アリアドネの紅い糸 / 18



 田舎の、碌に舗装もされていない道だ。街灯の類なんてありはしないから、夜を増した時間帯は言葉通りに殆ど真っ暗だが、そこを歩く銀時の足取りに危なげなものはない。夜目は利く方だし、星明かりの手伝いは江戸のそれよりも随分と頼りになる。
 それでも矢張り、軽装に草履で歩く様な道では無い。夜露に濡れた足に砂埃が纏いつく気分は懐かしいものと言えたが、江戸の舗装された道をすっかりと歩き慣れた今では余り好きなものではない。出来れば早く帰って汚れた足を拭いたい所なのだが、銀時の歩みはゆっくりと、そして重たかった。
 状況は、お手上げ、と感じた時から何一つ変わっていない。寧ろより混迷を深めたとも言える。相も変わらず、何がなんだか解らない。
 土方為五郎曰く、土方十四郎は幼い頃に火事で死んだ。
 土方十四郎曰く、土方為五郎は火事の時に目を負傷し、長くは生きられなかった。
 この事実が同時に存在している『今』は──一体何なのか。『誰』の認識が正しいのか。土方家の人間二人共が語る幾つかの共通項がある以上、どちらが正しくてどちらが間違っているとも言い切れない。
 土方十四郎と言う人物は少なくとも、江戸に居ると言う彼の仲間たちには理解されなかったと言う。その事実だけを拾えば、今生きてこの村に居る、大人になった土方十四郎と言う存在が虚構である様に思える。
 だが、そこに反対票を投じる二人が居る。為五郎と、銀時だ。明確な根拠もはっきりとした理由も解らない侭だが、土方十四郎の生存からここに至るまでの存続を、信じてやりたいと、そう思っている。
 銀時は性分からして、彼の男を見捨てる事が出来ないと言うのもあるのだが、誰あろう本来ならば義弟の死を見届けた筈の為五郎までもが、銀時の考えに同調してくれたのは少々意外ではあった。
 為五郎は、違和感を感じていると、重ねて言った。
 眼で見た記憶ではない、だがとても生々しい夢の様な記憶が脳に確かにあるのだと彼は語った。
 それは忌まわしい火事の記憶。だが、『記憶』にあるそれとは異なる。
 「激痛と暗闇の視界の中、鬼が出たと叫ぶ幾つもの悲鳴たちが聞こえて、血の匂いが辺りに満ちた。家の焼ける猛烈な熱と焦臭い匂いの中でもやけに鼻につくそれは、きっと『死』の匂いだった」
 『記憶』とその記憶との違いは、不吉なその死臭の中でも家族が生き残ったと言う感覚だけだったと言う。
 大火傷を負いながらも一人生き延びた『記憶』と、誰かが傷つきはしたが皆で生き延びた記憶。どちらが正しいのか、どちらがより良いのかなど、他者としての銀時には決められる事ではない。
 だが、為五郎は言った。自分と、銀時の『記憶』に名状し難い違和感が確かにあって、そして成長した十四郎が生きて、ここに居るのだから、きっとそちらが正しいのだろう、と。
 江戸に居る土方の仲間たちや、きっと他にも居るだろう彼に関わるものたちが、彼の存在と言う『記憶』をどう受け止めているのかは解らない。ただ、確かに土方十四郎と言う人間が生きている事。火事で死んだと言う『記憶』を越えて彼が生存していると言う事。それを否定する事は出来ないのだと。
 然しそれは同時に、土方十四郎の語る通りの運命が正しい事であったのだとすれば、土方為五郎はもうこの世の人では無いと言う事でもある。
 銀時もやんわりと、土方の話をぼかして説明しつつその事を指摘したのだが、それでも為五郎の結論は変わらなかった。
 「顔に大火傷を負い、家族を失い、今ではこんな有り様だ。世捨て人同然になった私の外見が違い過ぎたからだろうか、村の者は誰も私を土方の人間だとは気付かない様だった。だから私は誰に干渉される事もなく、家族の菩提を弔いながら、独り生き延びた己の生をどう費やすべきかと問い続けていた」
 そう語った彼の表情は、面に覆われ伺い知る事は出来なかった。だが、彼が『今』の己の生を苦しみながら過ごしているのだろう事は、壁際の顔の無い仏像たちの姿からも、想像には易い。
 彼は、己が誤ったものならば消えるべきなのだと、ある種の覚悟さえもしている様だった。己よりも義弟の人生を取り戻してやりたいと願うその気持ちは、子も無く兄弟もいない銀時には、本当の意味ではきっと知れない様なものなのだろう。
 為五郎が、江戸から逃れて来た如何にも怪しい風情の侍を見捨てる事が出来ずに色々と世話を焼いて仕舞ったと言うのも、違和感と言うものだけではない、目には見えない家族の絆の様なものがあったのかも知れない。そして少なくとも彼のお陰で、土方は真の意味で孤独になると言う事態を免れているのだ。
 もしも為五郎が居なかったら、或いは面倒事を嫌って土方の面倒を見ていなければ、ひょっとしたら彼はもうこの村には居なかったかも知れない。己の存在の消え失せた郷里など、思い出がなまじ残るだけに苦しくなるばかりだった事だろうから。
 何となく足を止めて辺りを見回す。銀時の目で昼間見たそこは、田畑の連なるだけのただのよくある田舎の農村と言う風景以上の何かを想起させるものはない。だが、この道を、この空気を、知る者であれば矢張り何かは感じる筈だ。
 (だからこそ、あいつはきっと此処から離れ難くなったんだろうが…、)
 土方の記憶では確かに失われていた筈の義兄と言う存在を、彼はどう見たのだろうか。
 己を憶えていやしないかと、期待しただろうか。それとも生きている死者に畏れたのだろうか。己の存在を否定されるも同然の苦痛をどう受け止めたのだろうか。
 思って銀時は星の瞬く夜空を見上げた。月も遠く高く、よく晴れている。忌々しい程に。
 満天の空の下、足取りは変わらずに重い。気懸かりが多すぎて背が重くて厭になる。
 (そこまで全部が、作為って訳じゃねェんだろうが、だからこそ半端に苦しいし訳も解らねェ)
 少なくとも銀時がここに来たのはただの偶然に過ぎない。鑿を注文したのは為五郎だが、それを専業配達人でもない万事屋の銀時が届ける事になったのはどちらかと言えばイレギュラーな事情あっての事だ。
 あの黒猫も、為五郎の存在も、銀時がここを訪れた事も──全てが偶然と言い切るには余りに駒が綺麗に配置され過ぎている気はするが、それは土方を深く知っていたと言う坂田銀時がここに来た事で、ひょっとしたら何かが既に兆しかかっていると言う事なのかも、知れない。
 惚れた腫れたをさておいても、銀時がここで、土方十四郎の為に出来る事はきっとある筈だ。
 銀時は憶えてはいないのだが、彼と情人と言う深い関係性にあったと言う事も、この膠着した事態の進展に必要な要素であって、それ故に『何か』が起きている、と言う可能性はきっと高い。
 大勢の記憶がまとめて改竄されたりする様な事が本当に起こり得るのか、と言う推定事実に関しては、宇宙は広い、地球すら未知だ、と言う言葉を筆頭に幾らでも説明がつけられるので、是なのか否なのかと言う答えならば、是だ。
 だが問題は、誰が何の為に。どうして、と言う点だ。真選組の幹部であったと言う彼の証言通りならば、動機と言う意味での恨みはきっと山とあるだろうから参考にはならなさそうだが、この事態はもっとこう、単純で極小な世界の話なのではないかと、銀時は何となくだが、そう思っている。
 もしも恨みの類が動機で、その動機を抱いた犯人が、複数人の記憶や意識を改竄するなどと言った所業が可能なのであれば、土方はもっと簡単に酷い目に遭わされている事だろう。例えば極悪な犯罪者にされたりしたら、その時点で土方の人生は詰みだ。逃げるより先に首が飛んで、それでお終い、だ。
 そんな訳で、この事態を起こした者については取り敢えず保留にせざるを得まいが、銀時の当面の方針は土方の力になってやりたいと言う事で、為五郎もまたそれに沿った考えであった。
 最終的には土方を元の生活に戻すと言う事で、二人の結論は一応の一致を見ている。理由だの犯人(もしいるなら、だが)だのを考えるのはこの際二の次で良い。
 だがそれでも、結局現状を取り巻いている事実を連ねてみれば、雲を掴む様な話ばかりだ。銀時がこの事態の打破に一役買える可能性があったとしても、今のところは全く解決の糸口さえも見えて来ていない。
 土方を救う、と言う目的は銀時と為五郎で一致したが、何かが出来るかも知れない、などと言うフワッとした話ではなくもっと具体的に、何か明確な行動を起こさなければ話にはなりそうもない。
 それは彼を江戸に連れ帰るとかそう言う話ではなく、『ここ』で出来る事は何か無いだろうかと言う事だ。
 ここに、きっと材料は揃っている。だからこそあの謎の黒猫は、銀時をしつこくここに留めようとしたのだろうから。あの、明らかにただの畜生ではない黒猫の正体がどうとか言うよりも、その意図する所を探った方が良さそうだ。
 (…取り敢えず、二人の土方十四郎の運命の岐路ってやつが、件の土方家の火事だってんなら、そっちを調べてみるのもありかもな)
 為五郎の『記憶』にある火事では、幼い十四郎だけではなく彼の家族も犠牲になったと言うのだから、その点でも土方の記憶とは異なっている。二つの体験談は結末が大きく違ったものとなっているが、火災と言う事件が起きた事自体は共通している。
 帰ったら土方にもう一度火事の話を詳しく訊いてみて、それから二つの火災の違いを導き出してみれば何かヒントになるだろうか。
 (〜……十年以上も前の火事だろ?何かになりそうな気は正直しねぇが…、まぁやるしかねェな)
 口を大きくへの字に曲げた銀時は、両肩を落として頭を掻いた。万事屋では興信所紛いの依頼を請け負う事もあるのだが、地道な調査の類は実は余り得意な方では無いのだ。
 愚痴っぽくこぼして、気がつけばもう神社の下だ。目の前の石段を昇って、山を更に分け入れば、土方の住んでいる小さな家に辿り着く。
 土方十四郎。今一度名前を音にはせず舌に乗せてみれば、確かにそこには懐かしい味わいがある。聞き慣れた名や呼び慣れた名に対する感慨にそれは似ている。
 「違和感、か」
 手繰りかけた記憶がふわりと解けそうになった事に不意に気付いて、銀時はかぶりを振った。憶えと言う意味でならば確かに在る。思えば、当初は攘夷戦争で会った事のある人間なのではないかと疑ったぐらいだ。その頃から何か記憶に引っかかるものがあった事は間違いない。
 違和感や既視感、或いは愛情と言う形でそれを受け取って仕舞った銀時には、土方十四郎と言う人物が確かに居たのだと言う事実に関しては、最早疑う余地はない。
 問題は寧ろ為五郎の方だ。為五郎は己の存在よりも義弟の未来を信じた。だからこそ彼は銀時に乞うた。
 自分が義弟(かれ)の事を知っているとは、伝えないで欲しい、と。
 土方十四郎は義兄の視力を奪った事を何より悔いていた。彼の人生に多大な影響を与えて仕舞ったその出来事を、何処か忌避してもいた。
 だから彼はきっと、為五郎が視力を失う事もなく生きている『今』を確信する事で、己の存在がこの世界から失われた事よりも、義兄の生が続く『今』こそが正しいのだと、益々に己を追い詰めて仕舞うだろうと。
 為五郎が『今』の己を義弟の為に容易く否定出来るのと同じで、十四郎もまた『今』の己を義兄の為に容易く否定して仕舞うに違いない。それが為五郎の懸念する所だった。
 兄弟だけに変な所が似てるんだな、と銀時は思ったが、確かに、土方の偽悪的な物言いを思い返してみれば、笑い飛ばせそうもない話ではある。
 (……ま、危ない橋は渡らせねぇに越した事ァねぇか)
 土方は仏師が為五郎であると気付いてはいても、為五郎の側がそれを知っているか否かでは、矢張り土方にかかる精神的な負担も変わる。己の為にならば消えても良いなどと義兄が思っている事を知れば、土方は益々に身の置き所を失って仕舞う事だろう。下手をすれば村から逃げ出して仕舞いかねない。
 (兄弟や親子ってのは、そんなに似るもんなのかね)
 しかも血の繋がりは片親だけだろうに。そうぼやいてから、はたと気付いて銀時は苦笑した。石段に足をかけてゆっくりと登りながら、何を今更、と己の馬鹿らしい思考に呆れ果てて溜息をつく。
 血の繋がりや遺伝子の共通点になど関わらず、人は己を愛して慈しんで呉れたものに似ようとするのだとは、銀時自身が最も良く知っている事であったのだから。







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