アリアドネの紅い糸 / 15



 土方は終始淡々と、いつか誰かに説明する日が来るのを知っていたのか、それともずっとそれを整然と問い考え続けていたのか、彼の知る『全て』を、淀みなく銀時に話した。
 彼の話には個人名が多く出て来て、銀時はその全てを理解出来たとは正直な所言い難かったのだが、きっとそれだけ土方の想いが深く、その記憶に、彼の知っていた筈の世界に在ったと言う事なのだろう。
 壁に寄りかかって座って、まるで他人事の様に絶望と失意の話をする土方を、隣に座った銀時は時々肩を貸したり支えたりしてやりながら、黙ってただ聞いた。
 土方の『記憶』の九割を占めているらしい、真選組と言う警察組織の事は知っている。だが何しろ相手は警察だ、ただの一般市民と易々接点などある訳が無い。寧ろ万事屋と言う危なっかしい稼業としては、出来るだけ関わりたくはない類の者たちだった。
 そこの局長とやらが新八の姉の元へ足繁く通う男だと言う事も知ってはいるし、そう言う意味では全く知らない連中だとは言えないのだが、土方の言う様な詳しい人となりまでは解らない。
 それでも恐らく彼の紡ぐそれは少なくとも『嘘』では無いのだろうとは思った。全くの他人に向けるにしては、彼のその感情は余りにも切実で、生々しく、また酷く苦しそうだったからだ。
 最初に会った時に、銀時に真選組(かれら)の様子を問いて寄越した時の様子を思い出せば、その答えは直ぐに知れた。
 土方曰く、自分の事を忘れて仕舞ってからは敵意しか向けなかったと言う、真選組と言うその連中を、彼は今でも愛していたのだ。
 追われ、江戸を出て、こんな田舎の山中に独りで身を潜めて、それでも土方は、嘗ての自分の生き様でもあった者たちを思う事をやめられはしなかったのだ。
 
 
 己が世界から消されて仕舞うなどと言う経験は銀時には(多分に)無かったし、想像してみた所で酷く不毛な上に気鬱になりそうなだけだったので、土方の傷を斟酌して見る事は諦めた。
 世界にひとりきり、そんな絶望はしたくなかったし、そんな事が起こり得ると言う想像さえもつかない。
 ──だが、実際に土方は『そこ』に居るのだと言う。それが恐らく全くの嘘では無い事は解るのだが、銀時が幾ら頭を捻ってみても、土方自身を含めた真選組の連中とそれなりに付き合いがあったと言う己の側の、実感がまるきり無いと言うのも確かだった。
 だから土方の語る彼の記憶、彼の知る筈の世界では己は彼に近しい関係だったと言う、その種類や経緯や理由と言ったものを知りたいとは思ったのだが、その疑問は銀時の口からなかなか重くて出て行ってくれそうもなかった。
 なぜなら、それを問う事こそが土方を酷く傷つける、今更の様に銀時はそう思い至ったからだ。ただでさえ知らぬ眼で己を見る、親しき者に無遠慮な疑問など投げつけられたくは無いだろう。
 問わなければならない事では無いが、知った方が良いかも知れない。そんな軽い立ち位置で相対する者に、元は共有していた記憶や思い出を語り聞かせる事など、まるで茶番にしか思えないだろう。それに何より、そうして得た先入観で見られる事は、「知らない」と突きつけられる事よりも辛い筈だ。
 だから銀時は理解を目的とした余計な茶々や疑問は差し挟まずに、ただ黙って土方の紡ぐ、彼のここに至るまでの物語をただ聞いて、受け入れてやる事にした。
 「……そうして江戸を離れてこの村を訪れたのは、ここが一応は俺の憶えている限りの、郷里と呼べる場所だったからだ」
 本当に『俺』なんて存在がいるのなら、だが。
 そう偽悪めいた笑みを添えて言うと、土方は床の一点を見つめて項垂れた。視線の先には無論何も無い。開いた額と消沈しきった横顔とを覆い隠す様にぱさりと前髪が落ちる。
 「俺がまだガキの頃に母親が病に倒れてな。独り残される事になる俺を案じたのか、父親はこの辺りじゃそれなり名の知れた、金のある家の奴だって、村の人間に言い残してから死んだんだ。
 生憎と当事者になる親父だって野郎はとっくにおっ死んじまってたが、家の者が反論出来ねェ様な動かぬ証拠があったらしい。急に涌いた隠し子のガキを家人全員が煙たがる中、俺ァ幸いにも親父殿とやらの長兄に当たる、人の好い義兄に引き取られた。酔狂だの義理は無いだの何だのと弟妹連中によく責められてたが、お陰さんで妾のガキは最悪の運命だけは避けられたって訳だ」
 (隠し子。……まぁあの時代ならよくある事か)
 妾のガキ、と僅かに強調して言った土方の言葉に、銀時は自分なりの理解を得て密かに頷いた。
 攘夷戦争は末期に近づいていたが、まだ各地で反幕府の機運が高まっていた頃だ。だが、その頃の江戸は荒れていた地方とは異なり、天人の持ち込んだ文明に因って急速な発展の兆しを見せ始めていた。
 おまけにこの辺りは江戸にも近い、幕府直轄の天領だ。江戸が富むのに併せて、その恩恵を受けていた者は多いだろう。恐らく土方の言う『父親』もそんな発展で富を得て、金に飽かせる侭に酒や女を好き放題に手にしていたに違いない。
 だからこそ、隠し子と言う存在は家人にとってはさぞ気に食わぬ存在だっただろう。莫大な遺産の取り分が僅かとは言え減るのだ。それが面白い筈がない。土方の言い種からも、たった一人の例外を除いて、家人が幼い彼に優しくは無かった事は容易に察せる。
 逆に、土方がその義兄と言う人物に恩を感じていた事も、知れる。
 実の親子では無くとも、それに似た──或いはそれでは叶わぬ様な関係性を築ける事もある。きっと土方は義兄に対してそう言った憧憬の念を感じていたに違いない。
 「だが、」
 続け様に土方の呟いた切り口は、銀時の想像するそんな光景をそっと振り払う様な剣呑さを宿していた。今までずっと淡々と続いていた言葉はそこで明確な感情を得て、泥の様に重たく吐き出されていく。
 「恩知らずなそのガキは、そのひとの人並みの幸福の可能性を壊した。手前ェが無力だったばかりに、義兄の眼からは光も未来も奪われる事になっちまった」
 乾いた声に潜む自責や自己嫌悪の念を、未だ昇華されぬ侭の仄暗く生々しい感情を、恐らくは正しく聞き取って仕舞った銀時は、無言で土方の側頭部を引き寄せ、隣り合った肩に体を預けさせた。
 何故だかは解らないが、そうしてやらなければならないと思ったのだ。この男の裡で仄暗く澱んで仕舞った感情は、誰かに、何かに因って慰撫してやらねばならないものなのだと。
 (まるで、もう治りきった筈の傷口をわざわざまた切開してるみてぇな、)
 自らに、とっくに治った傷の痛みを思い出せと、無用なまでに責めている様な──そんな気のして仕舞った銀時は、大人しく傾いて寄りかかっている土方の頭を軽く撫でた。
 大凡、三十も近い成人男性にする様な行為ではない筈なのだが、土方は逆らわずにされるが侭でいる。だが、それでも傷口を抉る様な言葉は止まらない。
 「……居心地の悪さを払いてェのと、少しでも、救われた事に報いなきゃならねェと思ったんだろうな。それからのガキは、強くなりてェって一心で喧嘩を繰り返して、どうしようもない悪童として育った。独りで生きようと足掻いて、馬鹿やって大怪我負ったり、意地張ってくたばり損なったり、近隣の村を転々と渡り歩いて、そこで」
 傷を抉る言葉をそこで一旦止めると、土方は酷く緩慢な仕草で顔を起こした。今にも泣きそうに見える目を細めると、かぶりを振って、厭な形に唇を歪める。
 嗤い出しそうなその表情の向こうで、きっと嘗て江戸で見た絶望を今一度見ているのだろうと、銀時は直感的にそう思った。
 だが、頭を撫でようとしたところで、肩を貸そうとしたところで、彼はそれを拒絶する様に口を開いた。
 「近藤さんに出会った。──そこでそのガキは……、俺ァ漸く、手前ェの居場所と役割とを得る事が叶った」
 はずだった。声にはならなかったが、そう唇は紡いでいた気がして、銀時は訳知らず口中に涌いた苦みを、咀嚼する事も呑み込む事も出来ず持て余した。
 そんな銀時の視線は痛い程に感じているだろうに、土方はそっと、今度こそわらった。
 「義兄も亡くなって、縁者とも付き合いはねェ。もうこんな名ばかりの郷里に頼るもんなんざ無かったんだが、それでも俺には他に『自分(てめぇ)』の痕跡を何か探せそうな場所も、人も、物も──無かったんだ」
 混乱した侭江戸を離れて、ほんの僅かのか細い糸を手繰ったその先にも、矢張り何も無かった。土方の表情はそう余す所無く語っていた。
 世界の全てから寄る辺を失った彼の孤独を斟酌は出来ないと、つい先頃そう思ったばかりだったが、銀時は純粋に土方に同情を憶えた。それと、ごく僅か、此処に来てからずっと離れない奇妙な既視感の様なものもきっと背中を押したのだろうと思う。
 拒絶の意思を示して座り込んで項垂れている土方の背を、半ば無理矢理に引き寄せて掌でぽんと叩いた。下手な慰め、或いは気紛れ未満のものにしか思えないだろう銀時のそんな行動に、然し触れた掌の下で背が戦慄いた。
 「……てめぇも、やっぱり憶えて無かった。てめぇの中からも、俺の存在はやっぱり消えちまっていたんだな」
 「……」
 すまねぇ、と謝ればいいのか、そうだな、と肯定すれば良いのか。それとも、ほんの少し憶えているかも知れないと、不確かな可能性を徒に残酷な希望として与えれば良いのか。答えは出なかったから、銀時は黙った侭、ただ微細に震える背をあやす様に優しく打った。
 「今までずっと、まるで出口のない迷宮でも彷徨っているみてぇだったが、これでもう完全な詰みだ。出口も希望も途絶えた、覚悟の時だ。近藤さんたちが無理で、てめぇまでもが無理なら、他に世界に俺の事を憶えてる奴なんざ、居る訳もねぇ」
 声と、骨とが軋む音を立てた。土方が、銀時の背にまるで縋りつく様にして腕を回している。
 戦慄く喉奥の声、震える腕、衣服に食い込む程の爪の痛み。耳の直ぐ横で囁くにも似た、泣き笑いの息遣い。
 「なぁ、憶えてもいねぇてめぇは信じられるか?昨日会ったばかりの男はてめぇの情人だったなんて言う、悪ィ冗談みてぇな話を」
 「……、」
 腕の中で震えながら、嘲笑でもする様に紡がれた言葉の衝撃を、意味を、銀時は半ば反射的に受け止めていた。受け止めて、流石に驚きを隠せずに目を瞠る。だが、感情が驚いた割に頭は妙に冷静にそれを理解していた。疑問符も相槌も辛うじて口から出て行かなかったのは、恐らくはただの理性程度に違いなかったのだが。
 既視感を憶えた。それは間違いない。違和感を憶えた。それも間違いがない。男と寝る事を知っている様な反応に感じた味わいの正体は不明瞭な侭だったが、不快感を憶えた。それも多分、間違ってはいない。──のだと、したら。
 「情念も劣情も人に散々注ぎ込んでおいて、綺麗さっぱり忘れやがって。その癖何の悪気も無く、同じ体温で同じ匂いで同じ力で簡単に抱きしめるとか、質が悪すぎんだろうが…!」
 「………」
 「っそこは退く所だろうが普通!なんでてめぇは、当たり前の様に…、クソ、憶えてなんていやがらねぇ癖に、何で、」
 無言でただ腕の力を強めれば、土方は苦しい姿勢で銀時の背を、駄々をこねる子供の様に拳で叩いた。抱きしめて動きを封じていなければ鳩尾にその拳がめり込んでいただろうかと、何となく想像して仕舞う。
 既視感も違和感も不快感も、結局その正体は明確ではない。忘れているらしい事実を指摘されたからと言って思い出すなどと言う、都合の良いものには矢張り出来てはいないのだろう。
 それでも、記憶には無くとも、己の裡の何かを駆り立てる様な衝動はある。それは怒りの様で嘆きの様な、酷く苦しくて『何』にもならない熱を伴って、銀時の何処かで静かに鼓動をはじめた。
 (こいつの事は憶えてねぇし、思い出も記憶もねぇ。でもこいつに会ってから向こうずっと、得体の知れねぇ感情やら感想やら感覚やらが『ここ』に居座って、離れてくれねェ)
 憐れだと思ったからだろうか。情人だったと言われたからだろうか。思いの外にその事実に嫌悪感や忌避感を憶えなかったからだろうか。それとも土方の言う通りに、体温を間近に感じた事で、無い筈の記憶とやらが蘇りでもしたのか。
 ──或いは、単なる普通の事の様に。

 (俺は多分、こいつに惚れちまったんだ)

 理由と言い訳とを重ねるのも馬鹿馬鹿しくなるぐらいにあっさりとそう理解して、銀時は昨日初めて会ったばかりの、何も知らない筈の男の事を抱きしめていた。







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