アリアドネの紅い糸 / 24 雨が止む。見上げた空は薄い雲を全体にはいた、すっきりとはしない晴天。 あれから一体どれだけの時間が経過したのか。ゆっくりと見下ろした足下には小さな石積み。穴を埋めたばかりの荒れた土だったそこも既に周囲の地面と馴染んでいて、石積みが無ければそこを墓だと気付く者は恐らく居ないだろう。周りの躑躅の茂みは精彩のない色の葉を茂らせ、高い空の下で木々は抱いた病葉を吹く風に揺らしている。 土方家の正面玄関へと回れば、そこでは幾人もの農夫たちが集まって脱穀の作業を行っていた。どうやら季節は米の収穫時期へと移った頃らしい。相当に忙しいらしく、土方家の人間たちも一緒になって千歯扱きを使った昔ながらの作業に励んでいる。 今年は豊作だとか、江戸で開発された農業用の機械(からくり)とやらがどうとか、大人たちはあれこれとお喋りをしながらもその手を止める様子はない。そうしている内にも下の田で干された稲穂が大八車に乗せられ運び込まれてくる。成程、土方家が多くの田畑を所有する豪農と言うのも頷ける光景だ。 覗き込んで見れば、あの広々とした玄関の中では、俵を作る作業が行われていた。村人と思しき男たちが忙しなく働き回る様子を横目に、銀時は勝手に家へと上がった。働き手たちの中に土方家の六人の子供の姿は一人も見当たらなかったので、少なくとも脱穀作業を手伝っている訳では無さそうだ。大人たちは総出で作業に当たっていて子供の面倒を見ている暇など無い。そうなると、忙しい大人たちの邪魔にならない様な所で遊んでいるか、簡単な仕事を手伝っているか。そんな所だろうか。 銀時は勝手知ったる我が家の風情で土方家の中をぐるりと歩き回った。松陽と住んでいた家の様に、広い道場などがある訳ではないが結構に大きな家だ。子供が本気で隠れんぼでもした日には見つけるのは困難だろう。 土方家の家族構成は、ここまで見て来た銀時の大凡の推測では、十四郎を除いて三男三女の六人きょうだいで、それに老いた母──十四郎にとっては血の繋がりのない母だが──が一人と、それぞれの伴侶や子供がいると言った構成で出来ている。食事時に卓を囲んでいる人数だけ数えても合計で18人、プラス住み込みの使用人二人と言う、昨今都会では見ない様な大家族がひとところで暮らしている形だ。 義母が十四郎を最も嫌悪していたらしく(十四郎を夫の、老いてからの不義の結実と見れば無理もない話なのだが)、銀時の観察していた限りでは、ずっと十四郎の事を無いものの様に扱っていた。だがその義母は十四郎が土方家に引き取られてそう長くない内に病か何かで亡くなったらしい。ある時を境に姿を見なくなった代わりに、仏壇に位牌が一つ増えていた。今頃夫はあの世でさぞや妻に責められている事だろう。 他にも江戸で働いている子供なども居る様だったが、ともあれ現在この家で暮らしている人間の数は十四郎を含めれば20人ばかりが居る。広々とした豪邸で無ければとてもではないがやっていけない数である。 銀時が土足で家を歩き回り、部屋を覗き回っても当然だが誰も見咎めする事はない。そんな現実離れした様子からも矢張り、ここは過去の時間そのものではなく、それを再生しているだけの世界なのだと再認識する。襖を開けても障子を開けても誰もそれに気付く事無く気にする事もなく居る。もしも見えていたら間違いなく怪奇現象として騒がれている所だ。 そんな家の中を隈無く歩いてみたが、子供の姿は一人も目につかない。と、なると外に遊びに出ているのだろうか。 仕事に励む者らに振る舞うのだろう、煮炊きの支度が忙しく行われている厨を通り抜けて、銀時は庭へと出た。美味しそうな食事の匂いに何となく腹を押さえるが、幸いな事にもこの過去の再現の世界に来てからまだ空腹感は憶えていない。出す方もだ。長々と何年分かの様子は見せられているが、実は余り体感時間としては然程に経過していないのかも知れない。 庭に出た銀時が頭を巡らせると、子供たちの姿は思いの外に直ぐに見つかった。六人。十四郎の姿はその中には見当たらない。彼らは庭にある倉庫の前で何やらこそこそと辺りを憚る様な動作をしている。見るからに怪しい。 「大丈夫、父さんも母さんも忙しいから、誰もこんな所覗きに来ないし、バレやしねぇって!」 一番年嵩の、十四、五歳ぐらいの子供がそう言って、その六歳ぐらい下の弟である子供が追従してうんうんと頻りに頷いている。次男夫婦の子供たちだ。この二人のうち兄の方は子供らの中でも最も年長らしく、率先して十四郎を虐める指示を従兄弟達へと出している。 年長者、即ちリーダーの太鼓判を待っていたのだろう、こそこそと懐から取り出した鍵を大きな錠前に差し込むのは二番目に年長の子供だ。次女の息子だが、どうやら彼女は出戻りの身らしく、新婚の夫と同居している末の三女と折り合いが悪い様で、子供らもよくそんな両親たちの喧嘩の余波を貰っている姿を銀時も何度か目にしている。 そんな経緯からか、油断していると自分が虐めの標的にされるとでも思っているのか、この次女の子供は十四郎と年齢が最も近いのに、一番手酷く十四郎を虐めている子供でもある。 (…すっかり連ドラみてーになって来たな) 反射的に銀時が頭の中で描いていた、土方家のきょうだいの関係を息継ぎ一つで振り払う頃、がちゃんと重たい音がして、錠前が外れた。一人がそっと戸を開き、中に子供らが次々素早く入って行く。最後の一人は、傍目に錠前がかかっていると見せかける様に工作をしてから倉庫の戸を内から閉じた。その様子は如何にも手慣れている。屋根裏に部屋のある、ちょっとしたワンルームぐらいはありそうな倉庫だ。度々子供らの秘密の遊びにでも使われているのだろう。秘密基地とか、そう言った類が子供は好きなものだ。 思えば、ここに来て最初に子供らを目撃した時も倉庫の中でこっそり遊んでいる所か何かだったなと思った銀時は、戸の外に立ってそっと耳を澄ませてみた。別に戸を開いても彼らの『過去の時間での行動』に影響は出ないのだろうが、雰囲気と言う奴だ。 こんなにこそこそと、大人に気取られない様な行動をしているのだから、まぁ碌な事はしないのだろうが。 「ハクライヒンって言ってた。キセルより楽だって。大人はこれがおいしいんだって」 「知ってる、ハクライヒンってあれだろ、あまんとの作ってる物!今江戸はあまんとのお陰で凄いんだって、この前盆に帰って来た兄ちゃんが言ってたよ」 「私この間町に連れてって貰った時、空飛ぶ船を見たよ!」 倉庫は漆喰で塗り固められた土蔵ではなく、木造のものだ。重要な財産を仕舞っておく目的と言うよりは、日常的に使う道具などを収蔵しておく用途のものなのだろう。壁が厚くは無い為に子供らの潜めた声は、聞こうと思えばよく耳に届く。銀時は肩を竦めつつやれやれと呻いた。 十代に入ると、この国では子供も大人扱いされて育つ事は珍しくない。青少年だ未成年だのと言う定義が出来たのは比較的最近の話だ。そんな、大人の階段を恐る恐る上り始めた頃のやんちゃな子供の大体が興味を抱くのが、喫煙と言う奴である。大人たちがそれを嗜んでいるのを目にする事も多いから、背伸びするのに丁度良いものと感じるのかも知れない。また、金持ちになると豪奢な煙管がステータスアイテムになると言うのもあるのかも知れない。 ともあれ恐らく子供らが倉庫でこっそり行おうとしているのは、この流れから行けば多分に喫煙だ。この頃なら天人の持ち込んだ紙巻きの煙草も一般に出回り始めた頃だろう。煙管よりも手軽なので手も出し易い。 (どうしようもねぇガキ共だなあ…。まぁ俺も他人の事言える口じゃ無かったが) 普段滅多に怒らない松陽も、子供らが人の道や義に外れた事をしたり、理由もなく決まり事を破る者には容赦無く拳骨をくれていたものだった。銀時も幼い時分からよく『やらかし』をしては叱られていたので、自分が子供の頃は…、と優等生ぶるつもりは今更ない。 成程確かに秘密の遊びだ、と得心し、銀時は倉庫から離れた。道を外れかけているかも知れない子供らに己が何も出来ないと言う事実は勿論だが、仮に咎める事が出来たとしても、咎めてやる義理はない。そう言う事は大人になる間に自分で気付くべきものだと、匙を投げる様な心地で思う。 (まあガキ共はここにいるとして、十四郎は…) 何処に居るのだろう、と疑問がそれ以上紡がれる事は無かった。躑躅の、花のもうない茂みの陰から、ひとりの子供がふらりと幽霊の様に立ち上がるのを、銀時は見た。 十四郎だ。件の黒猫の墓に野の花でも供えていたのか、泥で少し汚れたその手には雑草と見分けもつかぬ様な葉が握りしめられていた。 ふらりと十四郎が歩き出す。固く握られていたこぶしから、潰れた葉や茎がはらりと落ちる。 「………」 不意に銀時は厭な予感に襲われた。子供らが入って行った倉庫をじっと見つめる十四郎の目は、まるでそこにぽかりと深淵が穴を空けた様に黒く、虚ろに澱んでいた。瞳孔は開ききって、まるで死んだ動物の様な眼をしている。 倉庫の前へと辿り着いた十四郎は、足下に落ちていたゴミの様な小さなものを拾い上げた。子供らが持ち込もうとして、きっとこそこそ慌てて動いていたから一つだけ、落ちて仕舞ったのだろう。 それは、一本の燐寸だった。 銀時は息を呑んだ。然し己にはそれを止める手立ても、言葉も持たない。きっとこれはもう遠く昔に通り過ぎて仕舞った、決して仕舞った運命の結果への、最後の岐路だった筈だと言うのに。 きっと魔が、差したのだろう。 十四郎は倉庫の壁で燐寸を擦ると、火の灯ったそれを足下に落とした。倉庫の前には、その内仕舞う予定だったのか、それとも近い内に何かに使う予定だったのか、よく乾燥した藁束が置かれていた。 十四郎のちいさな手は機械的に、然し淀みなく動いて、次に、頑丈な錠前へと伸びた。 やめろ、と銀時は叫んだ。叫んだのだと思う。 少年の濁った眼差しは、あの雨の中ひとりで猫を葬った時と同じ、ここではない何かを見ている様だった。 そこに宿っていたのは、憎しみとか、怒りとか、悲しみと言った解り易い感情たちではない。砕けた失意と空いた穴とがただただ迂遠に拡がる、なにも無い、ただの空白だ。 だが銀時は知っている。その空白の中には己や他者を傷つけ続けるだけの茨しか茂らないのだと。傷ついて、傷つけて、虚しさの血しか流さない、そんな空虚な孤独しか存在出来ないのだと。 幼い体と心とに絶望を巣食わせた子供は、その目で、その手で、錠前を掛けた。小さな音を立てただけのそれは無情にも倉庫の戸を外から完全に遮断した。 足下で燐寸はまだ自らの軸を焦がして煙を上げているだけ。まだ藁束に火が燃え移る様子はない。 だが、きっと燃えるのだ。燃えて仕舞うのだ。確定している未来、為五郎の語った火事の悲劇が銀時の脳裏を過ぎる。土方家は火事に見舞われ、そして子供らも、その親たちも、十四郎も、違えずきっと命を断たれる。 火は、未だ点いてはいない。時間の問題かも知れないし、そうではなく未遂に終わるかも知れない。未だ確定していない未来を選べた筈の十四郎は、然し運命にその結末を委ねる事を選んだ。 彼はその侭、倉庫に背を向け歩き出した。家から逃れようと思ったのか、単にそこから離れたいだけだったのか、兎に角ゆっくりと落ち着いた足取りで、彼はそこから逃げ出した。 その時彼が何を思っていたのか。何をしたかったのか。思わずその背から目を逸らした銀時にも解る筈は無かった。 …今からフォローしちゃうのも何ですが、この過去の十四郎くんは「現在」の(大人になっている)土方十四郎とは違う存在ですので、捏造のそのまた捏造的な感じで。 ← : → |