのに、貴広は無言でハンドサインを出した。敵のアジトを制圧するのに、一箇所から全員で吶喊したら芋洗いになって仕舞う。そうなれば敵にとっても物量さえ凌げば勝算が見える様になるし、こちらも自由に動けなくなる。
 分散して多方向から攻める、と言う指示に従って速やかに行動に移る部下たちの、ダークグレーの揃いのスーツ姿の背中を横目に見送ってから、貴広は腕時計に似た観測機器へと視線を落とした。先頃島風から報告された座標まであと僅かだ。
 頬を打つ乾いた風に目を細めると、貴広は己からつかず離れずの距離を歩く伊勢を振り向いた。
 「伊勢」
 「はい」
 律儀に頷きを寄越す無二の部下に向けて、貴広は続ける。心情としては、頼もしさが半分と、煩わしさがほんの少々と言った所であった。ただでさえ『心配性』の気のある伊勢だ。後者の比率が増える事は半ば覚悟しなければなるまい。
 「この乾燥地帯だ。通常の戦闘程度には問題は無いが、恐らく漆黒に万全を期待する事は出来ない」
 漆黒は貴広の力であって切り札でもある。銃の引き金を引くより、ナイフで頸を掻き切るより、易い程に当たり前の様に存在する力だが、極端な環境の下ではその性能を存分に発揮出来ない事もある。
 この、ほぼ砂礫に近い乾燥地帯が良い例だ。漆黒がまるで扱えないと言う事は無いが、日頃よりも体力を消耗する事は解る。何と言うか、掌にある筈のものが酷く遠い様に感じられるのに似ている。それは理屈ではなく、貴広にだけ解る、感覚程度での事なのだが。
 ともあれPIXIESで越えた場数は多い。こう言う事に前例が無い訳ではない。恐らくだが、それ故に伊勢は必要以上に貴広の身を心配してみせていたのだろう。
 「だから、お前たちを遠慮なく頼らせて貰う」
 先頃は伊勢の過剰な警戒を『心配性』と評した貴広であったが、だからこそか、己を過大評価せずに正直にそう口にした事に、伊勢はやんわりとした微笑みを浮かべてみせた。何故だろうか、心なし嬉しそうに見えるのが癪に障るが。
 「心得ました」
 「まぁ、無茶さえやらかさなければ問題はないだろうが」
 言って、掌をひらりと振ってみせる。漆黒をまるで使えないと言う事はないが、己の感覚が確かであれば、その発動はほんの僅かだが鈍い筈だ。逆に言えばその程度だが、戦場ではその僅かコンマ秒単位のタイムラグでも生死を分ける要因になるのだとは、貴広は身を以て知っている。だからこそ正直にそう付け足して言ったのだが、それに対して伊勢は何故か溜息をついてみせた。それも、呆れたと言うよりは諦めに近い質だ。
 「そう自信満々でいられるのが一番の不安要素なのですが…。頼ると仰られた以上は余り前にお出にならないで頂けると助かります」
 にこり、と。素早く切り替えた笑顔で刺された釘に貴広は「解った解った」とお座なりな仕草と共に頷いておく事にした。ここでいつまでもごねていても仕方がない。
 PIXIESを実質まとめているのは確かに貴広だが、そこに集っているのは、伊勢もそうだが、頭を失って烏合の衆に容易くなり果てる様な連中では無い。部下への信頼があるからこそ、貴広は少しばかり無理をする事もあるのだが、伊勢はそんな貴広の考えには全面的に賛同しかねる様で、こうして折に触れては苦言を呈して来る。
 以前に五十鈴はそれをして「兄さんは隊長の事が心配過ぎるだけなんですよ」などと、フォローなのかよく解らない言い種を、諦めろ、と言う意味で寄越したものだが。
 「ま、そんなに心配だと言うのであれば、全力で護ってくれ」
 言って、見上げた奇岩の狭間。天然の迷路の様な地形が少し先で拓けている。遙か頭上の空は聳える断崖の狭間に支えられて高く、まるで伽藍の様に壮大だ。
 どうやら壁面に天然の侵食で生じた隙間が幾つもあり、それを利用して作った古代の住居がある様だ。本来ならば古代の時代から残る貴重な遺跡なのだろうが、今はゲリラの巣窟と言う訳である。
 「無論それは言われる迄も無い事ですが。出来れば大人しく護られて頂きたい所です」
 「…過保護め」
 「何とでも」
 開き直った伊勢の調子に肩を竦めつつ、二人は壁面に添って慎重に移動していった。住居型遺跡の周囲には、即興で拵えたのか露骨な野営陣地が出来上がっており、慌ただしい動きが見られた。見張りも幾人も立っている。エージェント接近や暗殺の失敗ぐらいは既に伝わっている筈なので、最早直接戦闘──戦争も辞さないと言う姿勢である事は言う迄も無い。
 「島風」
 《…はい?イチャつくのはもうええんですか?》
 呼ぶなり無線からあっけらかんとした声が返って来て、貴広は引き攣りながら顔を顰める。どうやら先頃無線を使った伊勢がマイクのスイッチを切り忘れていたらしい。それにしても、一連の会話を聞いていたとして、それをどう無理矢理に邪推してみても島風の言う意味にはなるまい。
 「何をどうすればイチャついてる事になるんだ。そんな事より、そちらはどうだ」
 《逆側からアプローチ中。どうやらこちらの方がどちらかと言うと連中の正規ルートの様で、車輌なんかの通行の痕跡も残っとります。何人か見張りに『穏便に』寝て貰っとるんで、そろそろ動きがある頃合いやないですかね》
 車輌が通ると言う事は、それなりの道幅があって、道路もある程度は舗装されていると言う事だ。そうなると当然見張りを置かない理由はない。通り易い途の敷設とは、逆に言えばそこからなら攻められ易いと言う事だからだ。
 《そんな訳なんで、こちらは陽動に移行しますわ。隊長と伊勢が隠密行動向けじゃ無いのは重々承知しとりますが、まぁ何とかしたって下さい》
 じゃ、とからりとした調子で言うだけ言って無線が切られる。と、それとほぼ同時に、辺りを歩哨していた見張りたちの間にざわついた気配が漂い始めた。突然正面玄関から『お客様』がお出でなのだから、無理も無い話だが。
 隠密も諜報も、貴広自身の性能から見れば得意な分野であるとは余り言えない。無論、情報部として基本的以上の技能は習得しているので、出来ないと言う訳でもないのだが。
 「…だ、そうだが。どこを目指そうか?」
 予期せぬ展開に大袈裟に溜息をついて、額を揉みながら貴広は呻く。見上げてみれば、伊勢も同じ様な表情をしていた。





特殊情報課も、伊部隊も、どんなもんなのか未だ解らないので適当オブ適当。

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