アリアドネの紅い糸 / 20



 銀時が戻って来たのは、日付もじきに変わる程の、ほぼ深夜と言って良い時間になってからだった。てっきり、唐突に涌いた気恥ずかしさにでも負けて頭を冷やしに行っただけだろうと思っていたのだが、それにしては少々長過ぎる散歩であった。
 土方の記憶の中での彼との閨事に於いても当初は、基本他人には遠慮の無い男とは思えない程に、遠回しにあれこれと心配に類する様な言葉を投げて来たり、何だか色々と余計な気を遣われた憶えがある。
 そもそもにして銀時との関係性で、そう至った口説かれ文句が下半身の事しか考えていない様な(最低過ぎる)それだった訳で、土方としては、どうしてこんなのに見惚れたりしたのだろうと、はじめての同性のセックスに対する感想の有象無象よりも寧ろ先にそちらを悔やむ次第であった。
 だがそんなヤりたい盛りの様な最低な口説き文句とは裏腹に投げられたのは、噛み砕けば土方の事を心配する様な内容の言葉ばかりでしかなかったので、驚くより何より拍子抜けした。
 普段下ネタを平然と口にしたり、爛れたオッさんの様な態度を取っている銀時だが、実のところはそう言ったものに慣れが無かったのかも知れない。まぁそのいわゆる、恋愛経験と言う奴の事だが。
 無論、銀時がむきになって否定する事は見えていたので、土方は大人の対応でそれには気付かぬ振りをしつつ、恋を憶え立ての子供の様な初々しささえ漂う関係を享受する事にしたのだ。
 これもまた到底言えたものではないが、己に熱心に愛情を注いでくれようとして来る、図体とヤる事だけは立派な大人の、不器用な姿に絆されて仕舞ったのだろうと思う。
 片手の指、両手の指と、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるぐらいに慣れを感じて来る頃には、互いに無駄に気を遣ったりする事や憚りも無くなったし、閨の中で益体もない言葉を交わし合う様にもなった。好きだの愛しているだのとは易々言わないが、互いにそれを確信出来るぐらいには心も体も想いを通わせていた。
 ともあれそんな銀時だ、ここでの彼にとっての土方との『初夜』は、初とつくぐらいにははじめての事だった筈で、居慣れのなさに頭を冷やしに出て行く行為自体は、まぁ大体土方の想像した通りであった。
 実際記憶の中の、銀時と土方共にはじめてだった時も、先に起きた銀時は頭を抱えたり部屋の中を歩き回ったりと落ち着きが無かったし、土方もそんな彼の横で寝たふりを続けて己を誤魔化すのに必死だったものだ。
 だが、『今回』の長すぎる散歩から戻って来た銀時の様子はと言えば、気恥ずかしさを冷まして来たと言うには少々固くなりすぎていたし、何やら思わしげな表情を隠すつもりも無さそうにしていた。
 別に『はじめて』の記憶の時の様に、無駄な気遣いを──土方にとっては『今更』の事なのだし──寄越されたかったと言う訳では無いのだが、今度は違う意味で土方は拍子抜けした。そして拍子抜けするのと同時に、少し緊張した。
 どうも、彼が碌な事を考えていない様な気がしたからだ。
 「……茶でも飲むか?」
 土方の記憶では情人であれど、銀時にとっては行きずりの様なものだ。おかえり、と迎えるのも何だか妙な気がして、然し背を丸めて草履を脱ぐ男を追い出す訳にもいかずに、結局土方が選んだのは当たり障りの無い社交辞令の様な一言だった。言い知れぬ緊張も手伝って、己の方が余程喉がからからだったと気付いて仕舞えば少しばつが悪くなる。
 「……んー、」
 頼む、とも、要らない、とも取れる一音だけの返答に土方は、いつもならば「どっちかはっきりしやがれ」と言えたのだろう言葉を探す事が出来ずに、無言で卓の上から煙草を取り上げた。
 先頃灯した灯明の覆いを除けて火を点けると、意識してゆっくりと息を吐き出す。煙草はこの村では手に入らず、近くの宿場まで行って買って来る必要があるから、嗜む量は以前までより大分減った。それでも苛々した時やこわくなった時には習慣的にこうして手が伸びて仕舞う。
 立ち上る濁った色の煙に、足を拭い終えた銀時がのろのろと振り返る。矢張りその目が何か物言いたげである事に気付いて仕舞った土方は、気取られない程度に首の角度をずらした。
 初々しさを思い出した訳でも、恥じらう素振りをしたかった訳でもない。不器用な気遣いの言葉同様に、何か余り言われたくはない事を喉奥に溜めているのだと、坂田銀時との──少なくとも己の知る坂田銀時と言う人物との──付き合いの長さからそう感じ取れて仕舞ったからだ。
 「……あのさ、」
 やがて切り出された言葉が銀時の口から出て来る頃には、土方も緊張への慣れや覚悟への腹を固め終わっていた。或いはひょっとしたら、土方が話を真っ当に聞ける様になるまでを銀時は待っていたのかも知れないと思って、すぐに馬鹿馬鹿しいと振り払った。それこそ付き合いの長さでもなければそんな真似が出来る訳もない。
 「何だ」
 自然と声が固くなる自覚を憶えながらも応じる土方の顔をじっと見つめてから、銀時はわざとらしく咳払いをした。
 「やっぱりその、俺はおめーの事を何とかしてやりてェって、思う」
 空いた間の割には、工夫もなく直球でしかない物言いに、土方はくっと喉を鳴らして笑う。
 「何とかって何だ。そりゃあ、訳の解らねェ事が起きてこんな様ではいるが、それをてめぇが解決してくれるとでも?出来るとでも?」
 ──俺を憶えてもねぇ奴に何が出来るって言う?
 そう心の中でだけ続けて、土方はかぶりを振った。貼り付いた渋面に、まるで拗ねた子供の様だと己に思って嘲る。
 戻りたい。戻したい。願いはいつでもついて離れない程に、切望し失望してぐるぐると堂々巡りを続けている。だが、この悪意しかない様な運命の迷宮には誰も入る事が出来ない。内包され留め置かれた土方本人以外には。
 救われる可能性、述べられる手、打破する思いつき、色々なものを考えて、実行して、そうして疲れ果てたのが『今』だ。
 いっそ己の方が狂っていると考えた方が余程に気が楽だ。『今』のこの世界に於いての土方十四郎は、不要で、否定される存在でしか無いのだ。
 銀時の言葉に震える胸が惨めに己を斬りつける。何が出来る?どうせ何も出来やしない。土方十四郎の事を憶えていない坂田銀時は、ただの同情心やお人好しの感情だけで、憐れな狂人に手を差し伸べているだけだ。一度の過ちに、うっかりと絆されそうになって仕舞っているだけだ。
 鋭い土方からの拒絶の意思に、然し銀時が怯む事は無かった。彼は腰を下ろした円座に膝立ちになると、壁際の卓を見つめる土方のほうへとゆっくりと躙り寄って来る。
 「散歩ついでに仏師のジーさんの所まで行ったんだが、あの人もおめーの事を案じてたし、俺も多分、この侭じゃいけねェんだろうって気がしてならねぇ」
 言いながらも、具体的に何がいけないのかとまでは上手く説明は出来ないのか、銀時は何度か視線を彷徨わせて言葉を、伝えるに値する感情を探している様だった。
 そこに、濁す様な気配があった事に気付いて、土方は何故だかは解らないが胸にしんと針を刺す様な痛みを憶える。
 そしてその痛みを手繰って、自然と理解した。
 「……て事は、てめぇもあの人の素性を知ったんだな」
 痛みに似たものを感じたのは、己に近しかった家族(ひと)が、土方十四郎と言う義弟を忘れて仕舞っているのに、他の誰かとは土方為五郎として話をするのだ、と言う事実に対する、謂わば子供じみた嫉妬の様なものだったのかも知れない。
 あの人は限りなく己に親切にしてくれはしたが、矢張りまともに身上も明かせない様な不審な浪人だとどこかで思っていたのかも知れない。
 それが、嫉妬にも値しないただのネガティブで無意味な、卑下と呼ばれる感情である事は解っていたのだが、仄暗い想像は土方の心を蛇の様にぎりぎりと締め上げ、言いしれぬ苦しさをもたらした。
 己と義兄の間には他人の入れない様な繋がりがあるのだと──たとえ忘れられていても、血の繋がりなど関係ない様なものがあるのかも知れないと、きっとそう思い込む事で僅かでも安心しようとする心があったのだろう。
 それは、己を忘れて、然しその甘さからつい関わって仕舞った、坂田銀時にもあるものなのか──その確信は残念ながら、無い。だからこそ、土方は傷ついた様な感覚に、その苦しさに小さく喘いで息を吐く。
 「……じゃ、まさかおめーも、あのジーさんの事を、」
 近くまで躙り寄って来ていた銀時が息を呑む気配。土方は曖昧にかぶりを振って目を自然とそこから逸らした。
 銀時は恐らく、土方為五郎の名をあの仏師から何かの拍子に聞いて、それで彼が土方の口にした義兄である事を確信したのだろう。然し土方がそれを知っているかどうかまでは判断しかねたから、遠回しにその事を教えるべきなのかを悩んだのだろう。それでこの、言い難さを隠せない態度と言う訳だ。
 顔を覗き込みでもしたかったのか、伸ばされた手と言葉の続きとをやんわりと押し除けて、土方は部屋の隅に視線を投げながら煙草をひといき吸った。
 理不尽な嫉妬も、苦しさも、付きまとう徒労感や虚脱感も、理性で抑えるのにはニコチンの助けがきっと必要だった。
 声は、きっと震えはしなかった。
 「………俺が居なくても真選組は回っているし、俺が居なきゃ義兄も生きていられるんだ。ミツバだって幸せになっているかも知れねェ。だから『こっち』の──この世界も悪いもんじゃねェ。寧ろ、これが正しい在り方ってやつなのかも知れねェ」
 淀みなく喉から流れて落ちた、それはずっと考え続けて、然し口には出さずに留めていた事だ。心の深い裡で腐爛しきった花が開いて、否定衝動を囃し立てるのを、土方は心の何処かで聞いた気がした。
 もうとっくに諦めてはいたのだ。近藤や沖田を前に己の事や共通する記憶を語って聞かせても、思い出してくれるどころか返るのは疑心ばかり。
 彼らの裡に、この世界に、土方十四郎は確かに存在していないのだと、重ねて告げられる事実とその証明とは、土方を酷く苛んで苦しめたが、同時に楽にもしていた。
 護りたいものたちに解って貰えはしない生。その為だけに尽くした生は、それを取り上げられても未だ意味を失っていないと果たして言えるのだろうか?
 もしも、仮に、元の運命の通りに──土方の知る通りに戻る事が叶ったとして、それで良いのだろうか?戻りたい、それは嘘偽りのない事実だが、それは逆に義兄を傷つけ短い生に至らしめた己の罪をも肯定して仕舞う事になるのだ。
 どちらが正しいのか。どちらを望むべきなのか。それならばいっそ、『これ』は正しいのだと、認めて仕舞うべきではないのか。
 (きっと、その方が楽になれる)
 祈りでも嘆きでも、人はそれだけでは生きてはいけない。故に決するならば、是か否かをはっきりと断定しなければならない。
 己を狂っていると認めて、今までを夢や妄想だと笑い飛ばして、それで──、?
 その時、俯いた土方の胸倉がぐいと掴まれて引き上げられた。手から落ちた煙草は、丁度灰を落とそうとしていた灰皿の中にぽとりと落ちる。
 着物の袷を乱暴に掴んで、締め上げんばかりの形相でこちらを見ているのが、坂田銀時と言う男である事は解った。解っていたが、寸時理解がついていかず、土方はぼやりと彼の顔を見返した。
 「俺は、俺はてめぇの事なんざちっとも、これっぽっちも憶えてねぇけど、でも、そんなのはてめぇじゃねェんだってのは解るんだよ!何か知らねェが、解るんだよ…!」
 至近で弾けた銀時の感情の爆発に、土方はまるで反射の様に身を竦ませてそれを聞いた。鋭い一喝と圧迫感すらある力に、逃れなければと本能的に思って捩ろうとした身を、銀時は、彼の侍の強い膂力はいっそ乱暴な程に押さえつけながら、続ける。
 「俺の知ってるてめぇは、チンピラみてぇに偉そうに尊大に物騒に振る舞ってる様な野郎で、でもそれでも自信に溢れてて、見てるだけで痛快な、そんな奴だった筈だろ!」
 言われて反射的に脳裏を過ぎったのは、江戸での様々な記憶だった。『記憶』には無い筈の、然し土方の記憶に刻まれている常の風景。それをひょっとしたら今、銀時も見ているのではないかと──そんな気がして、土方の全身から抵抗しかかっていた力が抜けていく。
 思い出せもしない癖に、嘗てあった様な日常の欠片を、憶えている筈の土方よりも余程鮮明に語る彼が、腹立たしくて、苦しくて、堪らなかった。
 強張っていた体が、力が抜けるのと同時に震え出すのを宥める様に、銀時の手が背に回される。震えが止まるまでの長い時間をかけて、やがて土方の掌はゆっくりとその背を抱き返した。これが救いを求めて縋って良いものなのかどうかを考えるより先に、そうして仕舞っていた。
 戻りたい。だが、それを選ぶ事が出来るのか、今となっては解らない。
 そして、そう願ったとして誰にそれが叶えられると言うのか。誰にならば、この迷宮から土方を外へ連れ出す事が出来ると言うのか。
 消極的になった心に、絶望は酷く容易く根付いた。諦めは、さも当然の答えの様に隣に寄り添った。
 何が出来るのか。銀時の、この支えてくれようとする腕は、どうすれば土方をここから救い出して呉れると言うのか。
 「土方十四郎が、おめーが今生きてねぇって言うこの世界ってやつには、やっぱりどうにも何かの作為がある気がしてならねぇ」
 やがてそう呻いた銀時の頭が、天を仰ぐ様に上向く。その訝しむ様な調子に、土方は小さく顎を引いた。突然我が身に降ったと言う意味では、確かにこれは理不尽に過ぎて、説明もつけられないものだ。それに対しては、何者かの作為を疑った事もあった。あったが、結局答えになりそうなものは出なかったし、解らなかった。
 「例えば、並行世界に移動しちまったとかそう言う話じゃなくて、元在った世界が突然書き換えられちまったとか、そう考えた方がまだしっくり来る気がするんだよ。そうなると、誰かや何かの作為がやっぱり在るって考えるのが自然だと思う」
 理由とか、説明とかは出来ねぇけど。そう自信の無さそうな調子で続けると、銀時は土方の背をぽんぽんと二度叩いた。
 「とにかく、諦めだけはすんな。真選組の連中ってのも、こうして腹を割って話せばおめーの事を思い出せる奴が出て来るかも知れねェし、そもそも『こう』した元凶とかがもし居るんなら、そいつをどうにかすりゃ万事解決かも知れねェだろ」
 「………」
 銀時の言葉を、気休めだ、と一蹴する事は簡単だったが、そうはせずに土方はそっと目を伏せた。
 土方為五郎だけではなく、坂田銀時と言う存在も、忘れて仕舞っていようが、記憶か、本能か、只のお人好しの性質か、それとも運命の糸で結ばれた対象とでも言うもののなせる技なのか。彼はどう言う訳か土方の存在に寄り添おうとしてくれるものなのかも知れない。
 その想像は絶望に飽いた心には酷く都合が良くて、心地も良かった。
 もしも本当にそうだったら、それは良い事なのかも知れない。想い合う人間同士、と、嘗て表しようとして遠ざけて仕舞った結論は、そこにならば綺麗に当てはまりそうだ。
 やさしい両手にくるまれて、土方は久しく忘れていた楽観的な希望の味わいを憶えた。縋る事を思い出した体温に通い始めた熱を呼吸と共に逃がして、瞼を固く閉ざす。
 (……だが、もしもこれが何者かの作為って奴で起きている事なら、)
 性的な熱や気配は膚の間には灯っていない。ただの穏やかでやさしい触れ合いに、それだからこそ不要な感情は無いと安心して身を委ねる。
 (俺の居ない世界こそが正しいのだと、正しく無い存在である俺にまるで見せつけている様じゃねぇか……?)
 そうして土方は、滴る絶望の蜜を、吐き棄てることも出来ずにゆっくりと干した。







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