アリアドネの紅い糸 / 27 救う、と一言で無理矢理理解をしてみた所で、実際の所何をどうすれば良いのかの見当はつかない侭、銀時は半ば安請け合いのつもりで『それ』に向けて頷いた。 取り敢えずもう一度頭の中で(ある程度)整頓した事を、指を折りながら連ねる。 「書き換えられた過去を、本来の土方までもが肯定しちまった。それで生じたのが歪みとやらで、この侭だと土方の存在は本当に消えちまう。それを何とか出来るのは、世界の変化にちょっとでも気付いていて、アイツを取り戻してやりてぇと思ってる、俺や為五郎のジーさんだけ、と」 そしてこの松陽の模倣をしている、アルタナの滓だか妖精だかは、それを協力してくれると、どうやら申し出ていると言う事なのだろう。だからこそ銀時に、土方十四郎の辿った異なった可能性の過去を見せたのだ。「こう」なった根元を。 「確かに、あんな内罰的な性質してて、四方から追い詰められちまえばそうもなるってのは解った。でも具体的にどうすりゃアイツを取り戻してやる事が出来る?過去を変えるとか、そんなんそれこそどこぞの猫型ロボットでも連れて来なきゃ無理ってレベルだろ」 銀時としては土方を救う手立てがあるのならば、それを手助けする事に躊躇いなどない。それこそ今更だ。だが、過去を変えられて未来が書き換えられようとしている、などと言う状況を一体どうしてやれると言うのか。 『過去を否定したり、変えたりしたいと願った事ぐらい、君にも憶えがあるでしょう』 考え込む銀時の耳に、不意にそんな声が差し挟まれた。そう示す意が何であるかなど、改めて問い返すまでもない事だ。これには流石に銀時も苦々しい表情になるのを止められなかった。斃れている亡骸越しに『それ』を見て──睨もうとしたのだが──、自然と苦笑が浮かぶ。 「…その声で言われると結構堪えるもんだな」 頭を掻いて、銀時はいつでも思い出せる、あの日のあの光景を、そこに至るまでの選択を、具に反芻して溜息をついた。 松陽を殺さずに済む方法は無いか。色々考えた。幾度となくあの瞬間を夢に見て、ここでこうしていたらとか、ああしていたらとか、様々な分岐点とそこから変化していたかも知れない世界を夢想した事もあった。 然し、いつでも現実は変わらずに目の前に横たわっていた。松陽は死んで、銀時らの心も死んで、苦しんで悔いる日々は後を引いた。それからずっと。 (……成程。人の強い思いだか叫びだかは、確かに世界を変えちまうぐらいの執念や未練を持ってるのかも知れねェな) 然しそれは誤りだ。もしも、運命を変えられるぞ、と唆されたとしたら、多くの人間が何かしら気懸かりや未練を思い浮かべ、それが解消なり是正なりされた『別』の未来を想像する事だろう。生まれてこの方全ての選択を全て正しいと思い込める様な人間など存在しない。 だが、悔いがあって心残りがあって、だからこそ人はそれを繰り返さない様に是正しようとする。それそのものを変えられなくとも、未来は今からでも変えられる。そうして人は歩んで成長していくものだ。 その過程を省いて仕舞えば、人は過ちを何とも思わなくなって仕舞うし、罪悪感すら感じなくなり果てる。人はどうしたって弱くて、手前勝手な生き物である故に。 過去を変えられる、現在の自分を否定する。どちらであっても、悔いるべきは選択では無い。その悔いを経て現在がある事を忘れてはいけない。 (望んだとして、叶えられたとして、『もしも』に変えちまいてぇなんて、思うもんじゃねぇ) あの場面を変える様々な『もしも』を幾度も、幾つも考えた銀時も、得たものはと言えばただの無為と諦念への苦痛ばかりだった。前に進む事さえその苦しみが邪魔をする。 そこに己を囚わせるのは、強いて言うなれば罪悪感だ。誰在ろう自分自身に因って人は容易く殺されて仕舞う。先の可能性を摘み取って、幸福の芽を踏みにじって、そうして得られるものなど徒労感ぐらいしか無いと言うのに。 (望もうが、望むまいが、死んだ者は戻りはしねェし、時間も戻る事はねェんだ) 『…それでも悩み、苦しむのが人と言うものなのでしょう。その胆力は時にあらゆる事象を凌駕する事もある』 「………それにゃ同意するが、さっきから人の頭ん中に合わせて会話すんのやめてくんない。気分悪ぃから」 目の前の亡骸──もとい、アルタナの滓だかなんだかが──がどう言った仕組みなのやら銀時の頭の中や記憶を見ている事は間違い無いのだが、常に心を読まれているなどどうしたって余り楽しいものではない。 唇をへの字に歪めた銀時の抗議に、然し『それ』はまるで意に介した様子も無く続ける。 『君の考える通り、過去は変えたいとただ願った所で容易く変わって仕舞うものではない。過去は不可逆。君の見て来た可能性の過去も、飽く迄過ぎた事を再生しただけのものです。ですから君は直接『この過去』に介入する事も、変える事も出来ない侭、ただそれを見て来た』 「………どうやった所で、この十四郎が此処で死ぬ事は変えられねぇって事か」 本来ならば溌剌と輝いていただろう、子供の眼差しは、生命活動の一切を停止した今ではただの澱んだ穴の様に昏くて虚ろだ。度重なる不幸や理不尽を全て受け止めて立ち向かうには、きっとこの身は未だ小さすぎた。 誰かが、或いは何かが寄り添う事が必要だったのか、それとも──、 「…だが、土方は生きていた。アイツの通った過去が俺の見た『これ』と全く同じだったのかは解らねェが、『これ』に抗って強く生きた土方十四郎も確かに居た」 土方がまるきり全て異なった過去を生きていたとは考え難い。此処で亡くなった十四郎と基本的な境遇はきっと同じだった筈だ。だから、岐路を違えず生きる事はきっと出来た。逆に言えば、何か僅かの事が彼の運命を生と死とに分かれさせたのだ。 魔が差した、つけ込まれた弱さが彼に報いを与えたのだと言い切るには、彼の受けて来た仕打ちは余りに理不尽で、少々抵抗はある。だがそれでも、生きて立ち向かう事の出来た可能性だって常に共に在り続けた筈なのだ。 呟いた銀時に、『その通りです』と『それ』のやわく笑う気配。それが本当に松陽の紡ぐ調子に聞こえて、銀時は決まり悪く頭を掻いた。うっかりと普通に会話などして仕舞っているが、これは飽く迄松陽では無いし、それどころか人間ですら無いものなのだ。 『ですから君にして貰いたい事は、過去を変えるのではなく、誤らせる事です。この悲劇の可能性と同じ様に、数多の可能性のひとつを、君の望む未来──君の帰りたい未来へと続く様に、脚本を少し誤らせれば良い。 童がここで自己否定に呑まれる様な事なく生き延びる。目標は最低でもその程度。彼が自ら生きる事を願って未来を望む事が出来れば、アルタナに融けた自己否定は薄らぎ、世界はまた認識を変容させる。つまり、少なくとも未来の有り様である彼が消えて仕舞う事は無くなる。君や彼の周囲の者らから消されて仕舞った記憶も戻る筈です。後は多少認識や記憶に差異が生じれど、大きな変化にはならない。『元通り』です』 「また随分と適当な言い種だなオイ」 『そう言うものとして理解しなさい。どうしたってこれは人の子に理解出来る様な領域の事象ではありませんから』 やんわりと、然しきっぱりとそう言い切られて、銀時は何だか落第点を貰って仕舞った時の様な脱力感を憶えながらも溜息をついた。今更、確かに、不思議な出来事の一つや二つ、何だと言うのだとは思うのだが。 「…そう言や、アイツの義兄ちゃんはどうなるんだ?本当はこの未来ではもう、」 確か、この酷い過去だからこそ為五郎は無事に生き延びた筈だ。土方の記憶では──本来あった運命では、幼い土方を凶刃から庇って眼を失ったと言っていたか。 皮肉な話だが、土方が助かれば為五郎は眼を失い、余生を長くは生きられなくなる。土方が失われれば、親類縁者全てを喪い傷も負うが、未だ生きさばらえる事が叶う。 どちらがより良い、などと言う風に選ぶものではないのだろう。これは飽く迄岐路の可能性の一つの、結果が導き出した悪戯の様なものなのだ。本来は無かった筈のものだと、誰よりも解っているのはきっと為五郎自身だけだ。……或いは、それを気に病む者だけ。 『彼はこの世界の変化に違和感を感じ、是正される事を望んだのでしょう。ならば彼もまた『元通り』になるだけです』 果たして幾度目になるか、銀時の納得を後押しする様な『それ』の声。流石にもう驚きも苛立ちもしなかったが、肚の底に重たい気鬱が凝るのを感じてそっと顔を顰める。 成程確かに『これ』は、人では無い、人に似たものかも知れないが、何かもっと絶対的で大きな何かだ。世界とか摂理とか、そう言ったあやふやな言葉で表現するほか無い様なものだ。 (取り敢えず、おかしいと気付いた奴らが居たから気紛れに手を貸しに来ただけで、本来なら人間とかどうでも良さそうな感じだよな) 銀時のそんなぼやきが『聞こえて』いない筈は無いだろうに、『それ』はなおも続ける。自身で些事と言い切った人間(もの)の批難めいた言葉になど、何の痛痒も抱く事は無いのだろうか。 『君たちの記憶が戻れば、世界の認識も戻って自己を、己の未来である自分自身を否定しつつある彼の方も救われる。歪められた世界から、在ってはならなかった運命の岐路が消えるのです』 「……だ、と良いんだがね」 果たして人とはそんなに簡単なものだろうか。土方の、相当溜め込んでいそうな仄暗い表情を思い出してみれば未だ不安要素は尽きない。土方が、あの男が、そう易々と、己が助かる代わりに義兄の──しかも『今』は健在で生きている──死を受け入れる事が出来るだろうかと考えかけた所で、然し銀時はそれを止めた。それを決めるのは土方自身であって銀時では無い。 『自分を赦す事が出来なかった。でも、違う運命を辿った自分を否定したかった訳じゃない』 その時不意に響いた声は松陽によく似たそれではなく、思わず銀時は振り返ってまじまじと、そこに横たわる亡骸を見た。すればいつの間に現れたのか、己の骸のすぐ傍に、幼い十四郎が立っていた。だがその身は輪郭だけの曖昧なもので、ぼやけて存在感を希薄にしている。 喉を裂かれ斃れた時の、血に濡れたその侭の姿。これはきっと、十四郎の魂と言う様なものではなく、遺った彼の想いを再現しただけのものなのだろうと、何故か直感的にそう判じた銀時を、彼はじっと見上げて来た。 『間違えていたのは、弱かった自分なんだ。新しい家族に拒絶された辛さを受け入れる事も、抗う事も出来ずに、誰にも頼らず独りで居る事を選んだ。そんな弱い自分が誤ちを犯したから、本当はそうなる筈じゃなかった自分と言う可能性を消して仕舞った』 ぼやけた輪郭が、血溜まりに沈んだ己の骸をゆっくりと振り返る。憐れむ様に。或いは嘲る様に。 『火災そのものは因果の結果で、変えようのない大きな流れだけど、弱さに負けずに生きる事の出来た自分も確かに居たのに…』 銀時には明確に、土方十四郎と居た『記憶』はまだ無い。だが、それに違和感を憶えている自分は確かに居る。これが──『これ』が正しいとは思えない。思う訳にはいかない。 「……」 同意でも気休めでも悼みでも易くは無い気がして、黙り込んだ銀時を、十四郎はゆるりと振り返った。 『どうか土方十四郎を──あのひとを、正しく、強く、恨みや孤独に負けずに生きた自分を、助けてあげて』 それは、ここで絶えた幼い魂の悔いだ。ほんの僅かの可能性が開いて仕舞った絶望の生の中、見出せた光明。既に通り過ぎ、決して仕舞ったこの『過去』と言う変え難い現象に生じて仕舞った苦悩。 「……承った。俺も、あいつが嫌がったとしても取り戻してやりてェ。あいつに『ここ』に戻って来て貰いてェ」 どちらが正しい、のではなく、きっと自分はただ、土方の居る世界の方が好きだった筈だと確信しながら、銀時は小さな依頼人に向けて深く頷いた。 「こうなりゃもう何でもありだ。万事屋さんが、運命でも何でも、変えてやらァ」 そっと手を伸ばして、ぼやけて消えかかっている子供の頭を撫でてやると、『ここ』で死んだその想いは──或いは悔いは──ふわりと弾けて消えた。掌に何の感触も残す事なく消えたものを見つめた銀時は、きっと他の多くの死者たちの行き着く所へと向かったのだろうと、勝手にそう思う事にした。 今更ですが、時間軸は金魂以降の何処か、程度なので、当然ですが虚さんと面識は無いし、松陽がどう言った存在なのかも銀さん知りません。 ← : → |