アリアドネの紅い糸 / 19 粘つく様に重たい瞼をゆっくりと開く。視界は想像以上に暗く不明瞭で、土方は何度かゆっくりとまばたきを繰り返し、半開きの侭またすぐに閉じようとする瞼を宥めながら、目が暗さに慣れるのを待った。 「………」 全身が泥でも詰め込んだ様に重たく、気怠い。久しく憶える倦怠感の中、この状態で咄嗟に刀を抜けるだろうかとつい反射の様に考えてから、小さく、苦く、笑う。 日頃から己の命を付け狙う、厄介な部下や攘夷浪士の居る江戸なんて、遠い。この郷里の田舎には、今のご時世では物盗りでさえ滅多に現れる事はない。山を越えた近くの宿場まで行かなければ駐在ひとり詰めていないと言うのに、ここにある生活は平和そのものだ。 疲労は質量を増して体の芯に居座っているが、その気怠さには少しばかり、すっきりした様な晴れ晴れとした成分がある。不承不承それを感じながら、土方は漸くしっかりと開いてくれた瞼を指の腹で軽く揉んで、上体を起こした。 すっかり見慣れた小屋の中だ。少し古い住居だが、清潔に出来て屋根があるだけでも、流れ者の住み着く先としては申し分の無い物件だ。電気ガス水道の三大インフラは無いし、畳は無く床は板張りで固く冷たいが、水汲みも雑魚寝も若い頃の道場生活もあって慣れたものだ。 そんな、土方が嘗て世話になっていた近藤の道場はこの村ではなく、近隣の同じ様な農村にある。 家に居辛さを憶え、弱い己へのもどかしさを抱えていたあの頃の土方は、この辺りの村や道場を転々と渡り歩いていた。道場は破るもの程度の認識しか抱いていなかったので、まさかそんな道場に一応は門下生と言う名で世話になって、その看板を支えて江戸に出る事になろうとは、当時では思いも寄らなかったものだ。 この為体になってから、土方は郷里にはこうして戻ったが、近藤の家ばかりかその村でさえも訪ねていない。どうせ『誰』も居やしないと言う諦めと、これ以上の自分の記憶、思い出の否定をする事への意味を見出せなくなったからだ。 誰も、と舌先に乗せた所で、土方はふと思い出して布団を見下ろした。そのことを別に忘れていた訳ではないのだが、自然と意識の外に置こうとしていたのかも知れない。 (……やっちまった、よな…?) 陽もある内だったから、触れて来た肌の色や汗の艶めいた光の色まで、厭になる程はっきりと見えていた憶えがある。だが記憶はあっても、脳味噌は惑いに乱れていたようで、久々の、好いた男の変わらない匂いや温もりに、思考は早い段階で自らの仕事を放棄して仕舞っていた事だけは何となく解った。 男の、やりかたも熱も感覚も感触も匂いも声も息遣いも重なった鼓動も、全部が土方の『知る』それと変わらなくて、だからこそ訳が解らなくなった。久々に触れた人肌や孤独感を埋めてくれる熱と言う事実以上に、相手が己の想像よりもずっと『坂田銀時だった』事にこそ、土方は溺れて、思考も理性も投げ棄てる事を選んで仕舞った。 違っていたのはただひとつ、相手が己の事を憶えていない、その一点だけ。 「……」 見苦しい程に泣いて縋ったてのひらを見つめて、その指先で布団の上をゆるゆると辿る。隣で同じ様に疲労困憊して臥していた筈の温もりが消えたのは、どうやらかなり前の事らしい。 変な理性は働いていたのか、窓のつっかい棒は外されていて、夜も更けているのか室内は大分暗い。とは言っても幾分目は慣れているから、幾ら何でも家の中に人が己の他に居るのを見過ごせる訳もない。 土方は頭を巡らせ、部屋の隅に寄せた卓を見つけるとその上から手探りでライターを探し出して、火を点けた。ジッポーライターの小さな灯りがぼやりと室内に頼りない光源を作るのに目を思わず細め、今度はその灯りを翳して、蝋燭の固定してある金属の皿を見つけ出して火を灯す。 それから和紙を円筒型に丸めて作った覆いを置けば、室内に蟠っていた闇はほぼその全てが払われて、大分明るくなる。 燃料として使うなら油の方が楽なのだが、時々粗忽で大雑把な所もある自分がうっかりと蹴倒す可能性を考えて蝋燭を使っている。以前までならば、副長室にあったのは電気式の行燈だったからこんな面倒もかからなかったのだが。思って嘆息する。村に電気は通っているが、こんな山にまでそう言ったインフラは残念ながら整備されていないのだ。 そうして明るくなった部屋を見回す。予感していた通りに、小さな小屋に己の他に人間の気配の一切は感じられないし姿も見当たらない。だが、そう探すでもなく、枕元には土産物の木刀が置きっ放しだし、黒いインナーも布団の上に脱ぎ捨てられた侭だ。 (……情人に抱かれる夢見て自慰に耽ったとか言う、最悪のパターンじゃ無くて良かった…) 取り敢えず坂田銀時と同衾していた記憶は事実で、土方の妄想でも夢でも無かったらしい事は残留する痕跡からも伺い知れて、安堵とも不安ともつかぬ感覚にひととき浸されて肩を落とす。恐らく先に目を醒ました銀時は、彼的には『やらかし』たとしか言い様のない生々しい事実に居た堪れなくでもなって、外に歩きに出たのだろう。 卓に再び手を伸ばして煙草を一本唇に挟むと、火は点けない侭に、土方は全裸の侭で片膝を抱えて、額にばさりと落ちてきた前髪を掻き上げた。 (あの『坂田銀時』は、総悟たちと同じで、俺の事なんざ憶えてやしねェ『坂田銀時』だ。俺はあいつとの関係も記憶もあるが、あいつの方はただ、通りすがった野郎にうっかり同情を寄せただけだろうに) まるで一夜の過ちだったと思って、土方は立てた片膝を抱き込んで背を丸めた。 相手の同情心につけ込んでとんだ醜態を晒したのだろう事を思えば、自己嫌悪が重たく背にのし掛かって苦しい。だがそう思っていても、『過ち』或いは懐かしさが膚を灼いて心を焦がして感情を燻らせた、その甘美な感覚を狂おしい程に己の心は切望している。 (何が、お前のいない世界なんて考えられねぇ、だ) 嘗て囁かれた筈の睦言も、不器用な恋愛ごっこの様な思い出も、交わした喧嘩や情愛の数々も、今となっては遠くて、まるで偽としか思えない事ばかりだ。こればかりは失いたくないと、後生大事に抱えた侭逃げて来て、何の因果か結局は鉢合わせて、それで結局こうしている。こうなっている。 (憶えていなかろうが、あいつはあいつの侭で、何一つ変わらねェ侭で、) ただそこに土方十四郎が居ないと言うだけの、些事。起きたのは、突きつけられたのは、それだけの事実だった。 坂田銀時にも、真選組にも、そしてこの郷里にも。『ただそれだけ』の事でしか、きっと無い。 * 取り敢えず所持品の中にある程度の現金があったのは幸いだった。カードや銀行口座の類はどうなっているのか気には懸かったが、そう言ったものを逃亡者が使うのは愚の骨頂だと、警察と言う職業柄土方は良く知っていたし理解もしていた。 逮捕には、不審者への職質や警察の身分を勝手に名乗っていた詐称などが理由にあったが、それだけでは大した罪にはならない。だが、土方は脱走の際に真選組隊士を傷つけた。これだけで一気に犯罪者としての扱いは変わる。 事が露見して手配が回る前にと、土方は迷い無く電車に飛び乗った。監視カメラなどを駆使しても極力発見されない様に注意をしつつも、逃亡者としてはきっと最適で迅速な行動だった。 江戸を離れようと一度決めて仕舞えば後は早い。結局の所、任意同行で長時間を勾留されていたのも、誰かが己を解ってくれるのではないかと言う、土方の未練が大きかったと言う事だ。 理不尽だと幾ら嘆いた所で、夢が覚めたり皆が思い出したりするなどと言う奇跡は、近藤の向けて寄越した、他人を見る眼を目の当たりにした事で、あり得ないのだと受け入れた。 銀時ならば憶えていてくれているかも知れないなどと言う都合の良い奇跡も、近藤の向けて寄越した、あの眼を向けられる事を想像しただけで、期待するべきではないと諦めた。 そうして優に十年近くの時を経て、憶えもよくない郷里の土を踏んで、それで何かが起きると思っていた訳では無い。もう諦めは強かったが、他に己の記憶に在るものなど、己の痕跡を見出せそうなものなど、何ひとつ思い当たらなかったのだ。 それもあって、小高い丘の上にあった、屋敷の焼け跡を見てもそれ程には驚かなかった。 己の知る記憶と殆ど変わらない様に見える状況をひとつひとつ確認して、そこから己の不在を確信して行くなどと言う作業が、心を削る以外の何になると言うのか。 不毛だと思いながらも、土方の足は自然と、火事の後に義兄夫婦が移り住んだ家へと向かっていた。屋敷から程近い、元々土方家の別邸の様な使われ方をしていた家は、視力を失った為五郎とその妻と、子供の土方が住むには丁度良いこぢんまりとしたものだった。 だが、土方がそこに見たのは懐かしい『家』ではなく、吹けば崩れそうな掘っ立て小屋と、単純な作りの工房だった。 土方家の生き残りは村を離れたと言う、それとなく村人から聞き出した話と合わせてみれば、元土方家のこの土地に余所者が住み着いても不思議はない。豪農として栄えていた土方家が焼けた事は、迷信深い所のある村人たちには不吉なものとして映った筈だ。そんな一族の家に好んで住む村人が居ると言うのも考え難かった。 そうしてまた確認作業を終えた土方が立ち去ろうとした時に、その工房の主であった仏師が声を掛けてきたのだ。翁の面を常に付けた、見るからに変人か偏屈かとしか言い様のない風体の男だったが、何故か彼は所在の無い土方にあれこれと世話を焼いてくれて、山にある小屋と言う住まいまで提供してくれた。 「村人に何か言われる様だったら、私の縁者と言う事にしてくれて構わない」 正直、土方は困惑した。自分で言うのも何だが、今の土方は流れ者の怪しい浪人だ。真剣まで所持しているし、素性も明らかにしないし、普通であればまず関わりたくなどない様な人間である筈だと言うのに、そんな事を言い出す仏師の事を、どこぞの万事屋の様なお人好しの馬鹿だと心底に思ったのだ。 そうする内に、弟子のようなものなどと言う扱いにされて、買い物を頼まれたりと言った手伝いをする様になって──程なくして土方は、仏師の名が恐らくは土方為五郎である事を知った。 彼が職人として名乗っている号を名として扱っている中で、誰も仏師の本名を呼ぶ事も識る事も無かったが、それでも土方にはそう確信出来た。これは間違いなく、己の義兄だと。幼い自分を育ててくれた恩人であると。 ──この人は、きっと俺が居なかったから、視力を失う事もなく生きていられている。 その考えは土方の裡にまるで呪いの様に根付いて、腐爛した大輪の花を咲かせた。 自分は正しかったのか。誤っていたのか。どうせ最早『居ない』者なのだからどう在っても結果は変わらないのか。ならばこの存在は必要なのか。 土方にとって今のこの世界は、何の意味も無い。 それは同時に、世界にとっても土方の存在は、何の意味も無いと言う事だ。 そうして花は今も散ることなく、土方の絶望と失望とを吸って咲き誇っている。己を否定する結実を孕んで、甘美な贖罪の蜜を滴らせながら。 。 ← : → |