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  何に況んや近日早春に遇ふをや

※10年前PIXIES妄想です。
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 「隊長、お酒を買って来たのでご一緒にどうです?」
 そんな事を言って、缶ビールとつまみの詰まったコンビニ袋を差し出してみせた五十鈴に、特に何の用事も予定も無かった貴広は「取り敢えず入れ」と返した。
 カンパニーの情報部の職員や社員の詰める居住棟だ。金曜の夜。就業時間も終わって、残業もなく、後は眠くなるまで適当に本でも読んで過ごすかと思った貴広が横になった直後の事であった。
 ひょっとしたら任務の上での愚痴や相談でもあるのかも知れない。双子の兄である伊勢や、上司である貴広に対しては普段から気兼ねなく振る舞う五十鈴だが、余り他人に対して個人的な話をしたり不平や不満をこぼす様なタイプではない。プライベートの時しか言えない様な事でも溜めているのかも知れない。
 部下の愚痴を聞く事は貴広の業務には含まれていないが、気掛かりを解消しておく事は悪い事ではない。日頃からの円滑な人間関係が、任務の達成率、ひいては生死にも関わる事だってあるのだ。
 貴広の部屋にテーブルの類はない。必要無いからである。それを知っている五十鈴は、迷う事もなく床の上へ袋を置き、中から缶ビール二本と乾物系のつまみの幾つかの袋を取り出した。
 貴広がラグの上へ腰を下ろすと、五十鈴はその向かいに正座しながら、目の前で開けた缶ビールを差し出して寄越した。まだ冷たくて表面に汗をかいた缶を受け取れば、乾杯の仕草をされる。応じて軽く呷れば、少し苦い味わいとアルコールの熱を含んだ酩酊の香りとが喉奥にじわりと滲みて行く。
 「旨い」
 「それは良かったです。あ、おつまみどうぞ」
 喉を下るアルコールの心地良い解放感は嫌いではない。特別強くはないから気をつける必要はあるが。何にせよ仕事上がりに気兼ねなく飲むのなど久々だ。ぷは、と息をついて目を閉じる貴広に、てきぱきとつまみの封を切った五十鈴が笑いかけて寄越す。
 そうして暫しの間、どうでもいい様な会話をしつつ、仕事上がりと言うには些かに遅すぎる時刻の酒盛りを愉しんでから、「で」と貴広は缶を置いた。
 「何か用事があったのではないのか?」
 机に寄りかかって問うと、五十鈴はきょとんとした顔を向けてきた。両手で持った缶をくるくると手の間で回しながら「はい?」と首を傾げる。
 「わざわざ、酒に付き合わせた以上は何かあるのだろ?愚痴とか相談とかそう言うのが」
 「…あぁ」
 眉を寄せる貴広に、五十鈴は缶を置くと、得心した様にぽんと手を打った。その時点で貴広は厭な予感を憶えて口の端を下げた。何だか以前にもこんな事があった様な気がする。
 「……もしかしなくても、特に用事は無いのか」
 「まぁ強いて言えば隊長とお酒を飲みたかったからですね」
 「………」
 またしてもあっけらかんと言う五十鈴を前に、貴広は思わず両肩を落とした。真面目にあれやこれやと想像していたのが馬鹿らしくなるが、五十鈴はこう言う男だったと思い直して、押し出される様に嘆息した。勝手に気を揉んだのも想像したのも自分の側である。
 「週末ですし、多分お暇かなと思ったのですが…、お邪魔をして仕舞ったのであればすみません」
 「思ってもいない事を言うな。散々居座って呑んでおいて、今更それもないだろうが」
 「それもそうですね」
 額を揉む貴広に、五十鈴はにこにこと笑いながら悪びれもせずに言う。全く、解り易い男ではあるが、扱い難くて仕方がない。思ってビールの残りを一気に呷った。一瞬の熱が喉を通った後には、緩やかな酩酊が脳にじわりと染みて行く。
 「急に隊長のお顔を見たくなったんです」
 「つい何時間か前に普通に見ただろ……」
 今日は珍しく六天も全員揃っていたし、就業時間中は全員普通にデスクに向かっていた筈である。慌ただしい事は無かったが、外地での大きな任務の予定を控えている為に、各々やる事は多かった。
 何にせよ今日顔を突き合わせたのは今が初めてではない。顔を見たくなったなどと言う五十鈴の言い分はおかしな話だ。
 空いた缶を床に置いて指で弾くと、爪の先でこちんと景気の悪い音が鳴った。それを催促と思った訳でもないだろうに、袋からお代わりを探ろうとする五十鈴の動作を手で軽く制して、貴広は立てた片膝に顎を乗せた。渋面を隠さず露骨に嘆息する。
 「と言うかそもそも、仕事が終わってまで上司の顔をわざわざ見たい奴など普通はいないだろ」
 「ここに居ますけど。あと、僕以外なら兄さんも同じですね」
 「お前と伊勢では何の参考にもならんだろうが」
 伊勢と五十鈴は双子だが、それぞれ思考の体系や手順は異なっており、貴広は彼らを双子だからと言って同一人物の様なものだとは思っていない。結論こそ似ているがそこに至る過程の差異は、双子や兄弟と言う要素を取り除いて仕舞えばほぼ他人と言える。
 だが、こと己についての双子からの評価は、貴広には確信があった。この問いであれば伊勢も恐らく、ほぼ間違いなく、五十鈴と同じ答えを返すだろう。言い方は多少違うかも知れないが。
 「お前たちはそうであっても、一般的にはそうではないのが普通だ。俺ならば、仕事明けに上役となど話すのも飲みに行くのも御免被る」
 ただでさえ面倒な人付き合いは、仕事の上だとしても出来るだけ敬遠したいきらいのある貴広である。人嫌いと言う程ではないし上辺を取り繕う事ぐらいは出来るのだが、基本的には己が心を許していない様な者とは挨拶以上の振る舞いなどわざわざしたいとも思わない。
 尤もその理由の多くは、相手から見てもその意見が同じだからと理解しているからである。即ち、神崎貴広とうっかり目を合わせたりしたら殺されかねないなどと、色々生じた物騒な噂に付随して生じた一般的な貴広への評価の事だ。
 それらの背景を思うと、やはり伊勢と五十鈴は──特に五十鈴は──変わった嗜好の持ち主と言わざるを得ない。五十鈴が貴広の部下となって既に結構な時間が経過しているが、それでも折に触れて「変わった奴だ」といちいち思わされる程度には。
 その最たる例こそが、双子が貴広に対して抱く評価に対する感想、或いは確信なのである。どうもこの双子は貴広に誠心誠意の敬愛ないし好感情を抱いているらしい、と言う事だ。
 PIXIES内での貴広は、上司として部下たちに敬意を払われているとは感じている。然し生死の懸かる事も珍しくない職業柄、メンバーに序列はあれどそこまで絶対的に縦割りの位差を遵守させている訳ではない。
 いざと言う時には萎縮や隷従や反感や不満よりも信頼こそがものを言うのだから、能力や技倆の差はあれど、階級について煩くは扱わないと貴広がPIXIESの全員に言いつけたのは、隊長就任直後の事である。
 その為に、貴広は飽く迄差配とその指示を出す隊長と言う役割を負ってはいるが、必要に迫られる事態で無い限りは独裁や独断で頭ごなしに物事の決定はしない。六天を始めとした部下の進言や意見には耳を傾ける様にしているし、必要ならば納得が得られるまで説明をするのも辞さない。
 概ねが同じ厳しい境遇を超えて来た者と言う前提もあるエージェントたちには自尊心も自負もある。それを尊重しないで序列だけでものを言いつければ、何れは不和の歪を生むだろう。危険と隣合わせの仕事の中で、そんな下らない事で足元を掬われるのは避けたい。
 ともあれ、上司としては部下に対して極力フラットに接して来ているつもりの貴広なのだが、それでも実際貴広の漆黒に因る所業を目の当たりにすれば、殆どの者が畏怖ないし畏敬を憶えるらしい。それはPIXIESの者とて例外ではなく。
 故に、上司として向けられる敬意には些少の畏れや羨望も交じる。日頃はまず無いが、血の流れる様な鉄火場では上手く振る舞うに躊躇っている様な感情を向けられる事もある。
 だからこそ、日常的に敬意と好意とを隠さず振る舞い、どんなに残酷な任務であろうが顔色一つ変えず闇に呑ませて佇む貴広にであろうが、全く変わる事なく相対して寄越す伊勢と五十鈴は実に「変わって」いると思えるのだ。
 物怖じしないとかそう言う段階ではない。貴広を理解しそれでいて敬意も好意も保っているから畏れがないのだろうと、そう貴広自身が確信出来て仕舞うぐらいには、彼らは余りに当たり前の様に『好意』としか言い様のない感情を、何かを取り繕う事もなく向けて来ているのである。
 貴広はそれを、伊勢も五十鈴も、貴広に匹敵するぐらいには『生命を奪う』類の所業に慣れていて、何の労も無くそれを成せるからなのだろうと思っていた。つまりは同じ穴の狢と言うやつだ。
 だが、五十鈴に言わせればそれは全くの的外れらしい。以前に貴広のその指摘をやんわりと否定した彼は、貴広の理解や想像とは最も遠い、好意と言う言葉を選んで寄越したのだ。
 「上役との付き合いがお嫌なら、部下とこうして仕事明けに飲むのはどう思います?部下からの相談とか、建前が無ければ矢張り御免被る様な事ですか?」
 そんな問いと共に向けられたのは実に態とらしい笑みだった。余り意味のない思考から戻った貴広はふんと鼻を鳴らして頬杖をつく。
 「是と返るとはこれっぽっちも思わない面をして、揚げ足を取る様な真似をするな」
 「そうですよね、すみません。隊長にお酒をお付き合い頂けている今、僕はとても嬉しいですよ」
 またしても悪びれた所など欠片も無い様な調子で言う五十鈴の、額でも小突いてやりたい所ではあったが、動くのも億劫だったので、代わりに貴広は態と不機嫌そうに眉を寄せてみせた。減らず口め、と胸中でだけ悪態をつく。
 自分でも言った通り、御免被るとまでは思っていない。部下とのコミュニケーションと思えば(程度はあれど)必要な事だとも思う。ただ、それが重要なものかと問われれば理解には遠くなる。
 「…怖いもの知らずの好奇心程度だと思っていたのだがな」
 主語の抜け落ちた貴広の、少し酔いの混じってぼやりと放たれた呟きに、然し意図を正しく受け取ったらしい五十鈴は「まさか」と言って微笑んでみせる。
 「興味は確かにありましたよ?情報部の鳴り物入りのエージェント。神風(僕ら)より功績では劣るのに、僕らを遥かに追い越したキャリアと位階を以てPIXIESの隊長に就任した人(貴方)に対して」
 そう紡ぐ五十鈴の表情は先頃までと全く変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべてはいたが、言葉にした内容は当て擦りの様でどこか珍しい。皮肉の気配は無かったが、それだけに嫌味の意としか思えない言い種に、貴広は眉尻を軽く持ち上げた。アルコールの所為で気が緩んでいるのか、口端が感情の侭に吊り上がりそうになる。
 五十鈴が貴広に露骨な棘を向けるのは珍しい事──か、寧ろ初めて──と言えたし、そう言った心情を口にされた事にいつもの軽口以上の本心が見える様な気がして、らしくもなく興が乗った。
 「皮肉か?皮肉だよな。まぁ解らんでもないが」
 どこか弾んで仕舞った声に、五十鈴は貴広の胸中を察したのか曖昧に苦笑してかぶりを振った。「残念、皮肉じゃないですよ」と軽い声で言い置いてから続ける。
 「興味由来からの一目惚れですから。嫉妬や不快感は無く、寧ろ『何者なのだろう』と言う疑問の方が大きかったので…」
 「何だ。つまらんな」
 慌てて言い繕うでもない調子は淡々としているだけに、嘘と言う訳でもないと解って仕舞い、思わず唇を尖らせる。五十鈴は常に飄々とした態度で振る舞うから、本心がどこにあるのかがよく知れない男だ。彼曰くの『好意』以外の、感情的な本音でも出て来るのかと思っていたのに。
 「何です?そんなに、僕らが実は隊長の事をやっかんでいたとか、そう言う話にしたいんですか?」
 そんな事がある筈もないのに、と呆れた様に言われて、貴広は決まり悪く目を泳がせた。真っ直ぐな『好意』だけでは信用ならないと、真逆の感情を欲したり疑ったり勘繰ってみたり、まるで面倒臭い子供の様ではないか。
 空いた缶の上に乗っている指でこつこつと落ち着き無く縁を弾いて考えるが、直球以外の良い言葉は浮かばない。貴広はばつの悪さに押される様に背を丸めた。アルコールの仕業も手伝って顔が少し熱くなるのを隠す様に、抱えた膝の上で唸る。気づけば、目を閉じたらその侭眠れそうなぐらい酩酊が回って来ているらしい。空回りする思考をなんとかまとめようとする。
 「……まぁ、その。何だ。別に疑心暗鬼とか言う訳ではないのだが…、それこそ、興味と言うか…。大体、お前らが『好意』とか説明のつかん様な事を言い出すからだな…、」
 苦しい言い訳転じて憤慨に似た調子で言いかけた所で、貴広はいつの間にか己に向けて伸ばされていた五十鈴の手に気付いた。そして気付いただけで、止める間も避ける間も無く、手のひらが頬に添えられている。
 「説明も言い訳もありませんよ。最初が『興味』でも、そこからはただの感情ですから」
 触れている様で殆ど触れていない様な感覚には不安定感はあれど不快感はない。ごく当たり前の様に近づいた手のひらに不審感はない。そして恐らくは疑問も。既に氷解している。
 「…お前曰くの『好意』と言うやつか?」
 「はい。まぁ、そんなものでしょ。好きだから隊長に敬意もそれ以上も抱く訳ですし」
 にこりと目元を細めて言う五十鈴に「好意ね…」と貴広は今一度告げられた言葉を反芻しつつ、矢張りそれが理解と受容の埒外にある感覚に任せて嘆息した。
 「では『好意』で良いとして、それでお前は具体的に何を希望しているのだ?」
 五十鈴(お前)と言うか、お前たちか、と貴広が付け足す合間に、五十鈴はぱちりと瞬きをして、口で弧を描いた侭で眉を寄せた。酷く困惑した様な面白い顔である。
 「わざわざ明け透けにそんな事を口にするぐらいだ、何かしら目的や意味はあるのだろ?」
 理解の難しい情ではあると思ったが、それを包み隠さず繰り返すと言う事には何らかの意図がある筈である。「好きです」と言われずとも貴広は部下を邪険に扱うつもりはない。変わり者だなと精々そう思う程度で終わっていた。
 貴広は真っ向から、困惑顔の五十鈴を見つめる。五十鈴は、彼にしては躊躇ったのだろう間をたっぷりと思考に費やし、そうしてからゆっくりと口を開いた。
 「………一般的にですけど、思いを寄せる対象に抱く各種の行動は、希望や願望程度にはありますよ。ですからそこまで図々しいつもりで口にしてもいますけど、無理を押し通すつもりはないと言うのも事実なんです」
 頬に添えられていた手のひらが、指先から皮膚にやんわりと触れていく。体温が高いのはきっとアルコールの所為だろう。貴広は「ほう?」と疑問符を乗せて続けた。
 「なかなか打算的ではあったと。まぁ抜け目のないお前らしいか…」
 五十鈴自身はああ言うが、問われたとは言え誤魔化さずに口にした時点で、己に在る感情や衝動を形成する正体を隠すつもりは一切ないと言う事である。曰くの『各種の行動』とやらも、一般的と言うだけに想像はつかないでもないと考えれば、成程なかなかに抜け目はないと言える。
 「…そんな納得なんてされると、理解はともかく了承は得たと調子にも乗りますけど。良いんですか?」
 「無理を押し通すつもりは無いのではなかったのか?」
 貴広の返しに五十鈴は眉をハの字に寄せて口端を下げてみせる。解り易い拗ねた様な態度に喉奥で小さく笑うと、貴広は頬に当てられた五十鈴の手の甲にやんわりと触れた。
 「ま。打算ありきとは言え、上司の問いに正直に答えを寄越した事は評価しようか」
 「……」
 つ、と重なった指の背を軽く撫で、手の甲を掴んで頬からそっと引き剥がすと、五十鈴は名残惜しげな表情を一瞬見せたものの、存外にあっさりと手を引っ込めた。
 「…僕は、隊長の意思を何よりも尊重しますしそれが絶対だと思っていますからね。言った通りに無理は押し通しませんよ。でも、打算はご指摘の通りにありますから。偶にはこうして餌が貰えると嬉しいです」
 「餌」と鸚鵡返しにした貴広は、こんなささやかに過ぎる宴会未満の相対も五十鈴には『餌』足り得るのかと曖昧な納得を得た。
 「随分と欲が無いな?」
 気の緩んだついでに出かかった欠伸を堪えて投げやりに言えば、五十鈴はにこりと微笑んだ。それこそ、そよ風の様な、と言う形容が相応しい、穏やかで爽やかな心地を浮かべ表した表情筋。その唇が笑んだ侭に紡ぐ。
 「何言ってるんですか、あるから弁えているんです。……あのですね、隊長?本当に僕の言う意味、解っておられます?」
 「『好意』だろ?それに付随する一般的な行為を含んだ」
 「ええ。ですから、打算があって、『餌』をおねだりしても良いのかとお訊きしました」
 「…………」
 つまり、自分では希望以上の事は貴広の許可が無い限りはしないが、言いたい『おねだり』とやらはあると言う事だろうか。勿体ぶった調子で言われたそんな言葉は更に意味を考えるのが馬鹿馬鹿しいもので、貴広は思わず肩を脱力させながら溜息をついた。手を伸ばすと五十鈴の頭をわしわしと撫でてやりながら、短めの前髪から覗く額に柔く口接ける。
 すれば五十鈴は至近距離で見上げて来る目元を更に和ませて、座った侭貴広の背に腕を回して来た。
 「ありがとうございます」
 「……」
 妙にしみじみとした声音で言われて、「安い」とでもからかってやろうと思っていた貴広は口を噤んだ。二人共にアルコールで高くなった体温同士で引っ付かれているし、ラグの上についた膝も少し痛むし、正直余り心地は良く無かったのだが、五十鈴が穏やかに笑む気配を隠さないものだから、まあいいかと好きにさせておく事にした。
 (…ひょっとしたらこれもまたこいつの、打算なのかも知れんが)
 貴広が部下に甘く、存外に絆され易い部分がある事を知っての狼藉であっても、ただ役得と思って甘んじているだけでも、どちらにせよそれ以上何をする気配も言う様子も無い以上は無理に引き剥がす理由は無い。
 酔いが回っているのか、余り明瞭ではなくなった思考の端でそんな事を考えながらその侭暫し黙っていると、やがて五十鈴は自分から手を放した。弁えていると言う発言を反故にするつもりは矢張り無いらしい部下の思いや行動は、成程確かに真摯なものなのかも知れないと思いつつ、貴広はその侭痛む膝を伸ばして立ち上がる。
 ちらりと時計を見やれば、まだ眠るには早い時刻であったが、ふわりとした感覚の侭に自然と欠伸が出た。今度は堪え損ねたそれは如何にも眠そうな響きだった。
 「…良いんですか?本当に甘やかして下さって。僕、何でも欲しいって正直に言いますよ?」
 凝りをほぐす様に腕を前方に伸ばす貴広を見上げて、そんな事を言って寄越す五十鈴の表情はと言えば、どこか困った様な、少し翳りのある微笑みであった。
 「寄越せと言ってねだったのはお前だろうが。説得力が無い事この上ない。それを理解した上でふてぶてしく、人の寛容さに付け込む様に甘える奴を、酒など入れながら叱りつける気にはなれんだろ」
 貴広にしては珍しく、回りくどさのない皮肉だった。恐らくはこれもアルコールのもたらす酩酊感の所為なのだろうが。
 受けて、五十鈴は翳りを残した笑みを保った侭、貴広の顔を見上げた。
 「……でも貴方は、甘えでも打算でも付け込まれても、きっと何でも無い事の様に応えて呉れて仕舞うから」
 「?何だそれは」
 突然端切れの悪くなった言葉に眉を寄せる貴広に、五十鈴は小さくかぶりを振った。明確に、真っ向からの答えを避けようとするその仕草に、貴広は言葉の続きと感情とを呑む。それは、ここに来て始めて目にする部下の態度であった。
 「…もう少しご自分を労るべきですよ。隊長に代えられるものなんて無いんですから」
 諦念。隔絶。不理解。そう言ったものを思わせながらも明確にそうとは口にしなかった五十鈴はまた訳の解らない言い種を一つ重ねた。
 反芻するのを諦めた貴広はすっきりしない感覚の侭に目を細めた。どう言う意味なのだと問えば、恐らく五十鈴は正直に答えるだろうとは思う。だが、その場でそうと口にしなかったと言う事は、回答を避けようとしたと言う事は、彼は自分からそれを貴広に言うつもりがそもそも無いのだと言う事に他ならない。
 好意だの願望だのはそれまで容易く口にしていた癖に、口にはしなかったその言葉には、意図には、一種の感情の倦怠の様なものがあった。
 だから貴広は直感的に思う。それはきっと己の理解出来るものではなく、五十鈴もまたそれを貴広に伝えようとも解って貰おうとも思ってはいないのだと。
 だから己も諦めと言う選択を取る。眠気と酩酊とに任せて、思考を、恐らくは無為でしかないそれを怠惰に放棄する。じわじわと迫り来ている眠気に抗う気も、今はきっと無い。
 「……労るも何も、お前たちが十分過ぎるぐらいに俺に過保護にしているだろうが」
 必要のないことか、無駄なことか。どちらにせよ問いさえ向ける意もないと言う事だろうと、そう結論付けた貴広が切り替える様に軽く投げると、五十鈴もまた常の軽い調子で微笑んだ。
 「そうですね。じゃあ、今よりもっと大事にします」
 好きにしろ、といつもの様に返しかけたところで二度目の欠伸が出た。大した量は飲んでいないのだが、仕事の疲れはそれなりにあったからか、思いの外に回りが早かった様だ。
 「もう休まれます?」
 意識した途端に重みを与えて来る気のする目元を擦る。空になった缶を手に取って言う五十鈴に頷き返しながら、貴広は首を鳴らして三度目の欠伸を噛み殺した。
 「…そうだな。後片付けは任せて構わないか?」
 「それは勿論。お酒持って押し掛けて来たのは僕の方ですし」
 「ん。ご馳走様」
 「こちらこそ、お付き合いして下さりありがとうございました」
 寝台は続き間になっている部屋に置いてある。ひらりと手を振った貴広は、扉は閉めない侭寝台に腰掛け、五十鈴が訪れる前には読もうとしていた本を拾ってサイドテーブルに置くと、眠り易い格好にのろのろと着替えた。
 元々、疲れていると予期せぬ寝落ちをしがちな貴広である、酒を入れると特になのだが、予めきちんと寝る体勢に入っておかなければゆっくり体を休める事が出来ない侭に朝を迎え、猛烈に後悔する事になる蓋然性は残念ながら高い。
 がさがさと五十鈴が空き缶やゴミを片付ける音を聞きながらぱたんと寝台に倒れ込む。酩酊は程よい心地と倦怠感とで全身を満たしていて、そう面倒臭い事を反芻したりせずとも眠りには落ちる事が出来そうだった。
 「おやすみなさい。電気、消して行きますね」
 「頼む…」
 目蓋を下ろしながら答えると、小さく笑う様な気配と共に部屋の電気が落とされた。
 塞がれ暗い目蓋の裏。落とされ暗い灯りの下。どちらも恐らく薄暗く視界が明瞭ではないと言う事に違いはない。
 視覚の情報が無いから自然と脳の情報処理のリソースが閉じていく。程なく穏やかな眠りが訪れるだろう中。
 
 「……自分以外の何かに与える事を、貴方は何ひとつ躊躇わずして仕舞うから。貴方にとってご自分の価値は、天秤に乗るどんな分銅よりも軽いものなのだと、貴方はそれすら理解しておられないから」
 
 だから、我儘を容易く許さないで下さい。通させて仕舞わないで下さい。
 独り言の様な呟きは、きっと微睡みを見る貴広の耳には届いていなかった。届いていたとして、きっとその意味の理解は、五十鈴の想像していた通りに叶わないだろう。
 静かな、微笑みと、そして酷く諦めきった苦笑の気配。
 
 「………………僕は、僕たちは、貴方よりも利己的なのですから」
 
 諦めと等価の囁き──或いは嘆き──と共に、扉の閉ざされる音がした。
 後にはただ、灯りの落ちた部屋と、穏やかな酩酊に包まれた寝息だけが残された。





前の続きと言うか補足と言うかほぼ踏襲と言うか…。
五十鈴は隊長に好意隠してないけど、存外に慎重に距離を詰めると言うか、万一にでも隊長にガチで嫌われたり見損なわれるのは嫌だなあと思っている、そんなイメージで。
だから隊長が容易く赦す事に乗っかりつつも少し心配になると言う。

過因の詩。

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