アリアドネの紅い糸 / 16



 皮膚にひやりとした感触が触れている。
 背中の皮膚だ。当たるのは冷たくて、固い感触。それが背に半分ばかり。仰向けに横たわった体の、背が、半分ほど、冷たくて固いものの上に、ある。
 「………」
 ぱちりと眼を開いてみれば、幾度も反芻する事もなくその理由は直ぐに知れた。と言うよりは思い出せた。銀時は普段ならば寝起きで冴えの悪い筈の脳が、らしくもなく目覚めるなり冴え冴えと回り始めるのを何処か他人事に似た心地で見下ろして、声に出さずに呻いた。
 (……やっちまった……)
 寧ろヤッちまったと言うべきか。そんなどうでも良い事を考えながら、横にもそもそと慎重に体を動かして、敷き布団から半分はみ出していた背を全部床板に移動させた所で、銀時はゆっくりと上体を起こした。そうして横を振り向けば、先頃まで己が半分身を寄せていた一人用の布団が一組。そこに横たわる人間が一人居るのが、否応無しに眼に入る。
 開いた額に長めの前髪が落ちていて、最初に会った時の印象と眠る男の姿とは少し違って見えた。だが、寝苦しいと言う訳でもないだろうに、少し眉根を寄せてすやすやと寝息を立てているその姿形も、剥き出しの肩が布団の隙間に覗き見えるその様子も、眠りに落ちる少し前に憶えのある人物とは寸分の違いも無い。
 間違いなく、紛れもなく、昨日この村で初めて出会った、土方十四郎と言う人物の姿である。
 (……ヤッちまった……)
 憶え深い疲労感と倦怠感、そして普段しない動作の所為で痛む筋肉痛とが、数時間前にここで起こった事の全てを全てを物語っていた。
 日のまだ沈む前から、ほぼ初対面の、行きずりの男と『やらかし』て仕舞った事実は、余りに生々しく銀時自身の肉体にも、眠る彼の様子にも刻まれており、半分だけ借りていた布団から抜け出してみた所でその記憶、事実をより深く思い知らされるだけに過ぎない。
 やっちまった、と今一度心の中で呻くと、銀時は掌で目元を覆って大きく肩を落とした。下着一枚で膝を立てて座った、その膝の間に思わず顔を埋めてむず痒い様な心地に堪える。今にも悶えくねりながら大声を上げてK点を超えて行こうとする現実感を必死で引き留めて、今は現実逃避をしている場合ではないと己に言い聞かせる。
 「……」
 うーん、と呻きながらちらりと横を見遣るが、余程疲れたのか土方は枕を抱える様な姿勢で俯せに臥した侭ぴくりとも動かない。その事に安堵と罪悪感に似た何かを憶えながら、銀時は脱ぎ散らかした筈の己の衣服を目で探した。
 別に、間違った事をして仕舞ったと後悔をしている訳ではない。土方に惚れていると思ったのも事実だし、土方自身が、彼曰く銀時は情人であったとの事で──多少は気分が滅入って弱っていた事もあったのかも知れないが──所謂『そう言う』流れになっても拒む気配が無かった事で…、まあ要するに互いに何も歯止めが効かなかったと言う訳で、つまる所は合意の上での事だ。
 だが、責任を取ってよ!と言う様な関係でも性別でも状況でも無く、正しく客観的に見れば行きずりとしか言い様の無いものだったとしても、良い歳をこいて日のある内に、雰囲気に呑まれて淫蕩に耽って仕舞ったのも事実である。
 結局のところ、一般的な三十も近い大人同士が持ち合わせていてもおかしくないだろう、常識やら躊躇いやらの段階をすっ飛ばして仕舞った事で感じるのは、後悔と言うよりも「やっちまった」と言う客観的な認識ひとつと言う訳だ。もう少し歳が互いに若ければ、若気の至りと一言で済ませられたのだが。
 やっちまった、と言うぼやきの裏にある意味は、大体が動揺と羞恥心と言うやつである。行きずりの相手と、しかも相手は男で、日のある内から、狭い家の狭い布団の中で、そんな風景にそぐわない程の熱量を使って、夢中になって仕舞った、のだ。
 らしくもないとか、良い歳こいて、とか。沸き起こる自己批判の声を何とか適当にいなした銀時は、取り敢えず見つけた白い、己の着流しを直接身に纏った。いつもインナーに着ている黒の上下の片方は、ちょっと手に取るには困難な位置、布団の中に落ちていたので諦めた。掛け布団をめくらないと取れそうにないし、そんな事をしたら土方も流石に目を醒まして仕舞うだろう。
 袷を整えて、立ち上がって帯で括る。土方の纏う様なぱりっとした角帯では無いので、浴衣の様に横に適当に腰の横で小さく結び目を作り、余った端は帯の下に突っ込んで仕舞う。
 そっと土間に下りた銀時は、朝の時同様に草履を足に突っかけると音を極力殺しながら外へ出た。見上げてみれば日はすっかりと沈み、辺りは夜になっている。
 ここへ来た時はまだ昼間だった。その記憶の風景からどうやら時間は随分と飛んでいる様だ。夕方頃まで家の中で話し込んで、それから盛り上がって致して、その後疲れて眠って、軽く三時間ほどは時間経過に憶えの無い空白だ。
 表に置いてある、朝よりは幾分嵩を減らしている水桶から軽く拝借した水で顔を洗う。汲んで来たばかりの朝に比べるとほんの少しぬるくなっている様だが、それでも気分は大分しゃんとした。
 (結局今日も帰れず仕舞いか…。まぁ新八や神楽がそんな心配するたァ思ってねぇが)
 万事屋に置いて来た留守番二人の事を思い浮かべてみるが、一日二日そこらで、二人が銀時の帰りを心配して狼狽していると言う画など想像さえつかない。寧ろ、田舎に行ったついでに一人羽を伸ばして温泉で酒でも飲んでいると疑われる方がまだ有り得そうな話だ。
 恐らくは階下のお登勢も同じ様なものだろう。また面倒事にでも嘴を突っ込んだのかもねェと呆れた様に煙草をふかして笑う姿が容易に浮かんで仕舞う。
 星の点々と瞬く空を見上げた銀時は、かぶりを振った。どうも寝起きの癖に頭の回転が未だ定まらない。まるで子供がそわそわする様に、思考が二転三転して落ち着かない。
 (少し歩くか…)
 寝起きで収まりの悪い頭髪をばりばりと引っ掻くと、銀時は息をひとつ吐いて山道の方へと足を向けた。ふと、何も残さず出かけたらまずいだろうかと思って土方の眠る家を一旦振り向くが、まあインナーは脱ぎ捨てっぱなしだしブーツも木刀もその侭だ。よもや銀時が突然姿を消したとは思うまい。
 (……ま、すぐ帰りゃ大丈夫だろ)
 土方がこの侭朝まで眠っていると言う可能性も、ごく僅かだが無い事ではない。普通ならば厠や空腹で目を醒ますだろうが。何れにせよ『忘れもの』を沢山置いていった銀時が立ち去って帰らないとは思うまい。
 そう結論を置いた所で、はたと我に返る。
 (…………何、何で俺、なんか不安な、こ、コイビト、?、を、案じてるみたいな感じになってんのォォ!?)
 無駄に回転数の良くなっている己の思考に指摘された心地になって、銀時はぶんぶんと頭を左右に振って脳に上った熱を振り払った。
 (〜こりゃ本格的に頭を少し冷やさねーとやってられねェな…)
 一人芝居をしている様な己の姿に溜息をつきつつ、銀時は神社へ続く山道を、夜に慣れた目で歩き始めた。視界に不安が少ないとは言え、歩き慣れぬ山中の道だ。余り速度は出せない。もしこれが昼間で、足下がはっきりとしていたら、己で思い浮かべる気恥ずかしさの様なものに負けて駆け出していたかも知れない。
 
 *
 
 取り敢えず神社まで下りて来た銀時は辺りを見回してみるが、公園でもあるまいしベンチの類は当然だが見当たらなかった。そもそもそんなものを見た憶えもない。
 かと言って所在なく立ち尽くしているのも気が引けたので、社に背を預けてしゃがみ込んだ。罰当たりかも知れないが、疲れているし大目に見て貰おう。思って、両膝の上に伸ばした腕を預けてついた溜息は思いの外に湿っていて、顔を顰める。
 (どうすっかな…これから)
 夜の藍色に融けそうな緑の天蓋を見上げる。土方の家のある場所より少し低い筈なのに、空の大きく開けた社の頭上は、先頃よりもずっと星が近く明るく見えた。夜、江戸の町を高台から見下ろすと丁度こんな感じだった。
 煩い程に瞬く光に思考を掻き乱されない様に、銀時は自ら目の上に手で庇を作ってそれを遮った。
 (明日になったらまた町に戻ってみる……、ってもどうせまた何か碌でもねェ事が起きてここに戻らされちまう気はすんだよなぁ…。それこそ『偶然』に仏師のじいさんの所持品が紛れ込んだりして)
 どうもこの、身に降る一連の『作為』としか言い様のない現象は、銀時をこの村から出すまいとしている気がしてならない。
 それと等量の、意識について離れない、違和感としか言い様のない奇妙な感覚。銀時自身にも説明のつかない、記憶のようなものや行動。時折無意識的に出て来るそれは、その瞬間には確かに、おかしい、と己で言わしめるものであれど、何故か頭に残らない。違和感であったと言う感覚しか残さずに消えて仕舞う。
 (〜まぁそれはさておいて、問題は滞在費だよ。昨日の分は依頼料に乗せて貰える事にはなったが、今日明日は流石にもう自己負担だろ。自己責任だろ。何せ配達先が留守だったなんて大義名分すら無ぇ、手前ェの意思での逗留な訳だし…)
 空転する思考は、答えの出ない問題に直面するには不向きだった。だから銀時は事務的な思考へと切り替える事にした。
 とは言っても思案するほどの事があった訳でもない。滞在費と言っても宿泊費用がかかっている訳でもなく、食費も使っていない。請求する程の損害は出ていない。帰りが遅い事で依頼人には文句を言われるかも知れないが、まあ話して解らない様なものでもないだろう。
 ただ飯に預かっている所為もあって、この二日間はかなり清貧な食生活であったが、困窮した時には米の一粒すら残っていない万事屋の生活を考えれば大した事でもない。因って、ここまでの滞在に金銭的な問題は特に無いと言える。
 (……言っても、ずっと此処でぷらぷらしてる訳にゃ行かねーし、江戸にはどうしたって戻る必要がある)
 江戸からこの村までの距離は、一日がかりならばそう遠いものではない。電車などを使えば更に短く出来るだろう。帰るも、行くも、来るも、問題は──無い。
 (…………惚れた相手だし、正直離れ難ェ。かと言って通って会いに来るってのも何か違う気がするし、交通費や燃料費も馬鹿にならねぇ)
 そこで本日二度目の、どうすっかな、の思考に至る。掌で作った庇の陰で目を細めてみれば、共にした閨の中での彼の姿が、その叫びが脳裏を横切った。
 彼曰く情人だった男を見上げた、眼の奥に宿っていたのは怒りでも恐怖でも耽溺でもない。絶望に彩られた世界の中で、漸く見つけた縋るものへと夢中で手を伸ばした、窺い知れぬほどの深い、飢餓感。渇望。
 貫かれながらも、布団にも背にも届かずに助けを求める様に空を掻いて伸ばされた手を、銀時は咄嗟に掴んだ。
 「あんなもん、見ちまったらなぁ…」
 思わず呻くに似た声が漏れた。土方の言う、全てが自分を忘れて仕舞った世界、と言うものを、関係者とされている銀時には理解出来はしないのだが、もしも本当にそんな状況に置かれて仕舞ったら、たとえ思い出してはくれずとも寄り添ってくれたものに縋りたくもなるだろう。向こうずっと堪えていた孤独感や罵倒の一個や二個ぐらい出て来ても不思議ではない。
 因って銀時が考えた「どうするか」の答えの一つは、土方をこの侭江戸に連れて帰れないかと言う事だった。彼の身元を証明する手立てが無くとも、かぶき町で顔利きのお登勢に頼めば仕事の斡旋ぐらいは手伝ってくれるだろう。
 基本武力行使を生業とする真選組だが、その中でも机仕事の多い立場だったと言う彼ならば、職に就く事ぐらいはどうとでも出来る筈だ。住処だって、万事屋に暫く滞在させてからゆっくり探せば良い。
 「……」
 そこまで一方的に考えた所で、銀時は眉をひそめた。土方の、淡々と彼の語った彼自身の『物語』を思い出してみれば、彼の抱えた苦悩が生々しくそこには堆積している。
 土方が己の居場所を失った江戸から逃げる様にして、この郷里に来たのだとすれば、江戸に連れて行きたいと言っても、彼がそれに頷く筈も無かった。
 そればかりか下手をしたら真選組から、拘留中に逃げた不審者と言う扱いを受けているだろうし、銀時が間に入って土方の現状を説明するとしても、真選組と付き合いの無い銀時にそんな役が務まる訳もない。
 そもそも「誰も憶えていない人物」は銀時とて例外ではないのだ。それをどう説明すれば良いのかなど、全く見当も付かない話だ。
 (なんとかしてやりてェんだけどな…)
 游いだ視線は闇の中、何処にも辿り着けずに結局は前方の、何もない境内の一点を見つめて止まった。石造りの古びた鳥居の向こうで地面は途切れている様にも見えるが、その先は結構な勾配の石段が村の道まで下っている。今は暗闇の所為で、地面と空との境さえも曖昧であったが。
 土方を江戸に連れ帰ると言うプランは、本人の意思の問題もあるとは言え、容易では無いだろう。銀時のしてやりたい、なんとか、に当たるものが具体的にどんなものであるべきなのかは解らないが、例えば土方の事を他に憶えている奴がいないか探してみるとか、とにかく彼の身元や存在を証明してやる事が出来れば良いのだろうか。
 土方十四郎と言うあの男が、どうしようもない妄想や幻想を見ている人間だと言う可能性も無きにしも、だが、それにしては余りに彼は銀時の事を知り過ぎていた。今更、嘘だの妄言だのとは思えない。
 銀時は内心溜息をついた。閨を共にした事で情でも湧いて仕舞ったのか、数時間前の己だったら間違いなく、初対面の面倒そうな事情を抱えた男にそこまで関わろうとは思わなかっただろう。これが惚れた弱みと言うのかどうかは知らないが、とにかく土方の事をこの侭捨て置く訳にはいかないと思う。
 その時視界に、空と大地の境をあやふやにしている黒い線上に、揺らめく小さなシルエットが現れた。思わず眼を瞠れば、何の事はない、陽炎の様に揺らいで動いて見えたのは、その黒い影から伸びた尻尾だった。
 黒猫が一匹、鳥居の真下辺りに座ってじっと社の方を──銀時の方を、見ている。
 「………」
 銀時は思わず腰を浮かせていた。猫の区別なんて付けられる自信は無いが、それでもこの黒猫が、この二日間自分の周囲をちらちらとうろついていたあの黒猫と同一の猫だと言う事が何故か解った。
 或いは『作為』の一端かも知れない黒猫が、今こうしてこんな風に、狙った様に思わしげに姿を現しているのだ。ならば他には有り得まいと、根拠の薄い考えで、然しそうと断じる。
 「またどうせ、偶然、なんかじゃねぇ、んだよな…?」
 何となくぞっとしないものを憶えて、銀時が乾いた声で笑いかけると、猫はゆっくりとした滑らかな動きで背を向けた。一度振り返って、「にゃあ」とまた声に出さずに鳴く。
 土方の住まう家の存在を銀時に教えた時の様に、ついてこい、とでも言う様に走り出す猫を、立ち上がった銀時は咄嗟に追いかけていた。
 今度は、餌目的でも、仔猫の面倒を見て欲しい訳でもないのだと、はっきりと確信していた。
 あの猫は「何か」を銀時に求めている。『作為』を以て、現れているのだと。
 石段を駆け下りて左右を素早く見回せば、村の方へ続く道に猫の姿はあった。銀時と目が合うなりすぐ様に再び走り出す黒い猫を追って、銀時は星明かりがほぼ全ての光源と言える、暗い夜道を駆けていく。
 「……またかよ…」
 息を切らす程の運動では無かった。だが思わず肺から深く息がこぼれる。念の為に辺りを見回すが、先頃までは「ついてこい」と言わんばかりに視界に入り込んでいた黒猫の姿は、もう闇に身を潜めでもして仕舞ったのか、何処にも見当たらない。
 挑む様に銀時は小径を見遣る。夜である事以外には何の異常もない。変わりもない風景。一日目の夜にやって来た時と、殆ど変わらない。
 黒猫を追って銀時が辿り着いたのは、村外れに近い、翁の面をした仏師の住まう小屋の前だった。







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