アリアドネの紅い糸 / 12 例えば、敵。 例えば、知り合い。 例えば、仲間。 例えば、親友。 例えば──、腐れ縁。 幾つかの想像を舌先で転がしながら、銀時は矢張り想像の通りに燃料も鍵も無事で、念の為に覗いた物入れの中にも何も入っていない事を確認してから走らせた原付の上で、そっと息を吐く。 正直、浮かぶどんな言葉も、可能性も、酷く薄っぺらくて実感が湧かない。無論言葉の意味は解っている。だが、そう結び合わせる関係性と言うものを解いてみればみるだけ、現実味の無い空転するだけの言葉しかそこには存在しないのだと突きつけられる。 銀時自身、他人の顔を憶えるのが余り得意では無いと言う欠点がある。それは一種の、戦の後遺症の様なものなのだが、症状として完全に他者の顔の判別がつかないなどと言う難儀なものではない。人相を憶えようとするのが面倒だと脳が判断して仕舞っているだけで、人相を憶える事自体が不可能な訳では無いのだ。 そして、土方十四郎の人相はと言えば、まぁ有り体に言えば美男子であって、平凡や無特徴と言う言葉からは大凡かけ離れている。そんな男の顔だ、幾ら銀時の人相識別機能が多少ポンコツであったとして、憶えられない筈はまず無い。少なくとも『知り合い』に類する様な関係性であれば確実に記憶にとどめている筈だ。 然し幾ら記憶を引っ掻き回してみた所で、その名前にも、人相にも、憶えはまるで無い。心当たりさえもまるで浮かばない。いっそ「矢張り初対面の人間」と判じる事が出来ればどれ程に楽か。 だが──、 (多分、これはただの勘だ。確証がはっきりとある訳じゃねェ。だが、それでも多分言い切れる) ゴーグルとヘルメットを手に取って、銀時は一度目を閉じて、ゆっくりと開いた。瞼の裏に寸時描かれた、見慣れない顔の形作る表情を具に思い起こして顎を引く。 (あいつは、俺の事を知っている) 出会った時、知らないと否定を投げた時、振り向かなかった銀時の背を恐らくは見つめていた時。確かにそこには何か意味が、言いたい言葉や思いが宿っていたと言うのに、それを既視感や違和感としては受け取る事の出来なかった、その理由や理屈は解らない。 (後ろ髪を引いたのも、多分、そう言うもんだ) 己に未練が、憶えが無くとも、感覚の何処かがきっとそれを知っていて、気にしていて、きっと銀時の足を幾度も止めさせようとしていたのだ。 確信だけはあって、でも土方の見せるだろう拒絶の態度を思えば振り向く事が出来なかった。彼は何故か『知らない』と言い張ったのだ。銀時の姿を見て目をあれだけ丸くしておいて、飽くまで『知らない』を貫き通そうとしている。 原付に跨ってキーを回す。ゴーグルを目まで下ろして、銀時はまだ昼間の明るさに包まれた穏やかな農村を見回した。もしも仮に何か不思議な力がこの村に働いていたとして、そんな様子は微塵も伺えぬ様な、平和そうな田畑の風景だ。 (この度重なる『偶然』か『作為』が、どう言う訳だか俺をここに留めようとしていやがるのなら、それは多分あいつの思いとは乖離してる。あいつは、あれだけ色んな感情を込めた目で俺の事を見たくせに、それを無い事にしようとしてやがる) 銀時が何かを問う事も赦さぬそれは、土方からの明らかな拒絶であって否定である事に他ならない。だからきっとこの、銀時の周囲で働いた偶然或いは作為と土方の感情とは相容れないものだ。 土方は銀時にもう会う事を、恐らくは望んでなどいまい。 一晩の寝床を提供してはくれたが、それは土方にとって望む事ではなく不可抗力であった筈なのだ。彼は望まぬ客人を然し一時の事だと割り切って迎え入れた。それだけの事だ。少なくとも土方の行動はそうであった。 感情は解らない。坂田銀時と言う『初対面』の人間に対して、何かを堪えて呑み込む事を選んだと言う事以外には。 それを暴き立てる、責めて良い謂われなど『初対面』の銀時には無い筈だ。 だが──もしも本当に、土方が銀時の事を知っていたのだとしたら。 (何だかさっぱり解らねぇけど、こちとらその所為で原付の燃料抜かれたり、村にとんぼ返りさせられたりしてるんだ。挙げ句の果てに『知らない』だァ…?) 考えるうちに何だか段々と──土方には理不尽な事かも知れないが──腹が立って来て、銀時は勢いよく原付を発進させた。 * 例えば、敵。 例えば、知り合い。 例えば、仲間。 例えば、親友。 例えば──、腐れ縁。 例えば、想い合う人間同士。 折った指を見下ろして、数えようのない最後の一つを緩く握った拳の中に閉じ込めると土方はそっと息を吐いた。 剥き出しの肌が寒くて、布団端から適当に掴んでひっ被っていた着流しの前を引っ張って整える。煙草を探ろうと袂に手を突っ込むが、そこには何の重量も見当たらない。どうやら己のものではなく、相手の着物を使って仕舞ったらしい。 白い筈の色彩は、碌に視界の利かない闇ではよく見えなかった。だがそれでも、その着物の裾や袖に雲の様な流水の様な不思議な模様が染め抜かれているのは知っている。大凡己が身につけて似合う様なものではないと言う事も、煙草どころか下手をしたらチョコレートなどが袂に入っていたりする事があるのも、知っている。 それが、付き合いの長さから自然と得た情報たちで、普段は殆ど役に立たないものだが、人となりの輪郭を描く役に程度は立つのだとも。 ○○○○。そう言う名前の男である事は識っている。己が大体その名前では相手を呼ばないと言う事も。 ヤッてる最中ぐらい名前で呼んだりしねぇ?まぁ、オメーに屋号で呼ばれんのももう慣れちまったから別に良いんだけどさぁ。 そんな、抗議にもならない戯言を、それこそ夢中になっている最中に無駄に掠れた声で囁かれた時には、絶対呼んでやるものかと何故か半ば意地の様に土方は思ったものだった。 ともあれ、そんな名前ですら呼ばない男である。それが今、ほぼ全裸で布団端にて気怠く溜息をつく土方の後ろで、パンツ一丁に布団を被ってぐうぐうと高いびきをかいて寝ている。 少し前までであったら己でも信じられない様な事なのだが、どう言う訳か土方は今現在、この男とそう言う関係にある。 どうしてだったか。何となく傾けた問いに、経緯の記憶は容易く答えを返して来るが、取り敢えずそれは過去の自分に赤面やら後悔やらをさせられるだけのものなので、考えるのを中断し仕舞っておく事にした。 「……」 もう一度、折った指を見下ろす。六番目の、カウントし損ねたそれこそが、恐らくこの男との関係性を表す、明確な言葉としての答えなのは解っている。だが、そう分類してみる事に何か意味は果たしてあるのか。五つ目の、腐れ縁と言う便利な言葉で済ませられるのならばそれで良いとは思えるのだが。 何となく持て余す様な感情がぐるりと思考を一回転させ、土方は二度目の溜息をついた。と、そこに、 「何してんの」 背後からそんな声。緩く握っていた土方の拳を包み込む様にして来るてのひらが、肩から顔を覗かせて来ている男の体温が、あつい。 「別に。数奇な人生に転がり込んじまったなと思ってただけだ」 素肌に直接触れる温度は熱いぐらいだが、着流し越しのそれは幾分ましだ。思って土方は背後から腕を回して来た男に寄りかかる様にして力を抜いた。 「数奇ィ?何それ、人生嘆くとかオメーらしくもねぇ」 「何一つ嘆いちゃいねぇよ。ただ、『色々ありました』って一言で片付けるには、結構嵩んで重くなって来たもんだと」 てめぇの存在も。そう小さく付け足した言葉に、肩の上に顎を乗せた男が忍び笑う気配。 「だなァ。まさかあの土方くんが俺に口説かれてくれるたァ、お天道様も思っちゃいなかっただろうよ」 「凄ェ真顔の、下品な口上で口説いといてよく言う」 「あァ、駄目なら一発ヤらせて、駄目でも一発ヤらせてって、」 「〜思い出させんなクソ天パ、本ッ当にてめぇはデリカシーの欠片もありゃしねぇ」 言ってる事は最低以下だったのだが、それを告げる直前の真顔が問題だった。天然パーマの残念な部分以外は基本普通に良い男である。精悍な表情筋は引き締められて、普段目になんてまずする事の無い様な真剣な様相であっただけに、土方はうっかりと、有り体に言えば見惚れて仕舞ったのだ。 言われた言葉の最低な意味など一瞬忘れて仕舞うぐらいには、心を惹かれて仕舞ったのだ。 思い出す必要のない事までうっかりと思い起こして仕舞った土方は「とにかく」と態とらしく咳払いをした。 「……真選組の奴らと比べる訳じゃねぇが、比べても仕様が無いぐらいには、てめぇの存在は俺ん中に根っこを張っちまったし、てめぇがいねぇと今の俺は多分無かっただろうってぐらいには、〜っ?!」 もうこの際だから寝物語の心地で妥協しようと思い、つらつらと胸中にあった一定の答えをこぼした土方の体が突如後ろ向きに引き倒された。慌てて肘をついた所で両頬を上からそっと挟み込まれて、男の、ゆったりと目を細めた苦笑に出会う。 「土方ぁ、オメーそう言うの本当反則だっつぅの」 「は、」 柔らかな眼差しに射すくめられてどきりとする。それが彼の、愛情を表現しようとしている時の表情なのだと言う事も、知っていた。 「俺も、お前がいねぇと今の俺は無ェんだろうなって思ってるさ。だから、叶う限りはずっと一緒に居てくれませんか……って何言わせてんだコノヤロー」 途中ではにかんで笑うと、彼は己を仰向いて見上げている土方の額にかかった髪をさらりと払って、生え際を指先で辿りながら耳朶をやわやわと弄り始める。 「叶う限りじゃなくて、そこは何が何でも叶えてやるぐらいの男気見せろや」 愛おしんでいるのだと、説明されなくとも解る優しい仕草にそっと目を細めて笑うと、土方は頭上に手を伸ばし、男の銀色の髪にくしゃりと触れた。 「返事は?」 程なくして降って来る唇の狭間での囁く様な土方の問いに、銀の髪の男は幸せそうに笑って口を開いた。 「お前のいねぇ世界なんて考えらんねぇ。ずっと俺の傍に居てくれよ、土方」 * (……確かに、約束するともしろとも言わなかったな) やけに緩慢な思考に向けてそう投げ遣りにぼやくと、土方は背で寄りかかっていた壁にこつりと音を立てて後頭部を預けた。 小さな家だ。真選組屯所にあった副長室でさえこの家よりは広いだろう。ほんの少し視線を巡らせただけでその全容を見渡せる、小さな住処。 然し幾ら見た所で、そこはよそよそしささえ感じる小さな家だ。机も、行李も、ありきたりのものしか置いておらず、生活感も少ない。住まう人間の人となり、趣味や嗜好や職業などは到底伺えないだろう。 (そんなもんが存在するのかすら、知る由もねェんだがな) 重たい、閉塞感の詰まった思考に自然と眉が寄る。感じた気のする頭痛を堪える様に額に指の腹をそっと押し当てた土方は、考えるにも飽きた物思いの侭に深く息を吐いた。 閉じた瞼の上に、真っ昼間の陽光が、木々の狭間を抜けて来たそれがちらちらと踊る。近くにある窓は開けてあるから、穏やかに吹く風が、重たげな空気と暢気な田舎の空気を撹拌させて通り過ぎていく。 どうして、と問うには既に時は経ち過ぎた。故にもう、土方の裡でそれは静かに朽ちて、いつかそっと腐って死ぬのを待つだけのものになっていた。筈だった。 だが、人間は易々と諦めを選べない。諦めの悪い己の性分も手伝って、つい期待を寄せては打ち砕かれてこうして失意に胸の何処かを痛める。 そんな愚かな事の繰り返し。 「………」 薄く目を開く。浮かんだのは、自嘲。諦めきれない苦しさが苛むその身を憐れむかの様な、皮肉げに歪んだ口端。 生きるに使う時間が足り過ぎているから、きっと余計な事に意識を割きすぎるのだ。こんなにも長い時間の空白を持て余していた憶えは、今までの土方には無かった事だ。 「……今までの俺、か」 思わず漏れた呟きは、猜疑心に満ちて酷く乾いていた。 土方十四郎。真選組の副長。数多の部下を指揮し、局長を支え、生きて来た筈の男の名前。 静かな反芻にはまだ澱みも躊躇いも無かった。現実とは裏腹なその言葉にぶるりと背筋が震えて、土方は喘ぐ様に息をついた。 (……俺は…、『俺』は、一体誰なんだ…?) 忘失の予感に、激しい眩暈を憶える。現実が、事実が、あり得なければならない事が、あやふやに輪郭を失って行く様な、形の無い恐怖を振り払う様にかぶりを振るが、血の気が引くのにも似た酷い虚脱感に土方の背はずるずると壁を滑った。座った侭で横向きに倒れて、遠ざかった窓から見える空を必死で探す。何か、己で信じられるものを、忙しなく動く眼球で必死で探す。 「──」 気付いた時には手を、救いでも求める様に伸ばしていた。限界まで開いた指先が、然し何にも届かず空を掻くのをぼんやりと空しく見つめる。 その侭酷い虚脱感に堪える様な時間をただ流していた所で、不意に土方の耳は草を踏みしだき近づいて来る様な足音を聞き取って、忽ちに散漫な意識を覚醒させる。 村の境界と言って良い外れの、山中の一人暮らしの家を標的と定める悪人はそう珍しくない。襲撃されるなら夜が多いが、彷徨い辿り着くならば昼間の事もある。その場合大体は、土方が武器を持って警戒している事を示せば取り敢えず諦めてそそくさと立ち去る。 村人は、この山中の家の存在は知っていてもまず興味を持ったり介入したりはして来ない。ひょっとしたら、どんな犯罪者が住み着いたのだろうと戦々恐々としているのかも知れないが。 身に染みついた習慣もあって即座に警戒態勢に入った土方は、音も立てずに身を起こした。悪人にせよ村人にせよ、望まぬ客である事に代わりはない。 小さく息を継いだ土方は刀を手に取った所で、不意に気付いて苦笑する。所詮は剣(これ)に生かされて剣を頼りに生きる身だ。 それだけは、きっと何処に居ても何をして居ても同じなのだろうと。 。 ← : → |