アリアドネの紅い糸 / 14



 何故こんな事が起きたのか。
 何故こんな事になっているのか。
 幾度となく問いを口にすれど、それに対する答えは無かった。
 
 大体にして、彼は酷く自信家であった。
 ただそれは彼自身の弛まぬ努力や苦労に因って培われたものが由来となっていて、鼻柱が高いだけの薄っぺらい自尊心とはそもそも質も意味も異なっているものだった。
 詰まる所、彼は己の自信を己で確信を持って裏打ち出来る程にはその事を自負していたし、己の裡に一本通った筋の様なものとして捉えていた。
 自信と言うものは彼がその能力で築き上げた末の結果の形の一つであり、彼と言う人間を支える礎のひとつであり、また彼がその途を失いそうになった時に見出す標でもあった。
 
 それが崩れたのは唐突の事だった。
 恐らく予兆など何も無かった。理由など何の思い当たりも無かった。
 因果。応報。必然。偶然。理。或いはただの、運命ですらない『何か』の戯れ。
 その、暴力的ですらある仕打ちに、彼は耐える術も抗う術も持たなかった。
 
 *
 
 何が起きているのか。
 土方の頭の中をぐるぐると廻っているのは、罵倒にも似た疑問がひとつ。悲鳴にも似た答えの無さがひとつ。
 ──傷だらけで蹲る、脆弱な身がひとつ。
 江戸の旧市街に近い区域だ。古い家屋と比較的に新しいビルディングの混在している、戦後の騒乱と共に成長した様な歪な町並み。
 都市計画に基づいて整然と設えられた訳ではない町は雑多で、狭く、汚く、逞しく生き延びて来た。違法建築の様に建造物が並ぶ街路はまるで迷宮の様な様相を呈しており、余り日の下に出れぬ様な者らの吹き溜まり易い場所でもある。
 そんな、本来であれば『警察』と言う者の敬遠する様な──或いは猟犬として傍若無人に振る舞う様な町の、薄暗い片隅に土方はひとり蹲っていた。
 追っ手の気配は取り敢えず遠い。だが、彼ら猟犬が本気になれば、逃げ回る小さな獲物の一人ぐらいはきっと容易く見つけ出す事を、土方は知っていた。知識よりも確信として、知っていた。
 路地の裏だか表だかは解らないが、人が住んでいるのかも知れない家屋の隙間。そこに押し込まれて、もう長い事使われていないのだろう、朽ちた木材になりかけている大八車の陰。それは成人男性の身を隠すには余りに頼りのない隠れ場所だった。
 子供のする下手なかくれんぼの様に、鬼に見つからぬ事を祈る事しか出来ない土方は、鞘ごと刀を抱きしめて小さく、小さく蹲っていた。
 
 *
 
 違和感などは特に何も無かったのだ。
 いつも通りの、相方に逃げられて一人きりの巡回。いつも通りの、平和な江戸の町。いつも通りの、煙草の味。いつも通りの、一日の出来事。
 そんな中で土方は、街路をぷらぷらと歩いている栗毛色の頭を見つけて、いつも通りに溜息をついた。
 また人の目を盗んで何処かへ姿を消したかと思えば、暇潰しでも探しているのか、退屈そうな様子でいやがる。
 そう、『いつも通り』に思って、土方は足早に彼の背に近づいた。
 「オイ、総悟てめぇ、」
 声だけで如何にも不機嫌だと解る様な、絡み調子の言葉は、然し土方がこうして仕事をサボっている沖田にかけるものとしては全くいつも通りのそれで、言って仕舞えば気安さから出たものだった。
 だからこそ土方は、自然に入り込める筈の一定の距離を簡単に詰めつつ、声をかけたのだ。
 またいつも通りの憎まれ口が帰る、その程度の予想しかそこには無かったから、土方は眼前の少年から放たれた気迫の正体を探る事も出来ぬ侭に、ただ本能的な衝動に因って足を止めて身を引いていた。天性の天才剣士である沖田の、人を確実に一瞬で殺める事の叶う間合いの外へ。
 眼前、ほんの一歩も空かぬその位置に、それはあった。
 土方がそれに気付かず間合いの内へと入り込んでいたら、今頃きっと首か何かが落ちていた。
 「……そ、」
 辛うじて間合いの外に立ち尽くした土方が形として理解出来たものは、己に真っ直ぐ突きつけられている鈍色の刃と、それを神速で抜き放った沖田の姿。
 その全身から放たれていたのは、常々彼が見せる様な戯れの様な嫌悪ではなく、明瞭な──殺気だった。
 いきなりの刃の気配に、喧嘩か殺し合いかと、人々が悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。俄に静まりかえったそこには、殺意と敵意とを知った顔から突然向けられた衝撃に立ち尽くす土方と、その殺意と敵意とを向けている張本人である沖田だけが残されていた。
 やがて沖田は、茫然と何をする様子も無い、できない土方に向けて、感情の無い瞳を投げてこう問うた。
 「……何者でィ、てめェ」
 ──と。
 
 それでも、最初は冗談か何かだと思ったのだ。沖田が土方に対して質の悪い悪戯を仕掛けて来る事などしょっちゅうだったし、それに騙されたり巻き込まれたりして酷い目に遭った回数もまた、数えきれないぐらいにはあった。
 だが、何の意趣返しか何のお遊戯かと笑い飛ばすには、彼の向けた刃と殺気と、知らぬ『敵』を見る顔は、余りに真実味があり過ぎたのだ。
 嘘や冗談でこんな事は出来ない。こんな事は言わない。こんな事はしない。
 その時の沖田は、土方と言う『他人』を明確な敵と見なしている様だったし、その鋭い刃に似た警戒心と本気の殺意とは、彼の間合いの内に僅か数ミリさえも『他人』を入れる余地を持ってはいなかった。
 
 沖田は同じ服装の土方を、真選組の服を着た見知らぬ者だと判断し、捕縛を決めた。
 土方はここに来て漸く我に返って、沖田に対して「悪ふざけもいい加減にしろ」と怒鳴った。他にも色々と言ったと思う。
 だが、沖田は土方を全く見知らぬ者と扱う事を止めなかったし、騒ぎを聞きつけ集まって来た真選組隊士らも、真選組の幹部服を着用した見知らぬ男を、妄言を吐くたちの悪い犯罪者だと見なした。
 部下まで抱き込んでどんなお遊びだと、まだこの期に及んでも土方はそう思っていたし、そう思うほか無かった。
 付き合ってやろうと溜息をつきながら屯所まで連行されて、取り調べが始まって、そこで漸く土方は、これが沖田の悪ふざけから始まったものなどでは無いのではと、そう思わざるを得なくなった。
 顔を合わせた隊士の誰もが──沖田も、原田も、山崎も、郷里からの長い付き合いの全ての人間たち、直接指導をした事のある部下でさえもが、真選組副長を名乗る『土方十四郎』と言う存在を知り得てはいなかったのだ。
 たちの悪い悪戯や遊びでは出来ない様な眼を、敵を、怪しい者を、頭のおかしい者を見る眼を、彼らはつい数時間前まで仲間であった筈の土方に向けて来た。それは裏切り者や敵になった者に向ける様なものですらなく、それ以下のもっと無情な扱いだった。
 土方は幾度も説明を繰り返した。知る者の名前を、過去を、思い出を話した。
 然し彼らはそれを気持ち悪がるばかりで、どうやって調べたのだとか、どうやってその服を手に入れたのだとか──疑いや敵意を益々に強めて行くだけにしかならなかった。
 どう言う訳か、土方の知る彼らの記憶や体験、人生の中から、土方十四郎と言う人間の存在だけがぽかりと消えて仕舞っていたのだ。
 
 土方の最後の頼る術は近藤だけだった。近藤が己の事を、土方十四郎の事を忘れる訳がない。知らない訳がない。何故ならば、土方十四郎の人生の意義や目的の半分以上は常に近藤の元に在ったからだ。
 何度も近藤への面会を乞う土方からは、当然だが彼らの疑う様な犯罪歴や病歴は出て来なかったし、何者なのかと言う事ですら解らぬ侭だった。
 その状況に埒が開かないからと話が進んだのか、遂に、護衛に沖田を伴った近藤が留置所に訪れた。
 土方にとって近藤の存在は、己の人生にとって余りに大きなウェイトを占めていた。だからこそ期待はあったし、希望もあった。
 ──だが然し、近藤から返った反応もまた、今まで会って来た者らと同じだった。
 近藤もまた沖田と同じ、他人を見る眼で土方の事を見たのだ。
 
 その時の感情を何と言い表したら良いのかは、未だに土方にはよく解らない。失意とか愕然としたとか、言葉としては譬えられそうなものが幾つも浮かぶが、そんなものでは足りぬ程に、深く、深く絶望して、世界の全てに途方もない虚しさを憶えた。
 土方は、己の力ではどうにもならない、理不尽で、訳の解らない運命の穴に落とされた己を悟った。
 否、或いは初めから土方十四郎などと言う人間は居なかったのかも知れない。
 勝手に妄想の世界を創り上げ、長い夢を見ていた愚かな人間が居ただけなのかも、知れない。
 土方にとっての価値観は、世界は、唐突に、訳の解らぬ侭に消えて仕舞った。
 あらゆる言葉でも尽くせぬ程に打ちのめされた土方は、己の事をよく知る気持ちの悪い他人を困った顔で見下ろし、肩を竦めながら立ち去って行く近藤と、敵意の眼差しを残していった沖田の背とを、崩れ落ちながら茫然と見送る事しか出来なかった。
 
 土方十四郎と言う男を今まで支えて来て、その人格を構成していた要素の一つでもあった自信も、確信も、全ては真選組の為だけに存在していた。
 真選組と言う、近藤や沖田を含んだ、その世界だけが彼の生きる途だった。
 故に、その役割を、意味を、目的を失い果てれば、後には自信を力として研鑽して来た時間が、あらゆる意味と価値とを失い果てて取り残されると言う、酷い無力感しか残らなかった。
 彼の自信と確信とが余りに強固に、彼の人生に結びついていたからこそ。根こそぎ失われたそれを救う術を、彼は一切持っていなかった。
 それが失われる事など、考えてすら居なかった。思いもしなかった。
 
 *
 
 気がついた時には、土方は留置所から逃げ出していた。
 その日見張りに立っていた隊士は己の小姓であった筈の少年だった。嘗ては尊敬や信頼を宿して己を見つめていた真っ直ぐな眼差しが、今は他人や凶悪な犯罪者を見る眼を向けて来ている。
 隙をついて彼の首を鉄格子の内側から締め上げて気絶させると、懐から奪い取った鍵を使って外に出た。刀は自分のよく知る通りに押収品を収納しておく部屋にあったし、そこのロックナンバーも己の知るものと同一であった。
 屯所の間取りも己の知るそれと変わらないし、己が嘗て差配した見張りやセキュリティの数も大体変わらなかった。それらの事実は、ただ己だけがこの世界から消えて仕舞っただけなのだと、土方にそう知らしめるには充分だった。
 そうして今、逃走した土方は路地裏で小さく蹲って、己の無力感と、尽きない、理解の出来ない混乱を抱えた侭、どうする事も出来ずに力無く座り込んでいる。
 当然だが、真選組は一度捕まえた犯罪者の逃走などを許す筈がない。今頃はあちらこちらに追っ手が出ている筈だ。
 逃れる事も、弁解する事も最早出来やしない。己は、己と言う存在を説明する事も出来ない。そんなものになったのだ。
 それは幾ら頭を抱えても、嘆いても、答えの出る様なものではないとも、土方は気付いていた。絶望としか言い様のない味わいと共に、理解して仕舞った。
 (……もう、戻れねぇって事だ)
 これが、この現象が一体どう言ったものなのかは解らないし、いつか思った通りに、おかしいのは己の方なのかも知れない。
 ただ、己がそうと信じていた世界は失われて仕舞い、土方十四郎と言う人間の存在もまた、この世界から消されて仕舞った事は確かだった。
 今、土方自身が己を『土方十四郎』と信じている、それがまやかしであろうが、何故か消えて仕舞った真実であろうが、それは余りに呆気なく消えて仕舞った。夢の様に、醒めて仕舞った。
 「………もう、」
 乾ききった唇からこぼれる、掠れて震えた声に自嘲して、土方は刀と一緒に押収品の中から取って来たものの一つである、隊服の上着を脱いだ。
 これが己の役割で、誇りで、存在理由でもあった。
 脱ぎ捨てたそれを、抜けた力の侭に地面へと落とす。中に入っていた己の身分証は偽造だと言われた。どうやってこんな精巧なものを作ったのだと、散々に問われた。
 『それ』が俺なのだと、幾度言っても、説明しても、土方の話と彼らの話はどうやっても相容れなかった。土方十四郎と言う『副長』の存在しない真選組は、それでもこの世界で当たり前の様に存在していた。
 つまり、『ここ』にはもう、土方十四郎と言う存在は、不要だと言う事だ。
 「意味のねェ事は、仕舞ェにしちまえって、事か」
 連日の取り調べで大分草臥れた白いシャツを纏った己の姿を見下ろして、土方はともすれば囚われそうになる仄暗い感傷を振り切って、歩き出した。
 身に纏って来たものたちを、脱いだ上着と共に棄てたのだと己に言い聞かせながら、歩く。仲間ではなく追っ手から逃げる為に。ここではないどこかで、生きなければならない、その為に。
 まずはそこらの家から、洗濯物でも良いから衣服を頂戴しよう。上着を脱ぎ捨てたとは言っても、まだ洋装と言うのは逃亡者としては目立つ。
 (着替えた所で、江戸にはいられねェな)
 抵抗がなかったとは言わない。未練がなかったとは言わない。訳も解らず苦しかったし悔しかったし、抗いたいともきっと思っていた。
 もしもこれが何者かの作為だとしたら、それに対する怒りは無論こみ上げる。
 だが、誰かの作為ひとつで、世界がこんなにまるごと変わって仕舞う様な事があるのだろうか。
 あったとしても、それに抗う術など土方には解らなかったし、留置所で吼え続けても意味が無いのだと言う事は散々に思い知らされて来た。
 土方はもう、近藤や沖田、真選組からあんな眼で見られたくは無かった。
 己の全てを否定されて殺される、その痛みに堪えられる自信は無かった。
 
 きっと、土方十四郎と言う男はこの世界には存在していてはならないもので。
 だから悲鳴を上げる間もなくそっと殺められたのだろう。
 抗えば抗うだけ、より酷く殺されるだけなのだ。
 
 (もう、こんなものは要らない)
 
 ここは、己を否定するだけの世界で、否定されて仕舞った己には最早何もかもが無意味なのだ。
 己で、己を否定して、諦め受け入れる事しか出来ない。
 (……万事屋は、どうだろうか)
 僅かに過ぎった希望かも知れないものを思って、土方は、江戸を離れる前の最後の未練を遠くに見つめた。
 然しその勇気が湧くのかどうかすら、解らなかった。







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