アリアドネの紅い糸 / 25 目の前の家が炎に包まれているのを見た時、銀時は自然と、これがきっとこの回想録──或いは追体験──の最後の時なのだろうと確信した。 また時間が少し飛んだらしく、銀時の眼前で家は既にあちこちから火の手を上らせ、手の施しようなど無い程に全てを灼いて焦がしている。燃え盛る激しい炎はまるで、空に向けて赤や橙の蛇が踊り狂っている様にも見えた。 あの小さな燐寸の生んだ火が燃え広がったのか、それとも他の要因を元凶としたものか。銀時がゆっくりと視線を巡らせた先には業火に包まれて火柱の様になった倉庫がある。 倉庫は木造だ。おまけに中に燃え易いものでも収蔵してあったのか、最早止めようもない程に激しく燃え上がっていた。 その、固く閉ざされた戸は内側から幾度も幾度も激しく叩かれ、中からは悲痛な泣き声と苦悶と悲鳴とが響いて来ている。こんなに建材を焦がして燃えていると言うのに、頑丈な戸や壁は倉庫の内側を守ると言う役目を遵守し、小揺るぎもしていない。 燃えさかる倉庫の熱と炎とに大人たちは近づく事も出来ず、近づけたとして閉ざされた錠前を解錠する手立ても持たず──鍵は内側に閉じ込められた子供が持っているのだ──、目の前で我が子たちが焼き殺されていく凄惨な光景を前に狂乱し泣き叫んでいた。 既に救助を試みたらしい両親の誰かは惨い熱傷を負って倉庫の前に倒れていて、医者を、火消しを、とそれを看ている別の誰かが叫んでいる。然しぴくりとも動かぬその様子からは、助かる見込みがあるとは思えなかった。 混乱、焦燥、茫然自失、現実逃避。ヒステリックな悲鳴たちがそれらを全て撹拌し、炎と煙とに変えて空へと吐き出し続けている。恰も地獄の釜でも開いて仕舞ったかの様な光景を前に、解っていた結果とは言え、遣る背が無くて銀時は唇を噛んだ。幾ら酷い側面ばかりを見せられた人間たちだったとしても、人が理不尽に死んで行く姿は決して愉快なものではない。 使用人たちは井戸から水を運んで来ては家のあちこちや倉庫に撒くと言う消火活動を試みているが、その効果は空しくも殆ど出ている様子は無い。村人たちは家人の指示を受けてか、それとも自己判断でか、家財や重要な品などを少しでも表へと運びだそうと駆け回っている。 村の方からは半鐘を叩く音が聞こえて来ている。直接火災に関わりがなくとも、何事が起きているのかとざわめく気配は村中に漣の様に拡がって大気を不穏に揺らしていた。 怒号と嘆きとの響き渡る、薄暗くなりかけた空は炎の朱い照り返しを受けて、人間たちの身に突如として降り注いだ悲劇の様相を見下ろすばかり。 財が燃える。血が途絶える。何れも一つの終止符に他ならない。そこから持ち直して続くか、続けるか、続けられるかは、逃れ様のないこの悪夢の光景を生き延びた者次第だろうが。 火の勢いが更に増し、母屋のどこかが崩れ落ちる様な音がした。倉庫も中で建材の崩れる音が響いていて今にも燃え落ちそうで、炎の一色に包まれたそこから子供の悲鳴は、最早途絶えて聞こえて来ない。 火に直接焙られる事は無いが、木材や生物の焦げる臭いが漂って来た気がして、思わず銀時は袖で口元を覆った。辺りに飛び散る火の粉が銀時の皮膚を焼く事は無いが、それでも炎の巻き起こす凄まじい熱は解って、目を眇める。 そんな銀時の直ぐ横を、子供がふらふらと歩いて、庭へと向かって行くのが不意に視界に入った。 目を見開いたその視線は一直線に、炎上する倉庫を見つめて僅かも動かない。戦慄く様に下顎が震えるが、声は出ない。叫びたかった言葉が何であれ、戦いた唇から言葉が紡がれる事は無かった。 煤で汚れた頬を涙が筋を作って落ちて行くのが、炎の照り返しの中にはっきりと見えた。きっとそれは後悔と罪悪感なのだろうと、銀時は思う。燃える倉庫を見つめる十四郎の幼い顔は、己の犯した罪に対する恐怖と失望とで今にも叫び出しそうに強張り震えていた。 きょうだいの誰かが、庭に現れた十四郎の存在に気付いて声を上げた。すれば、そこに次々過ぎる感情は、幼い弟が無事だったと言う安堵などではなく、どうしてお前だけが無事なのだ、と言う的外れな憎悪となって、忽ちに十四郎の心を激しく打ち据えた。 根拠もなく、証拠もなく、論理的でもなくただ、今し方子供の命を理不尽に奪われた親として、嫉妬と憎しみと罵倒とを彼らは吼え立てた。お前の所為だと、お前が居たから悪いのだと。お前が代わりに死ねば良かったのだと。耳を覆いたくなる様な罵声が次から次に十四郎の心を切り裂いて貫いてぼろぼろに壊して行く。 彼らが、十四郎が火を放ったかも知れないなどとは、きっと誰もが本気で考えてなどいなかった。ただ、彼らは短絡的に自らの負った負債や悲嘆を、目の前の目障りで仕方の無かった存在へと衝動的な感情の侭に向けただけだった。 それでも罪悪感を溢れそうな程に身に詰め込んだ十四郎には、彼らの声が自らの罪を暴き立て、責める公正な裁きの声として届いたに違いない。 感情を亡くした顔は激しい拒絶の表情を刻んで凍り付き、幼い足はふらふらと後ずさって、やがて躑躅の茂みの傍で力を失った様に膝をつく。 生まれてからずっと、負って来た、負わされて来た形の無い罪悪が、ここで明確な罪の結実として、彼と言う存在へ──土方十四郎(じぶん)と言う誤った存在へと向けられた。 ただひとつ刻まれた拒絶は、誰あろう己自身へ向けたもの。 ──自分さえ、居なければ、良かったんだ。 そう、土方十四郎が何の抑揚もなく叫んだ感情が、銀時の耳朶を打った。 音声ではない。それはただの、真摯な願いにも似た悲痛な聲。まだ十年やそこらしか生きていない子供が願うにしては、叫ぶにしては、それは余りに悲しすぎる言葉だった。 その時、騒ぎ立てていた家人の一人の口から刃が生えた。否、それは棒の様な鏃だ。弓か何かだろう、突如飛来した鋭く尖った凶器に射貫かれた男が、ばたりと前のめりになって倒れる。 反射的に身構えた銀時は木刀を抜いた。裏口から庭へ入り込んだのか、如何にも山賊や盗賊と言った風情の者らの姿が、炎の燃えさかる中に突如としてなだれ込んで来る。 彼らの動きは組織立っていて、そして迅速で、冷徹だった。悲鳴を上げたり逃げたり理解をしたり反撃に及んだりさせる間も与えず、そこに居た人々を次々に、手にした刃で殺めて回る。 先程まで幼い子供を責め立てていた家人も、火消しに励んでいた使用人たちも、碌な悲鳴さえ出す間も無く、ほぼ一撃の致命傷を貰って誰ひとり残さず斃れていった。 余りに迅速に片付いて行く処理は、彼らがひとごろしと言う所行に手慣れていると感じさせるには充分すぎるものだった。 家人の『処理』が終わると、幾人かが指示らしい動作を受けて、燃えさかる家の、まだ火の手の少ない方角へと駆けて行く。 (そう言や、火事に乗じて盗賊が、って) 為五郎の話を思い出した銀時は、炎や煙から身を守る目的と、人相を隠す目的で口元を布で覆った火事場泥棒たちを見回した。弓や刀なんて物騒な得物を持ってはいるが、見るからに食い詰めて野山に潜んでいる様な風貌の者らだ。火の勢いがこれだけ早いのも、ひょっとしたら彼らの工作があったのかも知れない。 (火災に乗じたっても、幾ら何でも手際が良過ぎっちゃあ良過ぎだ。多分前々から収穫期の家を襲撃するって計画が…、) そんな事を考えていると、盗賊たちのうち一人が、銀時の立っている方を見た。その視線の位置の低さを追った銀時は、十四郎がまだそこに茫然と座った侭で居る事に気付いた。 逃げろ、と叫んだ銀時は、木刀を振りかざして目の前の盗賊へと斬りかかった。しかし殴打の手応えは何も返らない。盗賊は己を止めようとする銀時の存在や悪足掻きに気付く事も無く、無情にも歩を進めて行く。 幼い獲物を嬲って楽しむ様な趣味は無かったのか、それとも単に時間が無かっただけなのか。盗賊は座り込んだ子供の頭を乱暴に鷲掴みにすると、血に濡れた刃を無言でただ振り上げた。 「やめろ、くそ、やめやがれ!」 銀時は罵声を上げ続けた。振り下ろし切り払う木の刃が空しく過去の映像をすり抜けるが、銀時は木刀を振るう腕を止める事が出来なかった。これが既に決した過去の事だと解っていても、黙って見ている事など出来なかった。 既に家人の血を纏わせていた刃の切っ先は、違える事なく十四郎の喉を貫き、そして抜かれた。返り血を嫌ったのか、盗賊は刃を抜くのと同時に幼い体を無造作に蹴って棄てる。 炎よりも紅い血を致命の傷口から鼓動の度に噴き出しながら、自らの作る血溜まりに横たわった十四郎は、小さな体を僅かに捩ってあかい左手を伸ばした。 虚ろを見つめる眼球がその時見ていたのは、直ぐ横にある猫の墓。 こぼれた血が、土方十四郎と言う人間の命だったものが、土の中へと染み込んで行く。土に還ろうとしていた猫の骸を通り抜けて、世界のもっと深い所へと、紅い滴は糸となって滴り落ちて行く。 そんな光景が実際に見える訳はない。だが、そう理解した。頭の中にまるで映像の様に灼き付いて流れて行くそれは、視角では無い所で『視て』、理解させるだけのプロセスなのだと。 その瞬間に奇妙な理解を憶えた銀時は、どくん、と何か大きなものが胎動する様な感覚を感じた。それは、『ここ』に来る時も感じた、本能が何か圧倒的な力や理や存在を前にただ震えるほかなくされて仕舞った様な威圧感。 紅い血が沈んだ先には、青く輝く光の源泉が在った。それをアルタナと言うのだと、実際目でそんなものを見た事が無くとも、単純な理解として得ている。 銀時の脳裏にまた、あの膨大な情報量を映し出した映像たちが次々再生されて行く。それもまた、理解の内の事。 血とは人の生命の流れであり存在の情報を内包したもの。それが滴り、大地の遙か底で静かに息づいていたアルタナのひとしずくに触れ、そこに融け出していく。 古代の者たちはこの地を──アルタナの噴き出す小さなこの龍脈を恵みの地として崇めてきた。 最初は泉に融けて人々を癒し恵みを与えていた。その湧水は年月や地殻変動に因って絶えて仕舞ったが、その復活と繁栄とを信仰とした、小高い丘にも似た墳墓が築かれ、王族が葬られた。 恵みを与える地を巡る争いはその後も暫く続いたが、やがて恵みの地は伝説となって廃れて消えた。だが、地に浸透したその力は未だにこの場所に恵みをもたらし続けていた。 土方家とその周囲の田畑が収穫に恵まれ繁栄したのも、焼け落ちた廃墟に植物が異常な繁茂を続けたのも、この地に密やかに宿っていたアルタナの力に因るものだったのだ。 アルタナは星の生命であり膨大なエネルギーであり、この星の生命の源泉でもある。故に、この地で起きた全ての記憶はここに宿り続けており、銀時はそれを、滴った血の一滴を通して巡って見た。見させられた。 そうして今、幼い子供の血は──己の存在を否定し拒絶すると言う絶望に呑まれた魂は、血と共にアルタナへと融けて、この星の記憶に深く深く刻まれた。 そんな様を、事実として再生してみせた。 『──そして、強く己の存在を否定した感情は、世界に数多存在する運命の枝葉を混線させて、歪めて仕舞った。これが、『彼』に纏わる物語の全て』 まるで頭に直接叩き込まれた様な、銀時の理解を更に言葉で保証したのは、確かに聞き覚えのある声だった。恐る恐る頭を巡らせたそこには、先程までと変わらぬ、土方家の最期の光景が拡がっている。その中には、喉にぱくりと大穴を空けて息絶えた、幼い土方十四郎の骸もまた、何も変わらず斃れている。 口を開いて、大凡その人物に似つかわしくない言葉と声色とで喋った骸に向けて、銀時は半ば茫然と、その名を紡いだ。 死した骸の語り部。そう成り得るのだとしたら、それは同じ死者の国の存在の筈だ、と当たり前の様に思いながら。同時に、そんな馬鹿な事がある訳はない、とも思いながら。 「……松陽?」 明らかに疑問符の乗った呼称に、十四郎の骸を借りた何者かは、にこりとあの見慣れた笑顔によく似た表情──としか言い様のない気配を、銀時へと向けてみせたのだった。 以降怒濤の勝手なファンタジー展開になります。 ← : → |