根腐れ招く曇天 / 5



 医務室に弱々しい姿で臥していた土方に酷い言葉を投げつけ、立ち去ってから一週間。あの日の雨以来、空は銀時の胸中を反映したかの様な曇り続きで、晴れもしなければ荒れる様子もなかった。
 ニュース番組の天気予報コーナーでは結野アナも、梅雨なのに雨が少なくじめじめとした曇り続きですと連日繰り返しており、江戸中がうっそりとしたすっきりしない曇天に包まれていた。
 雨が続くならてるてる坊主でも吊す。晴れが続くなら雨乞いでもする。だが曇り空続きに対しては何もする事がない。
 広場で遊ぶ子供らが「あーしたてんきにな〜ぁれ」と下駄を飛ばし合っているのを横目に見ながら、銀時は生憎の夕食当番且つ生憎の冷蔵庫の枯渇状態にうんざりとした心地を引き摺って、スーパーへの買い出しへ向かっていた。
 確か三連になったプリンが安売りと広告にあった事を薄らぼんやり記憶していたのもあり、いつものスーパーより少し遠出をしている。とは言え延々と続く曇り空の下では、普段余り見ない風景も軽い散歩気分も何の気晴らしにもなりそうもなかった。
 一度心地が平坦に下がりきって仕舞えば、最早気分転換の為に歩いているのかプリンの為に歩いているのかも定かではなくなってくる。そもそもそのぐらいしか楽しみが無いと言うのも我が事ながらどうかとは思うのだが。
 それもこれも全て、外に出た所で、天井板が曇り空に変わっただけと言う印象を与えるこんな天候なのが悪いのだと責任転嫁をしつつ、だらだらと足を動かし続けていく。
 俄に湧いた声達にぼんやりと視線を傾けてみれば、蹴り上げられ転がった下駄は側溝にはまって横向きに器用に立っていた。どうやらこんな滅多にない確率の奇跡までもが曇り空を礼讃しているらしい。
 それを、分厚い雲より重たい想念を抱えた侭の己に対するカミサマの嫌味であるとは流石に思わない。土方の当てつけめいた呪いであるとも無論思わない。天気は天気で、単に季節柄はっきりとしない雲行きが続いているだけの事だ。
 降るなら降るでいっそ、何もかも無かった事に出来る様な強烈な濁流が望ましい。雨天と言う名の天候にそんな過剰な期待を抱いている訳ではないのだが、何処にも零れず溢れもしない陰鬱なばかりの感情の渦は、ただ黙して抱えているのには酷く持て余すものだと痛感はさせられていた。それこそ、雨に流されでもすれば良いのに、などと思って仕舞うぐらいには。
 「横の場合は無しだろー?ノーカンだろー??」
 「違ぇーよ、横は曇りだって!」
 「でもコレ横向きに立ってるって言うより、落ちてるだけじゃね?」
 「じゃあもっかいやればいいじゃん」
 立った下駄の処遇について、頭を突き合わせてああだこうだ言っていた子供らが再び散って行く。占いなど何度も繰り返すものではないのだが、『明日もまた曇りかもしれない』可能性を払い除けたい思いがそれだけ強いのかも知れない。
 「いっくよー。あーしたてんきにー…」
 なーれぇ!と一際気合いのこもった声と共に、再び下駄が宙を舞って行く。
 銀時はそんな光景にふいと背を向け、適当な路地裏に曲がり込んだ。どっと背後から聞こえて来る歓声は、果たして晴れを喜ぶものか、雨に対するブーイングか、それとも──今度こそ綺麗に横向きに立って、飽く迄曖昧な天候を主張する下駄に向けての失望か。結果に興味など無かったし、聞きたくも無い。
 厚い雲の下の隘路は昼間だと言うのに薄ら暗く、ただでさえ日当たりが悪いだろう所に持って来て、湿気の多い気候続きの所為か、据えた様な臭いがした。
 何の気もなく見上げた空の狭間では、到底乾きそうもない洗濯物が窓辺に無気力に揺らされていた。生乾きの布の臭いは万事屋でも昨今結構な死活問題にある事もあってか、同情的な思いがちらりと過ぎる。洗濯物に対してか、寝室の臭いに対してか。それとも室内干しに苦労させられる新八に対してか。
 (……あー。駄目だなこれ)
 思考さえもどちらつかず。散漫で、酷くどうでも良いものの様に感じる。悪い傾向だとは思っていたが、どうにも原因が取り戻しの効く類ではない事が原因なのか、呻いて渋面を遠慮無く灰色の雲に投げかけた所で明るい方策や何かが見えてくる訳でもない。
 そんな泳いだ思考で居たからなのか。漸く街路の賑わいや拓けた空間の明るさが前方、手の届く様な距離に近付いた時。背後、銀時の歩いて来た方角とは別の方から、一般人のそれとは明かに違う調子の足音が聞こえて来たのにも、大した気も向けずにいた。
 「っ、」
 ほんの少し、息を呑む様な声。狭い空間では妙に響く息遣いや靴音。
 (…マジでか)
 偶然か必然か、或いは単なる悪運か。思わず、苦い面持ちで呻く。かつん、と不自然に停止した靴音が、暫しの逡巡の後、ゆっくりと近付いて来るのに、銀時は「(平常心)」と己に何度か呟き、極力感情的な表情を排した、いつも通りの風情で振り返った。
 あれ以来何だか無意識に黒い隊服姿の人間を誰彼構わず避けて仕舞っていたのだが、一本の細い路地裏を抜けて来ようとして来た男との至近距離エンカウントを回避する事は流石に出来なかった。本来最も関わりたくはない相手だったのだが、ばったりと真っ向から出くわして仕舞った以上、互いに無視をするのも何となく憚られる。
 「久し振りじゃねーの副長サン。オツトメご苦労さん」
 揶揄混じりの言葉で、もう怪我の具合は平気なのかと尋ねれば、足を止め路地の塀に軽く肩を預けた土方は、酷く掠れた声で「まだ件の残党は片付いてねェんだ。暢気に寝てなんざいられねェ」と淡々と応えを寄越して来る。
 この分だと一週間前に山崎の気遣いで与えられた『重症の療養の為の休み』など殆ど効果を成していなかったのではないかと伺える。身に無理があろうと無かろうと、動けると本人が判断して仕舞えば、本当に重症であっても構いもしないのが土方と言う男だ。
 塀に少しだけ預けた体重。ポケットに無造作に突っ込んだ手。歯でフィルターを噛み潰した煙草。──合わない視線。
 口を開けば、いつもは心地よく響くその声が今はガシガシに掠れて仕舞っていると知れるが、その外見には傍目何の異常も無い。それでも、僅かに常のバランスを保てていない足下と、少しの血色の悪さは、平時の様子では到底無い。
 動かないが何も口にはしない土方の姿は、見慣れた黒い隊服だ。どこか草臥れて見える土方当人とは異なり、卸し立てで糊の効いたそれは制服と言う役割の所為か、見ているだけで身の引き締まる様な思いを感じさせる。その綺麗さからもどうやら捕り物などで駆け回ったりしていた訳ではない様だ。
 恐らく。……確信はある。銀時と遭遇する寸前まではきっと、土方はその纏う隊服同様に背筋を張り歩調一つ乱さず誇りすら持って、いつもの様な辺りを威嚇している風にも見えるあの厳しい表情で歩いていた筈だ。こんな風に塀に、疲れた様に身を預けて休む様な真似はしていなかった筈だ。
 それが銀時の前だから出て仕舞っている油断の様なものなのか、無意識のものなのかは解らないが、どちらであったとしてもそれは平時の土方であれば到底見せなどしない隙だ。
 無用な邪推だとは解っていつつも、凛と纏った隊服の下で土方の身がどうなっているのかの想像を巡らせずにいられない。手繰った思考の糸を掴んだ途端に臓腑の爛れそうな妬心を憶えても、それでも銀時は愚かしい想像を打ち消す事が出来ない。
 なぁ、一体お前は誰に、真っ直ぐ立ってんのも辛い程酷く抱かれたの。
 真選組の為だけに生きて来た様なお前が何で、俺なんかの為にそんな目に遭ってるの。
 俺の『何』がお前の弱味にされたのかは解らないが、そこで俺の存在なんて切り捨てられていた筈だ。以前までの土方十四郎と言う男の気性であれば。
 問いは棘より深く突き刺さって、喉でじっと止まっている。
 痛いからと抜いて仕舞えばもう何の感傷も憶えなくなるだろうけど、そんなのは御免だった。
 痛いからと吐き出して仕舞えば疵の大きさになど気付かない内に世界ごと壊れて行くだけだ。
 何かの選択で、『俺』を取ったから今の土方の有り様があって、それを薄ら暗い感情の何処かでは優越にも似た蜜として味わっている自分が間違いなく居る事を、銀時は既に認めている。
 それは仕方のない事だとは思う。今まで散々、『真選組が』──或いは類義語『近藤さんが』──と言う理由がまるで伝家の宝刀の様に扱われていたのだから。そこからほんの少しだけはみ出した土方の感情が、『坂田銀時が』と言う方角に向けられているのだとすれば、それを瞬間的にでも喜ばずにはいられない。
 だが、その優越感が、土方の身体や心に何らか瑕疵を刻んでまで得たいものか、となれば話は別の筈だ。
 別の、筈。だが。
 (理解と現実は生憎別物でした…てか。我ながら考え過ぎっとタチ悪ィ方角になってんのはいけねーわ)
 碌に吸われない侭、土方の唇の先で灰になって行く煙草に何となく視線を遣っていると、やがて限界まで短くなったそれを、のろのろと持ち上げられた指が掴んだ。その侭足下に落とされ、完全に灰になる前に黒い靴がそれを踏み消す。
 いつもの土方であれば、喫煙者に煩い世の中になった、と愚痴りながらも律儀に持ち歩いている携帯灰皿に捨てていた筈の吸い殻を見下ろした銀時は、会話の糸口になれば何でも良いかとそこに飛びつく事にする。
 正直余り会話など落ち着いて出来そうな気分や空気ではないのだが、ここに来てほんの僅かの弱味を見せてくれた様に思える土方を、この侭手放す気にはなれないと思う気持ちの方が強かった。
 「お巡りさんがポイ捨てかよ。路上喫煙防止条例って知ってる?」
 灰皿持ってないならせめて喫煙所行けよ、と、揶揄めいた銀時の言い種に、土方は酷く重そうな視線を頭ごとほんの僅かだけ持ち上げた。鬱陶しい、とか口喧しい、と言った感情しか書かれていなさそうな表情だと思うより早く、光源の所為だけではないだろう、酷い顔色に気付かされる。
 一週間前のあの日まで、連日働き詰めだと言う様な事は確かに言っていた。だが、今になってもそれを肯定する様な隈の濃い目元はどう言う事なのか。山崎の嘘の診断で休んでいた筈ではなかったのだろうか。たった一日や二日で出来たとは思えない疲労の色と、いつもより1.5倍増しの鋭さを見せる瞳孔の開いた眼。少しシャープになった気さえする頬のライン。何かに憑かれた様な、と言っても真に受けて仕舞いそうな程に生彩を欠いた姿。
 そして、今まで銀時が知る限りでは、激務に追われる程に食事や睡眠に割く時間を減らす土方は、その逆に喫煙量を増やしていっていた。ストレスの発散や眠気醒まし(の役に立つのかは甚だ疑問だが、本人がそう主張する以上はそうなのだろう)に、一日何箱も平気で空ける。部屋の灰皿どころか机の上まで灰の山になる程に。マヨネーズより身体に悪いぞ、と何度も揶揄したのだから間違い無い。
 だが、先頃落とし踏み消した煙草から、銀時の指摘を受けてか視線を露骨に逸らしている土方が新たな煙草を取り出す気配はない。その事に密かに眉を寄せる。
 手持ちがもしも無いのだとしたら、通りの向かいには煙草の自販機があるし、少し行けば煙草を取り扱っているコンビニだってあるのだから、不機嫌そうな顔を引き連れてとっととヤニの補給をしている筈だ。少なくとも、銀時の知る土方ならばそうしている。そうしていてもおかしくない。
 それに、よくよく伺えば隊服の上着の内ポケットに煙草の箱らしき膨らみがあるのも伺える。何故新しい一本を吸わないのだろうか。
 実際土方はポケットに両手を突っ込んではいるが、角塀に軽く寄り掛かった姿勢で、ちらちらと辺りを窺っている様に落ち着きが無い。煙草を吸いたいのは最早銀時の目から見なくても明らかだった。
 つまり。煙草が尽きても決して出さない両手は、明かな『異常』だった。
 (路上喫煙防止条例がどうとか言ったから……、の訳ねーな)
 そんな事を気にする様な男ではない。寧ろ、そんな条例に因って煙草を制限される様な事に本格的になったとしたら、仕事が増える様な事になろうが単純に面倒な事になろうが構わず、宇宙へ飛び出してでも煙草を吸う一時を選ぶだろう。
 害煙を生産するだけの草も、土方にとっては飲食や睡眠と同じぐらいに必要不可欠な嗜好品と言う事だ。銀時にとっての糖分摂取に似ているかもしれない。両方共過剰摂取は命の危険さえも招きます。的な危機感も。
 「……吸えば?」
 土方の視線がそわそわと落ち着き無いのは、ニコチンの摂取をしたいからに他ならない。まさか今更、条例だかに気を遣っているとも思えない。奇妙な違和感と厭な想像に、銀時は自分でも剣呑だなと思える声音を喉から搾り出していた。
 「…あ?」
 何を言われたか解らなかった訳ではないだろう。土方は疑問符と言うよりは躊躇いの様な表情を暫し彷徨わせた後、「いや」と小さくかぶりを振った。
 「ああそう。じゃ落ち着かねーからそのソワソワすんの止めてくんねぇ?」
 躊躇った空隙に銀時は何故か酷い苛立ちを憶え、思わず口を衝いて出た言葉は揶揄と言うより喧嘩腰のそれだった。
 良くない、と思えたそんな自らの言葉をフォローするよりも、土方が壁から僅か背を浮かせる方が早い。
 「俺が何してよーがテメェにゃ関係ねェだろーが。つかテメェの方こそ道塞いでねーでとっとと退けや。俺ァまだ仕事中なんだよ」
 図らずも──否、その効果を期待して──銀時の体が隘路からの出口を塞いでいる形になっている。立っているだけと言えばそれだけだが、大の男が二人余裕を持って通れる程の道幅が無い所に持ってきて、端にも寄らないのだから、「退け」と言う抗議は正しい。
 先程までの何処か草臥れた風情は何処へ捨てて来たのやら、強引に銀時を押し退けて通ろうとする気を隠しもせず、土方は近付いて来る。物騒な眼差しにチンピラじみた歩調。いつも通りの。
 「……退け」
 油断の無い。今にも鞘を落として斬りかかって来そうに剣呑な気配が、睨み据えて来る強烈な視線が、ヤニ切れに苛ついて奥歯を噛み締めた口元が。殊更に低く抑揚の無い声音に呼応する様に臨戦態勢に入るのが、解る。
 (ああ、いつも通りだ)
 安堵よりは皮肉の様にそう思って、いつも通りではない、刀を抜くどころか手も出さない侭に近付いて来る姿から目を逸らす様に、銀時は半歩だけ背後の塀に体をずらした。
 まだ真っ向から通り抜けるには少し邪魔なそれを、肩で押し退ける様にして通り過ぎようとする土方の、もうこちらを一瞥もしようとしない横顔に向け、手を伸ばす。
 「、!」
 ぐい、と後ろに肩を引かれ、土方の顔が弾かれた様に振り向く。驚きより狼狽の強い横顔に寸時差し込む焦燥を見てとった銀時は、捉えた肩を自分の方に無理矢理に寄せた。
 「ってめ、」
 身を捩って逃れようとする土方の左腕を胴体ごと背後から抱き込んで、咄嗟に抵抗しようと振り上げられた右腕の動きは掴んで封じる。
 そうして、少し身を屈めて肩の上に顎を乗せれば、強張った背筋の緊張感が伝わる程にぴったりと両者の身体が密着して収まった。
 「離しやがれ、このクソ天パが…ッ!」
 身動きが取れなくなった事へのせめてもの抵抗なのだろう、どん、と背中でぶつかって来られるが、銀時は手を緩めず壁に背を預けて止まる。左の肘をくれてやりたい所なのか、抱き込まれた左腕の筋肉が引き攣っているのが解った。だが勿論力を緩めてやる心算などない。というか緩めたら漏れなく痛いメに遭うのはこちらの方だ。
 (と、なると次は足)
 「っ?!」
 思うのとほぼ同時に、土方の足の間に銀時は片膝を割り込ませた。まるで性的な意図があるかの様な動作を受けて、その頬に朱が走る。
 足を踏まれる前に封じておこうと思っただけなのだが、思いの他の効果があった様だ。憶え深い愉悦に小さく笑いがこぼれる。
 それを侮辱と感じたのか、ぐ、と下顎に力を込める土方の顎を銀時は後ろから掴んだ。「あんま噛むと奥歯折れるぞ」と態とらしく優しげにさえ聞こえる声音で囁けば、ぎちりと両肩が更に強張るのが解った。振り解かれない様に慎重に力を込める。
 「…まあそうだよなァ。確かにてめーが何してても俺にゃ関係ねェんだろうけどな。ホラ銀さん気になった事はちゃんと解消しとかねーと夜も眠れないくれェ繊細だから?」
 「──は。放っておけば昼まで寝てる野郎の何処が繊細だ。第一テメェは俺どころか誰にも興味なんざねェんだろうが」
 嘯きながら腕に力を込めつつ土方の両の腕をちらと見下ろせば、ポケットから漸く出された手は拳を固めて、隙あらば銀時を振り解こうと身構えているのが伺えた。
 「あらま毒舌なこって。それは俺でも流石に傷つくんですけど。……ま、別にどうでも良いけどよ」
 それがどういう意図で吐かれた言葉なのか。意味は敢えて問わない事にした。どうせこんなものは一過性の暴言に過ぎない。銀時を遠ざけようと土方が選んだ、本心より余程本音らしいものだ。
 感情は殊更に平坦に。何処ともつかない奈辺から俯瞰しているのだと錯覚する程に遠くから。
 そう、静かに言い聞かせながら、銀時は土方の顎を捉えていた手を離した。つつ、と腕を辿る様に袖口の方へと下ろして行けば、息を呑む音がする。
 恐らくそれは制止の類を紡ごうとしたものだったのだと思う。だから、暴こうとする事は酷く残酷な所行なのだろうと理解した。
 (………………なァ?多分、俺は、お前の矜持も心も踏みにじったんだろう、誰とも知れない幕臣の何某を、殺したいと思っちまう程に妬いて、憎んでるんだよ。でも、それはお前の本意じゃないって言うんだろう?)
 それは恐らく、顔も知らない『何者か』だからこそ許せる激しい感情だ。そうでなければ瞋恚の焔だけで心が灼けて爛れて、苦しくて堪らない。
 強張った土方の手の甲を覆う様に、銀時の掌が辿り着く。指を絡める様に掴んだ手は、然し全く応えようとはしない。詰められた息遣いだけが、やめろと囁いて寄越す。
 ぐ、と手首を捉えれば、不意に抵抗が熄んだ。そんな土方の様に銀時はまたしても悟って仕舞う。これは諦めだと。
 子供から宝物を取り上げるのにも似た残酷な心地に浸され、心の何処かが軋んだかも知れない。だがそれよりも冷静な怒りの方が大きい。
 躊躇わず、袖口に引っかけた指を使って重たい隊服の袖を少しだけ持ち上げてみれば、そこに僅か曝されたのは、想像と対して違えない有り様。
 「……ふーん」
 擦り傷で、指先に触れた皮膚はざらりとした感触。赤紫色に変色した擦過痕は、縄目の痕を克明に刻み残している。
 掌に残るくっきりとした爪痕。短く切った爪には乾いた血の赤黒い飾り。刀を振るう筈の右手にまで、まるで力加減を知らないかの様にくっきりと残されたそれは、正しく土方の声には決してならないだろう苦悶と同じ筈のもの。
 目の端に捉えたそんな光景は、然し予想通りのものだ。それに対して思う感情は多々あれど、実際に口を衝いて出たのはつまらなそうな感慨一つ。
 まるで関心など無い様な声音に何を受け取ったのか、土方はほんの僅か俯いたかと思うと、不意に抵抗を思い出した様に、肩を捩る様にして銀時の腕を振り解いた。
 大方の力の抜けていた拘束は容易く解け、間近に感じていた温度が遠ざかって行く事に銀時は寸時何かを思いかけるが、結局それは上手く形にならずに、留める程度の力は持たずに霧散して仕舞う。
 たたらを踏む様に二歩、三歩と離れた土方は、銀時の方を伺い見て直ぐに目を身体ごと逸らすと、再び両の手をポケットに乱暴に突っ込んだ。ぎり、と奥歯を噛む様な音。
 「……これで満足か」
 吐き捨てる様な声音が隘路にぽつりと落とされ、次の瞬間には土方は歩を再開していた。別れの言葉一つ、仕草一つ残さず、かつこつと乱れのない足音が立ち去り、やがて路地裏から出て雑踏に消えていく。
 ぽつねんと取り残された狭隘な狭間に立ち尽くした銀時は、去った背中の中に痛みを何か見出そうとしている自分に気付き、馬鹿馬鹿しい事をしたのかも知れないと静かに認める。
 だが。そうだとしても。
 (……暴いたのは確かに俺だけど、手前ェから俺の前には晒さないってのは、やっぱり──諦めて無ェからなんだろう…?)
 結局目に見えて、向かい合ってはっきりと伺いは知れなかった、隠し通そうと言う様に頑なにしていた腕に残された疵を思えば、それは何かの光明の様に感じられるのだ。
 最早重ねる嘘は、『別れた』自分達の間には無意味な筈だと言うのに、それでも土方は未だそれを銀時に隠そうとした。乱暴に暴いたと言うのに、それでも自分からは決して知らしめようとはしなかった。
 (お前が、未だ俺の事を気にかけてくれているからだって、思い上がっても良いのか……?)
 形にならない問いは路地裏に残された陰惨で醜い感情の中で、漸く掬い上げた晴れ間の様な──恐らくは僥倖。そうあって欲しいと言う希望的な観測であり、未だどうとでも取る事の許される可能性。
 それを追う事も、縋る事も、止める事も許されない侭。失せて仕舞ったその正体を銀時は掴み倦ねていた。







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