咽の奥深く揺れる林檎

※続・十年前のPIXIESのお仕事とかの妄想。
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 敵陣地のざわめきは段々と大きくなっていく。先頃まで辺りを見廻っていた歩哨たちも慌ただしく走り去って仕舞った。つまりは島風が上手い事やっていると言う事だ。順調ならばこの状況を上手く使って任務を遂行しなければなるまい。不向きだろうが何だろうが、それが分担だ。
 貴広の問いに、伊勢は少し考える様な素振りをしながら、こちらはすっかりと静かになった横穴の幾つかを見回した。
 「個人的に最も突き止めたいのは内通者の存在ですが、それ個人の特定はこの状況では困難でしょう。ですから一先ずは本来の任務通りに内部工作を遂行する方を優先すべきですね…」
 内通者が複数人居る可能性は高いが、一人一人を生かして捕まえて尋問などしている余裕はない。カンパニーと遣り取りをしている時点で末端の人間ではないだろう、程度の予測しか出来ない事前情報では、生かす殺すの判別は困難に過ぎる。
 因って、PIXIESの派遣及び貴広の暗殺を仕向けたと思しき内通者の存在を追求するのは二の次となる。ここは本来の任務通りの、ゲリラ組織の内部崩壊を演出する工作のみを考えるべきだ。
 「通信設備やゲリラ上層部の人間の部屋と言ったものを目指すのが無難かと」
 伊勢の答えは貴広の考えていたものと大体合致していた。不満を押し殺しつつも任務を優先した、伊勢の優等生な解答に鷹揚な仕草で同意を示して頷くと、貴広は物陰に潜みつつ素早く駆け出した。歩哨たちは既に島風の陽動に因って散っていたが、まだ見張りがいないとは限らない。走りながら素早く頭を巡らせ、アタリをつけた横穴の一つへと入り込む。
 ここからは完全な侵入となる。戦闘行為は避けられまい。袖口に隠したナイフを確認する貴広の前に、伊勢がさりげない仕草で回り込む。前に出るな、と言葉で繰り返すよりは行動に移した方が早いと思ったのだろう。
 風通しの良くない空間では『神風』が幾分扱い難いのも確かな筈なのだが、伊勢に譲る気配はなさそうだ。好きにしろ、と諦め混じりに肩を竦めてみせる貴広に、伊勢がにこりと笑い返す。嫌味かと思うぐらいに、平時ほどに穏やかな表情である。
 そこに爆発音が響いた。ぱらぱらと天井から落ちる砂粒を払って、「一体島風(あいつ)、どれだけ騒ぎを起こす気だ」と貴広は思わずぼやいた。よもや横穴が崩落する様な事態にならなければ良いのだが。
 島風も、貴広と伊勢とが隠密行動に適した人員だとは思っていない。だからこその派手な陽動なのだろうが、それにしても相当派手に暴れている様だ。「なんとかしたって下さい」としか言って寄越さなかった以上、陽動の裏でどう動くかはこちらで判断するほかない。
 「島風の脳筋行動は已むないですが、工作が無駄にならない様にしなければ」
 「…だな。急ごう」
 と、足を速めた所で伊勢が素早く身構えた。ざ、と剥き出しの地面を擦る靴音と同時に、前方から角を曲がってやって来た兵の二人組のうち一人が仰向けに倒れた。その喉は気圧を極限一点に圧縮した鉄風に因って鋭利な刃物で裂かれた様にぱくりと開かれ、頸が捻れて落ちそうな程にぐるんと頭部が回っている。
 普通の手段では有り得ない様な仲間の死に様を理解したのか、それとも単に敵がいると慌てて反応しただけか、驚きに目を見開いたもう一人が両手で携えていたARを構えるより先に、伊勢の掌底がその腹部を打っている。高めた気圧を乗せた手に因る痛打は内臓を外から容赦なく破壊し、衝撃は全てインパクトの瞬間のみに放出されるので、非常に静かだ。
 ばたばた、と続け様に斃れ臥した二人組の亡骸をひょいと跨いで駆けながら「お見事」と貴広は声をかけるが、伊勢は眼鏡を直しつつ素っ気なく「どうも」とだけ返して寄越す。恐らく伊勢の基準ではこう言った泥臭い方法は余りスマートなやり方とは言えないのだろう。己で不本意と感じた部分を褒められても全面的に同意する気になれないのだろうが、変な所を気にする男である。
 それから幾人か、現れる兵士を伊勢が素早く仕留めて行き、貴広は周囲を注視しながらその後を追っていく。こう言った急拵えのアジトにはありがちなもので、床や壁に設備の配線が剥き出しになっており、主にそれを辿って行っているのだが、遭遇する敵の数が増えて来ている事からしても、向かう先が的外れと言う事も無さそうだ。つまり、何らかの重要な設備に続く通路と言う事だ。
 島風の陽動が功を奏しているのか、敵兵の殆どは事態の把握すら困難な状態で、ただ目の前に現れた見知らぬ二人組を排除しようとだけしている様だ。烏合の衆とまでは言わないが、突発的な事態に於ける対処が後手後手となっている辺りを見るだに、余り練度の高い連中ではなかったらしい。
 それにしても通路は元々の遺跡と最近の人工物とが混じり合い、入り組んで長い。元々の地形を利用しているからか、狭所が続くと言うのに、敵の基本装備は取り回しの悪そうな大型のARだ。恐らくはこの、巧妙に隠れたアジトに侵入されると言う想定すらしていなかったのだろう。
 然しそれは今回こちらも同じ様なものだ。貴広の漆黒はともかく、伊勢の神風はこう言った狭所ではその優位性を失って仕舞う。狭く出入り口の一つしかない孔の中で迂闊に局所に気圧を圧縮させたりしたら、こちらの酸素が失われかねない。因って、伊勢は本人には少々不本意な、鉄風と格闘術をちまちまと用いると言う面倒な方法で敵の制圧をしている。
 (敵がこんな穴蔵に潜んでいると予め掴んでいたのならば、もっと適した者を派遣したのだが…)
 人選ミスとまでは言わないが、適材適所と言う言葉の真逆を行く人員である事は間違いない。時間と状況さえ許せば、応援を要請している所である。
 無い物ねだりである事は承知で、貴広は幾人か、こう言った場所での任務に長けた人員を仲間の中から想像しつつ、様々な手段を模索しながら先へと進んで行く。任務の最中であっても次回に活かせる思考は常に巡らせておくべきだ。一つをクリアしても他の手段でのクリアを模索する。それが教育や教訓と言うものだ。
 (それにしても陽動の音が大分遠くなったな…。つまり入り口から見て奥深くまで入って来ていると言う事だが…)
 迷子にならぬ様に通路の脇道毎に色分けしたブロック表記がされている様だが、若干上方向へと傾斜した通路はひたすらに複雑だった。ずっと目で追って来ている、足下を走るケーブルの本数も大分増えて来ており、そろそろ何らかの設備に辿り着いてもおかしくない頃合いだ。
 「隊長」
 不意に伊勢が足を止めて壁に背を寄せた。分かれ道の角にある、鉄扉の左側だ。今まで見て来た幾つかの扉と、不自然にはめ込まれていると言う点でも全く同じで何の変哲もないものだが、そこへとケーブルの何本かが消えて行っている。頷くと貴広は扉の右側に立った。ハンドサインで、自分が扉を開けるから制圧を任せると合図を交わすと、貴広は通路を向いた侭で扉に掌を当てた。
 「──」
 すう、と息を吸うと、己の掌から生じた黒い滴がじわりと扉を黒い色で侵食していく。鉄扉をも貫通した漆黒が音もなく腐食を生じさせ、やがて、ぱきん、と錠前や蝶番の壊れる音が鳴る。その侭掌で、あちこちを黒く染めた扉を思い切り叩くと、頑丈な筈の鉄扉は割れる薄氷の様に呆気ない音を立てて、内側へと傾いでいく。
 人の気配は感じていたが、構わずに貴広は傾斜し内側へと倒れていく扉を蹴り倒して室内へ足を踏み入れた。途端に響くARの発砲音より先に、貴広の足下の陰から生じた闇が視界を埋め、銃弾は音もなくそこに現出した漆黒の盾に全て飲まれて消えている。
 視界を寸時遮る闇の壁を前に、何が起きたのかを理解出来たとは到底思えない。そして、室内で待ち伏せをして、AR掃射で応戦する事に勝機をかけていたのだろう一人の兵士は、闇の壁が水の様に崩れて消えるのと同時に、一息に接近して来た伊勢の拳に因って倒れ臥した。
 腕の一振りで漆黒を消した貴広は、電気関係の設備にぐるりと囲われた室内を見回した。かなり旧式の通信設備もその中に見出して、首尾良い結果に小さく口笛を吹く。
 「これなら何とか事は成せそうだな」
 言って、貴広は胸ポケットから取り出した小型の端末を伊勢に向けて放った。その中身は組織内部で仲間割れを起こした事を示す偽造データだ。受け取った伊勢が怪訝そうな顔をするのに、貴広は促す様な仕草と共に言う。
 「作業はお前に任せる。今回は俺が防衛に立った方が良いだろ」
 今し方の漆黒の扱いを見る限り、防衛や迎撃にはほぼ問題は無さそうだ。故に、伊勢が作業をする貴広の防衛をするよりは、貴広が漆黒で防衛に回った方が無難だろう。何しろ狭い空間では、伊勢の本来得意とする重風での防衛圏を構築するのは難しいのだ。ここに至るまでの間も、撃たれるより先に相手を倒すと言う手段で来ているが、一所に留まって防衛と迎撃となると、流石に不利である。
 「……くれぐれもご用心を」
 溜息混じりに言う伊勢が無線設備に向き合うのに背を向けて立って、貴広は「程々に心がける」と投げた。漆黒はその特性から、闇に纏わるものより生じ易い。冷えた己の影や電気設備の陰。そう言ったものを意識しながらも、袖口に隠し持った刃物をいつでも投じれるように準備しておく。見えない武装は、見て構えて撃つ必要のある銃よりは、相手を警戒させ難いと言う意味もあってこう言う場合には向いているのだ。
 「どうせならば、内通者の特定までしておきたい所ですが…」
 先頃自分で難しいと評した事をぼやく様に呟きながら、伊勢の指が端末をかたかたと叩いて操作するのに、「余り深追いはするなよ」と投げた貴広は、その瞬間ぴんと背筋を伸ばした。
 「──、」
 それは単なる勘としか言い様がない。粟立った背筋は伸びて、全身の筋肉が緊張に身構える。鼓動が酷くゆっくりと聞こえる様な気のする間の中、一人の兵士が、扉のあった場所から駆け込んで来た。目出し帽に隠れて見えない表情が、然し決死のそれであると貴広の頭は何故か理解をしている。
 感覚。嗅覚。聴覚。視覚。勘。己のどんな機能がそれを理解しているのかは定かではなかったが、戦場ではこう言った神がかりな錯覚が時折働く。そしてその錯覚は、錯覚の癖に大体の意味で正しい事が多い。
 兵士が身体に爆弾を括り付けているのが、不自然に膨らんだ衣服の下に見えた気がした、その時には貴広は既に命じている。世界に遍く散って存在する、それらに。
 兵士との距離は、狭い通路に室内しかないここでは、目前と言って良い程に近い。
 目的も理念もその瞬間には意味がない。ただ、『敵』はそうする事を選んだ。復讐か殺意かそれともただの自暴自棄か。選択の余地なく与えられた途の前には、取れる手段はそう多くない。
 「伊勢。すまんが後の事は任せた」
 声は妙にゆっくりと出て来た気がした。拡げた両手の指先が強張る様にして戦慄いて、そこに満ちるものを無理矢理に引っ掻き寄せて集める。貴広の指が掻いた空はそこから爪痕の様に黒い滴を生じて辺りに拡がり、駆けて来た兵士の足は黒い闇の中に足首まで飲まれて白く霜を浮かせて凍り付いた。
 (間に合、)
 う訳はない。先頃掴んだ己の感覚はそう言っている。故に貴広は、足を凍り付かせて前のめりに倒れて来る兵士の肩を掴むと、引っ掻き寄せる様にして生じさせた漆黒を直接そこに叩き込んだ。
 爆発とそれによる衝撃は完全には防げない。出来る事は被害を叶う限り軽微にする事だ。
 ぐ、と漆黒の残りを壁の様に、凍り付きかけた兵士に纏い付かせた瞬間、どん、と強い衝撃が空間を揺らがせた。
 伊勢が慌てて振り向くのを視界の隅に留めながら、漆黒で出来るだけ固めた兵士の、起爆した爆弾の爆風をほぼゼロ距離で受けた貴広の身体は激しく跳ねて壁に叩き付けられ、転がっていた。げほ、と咳き込むと口中に湧いた血が滴って落ちる。
 「隊長ッ!」
 俯せに倒れた身を伊勢の腕が抱き起こし、その動きで生じた痛みに貴広は呻く。耳鳴りが酷く血流が早い。非常に痛いが、それだけに瞬間的に意識が冴える。取り敢えず四肢は無事だ。視力も、聴力も確かな侭だし、伊勢にも怪我は無さそうだ。どうやら爆発の衝撃を最小限に押さえ込む事には成功したらしい。
 自爆を試みた兵士の肉体は、漆黒が解除された途端に肉塊以下の何かとなって崩れ落ちていた。漆黒で囲った小さな筺の中で爆弾を爆発させた様なものだから当然だろう。それでも殺し切れなかった爆風の衝撃が、至近に居た貴広の身を打ったのだが、その被害は想像よりも大分ましと言えた。
 役割が逆であったらと思うとぞっとする。この様な狭所での伊勢の『神風』では、爆風をここまで殺す事は出来ない。無尽蔵の漆黒であったからこそ出来た芸当と言えた。
 隊長、と伊勢が幾度も叫ぶのに、大丈夫だと言おうと貴広はかぶりを振った。今は動くのも言葉を紡ぐのも正直厳しかった。
 だが、後は任せると言ったのだから、問題はないだろう。
 貴広は伊勢の事を信頼していたし、伊勢はその信頼にきちんと百パーセント以上の成果で応えてくれる男だ。そうでなければ、自ら貴広の右腕を標榜などすまい。
 (悪いが、少しばかり休ませて貰おう…)
 己の思考が存外暢気な事を言うのに、然し貴広はそれほど驚きはしない。それもこれも、部下への絶対の信頼があるからこそだと言うのは、こんな状況であっても誇らしく思えた。
 
 *
 
 待ち合わせ地点に訪れたのは中型の輸送用のヘリコプターだった。目撃されても問題が無い様にと、軍用ではなく民間用のものだ。操縦している矢矧は器用に機体を操って、奇岩の狭間へと危なげなくホバリングする。すぐ様に飛び立つ為に完全に着陸はしない。
 風に目を細める島風の横を、伊勢は無言で通り過ぎた。その周囲にヘリコプターのローターの巻き起こす風の影響は一切生じていない。
 《貴広が負傷したと聞いたが?》
 無線越しの矢矧の問いに矢張り無言の侭頷くと、伊勢は自らの上着にくるんで抱えた、貴広をまずヘリに乗せた。外傷は擦り傷や打撲程度だが、幾つか骨折箇所もある。本人は漆黒の無理な扱いが祟ってか気絶──と言うより眠りに落ちており、ぴくりとも動かない。
 《……その様子じゃ、また無茶でもやらかしたか》
 うちの隊長殿は幾つになってもやんちゃでいけない、と軽口を投げながら苦笑する矢矧の顔には深刻な様子は見られない。もしも貴広が危機的な状況下にあったとしたら、伊勢がこんなに落ち着いている訳はないとでも判断したのだろう。
 伊勢は貴広の身体を座面に寝かせて固定すると、続けてやって来た島風にその世話を任せて、自分はヘリコプターから降りた。
 《おい、伊勢。怨恨で殲滅作戦とか阿呆な事はするなよ?》
 さっさとヘリコプターに背を向けて仕舞う伊勢に向けて、矢矧は流石に口の端を下げて言う。内部崩壊の構図をわざわざ工作しておいて、私怨でとどめを刺しに行くとしたらそれは余りに馬鹿げているのだが、貴広をみすみす負傷させて仕舞ったと言う負い目のある、今の伊勢ならばやりかねない。
 《少し野暮用があるだけだ。後でまた呼ぶから迎えを寄越してくれ》
 然し伊勢はあっさりした調子でそう投げると、無線を切った。矢矧は島風の顔をちらりと伺うが、「放っとき」とその目が物語っていたので、《伊部隊、これより帰投する》と投げ遣りに本部へ向けて、リアルタイム通信ではなく打電だけをすると、伊勢ひとりを残して人員回収を済ませた機体を浮かばせた。
 矢矧の操縦するヘリコプターが遙か遠くに遠ざかってから、伊勢は大地を蹴った。双子の弟の五十鈴の様にはいかないが、伊勢もある程度であれば大気の操作で浮遊の真似事が出来る。浮遊と言うよりは酷く一歩の大きな跳躍と言った方が良いかも知れない。
 既に場所は調べて掴んでいる。おめおめと逃がしてやるつもりはない。眼鏡をそっと直した伊勢の見上げるのは、この小国の首都にある空港。その上空であった。
 
 *
 
 電話は幾度かけ直しても不通の侭だった。緊急用の回線も使ってみたが、こちらも同じくまるで通じる気配がない。
 恐らくは敗北を喫したのだ。賭けはこちらの負け。張った相手に対する今までの投資と、それに因って生じる損失と、失敗と言う純粋な結果とを思うと、頭が痛くなりそうだった。
 男はカンパニーに所属する軍事関連の技術開発主任の一人──であり、カンパニーに対抗する複合企業の役員の一人であった。有り体に言えば企業スパイの様なものだが、最早ライフラークと言って良い程にカンパニーでの人生は長い。
 それだけに男は、カンパニーと言う、企業に似た何かの恐ろしさをよく知っていた。その強大さも、影響の多大さも。
 近年、大災害以降世界を襲った大恐慌の中で、カンパニーは陰ながらの戦争や政争への介入に因ってその勢力をますます拡大させていた。それだけであれば、男も大した危機感は抱かなかっただろう。そう言う世界の流れなのだとしか思わなかった筈だ。
 然し、昨今になってLAB主導の、既存の兵器の概念を覆す『力』の研究が活発となった。やがてその研究はLABの内にのみではとどまらず、LABに敵対する取締役会の中でも取り沙汰される様になっていった。
 その『力』とは、ナーサリークライムである。嘗て幾度も世界を破壊したと噂される、人の様で居て人の範疇には決して留まらないそれを、カンパニーは『力』として、兵器として、扱い出したのだ。
 PIXIES。特殊情報課の名を冠した、カンパニーの闇と言ってよい組織の内で、それは実用化され、自らの性能を殺戮の形で世界へと見せつけた。
 それに危機感を抱いたのは男だけではない。男の本来所属する企業も、その後ろ盾となっている大国も、皆それを危険視した。
 幾ら試算しようが、幾ら如何なる兵器を開発しようが、あれを止める事は出来ない。あの『力』に叶うものは無い。あれが国家に、人類に牙を剥いたらどうなるのか。カンパニーはその危険性をどれだけ理解していると言うのか。
 芽を摘み取れるのならば早い内に。大勢の出した結論に、提唱された暗殺プランに、男は速やかに応じた。
 極東日没と呼ばれたナーサリークライムの映像記録を、男は見た事があった。それは嘗て日本と呼ばれた国の自衛部隊の捉えた不鮮明な映像と、幾つかの写真だけであったが、そこに得た圧倒的な絶望感と言う印象だけは、恐らく誰もが変わらず抱くものだと思った。
 あれは人ではない。
 あれは正しく怪物だ。世界に生じた、人類と言う存在も叡智も全てを無意味にする、そんなものでしかない。
 神崎貴広。そう呼ばれる彼が、まるで普通の人間の様にカンパニー本社を歩いているのを目撃した時、男は心底に怖ろしくなった。人のふりをしたそれは、自らを人だと思って、何事も無い様な風情でその力を、権能を行使しているのだ。
 PIXIESと言う、人のレベルでは最高峰の者を集めたその中では、それが基準であれば、神崎貴広は本当に己をただの人間としか思うまい。
 あれは、生まれたての子供の様に無知蒙昧に過ぎる。カンパニーにそう育てられた化け物だ。
 男は深々と嘆息して額を揉んだ。反政府組織への工作と制圧と言う、PIXIESの任務に合わせて、暗殺プランを実行する事を選んだは良いが、流石に情報部の行動を全て把握するには至らず、また現地の反政府組織たちの想像以上のレベルの低さもあり、完遂出来たのはその一部に過ぎなかった。
 限りなく負けに近い結果。だが、PIXIESの一部の人員と神崎貴広の性能と言うデータは幾つか回収が叶った。これを成果として何とか、本来所属する企業へと持ち帰るまでが男の仕事であって、これまでカンパニーで得て来たライフワークとも言える仕事からの脱却でもあった。
 予め、出張を装って本社からは既に離れている。データの回収も現地に設置してあった送信機器から自動的に受信し、何とか成功している。その為に連中の殲滅対象でもあった組織のアジトの付近に潜伏しなければならないと言う問題点はあったが、脱出は無事に成功した。
 ここは上空一万フィートを越える、ビジネス用のプライベートジェットの中だ。自分の事ながら、引き際は早かったと思う。PIXIESがアジトに潜入すると言う慌ただしい頃合いを狙っての行動は、この国の政府でも掴むには時間を要する事だろう。否、その前に国はカンパニー傘下となって実質併合されるだろうか。
 取り敢えず一刻も早く、カンパニーの影響下にある領空から離れなければなるまい。自国へと逃げ込めば取り敢えず何とかなる。掴んだPIXIESのデータは対カンパニーに有益なものとなるのだから、カンパニーに対抗したい国ならば何処でも欲しがる筈だ。
 男は気圧の変化でか、感じる頭痛の中でそっと嘆息する。企業スパイとしてカンパニーに入って、怪しまれぬ様に溶け込む様にと妻子も得たが、それも全て終わりだ。人並みに『家族』への情は湧いていたが、どうしようもあるまい。これはきっと後に、世界の為となる事に繋がる筈なのだから。
 そこに警報が鳴り響いた。頭痛に煩わしく響く騒音に、男は思わず顔を起こす。
 「何事だ!」
 咄嗟に、盗み出したあらゆるデータを収めたアタッシュケースを、その取っ手に取り付けられたチェーンを体に装着して叫ぶ。如何にも危機感を煽る様な警告音の中、唐突に暴風が機内を吹き抜けて、男は慌てて座席にしがみついた。
 「後部ハッチで警報が──」
 扉を開いて入って来た、黒いスーツの護衛たちがその中に飛び込んで来て、当然の様に暴風にあおられ転倒した。一人の体はその侭床を滑って転がり、悲鳴と共に何処かへ吸い出されて消えて行く。もう一人は男と同じ様に座席の一つにしがみついて何とか踏みとどまる。
 カップが、書類が、筆記具が、携帯電話が、様々なものが機内を舞って散って、そして直ぐに収まる。護衛はしたたかに打ち付けた体を座席の間に転がした侭呻き、そこに平然と歩く靴音がひとつ接近して来る。
 警報は、後部ハッチが開かれたと言うものだった。ハッチは本来コクピットでロックを解除するか、手動でハンドルを操作して開くものであって、そもそも飛行中には安全装置が働いて開かない様に出来ている。
 上空をほぼ音速に近い速度で飛行する航空機のハッチが開く道理は、普通は無い。機器のエラーと考えるのが妥当だ。
 だから護衛たちは、それをエラーか、事故かとしか考えていなかった。
 そこに、侵入者などと言う言葉を結びつけられる筈など、なかった。
 ぐしゃ、と鈍い音がして、座席の狭間に俯せに倒れていた護衛の両足が痙攣する様に跳ねるのが視界の隅に入った。
 それから拡がる血溜まりが、乱雑に散らかった機内に拡がって行く。その傍らに佇む見知らぬ人影を、男は茫然と見た。
 まるでただの会社員。白いワイシャツ、紅いネクタイ。スーツの上着は無かったが、シンプルでありきたりなそれがカンパニーのエージェントの装束である事はよく知っている。ゆるりと振り返る、眼鏡の男のその顔は、書類上で見て知っている。
 「神風の、伊勢…!」
 PIXIES序列第弐天、『神風』の伊勢。ナーサリークライムと呼ばれる神崎貴広を除けば、人類史上最強のエージェントとして様々な経歴を持つ男の名前は、異名は、震える喉から自然と出て来た。
 何故、と言いかけた所で男は気付く。反政府組織にカンパニーからの内通者が居たと言う事は、神崎貴広への襲撃が行われた時点で間違いなく知られている。そして情報部の能力があれば、このタイミングでカンパニーを離れようとする者を掴む事も、その所在を突き止める事も易い。
 予想外に動きが速かった。自分の行動が早いと思う以上に、相手の動きが迅速に過ぎた。男はアタッシュケースを抱えた侭何とか立ち上がり、足下に死体一つを拵えたばかりとは思えぬ、穏やかな佇まいで目を細める伊勢を見た。喉を鳴らす。
 恐らくは既に、もっとずっと前から、勝敗など決していたに違いなかったのだろうと言う、どうしようもない理解が、理性的で意味のありそうな思考を削いで行っている。頭が回らないのは恐らく急減圧の所為でも何でもない。
 「虎の巣に手を突っ込んでおいて、無事で帰れるとお思いですか?」
 伊勢は笑う。飽く迄朗らかな声音で。
 男は諦めに似た苦痛の中で思う。PIXIESとは確かに化け物を集めた集団であったのだろうと。化け物を率いるものが、それ以上の化け物ではない道理はない。
 がくん、と衝撃が走った。エンジンの音が停止し、窓の外の雲の流れが緩やかになった。車のブレーキをゆっくりと踏み込んだ時の様に、緩やかに前方への推進力が失われて行く。
 道理は解らない。理由も解らない。ただ、目の前の化け物が何かをしたのだと言う事だけは恐らく間違いない。エンジンが止まれば航空機は慣性でしか進まない。推進力が無ければ揚力は得られない。停止した鉄の塊は重力の軛の侭にただ傾いで落下していくだけだ。
 瞬間的にかかる重量に機体が軋み、めきめきと凄まじい音を立てて主翼が軋んでどこかが破損した。一箇所に生じた綻びから風圧に叩きつけられた機体のあちこちでひび割れが生じていく。落下速度の余りに男の体は浮かび上がって天井に叩き付けられ、四肢のあちこちが潰れて壊れた。
 まるで卵の殻の様に分解していく機体の中、伊勢だけが平然とその場に立っている。
 急減圧。酸素不足に因って陥る筈のブラックアウトに、然し何故か至らずに重力の苦痛だけが続く。男は気付く。『神風』の何らかの力が働いているのだろうと。
 恐らくはそれを聞かせる為だけに。
 「貴様は愚かしくもあの人に手を出した。それだけは、我々は絶対に看過しない」
 手を突っ込んだ『虎の巣』は、カンパニーではなく、PIXIESの方だった。化け物の逆鱗に迂闊に触れた代償が、この様と言う訳だ。続く苦痛の中で男は、伊勢と言う目の前の化け物じみた者より、ナーサリークライムと言う存在にただ畏怖した。その存在がこの化け物たちを心酔させている。そこには正義も悪も政争も謀略も何もありはしないのだ、と。
 「ああでも、安心して下さい。この侭貴方がスパイと露見しなければ、ご家族は不運にも『事故死』した貴方の保険金で、今後も苦無く過ごせるでしょう」
 それでは、と笑んだ侭伊勢が頭を下げる様な仕草をして、背を向ける。途端、機体は爆発でもした様に空中分解した。パイロットや男の肉体は無数の破片と共に四散し、眼下の海面に向けてばらばらと落下していく。
 あの様子ではデータの回収も何も不可能だろう。カンパニーに叛逆した証拠さえ押さえられずにいれば、伊勢の口にした通りにこれは単なる『不幸な事故』で片付けられる。
 風の影響の殆どを受けず、舞う紙片か何かの様に緩やかな速度で落下しながら、伊勢はネクタイに留めてあったPIXIESの意匠のバッジに触れた。眼下に近付く港湾部の風景を見ながら落下位置を調節しつつ、矢矧への通信回線を開く。
 《野暮用とやらは済んだのか》
 通じるなり、溜息と共に、矢矧の声。伊勢は腕時計に模した端末の、GPSが機能している事を確認しつつ頷いた。
 「ああ。用事は済んだから迎えを頼む。歩くには少々面倒な距離だ」
 《偶には面倒でも買っておけよ。俺はお前の運転手じゃねぇんだ》
 は、と呆れた様に吐き捨てながらも、通信の向こうで矢矧が移動しているのは周囲の音から知れる。伊勢は近づいて来た地面に無音で降り立つと、先頃の航空機の、突然の空中爆発に因るロストの報を受けてか軍用の哨戒機が海に向けて飛んで行くのを見遣った。
 《あぁ、それとな。貴広の様子だが、ぴんぴんしてるぞ。まぁ普通なら全治ン週間の負傷だが、活動に支障は無さそうだ。で、起きるなり、伊勢(お前)はいちいち大袈裟だと愚痴られた》
 「………そうか」
 じゃあな、と告げて切られた矢矧との通話を終了させると、伊勢はそっと胸を撫で下ろして、ネクタイをぐいと弛めた。
 神崎貴広は、確かに人間であって、人間の姿形をしているが、その本質は人ではない何かだ。故に、あの程度の負傷でどうにかなって仕舞うとは思っていなかったが、それでも『人』として無事が確認出来ると言う事には矢張り安堵する。
 (貴方は過保護だの心配性だのと言うが──、)
 彼が人間よりも強靱な力を持つが故に、伊勢は思うのだ。もしも彼が『神崎貴広』では無くなって仕舞ったら、どうなるのだろう、と。
 カンパニーが、今は自由に使っているナーサリークライムの兵士である彼が、例えば明確にカンパニーに叛逆する意志を抱く様になったとしたら。
 それを押さえ込める保険もかけずに、自由にしておく筈などない。だからきっと、貴広の敵は思うより他に多い。貴広にとっての危険は想像するより遙かに多い。
 今回はただの企業スパイの仕業であったが、これが本当にカンパニーの、身の裡より出た謀略であったとしたら、その時は。
 (……どう在ろうが、貴方を──神崎貴広を、我々は全力で護る)
 遠い、夕暮れの朱の色彩をはいた空を向いて、伊勢は静かに呟いた。





お伊勢は五十鈴共々に結構黒い事を隊長に隠れてしていてもおかしくなさそうとかなんとか思う次第ですが…、過保護だろうと言う思いこみ設定がそれを更に増長させているのは言うまでもなく。
五十鈴の態度や言い種、伊勢への「お願い」受信からの迅速行動、貴広からの高評価、隷の口ぶりなどから想像するだに、お伊勢は貴広にとってものっそ頼りになる、信頼を何よりも置く程の存在だったのは確かだろうなって…。

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