アリアドネの紅い糸 / 17



 因果と言う言葉を、銀時はまあそれなりに信じている方だ。正があればかならず負が返るのだとは、迷信の類ではなく、単に戒めや感覚的に思う程度には信じている。
 少なくとも理由無き理不尽な不幸を、カミサマの仕業だと諦めて仕舞うよりは、何か理由があるのかも知れないと考える方が幾分建設的だとは思う。それが応報だと思うのか、不幸の後に報われると思うのかはその時次第だろうが。
 ともあれ、謂われのない様な現象が、何か大きな力に因って無意味に、そして不条理に突然起こされるとは考えたくはない。風が吹けば桶屋が儲かるし、蝶が羽ばたけば地球の裏側で嵐が起こる。そう言った道理は必ずある。
 何かが起きるには、何かの理由がある。起きた事自体に抗うべく余地が無くとも、起きた事に対しての考えは持てる筈だ。
 故に。
 ここにまたしても結びついた事を、偶然或いは運命の気紛れだと銀時は思わなかった。
 黒猫は再び姿を消して見当たらないが、恐らく、それはつまりここに何か意味があると言う示唆に他ならない。
 猫の一匹が土方の身に起きた理不尽にどう繋がるのかは重要ではない。銀時を村に留め、今再びここを示した事にこそ意味がきっとある筈だ。
 夜だが、仏師はまだ仕事をしているらしく、工房の方には灯りが灯され、鑿が木を打つ乾いた音が空気を震わせていた。銀時は仏師の住居である掘っ立て小屋を通り過ぎ、工房の戸に手をかけて、数秒目を閉ざした。
 違和感。既視感。答えの無い問いかけ。
 意識してみれば、銀時にも仏師にもそれは憶えのある感覚だった。ただ、てのひらにすくった砂の様に、そう感じた筈の心はするりと解けてあっと言う間に雲散霧消して仕舞う。
 記憶が不確かなのではなく、記憶を手繰る目的が不確かにされている様な、強烈な違和感。
 (これがもしも、誰かの作為に因るものだとしたら、)
 妖に化かされてでもいる様なその感覚の正体を掴む事が無理であったとして──だからこそ、きっと『これ』が土方を訳の解らない運命の迷宮に放り込んだ原因そのものなのだろうと、確信はある。それが何者の仕業なのか、何の為にもたらされているのか、そこまでの追求も真偽も許されない事こそが、可能性の肯定を物語っている。
 もしもそうだとしたらそれは、土方十四郎と言う人間に対しての報いなのか。
 (俺らの記憶がおかしくなっちまったのか、それともアイツの世界が変わっちまったのか、それは解らねぇが)
 瞼をゆっくりと持ち上げた銀時は、世界にただひとりの存在に成り果てた土方の事を思い、そっと首を振った。理由付けとしての因果は信じるが、これは余りにも、重すぎる。人ひとりの負える負債を遙かに超えた現象としか言い様がない。
 軽く唇を噛む銀時の気持ちの重さに合わせた様に、手をかけた戸はがたりと軋みながら開いて、灯された蝋燭の灯りを夜の中へとさしかけた。
 工房の中央付近で、背もたれの無いシンプルな椅子──本当は台か何かなのかも知れない──に腰を下ろし、目の前に置かれた未完成の仏像を前に鑿を振るっていた仏師が、その音にか、横にずらしていた面を顔の正面に戻してくるりと振り返る。
 相も変わらず見慣れた表情を浮かべている翁の面の向こうで仏師は、まさか三度目に訪れると思っていた訳では無いだろうが、余り驚いた様子を見せず、ただ一言、
 「今度はどうしたのだね」
 と言って寄越すと、鑿を動かす手を止めた。銀時は工房に入って戸を閉めると、肩を竦めて仏師の方へと近づいて行く。
 「いやね?正直、この村に来てから訳の解らねぇ、説明も上手く出来ねぇ様な事ばっかり起きてるもんだからよォ…、いい加減何とかする為の方策を探してみるかなと」
 ぼやく様にこぼしながらも、銀時はこの一連の事態をどう説明したものか正直困り果ててはいた。別れを告げてから二度の再会になる仏師は、その二度の経緯からか銀時がよからぬ事に巻き込まれたのではないか、と言う程度には案じてくれていたらしく、「また何か困った事でも起きたかね」と問いて来る。
 「や。またあんたの工具が俺の懐から出て来たりとかはしてねェけど、これを何とかしねェと結局またそうなりそうな気がしてる」
 態とらしい仕草で額を人差し指で掻いてみせる銀時の様子を前に、仏師は唸る様に言う。
 「これ、とは?」
 「………」
 言葉にしては答えず、口を何度か上下させた銀時は、結局お手上げの仕草をしてみせた。正直、この仏師の男の正体が悪質な天人か何かで、猫はそれを伝えようと──などと言う荒唐無稽な話も一瞬は考えたのだが、相対する彼の態度は思い返してみても真摯な人間のそれだった。少なくとも、土方に悪意がある訳では無さそうだし、信頼の出来る人間だろうと銀時の勘はそう告げている。
 会ったばかりの人間にそう感じると言うのも妙と言えば妙だとは思うのだが。
 そんな銀時の思いが顔に出てでもいたのか、仏師はまだ手に持った侭だった工具を、椅子の傍に置いてあった物入れへと置き、じっと面越しの視線を向けて来る。
 何故か、面の向こうで真剣な眼差しをしているのだろうと、解った気がした。
 「……ひょっとしたら、あの坊主に纏わる事かね」
 「…まあ、」
 向けられた指摘を鋭いと思いかけ、この村で銀時と仏師とで共通に接点を持つ者は、その坊主曰く土方以外には該当しなかったかと思い直して、肯定の意味を込めつつ何となく咳払いを一つ。
 すると仏師はそっと立ち上がり、壁際に置かれている、作りかけの仏像たちの方へと向かった。姿形はそれなりに完成している様なのに、そこに並ぶものたちには表情が無い。顔の部分だけ未完成で、のっぺらぼうの侭だった。
 「あの坊主は私に、近藤総悟と名乗ったのだ」
 「、」
 その仏像たちを見つめながら、仏師はやがて呟く様にそうこぼした。彼の動きを視線で追っていた銀時は、どきりと心臓を掴まれた様に思わず瞠目する。
 近藤。そして総悟。どちらも土方の語った、彼の『記憶』の登場人物たちであって、彼と深い繋がりのあったと言う人物の名だ。
 土方は銀時に、仏師には咄嗟に偽名を名乗って仕舞ったと言っていた。一応は警察から追われて江戸を逃れて来た身なのだから、その考えや行動自体は自然だ。
 ──「偽名を名乗っちまって、今更本当の名前は言い難い」
 だから、本当の名は教えないで欲しいと、そう銀時に口止めを頼んで来た。その考えも解る。確かに、親切にしてくれた相手に偽名を使って仕舞ったと言うのは、失礼に当たると取られてもおかしくはない話だ。今更言い難いと言うのも、納得出来る。
 「恐らくだが、それはあの坊主の本当の名では無いのだろう。
 私が名を呼んでも咄嗟に反応出来ない事が幾度かあったのと、坊主が江戸から逃げる様にして来た、そこに後ろ暗い理由でもあったのだろうと思えた事で、近藤総悟と言う名は偽名なのではないかと私は考えている」
 「………」
 案外簡単に読まれていたぞ、と、本名を言ったのかと凄い剣幕で怒って寄越した土方の様子を思い出した銀時が、どう返したものかと返答を持て余していると、仏師は小さくかぶりを振った。
 「偽名を名乗った事を責めるつもりはないし、坊主にも何か事情があるのだろうと思ったから、ずっと知らない素振りで来たのだ。今でもその事を問い質す気はない」
 だが、と一旦言葉を切ると、仏師は未完成でのっぺらぼうの仏像たちから離れ、先頃まで手がけていた作りかけの仏像──こちらは穏やかそうな面相だ──の前に立った。銀時の姿を、翁の面が再びじっと見つめて来る。
 「だが、一つどうしても違和感がついて離れない。今までは、普段は、感じない様なものだったのだが、然し君がこうして現れてから、どう言った訳かその感覚は顕在化し残って仕舞った様なのだ。坊主の偽名の事だけではない、私自身にも説明し難い違和感がある気がしてならない。己が果たして『こう』であったのか、坊主が果たして『誰』であるのか、そこにどうしても引っかかるものがある。
 君もこの『違和感』を感じているのであれば、どうか教えてはくれないか。坊主が、君に何と名乗ったのかを」
 「──……、」
 違和感、と言う言葉に、銀時の胸はひやりと冷えた気がした。そう、確かにそれを感じて、それを抱えて、答えの出ない侭にそれは持て余されてずっと、心のどこかで澱んでいる。
 鼓動が自然と早くなる。走ったのは予感。ひとつの考えがそこに至って結びつく。
 咄嗟に偽名を名乗ったから、本当の名は言わないで欲しい。そう口止めされた事。
 近藤と総悟と言う名前の事。
 仏師に親切にして貰った事に恩義を感じていたらしい事。
 火事で家族を失ったのだと言う仏師の記憶の事。
 殊更に己の傷を切開し責めていた事。
 
 「…………土方、十四郎」
 
 ぐるぐると胸の裡で廻る、ばらばらで無秩序な思考に眩暈を起こしそうになりながら、恐る恐る銀時の紡いだその名に。
 「……………そうか。そうだったのか」
 呻く様にこぼすと、仏師は足をふらつかせて椅子にどすんと座り──否、落下した。
 彼は翁の面の上から片手で目元を覆って、嘆く様な仕草で天を仰いだ。その言葉に、様子に、銀時の裡で納得が早まる。可能性が予感へ、理解へと収斂して行き、違和感と言う言葉が明瞭な形をそこに組み上げて行く。
 「……私は嘗て火事で妻や弟妹やその子供たち、私に連なる家族を全て失った。私自身に子はいなかったが、実の子の様に育てた、歳の離れた小さな弟が居た。
 勿論、未だ幼かったその弟の命も──十四郎の命も、その時に失われて仕舞ったひとつだった」
 「………」
 静かな言葉であったが、その裏には嘆きや悲しみと言った激情が確かに潜んでいる。のっぺらぼうの仏像たちを今一度振り返った仏師の背を見て銀時は、あれはひょっとしたら失われた家族に手向けたかった像なのかも知れないと思い、胸に刺す様な鈍痛を憶えた。
 居並ぶ未完成の、顔の無いものたちの中に、ひときわ小さな造形を認めて仕舞えば、それが癒されぬ侭の彼の傷の証なのだろうと理解する。
 
 「私の名は、土方為五郎。あの子の、十四郎の義兄であって、養い親でもあった者だ」
 
 ああ、と銀時の唇からは自然とそんな吐息がこぼれた。散発的な思考の泡が弾けて、頭の中で理解が徐々に納得へと変わって行く。
 だから違和感が生じたのだ。
 失われた筈の子供が、生存の運命と言う岐路に向かって、そしてここに迷い込んだ故に。或いは変わって仕舞った故に。
 それが如何な道理で起きた事なのかは銀時には未だ解らないが、仏師が──為五郎が、銀時が、土方に纏わる事で悉くに違和感や既視感を憶えていると言う事は、『土方十四郎』が幼い頃に失われたと言う運命が、土方十四郎の生きている筈の世界に上書きされて仕舞ったと考える方が、まだ理には適っている気はする。
 記憶が、世界が、現象が、運命の岐路を違えて仕舞った。そんな事が起こるのかどうかすら定かではないが、何かと今まで不可思議な出来事に関わって来た記憶のある銀時としては、その可能性がゼロであるとは決して言い切れない。
 何より、悲嘆と憤怒と懊悩とを抱え、じっと天を見上げ動かない仏師の姿に銀時は、己が見た事もない筈の、土方の『義兄』と言う存在を重ね見た気がした。
 そして何より、土方は恐らく、己を助けてくれた仏師が、彼の記憶ではとうに失われて仕舞った筈の義兄であった事に気付いている。だからこそ自らの身上を明かす事を忌避したのだ。
 土方の語った『記憶』。彼は彼の弱さの所為で、義兄の視力を、人生を奪ったのだと自らを酷く責めていた。紛れもない、自責、自己嫌悪と言う形にして。今もきっと、なお。
 そんな土方為五郎と言う義兄が無事に生きている世界。自らの存在を世界から見失った土方に、それは一体どの様なものとして映ったのだろうか──?







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