アリアドネの紅い糸 / 28 予告も警告も前振りも何一つ無く、次の瞬間に銀時が居たのは、あの山にある神社の境内だった。 「………オイ、流石に唐突過ぎんだろ」 座り込んでいるのか、いやに低い視点の中で、幾ら何でもこれは手抜き過ぎやしねぇかと呻きながら辺りを見回す。頭上は鬱蒼とした木々の天蓋に覆われ、明るい方角には年代物の鳥居。反対側には古びた社。他に思い当たる節も風景も憶えにはない。矢張村はずれの山にあるあの神社で間違いないらしい。『現在』の時ほどには荒れ果てていない様だから、恐らくはここは過去──の可能性──だ。 (えーと…、あの野郎は、脚本を誤らせろとか言ってたか?未だによく解らねぇけど、とにかく十四郎が火事の時に死ぬ事が無い、自己否定に苛まれる事の無い運命を行く様にすれば、自然と未来もアイツの生きている岐路に調整されるとかなんとか…) 未だあやふやな理解をなんとか組み立てて銀時は喉奥で唸った。つまりはここは少なくとも土方家を襲う事になる火災の起きる『前』と言う事になる。それは時間的なものではなく、記憶的なものなのだろうが。 そしてここに何の指示もなく放り出されたと言う事は、銀時はどうにかして十四郎が絶望に堕ちるのをここから防がなければならないと言う事、なのだろう。……一応そこまでは理屈としては(何となく)解るのだが。 (でも待てよ、土方には子供の頃俺に会ったとか言う記憶は無ぇんだから、俺が直接接触する訳にはいかねぇんじゃねーの…?ああいや、これは別に過去そのものじゃなくて可能性でしかねぇもんだから別に良いんだっけ?) 軽くパニックに陥った銀時は頭を抱えた。救えとか助けろとは確かに明確には言われなかったが、それにしてもこれは余りに無責任に放り出し過ぎではないのか。 (どんだけスパルタなんだよ松陽の野郎…!いや別にアレは松陽じゃねーんだけど!) 松陽もそう言う、肝心な所をぽいと放り出して仕舞う様な所が時々あった。獅子が我が子を千尋の谷に突き落とす、と言う程では無いが少々放任主義──まぁマイルドに言うのであれば、君たちに任せるから好きになさい、と言う様な具合だ。幾ら声や人格を模倣したらしいとは言え、何もそんな性格(と言うか悪癖か)まで再現してみせなくとも良いのに、と銀時は憤慨を溜息に変えて吐き出した。 仮にも、運命を変える(暫定)と言う大仕事だ。実際に未来が変わるとかそう言った一大事では無いにしても、もう少しやりようと言うものがあるのではないか。否、それとも『あれ』は元からそんな親切なものでも何でも無い、世界──或いはただの現象の様なものだから仕方がないと諦めるべきか。 それに付け加えて、なまじ声や印象が知った人間のものであるだけ余計たちが悪く感じられる。 考えれば考えるだけ頭痛のしそうなこめかみを揉もうとした時、銀時は不意にそれに気付いた。 「……?」 己の指の感触がしない。頭を抱えた手に触れているのは何やらもさっと、もふっとした感触。それ自体はいつもと大して変わらない筈なのだが、猛烈な違和感がある。 ──否、さっきからずっと違和感自体はあった。きっと無意識に考えない様にしていたのだ。 だらだらと冷や汗が背を伝うのを感じて、銀時はわなわなと震える自らの両手を見下ろした。想像していた様な戦慄く指と掌は然しそこには無い。あるのは黒い毛皮に包まれた──、手。もとい、肉球。 もさっとした毛。もふっとした毛並み。 「ニャんじゃこりゃあああああ!!」 思わず仰け反って絶叫するが、喉から出ていったのは大凡人間の言語と言うものには程遠い、ふにゃー、とか、ぶにゃー、とか、しゃー、とか。そんな音であった。 つまり、何だ。これは。 「あンの野郎ォォォ…!無責任どころか適当極まりねぇ仕事しやがって…!」 言葉通り全身の毛を逆立ててそう叫んで、銀時は地団駄を踏んだ。どう見た所で、何度確認した所で、我が身が人間から猫のそれに変化している事実に変わりはない。 「猫、」 その単語を憤慨に吼えたくる意識野から何とか引っ張り出した所で、銀時ははたと己の姿を見回した。振り向けばブラシの様に膨らんだ尻尾。その毛並みの色は──黒。 (以前俺が猫になっちまった時は、何だっけ、灰色の冴えねぇ色だったとか言ってたか?) 見下ろす手足。矢張り、黒。まだ膨らんだ尻尾を左右に揺する。何度見ても、黒。 (黒猫……) 姿見など無いから確認のしようがないが、兎に角黒い毛並みが面積の大半を占めているらしい黒猫の姿を、どうやら銀時は取らされているらしい。その色彩は以前にちょっとした呪いだか何だかで猫に変化して仕舞った時とはまるで異なる。 つまりは。 (あの、十四郎が餌やったりしてた猫って事か?庭の墓に葬られた…、) 幾つか反芻した所で、銀時は成程と頷いた。どうやらあの時の黒猫の『役割』として、この過去の可能性の中へと銀時は放り込まれたと言う事なのだろう。あの猫の無惨な死が十四郎の絶望をより強いものへと変えて仕舞う一因となった事は見ていて明らかだった。 (つまり、俺があの猫になって、ガキどもに殺されたりしねー様に行動するとか…?) よくある、過去を改変する映画や物語と話は同じ事で、銀時が──もとい、この黒猫があんな殺され方をしなければ、十四郎の心の裡に魔が差して仕舞う様な事は無かった筈だ。 実際の過去ではなく、過去の可能性の枝葉の一つだと松陽の声をした『あれ』は口にしていた。だが、十四郎の自己否定と言う思いの強さが、未来(さき)の人や世界の認識を違えさせたのだとも。 無論、猫の死以外にも沢山、幼い十四郎の心を責め苛む要素は沢山あっただろうが、親族の子供らを「死んで仕舞っても良い」と思う程に強く憎むに至った出来事は、引き金は、間違いなくそこにある。 (俺が…つーか猫が上手く立ち回って、アイツの孤独を慰めて、健全な精神で生き延びて終われば良いって事か?) よし、と取り敢えず至った結論に銀時が頷いていると、恰もそれを待っていた様なタイミングで境内に小さな足音が響いた。振り向けば丁度、幼い十四郎が辺りをきょろきょろと窺う様にしながら駆けて来る姿に出会う。 「よかった、まだいた」 余程急いで石段を駆け上って来たのか、息せき切って近づいて来た十四郎は、黒猫──銀時には自分の姿は解らないので、暫定黒い猫だが──の方へと真っ直ぐに向かって来る。 まだ、と言う事は、一度猫が居るのを見てから、家に戻って出直したのだろう。成程、小動物の気紛れを怖れて必死で走って来たのも頷ける。 (猫視点で見ると人間ってのァ、ガキでもでっかく見えるもんだな…) こんなのに捕まったら確かに命運も尽きたと思うほかなさそうだと考えながら、銀時は腹ばいの姿勢で十四郎を見上げた。小動物は小さく、その外見に違わずに無力だ。なまじ家畜化された生き物だと、野生に最も必要な警戒心や危機感も失っている事が多い。だが、易々御せるからと言って、殺めても良いなどと言う理由にはどうしたところで成り得ない。それは当たり前の倫理や道徳として学んで行くものであって、本来であれば誤るより先に気付くべき事なのだが。 (あのガキ共が悪ィのも勿論だが、十四郎なら虐めだろうが何をしても良いなんて言う環境を作ったのは親共だ。そう言う視点で見れば、あの最期も因果応報と言えなくもねェが…) つらつらと考えかけた銀時だったが、直ぐに止めた。それを判ずる事が叶うものが居るとすれば、それは──それこそ神か仏ぐらいしか居ない。人の身に因果が纏わりつくかは証明出来ないし、応報は大体の場合は人為の仕業だ。 「家から、こっそり持って来たんだ。厨にあった残り物だけど…、ごめんね、見つかったら怒られちゃうから、少ないんだけど…」 言いながら、十四郎は子供らの影を畏れているのか、辺りを幾度も見回しながら、巾着型に絞る様に丸めた懐紙を取り出す。大きさは子供の掌ですっぽりと包めて仕舞う程度に小さい。 難問の答えはどうせ見つかる類ではない。そう諦めた銀時は、小さな包みを首を擡げて覗き見た。十四郎がかさかさと紙を広げると、中から茶色い塊が姿を見せた。鼻を鳴らして臭いを嗅げば、どうやら鶏肉の煮物らしい。 二つばかりの小さなそれを、十四郎は手で細かく千切って、猫の──銀時の鼻先へと差し出した。 (………) 正直腹が減っている感じはしなかったが、ちらりと見上げれば期待と不安とに彩られた子供の顔がある。こんな期待値を軽く八割以上は抱えた子供を前に、流石にふいと顔を背ける様な真似は出来ないと思い、黒猫、もとい銀時は諦めて鶏肉をもさもさと食べた。冷たいし味もよく解らないし少しぱさぱさしている。 (………現実的には、子供に残飯貰ってるオッさんって構図になるの?これ) そんな厭な想像を過ぎらせながらも黙々と口を動かした銀時は、ごちそうさま、のつもりで「にゃあ」と鳴いた。すると忽ちに十四郎は破顔して、猫の頭や背に恐る恐る触れた。撫で始める。 「わぁ」 何かお気に召す事でもあったのか、十四郎は目をきらきらとさせながら猫の背を何度も撫でる。毛並み通りに、或いは逆に。銀時としてはこそばゆくてむずむずするのだが、何やら撫でる手の動きが楽しそうなので動けない。 (まぁあの家に居るんじゃ、こんな風に生き物や他人に触れる機会もそらねェだろうが…) ぐしゃぐしゃと、遠慮がちながらも挑んで来る手の動きは、年齢より遙かに幼い子供にいじくり回されている様だ。十四郎のあの、肩身の狭そうな暮らしぶりを見ていれば、まあ頷ける話ではある。 「…………ねぇ、お前はひとりで生きているの?」 銀時が黙ってされるが侭にしていると、やがて十四郎が重たく口を開いた。首を擡げて見上げてみれば、先程まできらきらとしていた子供の眼は、前を向いてはいたが夜の海の様に暗く凪いでいた。今にも荒波に呑まれそうな頼り無い小舟の様に、その心は酷く危うい所に辛うじて佇んでいる様に見えて、銀時は思わず口を開いた。 「にぁ」と相変わらずの、何の意味も為さない猫の声に、然し十四郎は己なりの相槌としての意味を見出したのか、そっと両手を伸ばすと猫の小さな体を抱き上げた。 「俺もひとりなんだ。母さんが死んじゃってから、俺はひとりじゃなかったけど、ひとりだった。新しい家族だって、歳の近い子たちも居るんだけど、みんなとは違うんだって。違うから、ひとりなんだって」 独り言だ。これは、猫か社の神しか知らない、幼子の心の裡。何の意味も気休めも求められてはいないと解っていても、銀時の背を抱える小さな掌の紡ぐ孤独は虚ろに響いた。 「『メカケノコ』って、どう言う意味なんだろう。なんとなく解るけど、解りたくない。母さんまで酷い事を言われている気がするから、解りたくない。でも、俺のきょうだい…、おじさんやおばさんたちは凄く厭な顔をして、俺の事を見てそう言うんだ」 ざわ、と風が吹いて木々を静かに揺らして通る。差し込む陽は木々の天蓋に遮られ、僅かで細くて頼りがない。その真下で、寄る辺のない子供は自分より小さな生き物に縋ってか細く心を紡ぐ。 「為五郎さんと奥さんだけは優しいけど、やっぱり俺の事で他の人たちに色々言われてるみたいなんだ。きっと俺が『メカケノコ』だから悪いんだ。俺のせいで為五郎さんまで虐められたりしたら嫌だな…」 子供は生まれを選べない。故にそれは十四郎に責がある事では決して無いのだが、土方家のきょうだいたちは単純に、形として父親の不義を証明して仕舞った子供を疎む事を選んだ。酷い歪みだとは思う。だが、思ったとてそれを伝えてやる言葉も、手段さえも銀時には与えられていない。 (そりゃ、俺は──『俺』ってのは本来、この時間軸にこの場所に居る事はねェんだしな…) 解っていてもどうしてやる事も出来ない。猫の身であろうと、なかろうと。やりきれないそんな思いを持て余して、幼い両腕の中で銀時は小さく身じろぎをした。その動作で、苦しかったと思ったのか、十四郎は少し腕の力を緩めた。そうして寂しそうに翳った眼差しの侭、猫の頭を優しく撫でた。 目の前の子供に、こんな幼少期を乗り越えて成長し、然し今再びの孤独に理不尽にも放り出された土方の姿が重なって見えた気がして、銀時は胸を刺す様な痛みを不意に憶えた。それを救いたいと思ってここに居る。あの孤独に、記憶など無くとも寄り添ってやりたいと、確かにそう思ったのだ。 にゃあ、と一鳴きした銀時は、頭を撫でる十四郎の小さな掌に頭をすり寄せた。自分はお前の味方だと、せめてそれだけは伝えてやりたいと、きっとそんな事を思ったのだろう。 「……お前はやさしいんだね」 そんな銀時の想いが通じたのか、それとも単に猫の懐く仕草に何かを感じたのか。喉を震わせてそう言うと、気が抜けたのか、十四郎は声を潜めてしゃくりあげた。自分より遙かに小さな猫の体をぎゅっと抱きしめて、涙をこぼして泣く。 今まで、誰にもきっと言えなかった事なのだろう。誰にも言えず、心の裡で澱むばかりの不自由な苦しさは、子供から涙や弱音さえも奪って仕舞っていた。 その背を宥めて撫でてやれる両手を持たない事が、こんなにももどかしくて苦しくて、悔しい。 そして抱きしめられる腕の強さを通して思い知る。十四郎にとってこの黒い猫は、きっと生まれて初めて得た、庇護するものであって、友達でもある、きっとかけがえのない様な存在だったのだ。なればこそ、その命を戯れに奪われた事は幼い心をどれだけ責め苛んだのかは、察するに余りある。それこそ、魔の差すきっかけになってもおかしくない程に。 (……そうか。それが原因だったのなら、) 気付いた銀時は、脳裏にあの松陽もどきの声を思い出しながら、大層苦い面持ちを浮かべて舌を打った。少なくともそのつもりであったが、生憎と猫の身では、ふにゃあ、と気の抜けた様な鳴き声が漏れたのみであった。 (あの野郎は、十四郎が魔が差しちまわない様に、あそこで違える事なく生き延びる様にしろと暗に言ってた。……〜ああクソ、本当に性格の悪ィ野郎だ) 銀時は身じろぐと、「にゃあ」と鳴いた。先程の様に弱い動作ではない、強く、逃れようとする明確な意志を持って藻掻いた。 眼を紅くした十四郎が、どうしたのだろうと猫を見る。「苦しかった?ごめんね」また悲しげな声でそんな風に紡ぐのに、お前が悪い訳じゃないと幾度も思い直しながら、銀時はじっと十四郎の顔を見つめた。 この猫に、猫の身に情を寄せ過ぎて仕舞えば、頼りを得て仕舞えば、またきっと同じ事が──あの結末が繰り返されるのだ。これは過去の可能性の再現。現実に起きた過去の時間の事では無い。だが、それでも、きっとそう言う事なのだ。 家から、現実から眼を背けて、いつかは先に死ぬ生き物に心を寄せて傾倒したって、この子供はきっと救われない。人の世界で勁く生きる事を願うのであれば、今の内に突き放さなければならない。 ここにこの配役で置かれた以上、銀時がしなければならないのはきっとそう言う事だ。同情して引き擦られて生きる事など、少なくとも『現在』生きている土方十四郎と言うあの男ならば、望む訳が無い。 同じ様にじっと猫の姿を、どうしたのだろうと首を傾げて見つめる十四郎の顔へと左の手を伸ばすと、爪を出さぬ様に注意しながら銀時はその頬をぽんと肉球で叩いた。きょとんとする十四郎に向けて、猫の鳴き声しか出ない喉で、己の想いを紡ぐ。 「おめーは独りじゃ無ェんだ。猫になんざかまけて、猫ぐらいにしか本音を言えねェ様になんざならねェで、家族に──為五郎の兄ちゃんに、ちゃんと話せ。おめーのしてぇ事とか思ってる事とか、何でも良いから、訊いて、言ってやれ。じゃねぇと兄ちゃんも解らねェ侭になっちまうだろ」 無言の相対や、白紙の手紙でも気持ちを、心を伝え合える程に、いつかなれる様に。 記憶などないのに、何故かそんな土方と為五郎の兄弟としての姿が脳裏に鮮やかに描けた気がして、銀時は「にゃあ」と鳴いた。猫と人間の間で言葉など通じる筈は無いが、それでも自分の想いや、為五郎の思いがこの子供に伝われば良いと願う。 それから銀時は心の裡でそっと謝ると、己を抱えている子供の小さな手を引っ掻いた。突然の痛みに驚いた十四郎が手を離したその隙に、拘束から逃れた猫の身は軽々と地面に着地した。手がもう届かぬ様に、数歩を離れる。 細く紅い線を作った左手。茫然と、それと猫の姿とを交互に見る、傷ついた様な子供の表情を罪悪感と共に見上げながら、銀時はもう一度だけ鳴くと、後はその侭振り返らずに走った。 十四郎は己を、また孤独になったと感じるだろうか。自分は猫にすら嫌われるのだろうかと己を苛んで仕舞うのだろうか。 (くそ、どう選んでも、想像しても、後悔が無ェ結果になる気がしねぇじゃねぇか、こんなん) 苦々しく思うが、振り返る事も立ち止まる事も出来ない。きっと、そうした所で意味などない。一度でも傷つけ突き放したのだから、それで決して仕舞った筈だ。 勁く、生きる事を願う。自らの孤独を享受し、自らの存在を否定して仕舞う様な強さではなく、人に心で頼る事の出来る強さを。 これで──この痛みを負った分だけ、何かが変われば良いのだが。 あとはそう、ただ信じるのみ、だ。あの男の強さを。憶えている筈も無いのに知っている気のする、真選組の副長殿を。 。 ← : → |