雨降りの庭 / 2



 項の毛がざわりとし、全身が総毛立つ様な感覚。視界に映ったものへの理解と同時に、まるで灼き切れる様に意識が飛んだ。
 だがそれでも体は自然に動く。突き動かす様な衝動の中、体は自然に動く。
 燃える様な熱を孕んだ頭が、酷く冷静に見ていた。恰もそれは客観的に己を俯瞰している様な視点。
 浪士達の手には抜き身の刃物も幾つか確認出来たが、何一つ構う事なしに銀時は一瞬で広場へ飛び込んでいた。土方に馬乗りになって刀を振り上げていた男の頭を掴むと、殴る様に思い切り地面に叩き付ける。
 続け様、浪士らの間に動揺が拡がるより早く、抜きはなった木刀で、土方の腕を踏みつけ地面に縫い止めていた足を思い切り払った。
 手が自由になった事を知るが早いか、土方は自ら地面を転がって一旦距離を取ると、取り落とされた、寸前まで自らの喉を貫かんとしていた刀を掴み取り一息に立ち上がった。起こした顔は血と闘気を纏った、まるで獣の様に獰猛な形相。
 そうする内に木刀に打たれた二人が斃れ伏し、漸く事態を理解し逃げようとする最後の一人を土方の刀が無言で斬り伏せた。
 それを確認するが早いか、銀時は強張った己の手から木刀を取り落とした。安堵に似たものに大きく息をついて項垂れる。
 寸時頭を満たしていたのは、力加減が解らなくなる程の熱量だったが、土方が立ち上がって平然といつも通りの立ち回りをした事で我に返る事が出来た。
 ……もしもそうでなかったら、今頃どうしていたか解らない。
 怒りと言うよりは、冒涜に対する憤慨だったのだと思うが、『カッとなってやらかす』様な年齢だっけ俺、と思わず呻いて、ひとときの激情を誤魔化した。
 そんな思考が出来る程度には冷却された頭で周囲を見回せば、辺りには既に四人の亡骸が転がっているのに気付く。何れにも刀に因るものと思しき傷が刻まれ、手遅れなのが見て解るだけの血溜まりに伏してぴくりともしない。何れも鮮やかな迄に殆どが一撃の致命傷だ。
 ライターを点ける音に振り返ると、返り血でだろうか、上着のない隊服の半身を赤く染めた土方が壁に寄り掛かる様にして立っていた。殴られでもしたのか、血の滲んだ口元を煙草をくわえた侭歪めて舌打ちをする。
 血の臭いと、紫煙の臭い。裏寂れた路地裏に残されたものはそれらの他見当たりもしない。
 「ナニコレ、まさか乱交パーティじゃないよな?おまわりさんが不純な遊びはするもんじゃないよ??」
 「………何処をどう見たらそう言う結論に達するんだ、脳ミソまで天パになったか阿呆。……待ち伏せ食らっただけだ」
 銀時の巫山戯た問いに僅かに土方は苦みの強い笑みを口端に乗せた。瞳孔が開きっぱなしの侭でいる目は余り笑っていなかったが、安っぽい冗談である事は理解出来ていたらしい。
 一度、詰まった様な長い吐息に乗せて煙を吐き出す。こちらもまるで、安堵の様に。まるで寒い所から温かい場所へ連れ出された子供の様に。
 「天パと頭のデキに因果関係ねーから!つーか何、モテモテですか。モテモテ自慢ですか?モテモテの子が夜道歩くなよ物騒だろ。……ま、お前も大概怨み買いすぎなんだと思うけどよ」
 しかも結構ヤバい状況だった様に見えた。とは銀時は敢えて口にはしなかったが、その『ヤバい状況』に居たのは当然理解しているのだろう、揶揄に反論する風でもなく力の無い動作で土方は天を仰ぐ様に顎を持ち上げた。こつん、とその後頭部が壁にぶつかる。
 「質の悪ィモテ方はしたくねーもんだが、仕事柄仕方ねェ、としか返せそうに無ぇ」
 そこで土方は思い出した様に辺りを見回すと、投げ捨てられていた隊服の上着を拾い上げた。元通り手近な壁に寄り掛かり、携帯電話をポケットから探り出すと発信し、
 「俺だ。攘夷浪士共の待ち伏せに遭った。──あァ、大事はねぇが、死に損ないと死体が何人か居るから片付けと回収頼む。多分件のホシにも関わりがある連中だ。死なさず絶対に吐かせろ。場所は」
 ホシ、と言う辺り、何かの事件の容疑者か何かに関係でもある対象なのだろうが、言葉とは裏腹に不釣り合いな程の淡々とした口調で電話向こうの隊士にだろう、状況を伝えながら土方は銀時の方をちらりと見て寄越した。流れからして住所だろうと察し、銀時が口パクで概ねの現在位置を伝えれば、ひとつ頷きが返る。
 場所を伝え、それから幾つかの遣り取りをして電話を切ると、戻った沈黙と共に、血の滲む唇にくわえられていた煙草が力なくぽろりと落ちた。長い、長い吐息が土方の、喘ぐ様な呼吸に乗ってゆっくりと吐き出される。
 「……正直、助かった」
 呼吸の果てにぽつりとこぼされた重たげな声音に、銀時は溜息をつきつつ土方の前に立つ。少し前までだったらこの一言ですらもう暫くは引き出せなかっただろう。
 「あ?住所教えたくらいで大袈裟な」
 態と逸らしてそう返せば、血の気の無い癖に血の色に彩られた横顔が苦そうな、何かを堪える様な笑みを形作る。
 見たところ、八人がかりで仕事帰りの土方を襲撃した、と言った所か。流石の鬼の副長と言えども、路地裏の狭さや多勢に無勢と言う状況にはどうしようもなかったのかも知れない。
 「〜……ああ、クソ」
 厭な想像と状況とに、銀時は思わず銀髪を掻きむしって呻く。不思議そうな顔を向けて来ている土方に手を伸ばすと、神経質に僅かに跳ねる肩は無視し、乱れた侭でいた襟元を正してやる。
 それから先程まで踏みつけられていた左手を掴んだ。痛みに顔を顰めるのは見ないで、壁に押しつける様にして立つ。砂利に汚された掌に、四つの紅い弓の様な疵痕が僅かに覗く。
 ぐ、と一瞬土方の腕の筋肉が張り詰めた。力を込めたのが解るが、銀時も存外強い力で応じていた為にか、拮抗は揺らがない。
 「…離せ。痛ェだろ」
 眉間に皺を寄せる顔の、血で汚れた頬に手を這わせると、銀時は無言で土方の唇に口接けた。
 「ゃ、め、」
 やめろ、と。恐らくはそう言いかかった言葉が途切れる。瞠目する眼と小さく跳ねる背に、抵抗されるのかと思ったが、土方は顔を顰めたのみで、やがて時間をかけて強張った風の背を撓ませた。眉間にまだ皺を少し作った侭、目蓋を重たく閉ざして、角度を変えた唇と舌とを大人しくも受け入れる。
 口内が切れている所為か、探った舌先には錆の味。交わし合った吐息はアルコールの残滓と腥い血臭。傷に触れれば痛そうに顰められる表情。暫しの間そんなものたちを堪能し、名残惜しみながらも濡れた音と共にそっと顔を放す。
 その侭未だ至近距離でじっと土方の事を見つめれば、「…痛ェってんだろ」と些か乱暴に左手を解かれた。
 その掌にくっきり残った、血の滲む擦過痕と、傷口にまるで塗した様な砂利。草履で踏みにじられた痕なのは言う迄もないそれが、それ以上に酷く痛々しいものに銀時の目には映る。
 「……お前さぁ…、」
 「んで、テメーは…、何でこんな所ブラついてやがったんだ」
 もう一度掴もうと思った左手を「触んな」と拒絶する様に払い、銀時の声を遮る様にそう言う土方の呼吸は少し速い。色の薄くなった頬には血と冷たい汗とが筋を作っていた。よく見ればこめかみの辺りにも、何かで擦られた様な疵がある。
 「いや…別に?飲み帰りの通りすがり。近道なんだよ、ここ」
 普段は通らない路地裏だが、上手い事抜ければ自宅の近くに出ると言う事だけは知っている。
 俯き加減になった顔を覗き込む様にして銀時がそう答えると、土方はほんの少しだけ唇の端に力を込めた。まるで意識的に笑うのを堪えた様に。
 「そうか……なら良い」
 「…………おい、」
 まるで泣き出す寸前の表情だ、と言う気がして、銀時は思わず手を近付けようとするが、開いた掌を向ける土方に軽く制止されて止まる。
 「無駄足で死んでちゃ、世話無ェからな…、その点はまだこっちのが、マシだ…と、か、」
 ぼそぼそと独り言の様に、明瞭では既にない声音を漏らした土方の背が寄り掛かる壁を滑った。その膝が力を失って崩れるのを見るが早いか銀時は咄嗟に土方の脇に腕を差し込んで支えようと手を伸ばした。
 「おい、ひじ、」
 「離」
 触れた手に向けて、顰められた顔の中で眼球が不自然に震えたかと思うと、目蓋がふっと閉ざされた。その侭力を失って崩れる身体を支えた侭、銀時も思わずその場に座り込んだ。己の身体に凭れる様に倒れ込んで来ている土方の様子に眉を寄せ、そこで漸く、彼の半身を染めていた血が返り血によるものばかりではないのではないかと言う考えが過ぎった。
 否、土方が地面に転がされていた時点で既に考え自体はあったのだが、その後平然と立っていた事と、こんな死体だらけの場所でその想像は余りに現実味が濃すぎる事とで、ついぞ反射的に遠ざけていたのだ。
 路地裏に、喉を裂かれて打ち棄てられた黒髪の男の亡骸が転がっている、そんな幻想を銀時は勢いよく振り払った。
 「土方、おい」
 黒と白の制服は紅く黒く斑に汚れており、どれが本人の血なのかすら判然としない。どこが傷だよ、と、身体を少し引き剥がしてみると、だらりと脱力した四肢がされるが侭に揺らされた。完全に意識がない様だ。背が傾いで倒れるのを慌てて受け止める。
 覗き込んだ顔は少しの苦痛を残して白く、頬をべったりと汚す血だけが厭に鮮やかで。普段あれ程に多い血の気は、色を失っている皮膚の下の何処にも見つける事が出来ない。
 「ひじかた、」
 傷を探さなければ、手当をしなければ、路地裏から取り敢えず連れ出した方が発見され易い、などと頭の中では次から次に行動が浮かぶと言うのに、銀時の意識は思考のその速度に追いつけずにいる。
 死の実感と言うものは銀時にとって酷く近しい。天人の、時には彼らに与した幕府の人間の、そして同胞たちの。銀時の見て来た屍の数は太平の世で見た幸福の数より遙かに多い。
 死の匂いと、死の気配、死に行く者らの慟哭或いは怨嗟、未練。それとも救い。それらの実感たちと、腕の中の重みは同等ではない。今は未だ。今すぐにも手からこぼれて消えて行く、人間から魂の重みが失せてただの物体に成り果てる、その瞬間には未だ遠い筈だと、憶え深い感覚達が囁きを寄越す。未だ間に合うと。助けられるのだと。
 だと言うのに、銀時の胸の裡で不吉なざわめきは止まない。
 人間は誰しもいつか必ず死ぬのだし、運命の巡り合わせによっては酷く残酷に、突然に命が奪われる事もある。そうでなくとも腕の中にいる男はそう言った理不尽とも呼べる突然の死に近いのだし、覚悟だって疾うの昔にしている筈だ。
 理解はある。理屈では解っている。なのに、銀時の心はその可能性を手繰り寄せては忌避し恐れる。未だ充分に救える筈の土方の命が、然し何かの間違いで直ぐにでも消えるのではないかと思考し、同時にそれを拒絶する。
 「おい、土方──、」
 こわごわと呼びかけ、冷えた身体を引き寄せて、脈がある事に安堵しかかり、然し次の瞬間にはそれが途絶える想像に背筋を震わせた。
 錯乱しかかった無意味な行動だと、客観的に見たらそう己で判じれたかもしれない。
 だが、今はただ、もしもこれがこの侭消えたらどうなるのか、と言う考えばかりが頭の中を、全身を支配していた。
 (死んじまうんじゃなくて、消えちまう、ような、)
 不思議に遠い死の実感。だのに、今すぐにでもそれは何事もなかったかの様に失せて仕舞うのだと言う、今までに考えもしなかった矛盾する可能性に、銀時はその時初めて気付かされた。
 (いっそ、垣根で囲って仕舞えれば)
 先頃そう考えて打ち消した、その想像に脳髄を強く殴られた気がした。
 動かなければならない、と思うのに動けない。
 見遣った足下には先程土方の拾った、賊の刃。血に濡れたそれが「断つなら今だ」と囁きかけてくる。
 首でも。腱でも。或いはこの曖昧な関係でも。
 そうすれば、花の咲く事もない庭に溜息をつく事も、しとどに降る雨に土が濡らされる心配も、必要無くなる。
 (──冗談じゃ、無ぇ)
 路地裏の暗がりから溢れ出した仄暗い想像に、情けない程に顔を歪ませ、銀時は土方の背を必死で抱き寄せた。
 仕事中の所を捕まえて。怒り顔で振り払われて。素っ気ない態度を取った後でちゃんと「やり直し」の様に穏やかな顔を見せるのを嬉しく思いながら迎え入れて。何日も会えなかった挙げ句、目の前で他の野郎にかっ浚われた笑みが悔しくて。
 情けない程に明確に理解したのは、囲って仕舞ってでも、この男が欲しかったのだと云う、本音。
 (冗談じゃ、)
 無論、やりはしない。命を断てばもう触れる事は出来ないし、腱を断てばもう心など向けてはくれなくなる。
 ぞくりと背筋が震えた。それは最も嫌悪すべき帰結だと理解している筈なのに、このどうしようもない苛立ちの果てには、紙一重でそんな願望が僅か一瞬の間だけ湧いた。何処からともなく。足音もなく。
 路地裏に転がる死体のひとつに加わって仕舞っていたら。間に合わずにその亡骸を目撃して仕舞っていたら?
 それも帰結。可能性の中に落ちた、唾棄すべき、拒絶するべき結果。
 「……土方、起きろよ。こんなんされると、俺さ、」
 ──悪い冗談だ。こんなのはただの幻想だ。悪酔いの見せた悪夢だ。
 目を見開いた銀時は、狭隘な壁の隙間から夜空を必死で見上げた。雲に今にも隠れそうな月に向かって、まだ消えるなと強く睨み据え、脱力しきって動かない土方の身体を抱えて立ち上がる。
 土方は応援を呼んでいたが、まだパトカーのサイレンは聞こえて来そうにない。病院か、真選組屯所かと暫時迷い、銀時は咄嗟に後者を選んだ。道中でパトカーに遭遇したらそれで病院まで行って貰う方が恐らく早いだろうと言う判断だ。
 縺れそうな足で重い体を必死で支え、死の臭いの充満した路地裏から這い出す様に飛び出すと、暗い深夜の街路を脇目も振らずに走る。
 血臭と死臭とに充満したこの中から、この惑って堕ちそうな心の中から、早く、早く逃げなければいけない。
 この腕の中から、早く逃がしてやらなければいけない。
 でなければ、きっと──







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