アリアドネの紅い糸 / 13



 警戒しながら出た、家の外に居たのは、果たして盗人でも迷子でも無かった。
 「………なん、」
 刀に手を置いた土方は、半ば呆然と丸くなりそうになる口を何とか動かして疑問を紡ごうとした。目に入ったものは一瞬で理解出来る光景ではあったのだが、その意味が解らない。
 目の前に居るのは、山道を走ってでも来たのか、膝に両手をついてぜいぜいと息を切らしている銀髪の男の姿に、何度見直した所で相違ない。当然だが、土方の想像した盗人にも迷子にも該当しない男だ。
 朝別れを告げたばかりの男が呼吸を整えようとしている間で、咄嗟に考えたのはまず「忘れ物でもしたのか?」と言う、立ち去ったばかりの人間の戻って来る理由としては在り来たりで典型的なものであった。
 だが、昨日から今朝にかけて見た彼の姿をどう思い返してみても、忘れる程の所持品を持っていた様には見えない。そもそも何かを落としたり忘れたりしたら、その見慣れぬ『異物』に土方自身がまず気付いていた筈だ。
 だから、有り得ないだろうその可能性を問うのは酷く間が抜けている様な気がして、土方は疑問を紡ぎかけた口を閉ざした。何と問うべきか、何を言うべきか。探るにも困って無意味に幾度か唇を上下させる。
 「土方」
 そして丁度そのタイミングで、まるで計ってでもいた様に、漸く呼吸の整って来た男が深呼吸一つの後に、そう、呼んだ。
 「……」
 土方は咄嗟に息を呑んだ。何かが、おかしい。何かが、違う。
 この男は、昨晩屋根を貸しただけの通りすがりの、江戸から来た男。坂田銀時と言う名前をした、土方の全く知らない男だ。土方を全く知らない、男だ。
 然し漸く顔を起こしてこちらをじっと見る、その眼が。その表情が。今朝まで見ていたそれとは何かが違った。ただの通りすがりであった筈のその人は今は、じっと、じっと、土方の事を見つめて、何かをそこに探そうとしているのだと、何故か解った。
 今朝別れた筈の男が、もう二度と会う事は無いだろうと思っていた筈の男が、数時間後に何故か再び戻って来た。何故かは解らないが、その理由が恐らく彼の捜す言葉や『何か』であるのは確かで、その信じ難い事実を前に、土方の背はぞわりと粟立った。
 何か、これは何か、己を『また』打ちのめそうとする暴力的な何かなのでは無いかと、猜疑心が喉奥で悲鳴を上げそうになるのを、ぐっと唇を引き結んで堪える。
 見て解る程度には強張っていただろう土方の顔をじっと見ていた男は、やがて「あー」とも「うー」ともつかぬ呻きを漏らしながら、苛々と自らの頭を掻いた。何か意味を込めて呼んだ。然しそこからが上手く続かない。そうとしか言えない姿だ。
 これは期待か、それとも畏れか。どちらをも取る事が出来ず、土方は半ば無意識に、手を掛けていた自らの愛刀の柄を強く掴む。その拳の内側に、あの時からずっと数え損ねていた感情を仕舞い込みながら。
 「………どうして、こんな所にまた来たんだ?」
 そこから自然と絞り出された言葉は乾いた諦めの響きを以てそこに落ちて、土方は小さく息を吐くと、まるで警戒でもしている様な姿勢をそっと正した。
 堪えるのはきっと易くはない。それでも、そうしなければ、そう在るべきだろうと信じて。土方は己の裡に辛うじてこびりついて残った矜持を奮い立たせた。
 声は、思った通りに落ち着いて吐き出されたのだと思う。だからか、男は呻きながら落ち着き無く視線を左右へと游がせて、やがて大きな溜息を一つ、ついた。
 「……正直、何が起きてんのか俺には解らねぇ。『これ』にどんな意味があるのかも解らねぇ。でも多分、この侭じゃ駄目だって事なんだろうと思う。理屈じゃねぇし訳も解んねぇけど、そうしねぇと、またここに──『ここ』に戻って来させられるんだろうって、そんな気がしてる」
 彼自身、まだ頭が纏まっていないのか、幾度も思いあぐねる表情を──苦悶にも似てた──浮かべてはかぶりを振って、何とか土方の問いに対する『理由』らしきものを紡ぐ。
 「……何言ってんだ」
 「だから、もう一度だけ訊く事にした。正直に答えてくれ──答えろ、土方」
 割ろうとする土方の再びの問いを遮る様にそう、憶えのある言葉と、表情とが、再び──見る。
 どくんどくんと血流の音が耳の直ぐ後ろで響く。土方の緊張で握った拳は厭な汗に濡れて、強過ぎる力に強張って震えて、鍔を無様に鳴らしている。
 (違う、期待じゃねぇんだ)
 
 「おめーは、俺の事を知ってるんだろ?」
 
 (期待じゃ、無い)
 彼の言葉は問いと言うよりも強い断定の様だった。恰もそれを知っているかの様に、知らない人の顔で土方を問い詰めて、追い詰めようとしている。
 土方は刀の柄から手を離した。それでも強張る指は再び、緩く作った拳の裡へと感情をやんわりと押し込む。
 「てめぇも大概しつけぇな。知らねぇって言って」
 「知らなくねぇんだろうが!」
 呆れを込めて笑い飛ばそうと思った土方の言葉は、然しその瞬間に彼の強い口調に遮られ、それ以上の偽を赦してはくれなかった。
 茫然と、ばつの悪くなった子供の様に唇を噛んだ土方の畏れを、彼は鋭い刃の一振りで無理矢理に除けた。除けて、少し迷う様に、混乱を鎮める様にかぶりを振ると、打って変わって穏やかな調子で続ける。
 「てめぇの言う『知らない』のが偽だってのは、勘でしかねェけど解る。てめぇは俺を──坂田銀時を知っている。そして多分、俺もてめぇを、土方十四郎を知っていた、そんな気がしてならねぇ」
 「…………」
 勘違いだ。気の所為だ。好い加減にしろ。
 証拠の無い詰問に返せる答えは多分、沢山あった。きっぱりと「知らない」と断言して、何とか追い払えばそれで良いのだろうとも、どこかでは思っていた。それだと言うのに、言葉が出てこない。乾いた唇は何の役にも立たずに強張って動かない。
 「俺は…、何か知らねぇけど憶えてなくて、でもおめーは俺を知ってる。俺は原付に乗って来た事なんて一言も言ってねぇのに、てめぇはそれを知っていた。俺が甘い物が好物だってのも知っていた。
 なのに、どうして本当の事を言わねぇんだ…!知ってるって、何処で会ったって、正直に言やそれで、、」
 言葉は問いから断定に、断定から糾弾へと変わる。土方はいつ発したかも憶えていない己の失態に密かに舌を打つ。矢張りこの男の姿を前にしたから、知らぬ内に油断が出ていたのだろう。
 だが、そんなものは確信には程遠い筈だ。彼に、土方との接点を伺わせる程に意味のあるものでは無い筈だ。それだと言うのに、彼はそれを唯一の武器として、残りを単なる勘だか感情だかで埋めて吼える。
 まるで、迷って、迷子になって、その理由が解らないのだと訴える子供の様だと、土方は静かにそんな事を思う。同時に、だから、これで、やっぱり間違ってはいなかったのだと。確信する。
 あの時、江戸を去ろうと決めた時に、万事屋の看板を見上げながら漠然と考えていたのは、希望でしかないただの、勝率の極めて低い期待だった。
 だから、結局土方はその勝率に賭ける事を、希望だと勝手に縋って見る事を止めた。
 
 ──おたく、どこのどちらさん?
 
 そう問われたら、終わって仕舞うと思ったのだ。
 (己の、最後の寄る辺、みてぇなものが)
 故に土方は、万事屋の前をそっと離れて、この田舎の地への帰路へとつく事にした。知って打ちのめされるぐらいならば、知らずにいた方が良いと、そう思った。
 それで良いと、思っていたのに。
 
 「………俺の、事なんざ、憶えてねぇ、癖に」
 
 自らの意識がそう紡いだのだとは俄に信じ難くて、土方は言い放った言葉の意味に震える己の唇をぐっと引き結んで、下顎がもう勝手に動き出す事の無い様に奥歯を強く噛み締めた。
 男が寸時眼を瞠った。土方の事を見るその視線に籠もっていたのは、困惑か、疑心か、呆れか。
 どれだけ苦しくとも、それだけは言わないだろうと、告げないだろうと、思っていた。近藤や沖田の向けて来た『あれ』と同種の感情を向けられるのも、理解出来ないと言う顔をされるのも厭だと、そればかりを思っていた。筈だった。
 「…て事は、やっぱ、そうなんだろ。おめーは俺を知っていて、俺もおめーを知っていた」
 長い吐息と共に投げられた言葉には、大凡土方の期待していた種の優しさや希望は含まれてはいなかった。だが、それでも男は憑き物でも落ちた様に穏やかな気配を取り戻して、どこか苦しそうに眉を寄せる。
 「……それでも、やっぱり俺はおめーの事を思い出せねぇ。初対面て感じじゃねぇし、知ってるんだろうっててめぇの態度は物語ってるが、思い出せそうにはねぇ」
 「…………」
 一度は覚悟を決めて仕舞っていたからなのか、それとも時が感情を無理矢理に風化させでもしたのか、希望さえも抱けそうもない酷い筈の言葉に、想像通りの結果に、然しそこまで衝撃は無かった。あの時これを聞いて仕舞っていたら、どうなって仕舞っていたのかは知れないが。
 諦めの裡に僅かだけ遺していた未練が、都合良く彼の記憶だけを呼び覚ますなどと夢見ていた訳ではない。それでも、未練が断たれた事が酷い痛みをここに遺す事は無いだろうと言う気がしていた。
 堪えるのは易かった。ずっと畏れていた通りに、易い。
 「でも、」
 頷く代わりに黙って俯いた土方へと、男が少しづつ歩み寄って来る、足音。
 眼を細め顔を起こそうとした土方の視界に見えていた黒いブーツの爪先が、とん、と軽く一歩を踏み出したかと思えば、目の前が銀と白の目映い色で埋め尽くされた。
 「──」
 後頭部に、ぽん、と掌が触れる感触がして、土方は懐かしささえ感じるその動作と、匂いと、感触と──神経を無理矢理揺さぶったあらゆる感覚を前に茫然と、ただ瞬きと呼吸とを繰り返す事しか出来なかった。
 
 「もしも『そう』だってんなら、おめーの事を思い出してやれなくて、悪ィ」
 
 友達でも慰める時の様に、引き寄せた土方に胸を無理矢理貸した男は──土方十四郎を知る筈など無かった坂田銀時は、そう、軋る様に囁いた。
 悔しさとも、苦しさとも、申し訳のなさともつかぬその響きの意味を訝しんだ時、土方ははじめて、瞠られた己の両眼から涙がこぼれていた事に気付いたのだった。







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