アリアドネの紅い糸 / 30 どすん、と重たい音を立てて尻が地面に落ちる。銀時は座り込んだ地面の上、耳元で鐘でも打ち鳴らされた後の様に酷い反響の残滓漂う無音の中で幾度かかぶりを振った。 地の底から響く様な酷い耳鳴りが一時脳を撹拌して記憶と意識とをあやふやにしていく。痛みは無いが兎に角不快で堪らず、持ち上げた手で目元を覆って視界を完全に塞いだ。薄曇りの星灯りすら、ちかちかとした残光を瞼の下で火花めいて散らし、神経を無粋に掻き鳴らして行く様だ。 あー、とか、うー、とか喉奥から呻く声が漏れる。酷い二日酔いの後の様になかなか意識が実用的な所に働かない事に苛立ちながらも、銀時は時間をかけて全身を巡るあらゆる不快感を押しのけて、ゆっくりと瞼を開いた。 座り込んでいたのは土の地面の上。躑躅の茂みが野放図に拡がる中、ぽかりと取り残された様に空いた空白で一人、茫然と空を仰ぐ。 掌で土の上を辿れば、小さな小さな石積みの跡がある。名も無き墓碑に長らく悼みの後は見受けられなかったが、そこに何かが丁重に葬られたのだろうと言う事は何となく解る。 その侭ぐるりと頭を巡らせて見れば、庭を挟んだ背後にあった筈の、土方家の焼け跡は何の痕跡も無く綺麗に片付けられていた。然しこの丘を誰も使う気になれなかったのか、辺りには木々や草が生い茂り、家の基礎の隙間を野放図に埋めていた。 土方家を火災が襲った事は確かなのだろうが、少なくとも誰もが寄りつく事を避け、放ったらかしにして仕舞う様な惨い事態は回避された、と言う事だろうか。それとも元々こちらの方が正しい未来の在り方なのか。 首を傾げながら銀時はもう一度振り向いて小さな墓を見る。こちらは世界の記憶から見たものと然程に変わりはない。 ここに墓があると言う事は、少なくとも土方の幼い心に暫くの間、あの猫は寄り添う存在で居たと言う事なのだろう。それでも摂理の通りに、小さな生き物が人より先に逝くと言う未来をいつか迎えて、そうしてこの場所に埋葬され悼まれた。 (…て事ァ、まさか…、) ふ、と脳裏に浮かんだ考えを恰も肯定するかの様に、墓の前にいつの間に現れたのやら座っていた黒猫が、にゃあ、と声を出さずに鳴いた。まるで礼の様に。 「……てっきり俺ァ、あの松陽モドキがおめーの姿を使って俺をしつこくこの村に留めて、未来を戻すだのって立ち回りをさせようと目論んだんだと思ってたんだが…、」 軽く頭を掻いた銀時は、肚の底で揺らぐ、くすぐったい様な感情の促す侭に小さく笑った。 「その様子だとどうやら、おめーもあいつの事を憶えていて、取り戻してやってくれって、そう言いたかったんだな」 遠い昔に死んだ猫は、銀時の問いにまた口を上下させて音声の無い声で鳴いた。正解だよとでも言いたげに尻尾をふらりと揺らすと、次の瞬間には空気に融ける様にしてその姿は薄らぎ消えている。 まるで夢や幻でもずっと見せられている様だ。それでも心地は思ったよりも穏やかで、銀時は座った侭だった腰をよいせと起こすと、着物についた土を軽く手で払いながらその場にしゃがみ込んだ。目の前のささやかな墓にそっと手を合わせ、今度こそ安らかな成仏を願ってやる。 (…ひょっとしたら、人間の為とかじゃなくて、動物の為に計らってやったのかも知れねェな。あの松陽モドキは。──まぁ、人智の外の話だ、どうでも良いか) 途中で思い直して苦笑する。あれが夢なのか真実なのか何なのか、結局はどう首を捻った所できっと、知る事も出来なければ理解する事も叶わないものなのだろうと思う。幾星霜に及ぶ世界の意志など、存在を証明出来たとして何の意味ももたらさない。それはきっと人ではない『何か』でしかないのだから。意思の疎通など本来は叶う様なものですら無いに違いない。きっと考えれば考えるだけ、思考に溺れて仕舞う。そう言う質のものなのだ。 すっきりはしないものが残るが、結果が善くなればそれで良い。投げ遣りに妥協を与えるつもりでそう考えを締めくくると、銀時はぽんと己の膝を叩いて立ち上がった。目の前には小さな墓。背後には少なくとも『普通』の火災で焼失した家の跡。 目で見て解る程の変化が世界に確かに起きている。だが、未だ銀時の記憶の中に、明確に彼の存在は居ない。背を向け歩くその姿に追いつき、振り向かせて顔でも見ればきっと思い出せると確信出来る程には近いのに、自ら思いだそうとしてもあやふやに砕けて仕舞う。 「土方…、」 果たしてあの男は、己の存在しない未来こそが正しいと思い込んで仕舞っているのだろうか。その猜疑心こそが、世界が未来を否定して仕舞うに足る最後の一押しになりかねないと言うのに。 銀時は見えざる奈辺へと自然と左の腕を伸ばした。この手が届きさえすれば、壊れた未来を信じようとして仕舞った、土方自身の作り出した迷宮から今すぐにでも引っ張り出してやるのに。 伸ばした手の先、五本目の指から紅い血がほたりと、思い出した様に滴った。 * 真っ直ぐに己を見つめた義兄の顔は──微笑む翁の面の下から現れたその顔は、土方の良く知る義兄のものに相違なかった。視界を奪われた暗闇の世界の中で、それでもいつでも、年の離れた義弟に優しく微笑みかけてくれていた、義兄の姿だった。 義兄の幸いは、鬼の様に暴れて他者を、激しく純粋な瞋恚と応報とに身を任せて傷つけて仕舞った、醜い義弟の姿をその眼では見なかった事なのだろうと、土方はそう思う。 血に汚れた手の後ろに見えた、双つの眼球は今でも土方の事を無言で責め続けている。義兄の無念、家族たちの畏れや疎み、泣き喚く暴漢たちの苦悶。そこにあったあらゆるものを映して土方に突きつけては、お前が悪いのだと責め苛む。 それは土方の本質であって、彼と言う人間を構築する精神性のひとかけを生んだものでもある。 だが、それは時に澱みに溜まった澱が湧き上がる様にして土方の心にまとわりつく。それをして地味な面相をした部下は、きっとそれはトラウマって奴ですよ、と知った様な口調でそんな風に言っていた。 それを思い出すと土方は、己を責める事をも思い出す。溺れそうな苦しさは悲鳴を上げる事すら赦しはしない。赦されはしない。 だから、沖田や近藤の裡から己が消えて、郷里では義兄が生きていた時、これが正しい事だったのではないかと土方は思った。お前が悪いのだと、遙々懐かしい声が蘇って責め苛んだ。 義兄に背を押されて訳も解らず走り出した足が、やがてゆっくりと歩くのを止める。辺りは郷里の筈なのに視た事も無い様な気配を宿して不気味な風景を拡げている。 白く澱んだ霧に満たされた世界の中で、たくさんの深紅の花弁が舞い散っている。花弁は中空で燃え上がり、真っ黒な灰となって雪の様に辺りに降り注ぎ、田畑の狭間を黒く凍り付かせていた。 夢だ、と土方は即座に思った。だが、きっと醒める事はないのだと朧気な理解と共に、力無く天をただ仰ぐ。雲の狭間は夕焼けよりも朱く燃える色をして、力無く立ち尽くす憐れで小さな人間を嘲るばかりでいる。 いつの間にか足には真っ赤な血に汚れた茨が絡みついていて、土方の足は最早一歩も前には進めない。捕らえた獲物を喰らって糧としてか、茨のそこかしこに紅い薔薇が咲き誇っていた。 不意に風が吹き、土方は立ち尽くす己の頬ばかりが熱い事に気付かされる。滂沱と涙が眼から溢れて、その無力さを際だたせながら突きつけて来ているのだ。 いつしか紅い薔薇たちは炎へと変わり、土方の目の前では大きな家が燃えさかっている。それは見覚えのある、あの大火の日の光景だ。 子供が一人遊びから帰って来て、その様子に慌てて、腕に抱きかかえていた猫をそっと降ろす。危ないから逃げておいで、と言って、子供は玄関から燃える家を見た。それからすぐに義兄の身が心配になって家に上がろうとし、背後からその義兄張本人に止められる。 そうだ、あの日遅くなる筈だった義兄はいつもより早く帰って来た。子供は義兄に抱きかかえられながら庭にある水場へと向かい、そこで家財を救おうとしている家人に出会った。 そして、財より命だ、と義兄がそれらを一喝し、全員揃って家を離れようとしたその時だった。火事に乗じた盗人たちが現れたのだ。 ──それから先は記憶を幾度も辿った光景だ。今正に『そう』なろうとしている光景に、その場を動く事の出来ない土方はかぶりを振る。俺が居なければ、義兄が俺を連れて逃げようとしていなければ。そう幾度も幾度も幾度も夢想した光景は、違えず今回も『また』土方の心を切れ味鋭い刃で貫いた。 「──」 跳ねる血飛沫。頬を打つ火の粉。血を滴らせた刃の感触。小さな体一杯に溢れた激しい怒り。転がり落ちた小さな目玉。 悪夢としか言い様のない光景に、土方は吼えた。やめてくれ、と。或いはもっと強い拒絶の意思を。 俯いて見遣れば、茨の絡みつく足が黒く腐食して行くのが見えた。その代わりの様に紅い花は美しく咲き誇ってはその花弁を炎に溶かして、歓喜に咽ぶ様にして消えて行く。 己を否定すると言う甘美に土方は背筋を静かに震わせた。どうせこの先の途にも誰も居ないのだ。漸く得た居所さえ奪われ、己にはもう何も無い。それでも義兄は背を押してくれたが、往く途が失われて仕舞ったら、歩く事なんて出来やしない。 最早失望するのにも飽いたのだ。だから、もう。 (帰り、てぇ) こぼれた泣き言めいた呟きに思わず目を瞠る。帰ると言う事は、この未来の先を生きると言う事だ。この光景を肯定すると言う事だ。義兄の視力と引き替えに救われた己の生を、選ぶと言う事だ。 「それがどんなに辛くたって、在った事なんだろ?」 誰かの声が耳朶を打つのに、土方は顔を起こした。腐って今にも砕け散りそうな足を叱咤し、立ち上がる。 在った事だ。だから、今の己が此処に確かに、在るのだ。 どんなに己を否定しようが、どんなに悪夢めいた記憶を呪おうが、過ぎた過去はどうしたって変えられない。幾ら己と言う誤った存在の無い未来を夢想したとして、今此処に在る己を──土方十四郎として生きて来たこの自分を、消し去って仕舞う事など出来やしない。 だから、いきなさいと義兄は言ったのだ。生きて、そして行くのだと。 「義兄ちゃんだけじゃねェよ。猫だって、きっと、俺だって、そう願うさ」 酷く近くで囁かれているのに、遠く希薄なつぶやきを耳の奥に捉えて、土方は頷いた。 帰りたい。失われた途の先をまた、歩きたい。この生の否定を肯定する様な絶望はもう沢山だ。 その時腕をぐいと引かれた様な気がして、釣られて前へと進む。足に絡みついていた茨は土方の動きと同時に、ざっと波が引く様に消えて、その代わりに腕にまとわりつくものがある。紅い、糸。 視線で手繰ったその先を見るのと同時に、視界が不意に晴れた。腕を、引かれる。 伸ばした手に何かが触れた様な気がして、銀時は咄嗟に五指をそこに向けて伸ばした。滴る血が糸の様に螺旋を描いて進む、その先を視界で手繰っていけば、まるでアルバムでも捲る様に記憶の断片がひとつずつ色を取り戻して脳裏へと刻まれて行く。 「土方──!」 胸の底から沸き起こる感情の侭に銀時は叫んだ。腐れ縁と言う強固な糸で結びついて仕舞った、焦がれるにも久しき人の名を。 伸ばした手が何かに引かれ、呼ばれた名ががつんと頬を叩く。土方は瞬きを繰り返しながら、眼前で手を取り向き合う男の姿を茫然と見た。 「……万事屋?」 「土方」 銀時の声の紡いだその響きは、土方の記憶に在るそれと寸分違う事も無く、懐かしさを伴ってその場に落ちた。繋がれた掌がぐっと固く握りしめられる。 「思い出した。こんなん絶対に忘れる筈ねェって思ってたのに」 息を吐いて笑う銀時の、少しばかり気後れの見て取れる笑みを前に、土方は自らの腰が砕けそうに安堵を憶える己に気付いてかぶりを振った。情けないが、泣いて仕舞いそうな気がしたのだ。 その侭誤魔化す様に辺りを見回せば、そこは嘗て土方家のあった小高い丘の上だった。時間の感覚は途中からすっかり途切れて仕舞っていたが、どうやら夜明けの近い、菫色の空が天頂の星を徐々に光に呑み込ませて行く暁暗の頃だ。薄暗い空の下ではっきりとしない視界なのを良いことに、土方は無理をして少しだけ、安堵の侭に唇を震わせて笑った。 「…思い出すのが遅ェよ、馬鹿が」 思わずついて出た悪態に、銀時は慣れの余裕を見せて、怒りもせずも肩を竦めてみせる。 「そう言うなって。俺も凄ェ苦労したんだよ。…アレ?したよな?何をどう苦労したのかは良く憶えちゃいねェけど、とにかく凄〜く頑張りました」 言っていて自分でも良く解らないのか、途中で首を傾げながらそんな事をぼやく銀時。全く意味が解らないので取り敢えず取り合わない事にして、土方は徐々に明けようとしている空をそっと見上げてみる。 銀時が思い出したと言う事は、きっと沖田や近藤もそうなのだろうと、自然とそう確信していた。その事は勿論純粋に喜ばしい。真選組は土方の唯一の居場所であり、生きる理由と目的を向けるべきものだ。 ただ、これは変わらない。自分の記憶。責められるべき罪。 「それは多分、罪悪感って奴だろ。おめーは責任感が無駄に強ェから、その裏返しでよりそう感じちまうんだよ」 「……心でも読んでんのかてめぇは」 沈んだ思考に横槍を入れる様にそう言われ、土方は大袈裟に溜息をついてみせた。己を責め苛む感情が罪悪感と呼ばれるものである事など知っている。だからこそそれを乗り越えて強くなりたいと己は願い続けて来たのだから。 「心なんて読まなくてもおめーがそう考えてる事ぐらいお見通しなんだよ。どんだけ長くお付き合いしてると思ってんだコラ」 口を尖らせ言う銀時の、未だ繋がれた侭の手指がそっと指の間に絡むのを感じて、土方は胸に差し込んだ寂しさにも似た感情の侭に指を動かしそれに応えた。 「……そうだな。確かに長い、縁だ」 その縁の紡いだ糸があの時腕を引いてくれたのだろうと、土方はごく当たり前の事の様にそう思った。思ってから、何だか酷く恥ずかしい事を考えて仕舞った気がして、苦虫を口中で噛み潰す。だからこそ、それが千切れた事を知った時の絶望がお前に解るだろうか、と続けようとした言葉ごと、呑み込む。 「忘れててもおめーに結局惚れちまう程には、切っても切れねェ縁だったろうが」 果たして今度もまた考えを読まれたのだろうか。思ったが曖昧に鼻を鳴らしてみせる事で土方は解答を避けた。 そんな土方に、銀時は珍しくも優しく笑いかけると、まるで子供を安心させる大人の様な調子で囁く様に言う。 「な。味気ない手紙ばっかじゃなくて、偶には手前ェから会いに行ってやれよ」 こつりと、いつの間にか近づいた額同士を押し当てて言う銀時に、土方はただ静かに頷いた。 「そうする」と。 。 ← : → |