アリアドネの紅い糸 / 22 さわ、と頬に風が触れる。湿り気のない爽やかな風だ。春先か初夏か、馥郁とした花の香りが鼻先を擽って行くのに、銀時は固く閉じていた瞼をゆっくりと開いてみた。 「………」 茂みの中でぼやりと立ち尽くしていた己の、掌をなんとなく見つめてみる。開いて、閉じて、手の甲をひっくり返して見る。紛れもなく己の手だ。具に憶えていると言う程ではないが、自分の手だろうと断言出来る程度には己の手である様にそれは見えた。 続けて足下を見下ろしてみるが、先頃見た小さな墓の様な石積みはそこにはなかった。茂みも雑草を繁茂させていると言う程ではなく大分控えめではあるが整えられているし、どこか近くでは花の咲いている香りまでする。 「……………」 冷や汗を垂らしながら、続けて銀時は建物のある方角を見た。そこは先頃までの記憶では、焼け落ちた家屋の残骸が連なるだけのものだった筈だ。 「……マジでか」 思わず引き攣った口の侭に呻く。銀時の目の前で、家は焼け落ちてなどおらず、在りし日の姿その侭で堂々と佇んでいた。 取り敢えず中庭らしいそこに突っ立った侭頭をぎくしゃくと巡らせてみるが、そこには火事の痕跡など全く見当たらない。資産家のものらしい立派な家屋の佇まいと、幾つかの小さな倉庫とが並び立つ、有り体に言って金のありそうな家がただ存在しているだけだ。 中庭にはしっかりとした井戸があり、厨に通じるのだろう勝手口もある。厨の小窓からは煮炊きのものらしい煙が立ち上っており、どう見ても、どう考えても人間の生活している場所だと物語っている。 (ひょっとしなくても、タイムスリップってやつなのかコレ?!ちょっと待て、なんで突然訳も解らず猫追いかけただけで時間移動ぅぅ?!不思議の国の銀さんってレベルじゃねーよ、どうなってんだ、何なんだ!) 奇抜な体験には何かと事欠かない万事屋稼業ではあったが、こんな絵に描いた様な『時間移動』としか言い様のなさそうな現象がいきなり起きれば、当然銀時だって混乱するし泡も食う。 状況や様子から見ると、ここは──否、これは、火事に見舞われる前の土方家と言う可能性が高い。少なくとも先程まで銀時の居た時間軸より未来と言う事は有り得まい。 (…つーかちょっと待て、タイムスリップでも何でもいいが、俺まるきり不審者なんじゃないのコレ) 不意に気付いて呻いた銀時は自らの姿を見下ろす。いつもの、洋装と和装とを独自に着こなした服装と、洞爺湖と刻まれた木刀。目立つ銀髪頭。 果たして十年以上前はどんな時代だったか。田舎ではどうだったか。記憶をぐるぐると巡らせながら、これは不審者一直線の一発通報ものなのか、旅芸人ですと言う苦しい嘘で何とか逃れられるものなのかを銀時は思案した。 地方では戦時下だった筈で、各地で散発的に起きる暴動に手を焼いた幕府に因って、少なくとも廃刀令は出されていた筈だ。つまりは木刀を持っている時点でなかなかにグレーなスタート地点である。 権力の及び難い地方では、木刀や竹刀ぐらいならば目こぼしされる事もあった様だが、それを所持しているのが顔見知りの村人か、如何にも怪しい不審な身なりの男かと言うだけでも多分に処遇は大きく異なる。要するに、不審者+木刀など最悪に近い組み合わせと言う訳だ。取り敢えず木刀だけでも隠しておこうかと、銀時がきょろきょろと首を巡らせたその時、倉庫の一つの扉が突然開いて、中から六人の子供たちが飛び出して来た。 「あっちだって」 「まだ来てないんじゃないの?」 「かあさんが言ってたもの、もうじき『ヤッカイモノ』が来るって」 いきなりの展開に、思わず口から飛び出しそうになった心臓を押し戻す様な心地で、銀時は背にじっとりと冷や汗をかきながら一歩後ずさった。隠れるにも逃げるにも距離が近すぎる。子供らがくるりと視線を巡らせれば確実に視界に入る様な位置だ。今下手に動けば余計に、確実に、注意を惹いて仕舞って目に入る。 口々にああだこうだとお喋りをしている子供たちは、どうやら倉庫の中でこっそり遊んでいたらしい。年齢はばらばらで、一番年かさの子供は十四、五歳程度、一番年下の子供は十歳未満と言った所だろうか。子供の年齢など銀時にはよく解らないが、何れも遊び盛りの賑やかな年頃である事は間違いなさそうだ。 そんな子供たちに、不審者呼ばわりされるか悲鳴を上げられるか。緊張に身を固くして息を呑んだ銀時だったが、然し子供たちは銀時の前を普通に駆け抜けていった。一瞥をくれるどころか、全く気付いてすらいないかの様に。 「……」 緊張の残滓を持て余した銀時は、拍子抜けをしながらも子供らの走っていった方角へと、ぎぎぎと首を軋ませながら視線を投げた。それからぽんと手を打つ。 これはアレだろう。タイムスリップと言うよりは過去の追体験的なやつ。 遠ざかっていく子供らの背を見ながら、無理矢理に漕ぎ着けた納得に銀時はうんうんと頷いた。取り敢えず当座の危機は脱せたのだから、過去の留置場で涙を呑むと言う、最悪な想像が現実になる様な事はあるまい。 そうなると俄然落ち着きが戻って来る。いや当初から全く落ち着いてなどいられていなかったのだが。ともあれ冷静に考える事の出来る状況である事は重要だ。 (でもそのパターンだと、過去は過ぎた事だから干渉出来ねぇって奴だよな普通は…。じゃあ何で、俺にこの光景が見せられる様な理由があるんだ?) 首を傾げて銀時は呻いた。例えばタイムスリップをして火事を阻止しろとかそう言う事ならばまだ何となく理解は出来る。但しタイムスリップと言う現象自体が余りにも理不尽なので、そうと納得するには抵抗感がありすぎたが。 然し、仮に銀時の想像した通りにこれが単なる過去の映像を見せられていると言うだけの現象であるとするならば、その事にも何か意味がある筈だ。そうでなければこの状況に説明がつけられない。 或いは、これもまた何者かの作為によるものなのか。 最近ではよく出来たバーチャル技術で、過去の映像を恰も本当の体験の様に『見る』事が出来ると言う、体験型のアトラクションなどもあるらしい。警察の捜査にも使われるとか昔どこかで聞いた記憶も何となくある。 だが、これがそのよく出来たバーチャル世界かと言われればそうでは無い気がする。単なるまやかしと言うには、花や煮炊きの香りまでしてくると言うのは少々凝り過ぎだろう。第一大がかりすぎる。こんな田舎で易々出来る事ではあるまい。 「……解らねぇな」 頭をぐるぐると捻ってみた所で答えは出そうもない。銀時は溜息をひとつ吐くと、子供らの向かった方角へ足を向けた。取り敢えずどこの時間軸で、何が見せられようとしているのか。それを判断しなければなるまい。 中庭はぐるりと建物を回り込んで、生け垣を隔てて正面玄関の方へと続いている。竹で作られた生け垣の陰で、先頃の子供たちがこそこそと隠れながら玄関の様子を窺っているのを見遣ると、銀時は彼らの横をそっと通り抜けた。 今度も矢張り誰も銀時の存在に気付く様な気配を見せる事はなく、己の姿は彼らには見えていないのだと言う銀時の想像は恐らく正しいと一応は証明された。 玄関は大きな土間になっていて、下働きの農夫たちが米を置いたり俵を作る場所になっているのか、天井も高くかなりの広さがあった。据え付けられた棚には米の詰まった俵やら使用感のある枡やらが並んでいる。 子供らの視線の向いていた先、土間の中央には一人の老婆が、跪いてひれ伏す様にして頭を下げている姿があり、その傍らには小さな子供が、矢張り同じ様にして地面に手をつき頭を下げていた。 そして土間から一段高い板の間には、何人かの人間が居た。皆一様にそれなりの年齢の者ばかりで、贅のある暮らしに慣れている人間なのだと、その佇まいや風貌から知れて銀時は目を僅かに眇めた。 「お雪は手前の義理の娘の様なもので御座いまして、これはその腹から生まれた子供に御座います。お雪は病にて先日のうなりましたが、その間際にこの子供の出自を、土方の旦那様であるとこぼしました」 平伏した老婆がそう口にし、傍らの子供は自分の事を言われていると解っているのか、下げた頭を時折ちらと持ち上げて、段上の大人たちを恐る恐るに見上げている。 「お雪は子供の名をと土方の旦那様に乞いまして、旦那様は自らの家の十四人目の子供だからと、十四郎と名を下さったと手前に語りました」 老婆の口から出た、聞き覚えのある名に、銀時は小さく縮こまる様にしている子供の姿を見下ろした。平伏していて解り難いが、多分にまだ十にもなっていないだろう幼い子供だ。だが、この子供が後の土方十四郎と言うあの男なのだと言う事は恐らく間違いない。 板の間に正座をして老婆を迎えているのは一人の男性だった。年の頃は四十を超えて五十に届く頃ぐらいだろうか。取り敢えず彼が代表して老婆の話を聞いているのは確かで──、 (…そうか。この人が、土方為五郎) 後の、翁の面に素顔を隠したあの仏師だ。銀時は為五郎の顔を直接に見ていないから余り実感は湧かなかったが、状況から見てこれもまた銀時の想像通りで間違いはなさそうだ。 そして彼の背後で、廊下近くの部屋に隠れる様にして話を聞いている者や、近くに佇んで厭な顔を隠さずに居る者ら。彼らが為五郎の弟や妹たち、或いはその家族と言った所なのだろう。 彼らの潜めた顔には露骨な、悪意や敵意が宿っている。ひそひそと、妾腹がどうとか、遊び女の子だろうとか、聞こえよがしに囁き交わしている。 誰もが老婆の連れて来た子供の存在を歓迎などしていない事が明白に見える中、然し為五郎だけは異なる様だった。彼は難しい顔をしてはいたものの、深く頷くと老婆と幼子とを見て口を開いた。 「話はわかりました。父の残した子なれば私共にとっても末の兄弟、つまりは家族と言う事になります。ですが、何分こんなご時世だ、お話を疑う訳ではありませんが、騙りが無いとは言い切れません。 その、お雪さんと言う女性は、父から何かを渡されたりしていませんでしたか。物品や、言葉を」 すれば老婆は懐に手を差し入れ、懐紙に包まれた小さなものを恭しく段上の為五郎へと差し出してみせる。 「この櫛で御座います。子が生まれる以前にお雪が、土方の旦那様より頂いたものであると口にしておりました。証になるかは解りませぬが、どうぞお検め下さい」 為五郎はその言葉に立ち上がると、恭しく差し出されているものを丁寧な仕草で受け取った。検めさせて頂きます、と言って、綺麗に折りたたまれた懐紙を慎重な仕草で開いていけば、中に納められた半月型の櫛がその姿を現す。 銀時はそっと板の間に近づき、為五郎の取り出した櫛を上から覗き見た。日本髪に刺す半月型の櫛だ。黒い漆で塗られ、金粉で桔梗の花が描かれている。一見して高価な品物である事は明らかである。 為五郎はそれを裏表と返し、一つ頷いた。彼の一番年齢の近い妹らしい中年女性がその様子を受けて近づいて来て、銀時と同じ様にして櫛を覗き見ると、渋々と言った仕草でやはり同じ様に頷いた。 「…間違いありません。これは昔父が母に贈ったものと揃いの櫛でしょう。特別に注文をして作らせたもので、他に量産はされていないものだと聞いた事があります」 櫛を覗き込んだ妹は、母に贈ったものと同じものを妾に贈ったと言う事実を前に苦々しい表情を浮かべはしたが、反論する要素も無かったのだろう、むすりと黙り込んだ侭、少し顔を上げていた子供をぎろりと睨み付けた。本来その敵意にも似た感情を受け止めなければならなかった筈の女は最早おらず、子供は母の受ける筈だった咎めを、まるで自分が悪いことをして仕舞った時の様に受けて、怯えた顔を必死で俯かせた。 「それでは、この十四郎を土方の旦那様のお子であると、お認め下さるのでしょうか」 「そうですね。もう亡くなったとは言え、父の子である事に変わりはありません。その子は我が土方家にて引き取らせて頂きます」 為五郎が深く頷いて言うのに、老婆はほっとした様に息を吐くと、また地面に額を擦りつけんばかりにして頭を下げた。肝心の子供は己の処遇がたった今決まった事を理解したのか、それともしていないのか、老婆の動きに倣って頭を深く下げる。 恐らく何がなんだかも解らない侭に、ただ老婆の行動を真似て頭を下げ、何がなんだかも解らない侭に、責め咎めを負わされているだけなのだ。 「兄さん、私は反対だよ。もう親父はいないんだ、不肖の子を引き取らなきゃならん謂われなど無いだろう」 「そうですよ義兄さん。そんな、どこの馬の骨とも知れない、遊び女の生んだ子なんて」 大人たちから口々に発せられる悪意に満ちた言葉の数々に、銀時は平伏する子供の姿を見遣った。未だ幼い十四郎はその言葉を、感情を、果たしてどう受け止めているのか。感じた胸の悪さと共に、この幼い子供が小さな体を更に縮こまらせる姿が酷く気の毒に思えて、銀時は十四郎の傍に向かい、膝をついた。これが過去の光景でしかないのであれば、寄り添う事も、代わりに文句を言ってやる事も出来はしない。そんな事は解ってはいたが。 そうして子供に近い視点で見上げてみれば、為五郎のきょうだいたちの、悪意に満ちたくろい言葉の数々がどろりと辺りに満ちて見える気がして、大層気分が悪くなる。 「お雪さんと言う方は、先程話に聞いただろう、町の料理屋に務めていた方だ。勝手な憶測や想像で、滅多な事を言うもんじゃない」 弟妹たちの歯に衣も着せぬ言い分の数々に流石に溜息をつくと、為五郎はそう言ってちらりと十四郎の方を見る。口にはしなかったが、子供の前で、と本当ならば叱責したかった所に違いない。 銀時はそっと、俯いた侭の十四郎の頭を撫でる仕草をした。だが、この時間軸の彼らには銀時の姿が見えていないと言う事実を示す様に、その手はするりと、子供の体をすり抜けるばかりだった。 「とにかく、この話は後だ。嘉兵衛!嘉兵衛はいるかな」 言って、為五郎が声を上げると、家の奥から如何にも使用人と言った風情の若者がばたばたと出て来る。 「へぇ、ここに。何でございましょう?」 「済まないが、そこのご婦人を町まで送って差し上げてくれ。帰りは遅くなっても構わない」 「解りやした」 寛大な仕事にの命令に、嘉兵衛とやらが一つ頷き、支度をして参りますと一旦奥へ戻って行くと、為五郎は土間に下りた。懐から幾許かの金を出すと、老婆の手を取って直接その掌に握らせて言う。 「多くはありませんが、謝礼として受け取って下さい」 「ほんに有り難き事で御座います」 金子を受け取った老婆がそれをいそいそと懐に仕舞い込むのを、幼い十四郎の目が見つめていた。老婆はお雪と言う、十四郎の母の知り合いか雇い主かと言った所で、恐らく血の繋がりなどはないのだろうが、それでも余りに情のないその様子に、銀時は益々に悪くなる胸の底のむかつきを、溜息一つで何とか誤魔化した。今自分が苛立ったり怒りを憶えた所で仕様がない。 「十四郎と言ったね」 老婆に謝礼を渡した為五郎は、続け様に十四郎に向けてそう優しげな声をかけた。名前を呼ばれた事で、十四郎の幼い顔がおずおずと見上げて来るのに、年齢の酷く離れた兄はやんわりと微笑むと、いつの間にか玄関の周囲に集まってこっそりと立ち聞きをしていた子供らの方を見た。 「あの子らはこれからお前の家族の様なものになる。一緒に遊びに行っておいで」 穏やかな声音でそう言われて、十四郎はおどおどとした仕草の侭で背後を振り返った。そこに集まっている、先頃の六人の子供らは互いに目配せをし合うと、「こっち来いよ」と十四郎を手招きする。 十四郎は不安そうに、老婆と、為五郎と、子供らの姿を順繰りに見つめたが、為五郎に背をぽんと押されると、立ち上がって玄関の方へと向かった。 その背に、未だ悪意を囁き交わす大人たちの目が、声が突き刺さるのを、銀時は見た気がした。 ──妾腹の子が。 きっと、幼い子にその意味はわからずとも、そこに込められた感情は解る。蔑み。嘲り。疎み。何かを感じたのか十四郎はまた振り返りかけたが、子供らに手を引っ張られて外へと駆け出して行った。 銀時はその様子を見送ってから土間を振り返り、これからさぞやどろどろとした話し合いが成されるのだろう、大人たちの──十四郎の兄姉たちの姿を順繰りに見遣った。それがこの家の全員かどうかは解らないが、彼らのほぼ全てが、突如現れた妾腹の幼い『弟』を歓迎していない事は明らかで、あからさまであった。 彼らが本格的な『話し合い』をすべく部屋に入って行き、支度を終えた使用人が老婆を伴って出て行くのも見送って、銀時は頭を引っ掻いた。板の間にどかりと腰を下ろす。どう言う訳か人はすり抜けても、物はすり抜けないらしい。幸いな事にも。 ともあれ、この過去の光景は出だしから相当にハードな様だ。ドラマであったら最初の十分でこれなら無言でチャンネルを変えている所である。何と言うか単純に胸糞が悪くなる質のものだ。 然し生憎とこれはドラマでも映画でも無いらしく、銀時がもう充分だと思った所で止まってくれる様なものではなさそうだった。しかも救いの無い未来が確定しているのだから、益々に気分も重くなる。 一体誰が何の目的でこんなものを銀時に見せているのか──ともあれ何の因果かこんなものを見る羽目になった以上、もう暫くはこの胸の悪いばかりの生活を、すっかりと萎縮していた幼い土方十四郎と共に見て行くしか無さそうだった。 土方家の家族構成やら十四郎くんのことは完全に捏造です悪しからず。 ← : → |