アリアドネの紅い糸 / 23 子供ってのは残酷なものだ、と銀時はこの不可思議な体験に陥ってから、何度目になるとも知れない溜息をついた。肩を落として足下を見つめ、見えないふり聞こえないふりをした所で、背後で交わされている胸の悪くなるばかりの言葉や光景は消えはしない。 村外れの神社だ。二十年近く前は未だ宿場への道は舗装されておらず、山道に続く道の付近にある神社は、正しく村外れと言える立地にあった。沢へ下りる道は逆に道路が無い事で容易になっており、村人が釣りをしたり子供が遊んだりするのに丁度良い場所になっている様だった。 神社の石段の最上部に腰を下ろした銀時は、背後の賑わいを嫌々ながらにゆっくりと振り返る。そこに居るのは主に土方家の子供たちだ。他にも村の子供が幾人か交じっている。 「やーい、メカケノコ!」 「ヤッカイモノは出ていけよ!」 恐らくはよく意味も解らずに使っているのだろう暴言と言って差し支えの無い心ない言葉の数々に、銀時は陰鬱な心地を抱えつつ、それらの言葉を投げられ突き回されている子供の姿を見た。 「………」 まだ幼い土方十四郎だ。彼は己に向けられる言葉の暴力と、突き飛ばされたり追い回されたりする程度の身体的な暴力を、あれからほぼずっと受けている様だった。その表情には子供の溌剌とした気配は一切宿っておらず、言われるが侭にされるが侭に己と己の境遇とを責めている様にも見える。 子供たちは当初こそ、新しい家族である十四郎に悪意と言える明確な感情を抱いてはいない様だったのだが、そこは矢張り子供である。子供は親の言動や態度を見て育つ。十四郎を歓迎していない者たちの住む家の中に居れば自然と、新しい親無しの家族よりも、昔から傍にいる両親や大人たちの影響を受けてそれに従う様になる。それが弱いものであって、虐げても良い大義名分があるのであれば、尚更。 土方家の大人たちの話し合いは、為五郎とその妻が主に十四郎の両親の代わりを務めると言う話に収まった様なのだが、多くの小作人を抱える土方家の当主である為五郎は多忙だし、その妻も同様だった。彼らは年中十四郎の傍に居て、その面倒を見たり教育を施したり出来る様な『両親』には残念ながら成り得なかった。元々子の居ない夫婦であったから、子育てと言うものに深く馴染みが無かったと言うのもあったかも知れない。 それでも少ない時間の合間で十四郎を連れて出かけたり、読み書きを教えたりと、彼らは彼ら夫婦なりに努力はしていたのだろう。それは間違い無い。 子供らは家長の叔父に気取られぬ様に、十四郎の事を何かにつけて虐めた。言葉は確かに暴力だったが、体が傷ついて損なわれて仕舞う様な事はない。だからなのか、十四郎は為五郎に迷惑をかけてはいけないと思って、虐められている事実を言えずに居る様だった。 何かの拍子に虐めに気付き、仲良くしなさい、と為五郎が子供らを叱る事もあったが、子供らは嘘泣きでごめんなさいと謝り、顔を覆った掌の下で気付かれぬ様に笑っていた。 銀時はそれらの出来事を毎回至近で具に見ていたと言う訳ではない。どう言う訳なのかこの過去の映像体験は、銀時の望む・望まないに関わらず時折時間が飛ぶ。重要なイベントのある時へ飛んでいるのか、それともランダムなのかはよく解らないが、曖昧な夢の中の様に突如時間が飛ぶので、見ている──体験している側の銀時は偉く難儀した。 と言うのも、銀時はその瞬間に居る場所から動かず、時間だけが飛ぶのである。次は村の何処で何が起きているのか、何を見れば良いのかも解らず、村のあちこちを往復する羽目になっている。お陰でもう疲労困憊だ。 それもあって、最初の内は虐められている十四郎を、救う事は出来ないが傍で見ていてやりたい心地になっていたのだが、今では何処で虐められているのかを探す事に苦心する事の方が多くなって仕舞った。 どうせ手出しが出来ないと言う現実的な事情も手伝って、銀時は十四郎に降りかかるあらゆる出来事を、目撃こそする様にはしたが余り近づかずに振る舞う事にした。そう至った一つにまず、これが過去の光景だと言う事実がある。見るだけで手は出せないし言葉も届かない。それに加えて、見ているだけで、聞かされているだけで、こちらまで憂鬱になりそうものなのだ。子供は残酷と、思わずそうぼやきたくなる理由は山とあった。 そんな過酷な境遇にあれど、然し十四郎は、独り涙をこぼす事こそあれど、彼らの虐めに負けたり、反撃の暴力に及んだりする様子を一切見せなかった。また、ねじ曲がって仕舞う様子も見せなかった。 その理由は恐らくは、為五郎とその妻とが、自由にならない身なりに十四郎に確かな愛情を注いでいたからなのだろうと、銀時はそう思った。 少ない時間であったが、為五郎夫婦と過ごして居る時の十四郎は、本当に幸福そうな表情をしていた。虐められて負った擦り傷を隠して笑う子供の姿は、己に与えられた僅かの幸いさえ、不義理な感情一つ出すだけで奪われるとでも思っているかの様で、酷く痛々しかった。 (まあそりゃ、延々と妾の子だの邪魔だの厄介だの言われ続けてりゃ、手前ェの存在が悪いんだと思い込んでも無理ねェわな) それでも十四郎は堪えている。悪意と自己否定を小さな体一杯に詰め込まれながらも、曲がったり歪んで仕舞ったりする事も無く、黙って堪えている。為五郎たちに迷惑をかけたり、厄介だと思われない様にするのに必死でいる。 土方もそんな、頑なで勁い精神性でここまでを保って来たのだろうか。己を否定する世界のあらゆる事象に立って向かって、諦めを抱きながらも決して負けずに居るのだろうか。 (まだ十にもなってねェガキの頃からじゃ、そりゃ年季も入るか…) 銀時に会うまでは弱音一つ吐き棄てもしなかっただろう彼の人の姿を記憶の片隅に思い出していたその時、ふっと空気感が変わるのに気付いて、銀時は思わず顔を起こした。この感覚は、また銀時の居る座標はその侭に時間を移動した時のものだろうと、既に何度も経験しているので直感的に察する。 「はぁ…。また移動か……」 思い切り溜息をついて銀時は立ち上がった。いい加減ある程度の慣れや耐性もついた。子供らが移動する場所は大体の場合は村の中の幾つかの『遊び場』か、土方家の何処かと言うパターンで構成されている。この時代に子供がそんなに長距離の移動が出来る筈も無い。 後はその候補地を総当たりすれば良いだけなのだが、これも大体時間帯である程度のアタリを付けて行動した方が効率が良い。 さて、見上げた空は夜に差し掛かった夕刻頃。と言う事はもう遊び終えて土方家に皆帰っている可能性が高い。 然し今回は銀時のその予想は外れた。くるりと境内へ巡らせた視界の中に、座り込んでいる十四郎の姿を発見したのだ。 「………」 移動場所が同じと言う事が連続する事ぐらいそりゃあるだろう、とは思いつつも拍子抜けして、銀時は境内へぷらりと歩き出した。きょろきょろと見回すが、十四郎以外の子供の姿は無い。どうやら今日は一人らしい。 『家族』として、一緒に遊ぶ様にと言われているからなのか、十四郎は他の子供らから虐めを受けはするが、仲間はずれにされていると言う場面はまず見た事がない。そうすると虐めている事が自然とばれて仕舞うからなのだろう。子供らしい狡猾さがそんな所にも表れている。 然し今日は──今は一人きりでそこに居る十四郎は、仲間外れにされたと言う訳ではなく自分の意志でここに来ている様で、境内の隅でしゃがみ込んで何かをしている様だった。見慣れぬ場面に興を惹かれた銀時は、聞こえる訳ではないが、何となく足音を忍ばせてその背後へと近づいて行く。 上からそっと覗き込んでみれば、しゃがみ込んでいる十四郎の前には小さな黒い塊が居た。まだそう大きくない黒い猫だ。親猫やきょうだいはいないのか、猫は一匹だけで、痩せて小さく毛並みも荒れている。どうやら十四郎はその猫に餌を与えている様だった。家から持ち出して来たらしい小さな瀬戸物の深皿には残飯の様なものが入っており、出されたその中に猫は夢中になって顔を突っ込んでいる。 (こっそり餌をやってるって感じか、これは) 辺りを今一度見回すが、境内には他に人の気配も猫の気配もしない。夕飯か昼飯の残りかを持って、こっそりと家を抜け出してここに通っているのだろうと想像して、銀時は十四郎の向かいにしゃがみ込んだ。餌を夢中になって食べている猫を見つめている十四郎の姿は、先頃見たそれよりも少し成長している様だ。十になるかならないか、と言った所だろうか。 やがて猫は腹が一杯になったらしく、差し出した十四郎の手に甘えて頭をすり寄せ、十四郎がその頭を手で優しく撫でてやると、むずがる様にころんと転がって仕舞い、きょとんとした顔を起き上がらせる。 そんな様子は銀時にも何となく憶えがある。松陽と一緒に暮らす様になった頃、自分だけの味方や自分に従う小さな存在が欲しくなって、野良猫に餌を与えてみたりしたものだった。今になって思えば実に子供じみた話であるのだが。 然し、銀時が餌をやると言う事に義務感を感じていなかったので、いい加減になる事もあって、後からバレて松陽に拳骨を貰ったものだ。生き物の命に関わるならば責任を持ちなさい、と、くどくどと諭されて叱られた。 結局その時の野良猫は、銀時より気紛れだったらしくある時姿を消して仕舞ってそれきりだ。銀時は暫くの間その猫に餌をやっていた所に通い続けたが、猫が姿を見せる事はもう二度と無かった。 猫が住処を変えたのか、人間に拾われたのか、それとも不運にも死んで仕舞ったのか。その顛末は今になっても解らない侭だ。ただ、幼かった銀時は何だか自分が悪い事をして仕舞った様な気持ちに駆られて、割り切れるまでの間は暫く少し鬱いだ。精々一週間程度の事だったと思うが。 ともあれ、子供が寂しさや物足りなさから、小さな動物に興味を抱く事自体は珍しい事でも何でもない。世話や責任の意味も知らぬ内から、子供は何かとペットを飼いたがるものだ。 十四郎もその例には漏れなかったのか、彼は為五郎と居る時の様に楽しそうに猫を遊ばせており、猫も他に頼る存在が居ないのだろう、愛想なく振る舞うでもなく十四郎に懐いている様だった。 頬杖をついた銀時は、漸くまともに見た気のする、十四郎の子供らしい笑顔に我知らず目元を弛めて仕舞う。 本当はもっと荒んで仕舞っても良さそうなものなのに、この子供は己に降りかかる理不尽を誰か他者や運命の所為にはせずに、全て自らで負っているのだ。それが良い事なのか悪い事なのかは解らないが、そんな有り様は、十四郎(かれ)が土方(かれ)らしい様に見えると銀時は思った。 然し不意に連続して時間が変わった。目の前に居た子供は笑顔の残滓さえ残さず姿を消しており、空は真っ暗に澱んで強い雨を容赦無く打たせて来ている。 この過去の映像の中で、自分が雨に濡れると言う事はないのだが、銀時は慌ててその場に立ち上がると、つい癖で手で顔の上に庇を作った。雨が直接体に降り注がなくとも、湿り気とでも言うのか、そう言った不快感がじわりと足下からまとわりついて来て気分は宜しいものではない。 辺りを見回すが、十四郎の姿も、猫の姿も無い。境内に人の気配はなく、ただ雨がざあざあと降りしきっている。 今は何時頃だろうか。雨雲に覆われた空に陽が無いから解り難いが、陽はまだ沈んではいなさそうだ。昼を過ぎて夕刻を少し前にした頃ぐらいだろうとアタリをつけた銀時は、濡れて滑りそうな石段を下りて村へと戻った。 雨の灰色の緞帳に村は包まれて酷く陰鬱な風景をそこに描いている。湿気の感じからすれば夏だろうか、田植えの季節を過ぎた田畑は緑の鮮やかな絨毯の様になっている筈なのだが、見回す世界はまるでモノクロームになって仕舞った様に彩度が落ちて、雨と靄とに沈んで見える。 「……」 夏の雨は温度差があるから、湿気の多い山間部で靄が発生したりする事自体はおかしくない。だが、妙な胸騒ぎがした。このどんよりと薄暗く沈んだ村がまるで何かを暗示しているかの様に感じられて、銀時は取り敢えず土方家に続く道へと向かった。雨ならば子供らは家にきっと居る筈だ。 そうして土方家に向かって半ば駆ける様にして歩き出した銀時の足がぴたりと止まる。無意識が、或いは何かが、ここを見るのだと、知るのだと、そんな事を意識に直接囁きかけて来た気がして、咄嗟に頭を左右に巡らせる。 「──……」 そう探し回る事もなく、目的の背中は直ぐに見つかった。十四郎は降りしきる雨の中、田んぼの脇を流れている、常より水嵩を増している用水路に膝をついて、俯いていた。 十四郎の両手には、あの黒猫の姿があった。びしょ濡れになって動かない猫の、その首には麻縄が括り付けられていて、まるで首を括られた罪人の様にも見えた。 (………えぐい事しやがった…) 怒りともどかしさとに、銀時は自らの頭髪をぐしゃりと掴んでかぶりを振る。用水路の中で黙って雨に打たれている十四郎の目からは涙と、絶望と、きっと罪悪感とが後から後から溢れ続けていた。 証拠はない。だが、銀時は確信していた。──恐らくは、十四郎も。 人に懐いた猫は、きっと近づいて来た子供らに何の警戒も抱かなかったに違いない。 十四郎がこっそり可愛がっているものだから。いらない子供のものだから。何を、してもいい。 猫の首に麻縄を巻き付けて、用水路の底に杭でも打って固定する。今日は雨が降る空模様だ。何人かはやめようと言い出したかも知れない。然しきっと、連帯感やそれに因る罪悪感の希釈が、見過ごす事を許した。 もう動かない猫を抱えて、十四郎は静かに泣いていた。苦しんで死んだだろう猫に謝りながら、自分が関わらなければ、居なければ良かったのだと己をただただ責めていた。 「……くそ、」 小さな背中が上げる声無き慟哭を見ていられず、銀時は用水路に背を向けて天を仰いだ。降りしきる雨は、自分には解らないがきっと冷たかったに違いない。体と、心とを芯から冷やしきって仕舞ったに違いない。 子供は残酷なものだ。子供だからこそ罪など感じずに他者の心や命を踏みにじれる。子供だからこそ、赦される。罪悪を感じるか感じないかは、その子供の心次第だ。 この光景を銀時に見せている趣味の悪い誰か──或いは何かは、十四郎の心の痛みまでもを銀時に、まるで味わわせたいかの様だ。だが、味わえても関われないのだから、単に胸の中に消えない気分の悪さだけが残り続ける。 これは過去の光景であって、土方が恐らくは乗り越えて来たものだ。だから『今』それを突きつけられた所で、一体何になると言うのか。 やがて、物音がして銀時が振り返れば、十四郎が猫の亡骸を抱えた侭、用水路からゆっくりと上がって来た所に出会う。十四郎の眼差しは昏く澱んでいて、涙の代わりの様に雨が全身を打って頬を伝い落ちている。 家に向かって歩き出す十四郎の背中を銀時は追いかける。せめて傘でも差し掛けてやれればいいのにと思うが、この時間軸の上では銀時はきっとまだ、松陽の開いた学舎で暮らしている頃だ。ここに居ない者が、ここに干渉出来る筈もない。 十四郎は家の玄関へは向かわず、庭へと真っ直ぐ向かった。そうして躑躅の茂みの中に、手を使って穴を掘り始める。 だが、土を掻き分けるそばから雨で溶けた泥が貯まる上に、道具は子供の手だ。爪が欠けて、指の皮から血を滲ませて、それでも十四郎は手を止めない。殺し損ねた嗚咽が強い雨音に淡々と混じる中、悲しく空しい程に作業は遅々として進まない。 そうしてとっぷりと陽が沈み、雨足が緩やかになる頃、漸く猫の収まる穴を掘り終えた十四郎は、泥水に浸ったそこに猫の亡骸をそっと横たえ、土を被せた。辺りに転がっていた石を墓標の様に置いて、泥と血とで汚れた手を合わせる。 「……ごめんね」 掠れた声が紡ぐ声に、銀時はやりきれない様な心地を抱えて持て余した。お前が悪い訳ではないと、そう言ってくれる気休めの言葉さえも、この子供は拒絶するつもりなのだ。全てを己の罪にして仕舞うつもりなのだ。だから誰にも伝える事なく、独りで全てをやって除けた。 暫く手を合わせていた十四郎が母屋の玄関に向かって暫し後には、中からヒステリックな声や、それを宥める為五郎の声が聞こえて来る。 雨に濡れて泥に汚れて帰って来た子供の、その理由を知らないから、厄介者が玄関を泥だらけにしたとでも騒ぎ立てているのだろう。 やりきれないとかぶりを振った銀時は、足下に今つくられたばかりの小さな墓を見下ろした。 間違い無い、これは未来で廃墟になった土方家の茂みの中にぽつりと在った、あの小さな石積みの正体だ。 (……黒猫、ってのも多分に偶然じゃ、ねぇな) 思って、銀時は猫の墓の前にしゃがみ込むと、手をそっと合わせた。意味のない行動である事は百も承知であったが、何となくそうしてやりたくなったのだ。 諄いですが土方家も銀さんも完全に捏造です。 ← : → |