恵雨乞う種 / 3



 長屋を出る前に見遣った時計の針は四時頃を指していた。約束の九時までは悠に五時間は間が空いた事になる。夕飯時には一旦万事屋(うち)に戻る心算ではあったが、それでも三時間は余裕で余る筈だ。
 突如として空いた見積もり三時間の空白を前に、銀時は、どうしたもんか、と溜息をついた。
 昔からだが、迂遠や有限の空隙は余り好きではない。その時々の行き当たりばったりの思いつきや行動の方が気楽だと思える質だからか、何をしよう、と計画立てして動くのは苦手だった。
 だから時計なども持ち歩かない。思いつく侭、やりたい時にやりたい事をやって、時間にも過ぎる日々にも出来るだけ執着はしない。
 時間の使い方がうまくないと言うよりは、触れては過ぎる時に重みも軽さを感じない、感じない様にしている故の自然な有り様だったと言える。
 三時間。百と八十分。一万と八百秒。降って涌いたその時間を潰す上手い方法は、暫く腕を組んではみたが結局特には思いつかず、気付けば銀時はぷらぷらと江戸の町を適当に歩いていた。
 多感な年頃に刹那的な体験ばかりを経て、見て来た事が原因なのか。触れて留まるものに実感が余り湧かなかったのは事実だった。突如として放り出された、秒毎の死も生も無い時間には、昔在るなにもかもが無かったからだ。
 神楽や新八が揃っていて、暇だ暇だと互いに愚痴をこぼすのはいつもの事だが、生活的には結構切実に困る。家賃とか。食費とか。食費とか。食費とか。そう言う意味では暇とは銀時にとって余り好ましいものではない。だからと言って時は金なりなどと宣う程勤勉にしたいとはこれっぽっちも思っていないが、無駄になる事の解っている、その潰し方の判然ともしない空隙への上手い対処法は知らない。
 家に帰る、と言う選択肢も一応考えたのだが、新八に見送られて決意勢い込んで出てきた事を思い出せば、出直しだった、とすごすご戻るのも格好がつかない。モンスターかと思って散々身構えて話しかけたら善良なホイミスライムでしたと言うぐらい格好悪い。
 (男は見栄張ってなんぼのイキモノなんだよ)
 誰にともなくそんな言い訳をこぼしながら、商店街の雑踏へ適当に意識を投げつつ銀時は無言で歩を進める。癖で引っ掻いた項の毛が爪に引っかかって、一本ぶちりと抜けた。痛い。
 それが弾みになった訳ではないのだが、知った痛みと知らない痛みがある事を、不意に意識せず思い出す。
 胸の奥底で燠火の様に密やかに揺らめき続けるそれは、恋情に似たものと、それと同じだけの妬心だ。或いは自分自身に対する明確な憤慨。
 あの冬の日、土方に『お前に惚れている』と告げた。当初思った通り、その感情やその後の関係をどうこうしたいと思った訳でもなかったそれは、土方の応えを受けた途端、気付けばたちまちに銀時の裡を浸食していき、ささやかないとおしさや幸福の合間には必ず醜い嫉妬や苛立ちを生んでいった。
 夏の盛りに隣り合い、雨の中で歩み寄って、秋空の下で偶さか並んで同じものを見上げた。何れの何が契機でそうなって仕舞ったのかなど、今となっては知れない。だが、望んで、そして手に入れて仕舞った事は事実だ。
 勁い男だとは思った。武骨でしなやかな刃を翳して、気難しく厄介な性分と世界との間に折り合いをつけて、侭ならない清濁の檻に踏みとどまりながらも自らの信念だけを見つめて生きる、綺麗な人間だと思った。人間らしい人間だと思った。
 手にした刀だけを信じる、時代錯誤な侍。何度も血塗れの手で柄を握った、拭いきれない鈍い汚れは土方自身の魂そのものだ。近藤を、真選組を護ろうとする、彼の信念と言う美しい魂の形だ。
 惹かれたのだと思う。途方もなく。汚い世界に生きる事を知る癖に態と綺麗事を振り翳して生きる、挫折を知らない子供の様なものに。太平享楽の時代に浸かりきった幕臣だとどこかに貶みたい心がある癖に。だからこそか。眩しい、取り戻せないものに似た存在に、自分とは決定的に異なるそれに、きっと惹かれたのだ。
 堪えきれずつい手を伸ばした。お前もひょっとしたら同じ事を『ここ』に感じてはいないだろうかと、愚かしい期待を密かに寄せながら、望んで仕舞った。
 だからこうして間違える。互いに遠く違えて仕舞った侭、こうして、後悔の熱に噎せ返る。
 俺の為に苦しむ事を選んだお前を、俺は許せないけど、お前もきっとそんなお前を否定する俺を許せないのだから──だから、やっぱりこれは間違いでしか無いのだ。似たもの同士、二人揃って、間違えた。
 「……」
 そこでふと渋面になって、銀時はやれやれと息を吐き出した。これだから、何の目的もない時間の隙間は嫌いなのだ。埒もない鬱々しいだけの思考をしたくないからこそ、ここ数日は珍しく情報収集の為に忙しなく動き回っていたと言うのに。
 右手の爪先をふと見下ろせば、どこかにぶつけてでもいたのか、人差し指の爪の先端が少し欠けて歪な形になっていた。そこに短い癖にうねった銀の髪が一本挟まっている。
 道理で痛かった訳だ、と思いながら、毛をぷちりと千切って風に流す。
 何度思った所で、意に沿わぬものである事に変わりはないのだ。……逆に、だからこそ何度も繰り返すのかも知れない。それ以外を何故選べなかったのかと。何故気付かなかったのだと。
 く、と頭を少し上げれば、ここ二週間ばかりですっかり見慣れた重たい曇り空が聳えている。これも変わらない。焦燥する様なものではない筈なのに──変わらない。
 今度は爪の割れ目に気を付けつつ、銀時が自らの項を苛立ち混じりに引っ掻いたその時、不意に横合いから声が飛んで来る。
 「ちょいとそこのお兄さん。どうでィ?一緒に団子でも」
 聞き覚えのある声に思わず足を止めて頭を巡らせれば、商店の並びにある団子屋が目についた。団子、と言うワードに合致しそうなものは他には見当たらない。その侭視線を少し下に向ければ、日よけの長い暖簾の陰になる位置に置かれた縁台に、通りに背中を向けた形で腰掛けている栗色の頭に気付く。
 「親父ィ、みたらしと餡ときな粉一本づつ、こっちの旦那に頼まァ」
 自身も団子を頬張っているのか、もぐもぐと明瞭ではない声で、銀時の応えなど待たずに勝手に注文をして仕舞う沖田の、暖簾の隙間から僅かに伺える姿を寸時見下ろすが、銀時は結局その斜め後方に、自分は通りの方を向く形で腰を下ろした。
 死角に潜んだと言うより、あからさまに隠れている様子なのは、彼の纏う隊服が結構に目立つからだろうか。常ならばサボるのに身など隠しもしない少年にしては珍しい。
 (……と、なると偶然じゃねェんだろうな)
 余り面白くはない状況の様な気はしたのだが、どうせ暇に空いた空隙なのだから、碌でもない思考をしながらふらふら歩くよりはマシだ。
 「勿論総一郎君の奢りだよな?」
 背後の咀嚼音に向けて問いを投げれば、タイミング良く店主が盆に乗った三本の団子と緑茶を持って来た。「お待ちどおさん」営業スマイルと共にすいと出される団子の旨そうな様が恨めしい。
 「総悟でさァ。また随分と懐かしいボケかましやすねィ」
 「奢りだよな?」
 「最近景気はどうですかィ?」
 「相変わらずの通りだよ……ってだから奢りだよな?」
 そう高そうな店でもないが、無駄な出費は避けたい。頼んだのは沖田なのだから、奢りだと言う確約が欲しい所だ。ああでも然し。
 「美味ェですかィ?」
 「ああうめーよ、うめーですよこん畜生!」
 意識をやってしまったが最後、団子の串を掴んで頬をもぐもぐと膨らませながらヤケクソの様に銀時は吼えた。久々の甘味が五臓六腑に染み渡って美味い。美味すぎる。
 「この糖分王の前に甘味なんぞ出したら最後なんだよ憶えてやがれコノヤロー」
 「じゃ、支払いの方は宜しく頼みやすぜィ。あ、親父、やっぱこっちにも餡二本追加で」
 「おーい沖田くぅん?俺達オトモダチだよね?ですよね?」
 「さてねィ。甚振り甲斐のある旦那なんて気持ち悪過ぎてお近づきにゃなりたかねーや。明日こそ雨とか降んじゃねーかな」
 僅かに頭を巡らせて見遣れば、銀時の斜め後方に座る沖田の口元では団子の串だけが退屈そうに上下に揺れていた。言葉ほどには気も悪意も無い様に見えなくもない様子だが、果たして。
 もっちりと重たい食感の団子を嚥下した銀時が湯飲みを手に取った時、不意に沖田は吐息に乗せて口を開いた。
 「……随分と久し振りですねィ」
 湯飲みの淵に唇をつけた侭、銀時は思わず背中の気配を手繰った。言葉の内容こそただの挨拶の様なものだが、冽たい剃刀の様な気配がそこにはある。こちらに直接刃先を向ける意図はないのか。ただ冷え切った不穏な空気だけを感じる。それこそ痛い程に。
 「二週間と少しくらいだろ。一ヶ月は経っちゃいねーよ」
 問いそのものの意味を伴った言葉ではないと理解していたが、敢えて銀時は真っ向からそれを受け取る事にした。受けて、沖田が苦笑を浮かべる気配。
 「十日以上もありゃァ、躾の悪い野良犬も腑抜けた家畜になりまさァ」
 露骨な指し手に銀時は思わず渋面になる。よくよく考えずとも、今の共通の話題と言えばここに帰結するのは当然の流れと言えたが。
 山崎は、沖田には確信はないのではないかと口にしていた。疑いの有無は別として、土方が自らの事情を沖田に話すとは到底思えない。だからこその曰く『確信はない』と言う事なのだろう。
 立場や状況としては、蚊帳の外にされた銀時と同じ様なものと言えるかも知れない。ただ、銀時の方が多分当事者で、より深くに食い込む何かをそうとはまだ知らずに抱えているのに対し、沖田は至近距離に居ながら関わらせて貰えないだろうジレンマを抱えている。
 だからこその八つ当たりめいた態度か。思って銀時は無言の侭で茶を啜った。
 空いた間に合わせるかの様に、丁度店主が沖田の追加注文を持って来た。餡のたっぷり乗った団子を銀時の背後辺りに置いて立ち去っていく。
 置かれた団子に手をつける仕草さえ見せず、沖田はまた暫しの沈黙を挟んだ。別にそれは銀時からの応えや言葉を待っている類ではない。その空隙は躊躇いなのか、徒に焦らされているだけなのか。
 銀時は二口目の茶を口に含み、喉を湿らせた。燻される薫製肉の様なじりじりとした間。まな板の上の鯉。そんな風に喩えて仕舞えば、己が存外に平常心で居られていない事に気付かされる。
 (そう言や……最初に一石を投じてったのはこの野郎だったか…)
 襲撃を受けた土方を救助し、真選組屯所に留まった銀時へと、襲撃の経緯について何かを示唆する物言いを持ち込んで来たのは沖田だった。或いは、沖田にその事を言われなければ、山崎に誤魔化された侭の銀時がこの一件に近付くにはもっと多くの時間が必要になっていたかも知れない。
 (ん?……いや、待てよ…?)
 あの時の沖田の、何か言いたいことを潜ませつつも、言いたい感情を持て余しつつも立ち去った、その様子を脳裏に思い描いた時、銀時の意識と記憶にふと何かが引っかかった。
 何か。何か大切な事をあの時言われた気がする。否、言われずとも、拾って然るべきだったものが何かあった気がする。
 その時にも気には留めたのだが、沖田が自分と土方との関係を邪推しているのだろうかと言う薄ら怖い想像に、きっとこれはあのドS王子のイヤガラセみたいなものに違いないと結論を運んで、ついぞ忘れ去っていたものだ。
 (あの時、何て言われて、何て答えた?)
 記憶の淵に指が届いた瞬間の怖気に、湯飲みを持った手がびくりと刹那跳ねた。浅い水面に落とされた翳りの濃い己の顔色が嘲笑うのにかぶりを振って否定する。
 (俺、は)
 何かの確信を脳が悟り、それを理解の名前にファイリングしようとするその空隙をつく様に、ふと沖田が声を上げた。
 「……旦那は、惚れた相手が他の野郎と寝てても気にしねぇ寛容な質ですかィ?」
 「?!!」
 さらっと。天気の話をするより余程さらりとした調子で突如そんな爆弾を投げつけられ、銀時は息を詰まらせた。中身の未だ僅かに残る湯飲みを膝上に取り落とし「うわっちィィ!」悲鳴と共に思わず跳ね上がる。
 「〜おま、えなぁ…、」
 点火済みの爆弾の導火線を切る事に失敗した銀時は、茶の染みのついた着流しを手ぬぐいで拭いながら呻いた。振り返って見下ろすが、爆弾を投げた張本人は口調同様に何の痛痒もまるで感じていない様なきょとんとした表情をしている。
 「っかしーな。俺の見立てだと旦那は押すとか退くとかより、とにかくガンガン束縛するタイプなんですがねィ。間違っても手前ェの恋人(オトコ)他の野郎に寝取られてボケっとしてる様なお人じゃ無ぇと」
 思ってたんですがねィ。そう短く息を吐いて締めた沖田へと、銀時は自分でも凶悪で余裕が無いなと思える表情を向けた。
 「てめーな、何さらっと恋人って書いてオトコって読ませてんですか。寝取るだの取られねーだの、往来で真っ昼間からガキの抜かす台詞じゃねーだろ」
 「アララ、何を今更仰るんで?旦那は別に隠し立てしようとか思っちゃいねーでしょう、端から。躍起になって隠そうとしてたのはあん人の方だった。
 ──それとも本当の所、逃げ回ろうとしてたのは旦那の方だったのかも知れやせんがねィ」
 立ち上がり振り返った銀時の正面で、沖田は未だ背を向けた侭、口元では串をゆらりゆらりと動かしている。
 だが、その瞬間に確かに、何かが変容するのを銀時は感じ取っていた。温度が冷える様な。背筋が粟立つ様な。こぼれた殺気の残り滓の様な。
 縁台に後ろ手をついた沖田の、その指先が、強張っている。何かを堪えて、留まっている。
 それを憤怒であると銀時が気付くのは半ば必然だったかも知れない。
 「、」
 だが、掛ける言葉や繋ぐ何かが解らない。恐らくその答えは先頃思い出そうとした、思い出さなければならなかったものにこそあるのだと、気付いていた筈の己の意識が訴えて来る。
 先頃掴みかけた何かは咄嗟に霧散して、再び拾い集めようとしても上手くはいかない。確かに言ったのに。確かに言われたのに。確かにそう思っていたのに。
 ふと沖田が振り返り、立ち尽くす銀時と視線が合った。すると彼はたちまちいつもの淡泊な表情を浮かべ、口から串を抜いて軽く笑いかけて来る。
 たったそれだけの事でたちまちに霧散する不穏な気配は、明確な瞋恚は、銀時の裡に残留した問いかけに酷く良く似ていた。
 見ない様に意識をしなければならない所も、思い起こし認めるには何か途方もない気力の様なものが必要だと言う所も。
 「困るんでさァ。一遍拾った野良犬をまた放り棄てる様な真似は」
 続く沖田の言葉はまるきり常の調子のものだったから、銀時もそれに習うことにした。見過ごせない何かの存在が確かに疼きを訴えて来るが、一旦は目を瞑る。
 「……先にワンちゃんの鎖放したのはてめーらの方だろーが。飼うって決めたんならちゃんと檻に入れときなさいよ」
 『犬』についての話題に乗っかって悪態めいた物言いをすれば、沖田は『面白くなさそうに』笑った。
 「そいつァ無理な相談でさァ」
 その表情をして、銀時は確か、『大嫌いな兄貴が家族公認のカノジョとか連れて来たのが気に食わない』などと評したのだったと。思い出す。
 「アレは真選組そのものですからねィ。出るも覗くも焦がれんのも閉じこもるも、全部てめー自身にしか出来やしねぇんですよ。アレがもしも鎖ぶら下げて檻の中に居ただなんて思うなら、それはてめーで勝手にしてた事なんでさァ。
 そしてね、旦那。アレが真選組(そ)の中から出て来たのは──外へ出したのは間違い無くアンタだ」
 目を眇めて薄ら笑いを、不快さを据えながら寄越して来る少年の。嘲笑の色を何処かに纏った憤怒のその正体は。
 「旦那。アンタ俺に言いましたよね。あん人も、俺達も、手前ェの懐ん中も。棄てたりはしねぇって」

 ──失望、だ。

 だからこそ試す様に言われたのだ。土方の様子がおかしい事に何か気付くものがあったからこそ、沖田は銀時に確かめておきたかった筈だ。
 真選組の為だけに生きて来た様な男は、銀時と確かな情を交わした以降も矢張りそのことばかりを優先している様に見えて、それでもその中で確かに銀時の棲む場所を心の裡に作ってくれていた。
 伸ばした腕を取って笑ってくれた。情以外のものは必要ないと折れて抱かれてくれた。僅かの時間を作って会いに来てくれた。
 そして、銀時の為に『何か』を間違えながら、銀時には責任は無いのだと嘘をついてくれた。
 真選組と銀時(俺)とどちらが大事なのかなどと問う心算はない。どちらも選び難い程に、土方の中ではかけがえのないものになっていると言う、問うも愚かしい明確な答えを既に知っていたからだ。
 一時は、土方の寄越すささやかな思いや気遣いに気付く事が出来ず、銀時はこの関係をして自らの空回りだと思い込んでいた事があった。沖田の指摘した通りの、束縛したい程の独占欲や欲求が、土方が頑なに周囲に隠そうとすればこそ募って、そして勝手に思い違えたのだ。
 沖田は近くでそんな土方の側の変化を具に見ていた筈だ。妙に聡いこの少年が、己があらゆる意味での悪感情を向けて憚らない上司兼兄貴分のそんな変化に気付かなかった筈はない。
 それを、一体どんな目で見ていたのかを銀時は知らない。沖田も恐らく語ろうとはしないだろう。
 だが、土方がどんな思いで、銀時の為にした『何か』を──それに因って負った負債を抱えるのかが気に掛かったからこそ、銀時をまるで牽制の様な調子で嗾けたのだ。信頼に足る者かと、ちゃんと確認した上で。
 銀時の、土方への思いを、しっかりと確かめた上で。
 然し──その後の銀時の取った行動は、土方の『嘘』を尊重すると嘯いて、見捨て放り棄てる事だった。
 (……これを、咎められんのが…、認めんのがキツいからって、俺ァ、)
 確かにあの時、あの壊れそうな庭を護ろうと思った筈だったと言うのに。
 それがどうだ。今の今までそんな事を宣ったなどと、すっかり忘れていた。そんな風に試されたのだと、考えもしなかった。
 「…………ま、情けねぇザマな事この上ねーんですがね。別に俺ァもう旦那に怒っちゃいませんぜィ。今となっちゃァ、犬の馬鹿野郎が馬鹿だったんだろうって話だけでさァ。
 まあ精々いいとこ、アンタら二人共大馬鹿ですねィって所です」
 失望と。そう名付けるべきだった重たい空気を、然し沖田は次の瞬間にはあっさりと振り払っていた。先程もだが、実に感情の切り替えの早い事だろうと思い、思考が何となく陰惨な想像になりかけていた銀時は意識を戻す。
 「ただ、」銀時の注視を待ってから、沖田は癇性めいた仕草で肩を竦めてみせながら続ける。
 「その大馬鹿犬に、今回にちっとばかし関わる件で借りみてーなもんがありやしてね。馬鹿だからって放っておく訳にもいかねーんですよ。況して旦那まで渦中の人と来たら、棄て置くのも寝覚めが少々悪そうですしねィ」
 「借り?」
 「ええ、まァ」
 幾ら長暖簾の陰とは言え、縁台の前にぽつねんと立っているのは余り普通ではない。何かあったのかと、店内からも店主の視線がちらちらと向けられていた。会話までは聞こえはしないだろうが。注意を無駄に引くのは余り宜しくないと、気付いて銀時は再び縁台へと腰を下ろす。
 すると自然と背中側に座る沖田の様子や表情は伺えなくなる。だが、不思議と先程までの様などこか遠い隔絶はない。
 言葉通りに許されたのだと言うより、放り出された感はある。ドSの心理として、銀時が己への失望に茫然とする様でも見たかったと言うのだろうか。理由の全てがそんな簡単な悪趣味ではないとは思えるのだが。
 「煉獄関、って憶えてやすかィ?」
 「看護婦さん?」
 「そのボケは近藤さんが使用済みでさァ。二番煎じはいけませんぜィ」
 いやボケたというか一瞬思い出せなかっただけなんです、と、沖田の笑いもしない溜息の気配に向けて抗議しつつ、銀時は首を捻った。
 「天の遊び場の地下闘技場、とか言ったっけ?」
 実際忘れていた訳ではなかったが、余り愉快な記憶を孕む単語でもない。僅かの渋面と共に銀時が応えれば、「ええ」と沖田の肯定が返る。
 「アレねェ、旦那が想像している以上にヤバい施設だったんですよ」
 天──天導衆が僅かでも関わっている、と言う時点で既にオオゴトなのは知れてはいる。銀時とて、鬼道丸の一件に首を突っ込まなければ死んでも関わりたくなかった類だ。
 少なくともあの土方が。当時はそう気心も知れない、厄介で面倒なお役人様だった真選組の副長が、自ら銀時へと打診を兼ねた忠告を、しかも二度もしに来たのだ。これだけで既に異常なのは明らかである。
 「その『想像以上にヤバい施設』を潰しにかかれと平然と依頼して来たのは何処の沖田くんだったかな?」
 「さァ?どこぞの迷惑な沖田くんなんでしょうかねィ」
 思わず出た銀時の真っ当な抗議をさらりと躱した沖田の手の動く気配。餡の乗った団子の一本を摘んだ指が、僅かに頭を巡らせた銀時の視界の端を通り過ぎていく。
 「俺はアレの事を自分独自の情報網から得ましてねィ。気に食わねーんで潰してーなと一人で思ってたんですが、土方さんはもっとずっと前……ぶっちゃけ真選組の黎明期からアレの調査を結構地道にしてたようでしてねェ。そりゃァ俺や旦那の介入を避けてェ訳です。
 俺も後から知ったんですが、あそこの客は天ばかりでなく、幕臣のお歴々……ぶっちゃけちまいやすと、警察(俺ら)のトップやその関係にも結構幅広く及んでたってんで、慎重にもなりまさァ。個人的な楽しみ以外に接待とかにも使われてたみたいですぜィ、趣味の悪い見世物を肴に」
 「へー。世の中汚れてやがるねぇ」
 適当な相槌を一応投げはしたが、銀時は内心で冷や汗をかいていた。何か、とんでもない犯罪や汚職やらに関わる内情を聞いて仕舞っている気がしないでもない。万事屋風に翻訳すると、結構な厄介事がネギ背負ってやって来た。様な。
 言うまでもないが、厄介事の鍋など、胃が凭れる上に食うに困るだけの代物でしかない。どこぞの暗黒物質並に。
 「……で、借りってのは?」
 厄介事を頂くのは願い下げだが、ネギ程度ならば構うまい。ネギだけ頂いて済むとも到底思えなかったが。
 銀時の再度の問いに、沖田が厭そうな息を吐くのが聞こえた。続けて、むぐむぐと団子を咀嚼する音。嚥下の音。
 「旦那らに依頼したものの丸投げって訳にも行かねぇんで、俺も独自で動いてましてね。そん時、…まあなんて言いますか、結構無茶もしちまってたんです。焦りみてーなもんもあったのかもしれやせんが」
 そこで一旦言葉を切り、沖田はもう一度息をついた。団子の串を皿に戻し、空いた手で自らの後頭部を引っ掻きながら、言いにくそうに口を開く。
 「聞き込みっつーか脅しみてーな感じで情報収集してやしたらね。俺はそん時は気付かなかったんですが、どこぞのお偉い幕臣さまの身内をそん中に巻き込んじまったらしいんでさァ」
 流石に覚悟を決めていたのか、言い澱みはしなかったが、どこかばつが悪そうな風情で沖田は嘆息した。そこが何らかの失敗だったのだと、その態度が雄弁に語っている。
 「ポカっと?」
 「いいえ、どっちかっつーとズバっと」
 拳骨を打つ仕草をしつつ銀時が問えば、刀を袈裟に振り下ろす様な沖田の仕草と応えとが返る。
 淡泊そうな面差しには似合わない事にも、煉獄関と言う施設に沖田が憤りを憶えていたのは当初から明らかだった。故に、真選組と言う本来の権力を行使し頼る訳には行かない状況に置かれた沖田が、少々無茶な真似をして、『上』の連中ごとしょっぴける様なネタを探し歩いたのは想像に易い話だ。
 そして、幕臣らが客として煉獄関を訪れていた以上、その身内が周辺に居ても確かにおかしくはない話ではある、が。
 「そいつが、真選組(ウチ)にとっちゃァ結構色々邪魔な立場にある幕臣の息子でしてねィ。地下街のゴロツキと徒党を組んで遊び歩いてる様なボンボンだったらしいんですが、そいつが運悪くも俺を真選組の者だと、面ァ憶えて知ってたらしいんです」
 「悪く?」
 運悪く。その言葉が引っかかって銀時は眉を寄せた。当事者らにとっては、真選組の弱味となる証言は加害者が真選組に居る以上問題ないのではないだろうか。政敵であれば尚更だ。寧ろ運が良くと言っても良い筈だ。違法な場所に関わっていた後ろめたさがあれど、真選組に何かしら不利になる働きかけぐらい出来るだろうに。
 然し沖田はあっさりとかぶりを振ってみせた。「悪いですぜィ、紛れもなく」そう、続く言葉は辛辣な調子を孕んでおり、そこからは沖田が、自身の失敗とやらを自身で弁解する心算がまるで無いのだと言う強い意思が伺えた。
 但し、責める風でもない。どちらかと言えば淡々と、後悔や憤りさえも孕んだ『結果』を語るだけ。
 「何せ、件の幕臣が真選組(うち)を告発する前に、息子共々仲良くぽっくりおっ死んじまいやしたからねィ」
 「……そりゃァご愁傷様なこって」
 「全くでさァ。ま、そのお陰で真選組も俺も、今こうしてられんですがねィ」
 言葉に潜む剣呑さを銀時は正しく解したし、沖田も銀時がそう受け取っていると確信しているらしい。余計な言葉も説明もついては来なかったが、それ故に真実味がある。
 そう。そんなにタイミング良く、目障りな相手だけがが消えるなどと言う道理は有り得ない。
 だからこれは。
 「…………それが、副長さんへの借り?」
 思いの外、感情の乗らない声になった。沖田は特に答えはしなかったが、笑う様な気配だけがはっきりと返ってくる。
 苦味の強い、どこか草臥れた笑いだ。
 「……丁度、件の幕臣親子の政敵に当たり、真選組(うち)には味方に当たる、そいつも恐らくは煉獄関の客に数えられてた幕臣の一人の野郎なんですがねィ。土方さんに直接打診があったそうです。連中は我々共通の敵だ、と」
 政敵同士の睨み合いは、互いの身分が確かなものであればこそ拮抗する。敵を暗殺して自らの地位を固めると言う手段自体は戦国の世より遙か以前から連綿と密やかに行われて来た事だ。だが、近年の平和と情報と豊かさの溢れた社会にあって、そう言った血腥い行為は許されざる事と定められている。敵を殺めればその敵が疑われる。そしてその疑惑は風聞となってその者の足下を危うくする。風聞を気にせずに黒い刃を振るえる者が居るとすれば、それは将軍家やその縁者、或いは敵ぐらいだろうか。
 彼らと異なり、一介の幕臣にとっては現代の法整備の幾分成された社会を、そうと知れず操る方法などは無いに等しい。そして嘗ての武家や旗本の権力は今の世に於いては通用しない。一度でも足下が傾いだら、権力を欲する政敵ばかりか身内にすら食い尽くされるだろう。
 ポストは少ない癖に、権力を求める輩が後を絶たない。それ故に幕臣の多くは互いの足下をすくい、自らの権力を保持する事に余念がない者ばかりだと言う。
 (つまり、お互い秘密の社交クラブを共有して仲良くやるフリをしながら、互いに相手を食らう好機を待ち望んでて、そこにタイミング良く沖田のポカが入った、ってとこか)
 銀時はそう胸中で結論を浮かべながら顎をぽりぽりと掻いた。流石にこれをわざわざ口にする程無神経ではない。
 「腹立たしい事に、土方さんは俺にはこの一件を全部黙ってやした。政敵の始末の為に勝手に手前ェの手下しただけだって感じの事を嘯いてやしたがねィ。だから、俺も知ったのはつい最近の話なんでさァ。全く、胸糞悪ィんだよ死ね土方」
 心底厭わしげにそう吐き捨てる沖田の言い種は、土方がした事そのものにではなく、土方にそうさせて仕舞った、己がその理由と材料とに──枷になっただろう事に対する不満を露わにしていた。
 (……成程、ね)
 ここに来て銀時は漸く全てに対する得心を得た。沖田の苛立ちも、憤怒も、過ぎた事に対する無力感や不満も。全てが今の銀時の置かれた状況によく似ているのだ。
 それは偶さかの事だ。状況が似ていたところで、銀時と沖田とでは立場も性質も違う。そこで何を得て何を思って何と行動しどんな結論を望むかは、まるで違うものになる筈だ。ドSと言う共通点があろうが互いに異なる人生を経た人間なのだからそれは当然だ。
 だが、察する事は出来る。上っ面の感情や見栄で誤魔化した所で、そんなものでは通じやしないのだと気付かせる事は出来る。
 「ま。土方さんに件の幕臣親子を消す相談を持ちかけた野郎が…佐久間って言うお奉行様なんですがねィ、真選組の創設にも後押しして下さった御方だそうで、無碍にも出来なかったってのは間違いねーです。あん時真選組を俺一人のポカで危うい立場に追い込む訳にも行かなかったのは勿論、誰あろう佐久間殿からの『お願い』でしたんで。何れにせよ土方さんにも真選組にもそれを突っぱねる様な理由も無かったってのァ間違いねーんですがね…」
 肩を竦めて連ねるそれが、欺瞞であると銀時は直ぐに気付く。
 いつ沖田がその事実を知ったかは知れないが、その頃からずっと習い性として連ねた言い分、罪悪や後悔を軽減する為の大義名分なのだと、理解しながらも繰り返したものに違いない。己の失敗に対する苛立ちを誤魔化す為に並べ続けた、乾ききった嘘だ。
 沖田の性質からして、もしも己の過失をその時に知れていたら、自分の手で片をつけたかった事に違いない。
 「……別に俺は負い目を感じてる訳じゃねーんですよ。ただ、あの野郎が俺の為に、そうとは言いやしねェが、俺の事が原因で余計な事をしたってのが気にくわねーだけです」
 死ねクソ狗。吐き捨てる様にそんな事を続けながら、沖田はほうっと息を吐いた。恐らくは今まで、自嘲するほかには誰にも話した事のない内容を吐き出せた事に対する何かの答えの様に。それは安堵という無責任なものではないのだろうが、それに等しいだけの疲労に見えた。
 あの時、銀時の意志を確認した上で何かを匂わせ焚き付ける様な物言いを投げたのも、今こうして己の瑕疵や恥にしかならない様な話を吐露するのも全て。
 「……なんか悪いねぇ。やっぱ沖田くんにそこまで気ィ揉ませちまったって事なんだよな」
 通りの雑踏を、長暖簾の僅かな地面との隙間から覗き見ながら、銀時がいつか言った様にそう吐き出せば、
 「解ってんならちゃんと頼まさァ。この侭馬鹿犬が副長張ってんなァ、真選組(うち)にとっても碌な事になりやせんので」
 殊更に態とらしくからっとした口調でそう返される。沖田が実際どんな表情で口にしたものかは知れないが、声音同様のものに違いない。多分に自分も似た様な表情をしているんだろうなと何処かで思いながら、銀時は欠けた爪に気を付けて項を掻いた。
 きっと酷く冷めた、いつも通りの覇気のない顔だ。
 いつも通りのものを求めずとも受け入れ続ける、ごくごく自然な表情だ。
 「まあでもアレですよねィ。ザキの事ここ最近探り入れてたみてーじゃねーですかィ。て事ァ、旦那もいよいよ肚括る決心がついたって事で宜しいんで?」
 「……さっきから…いや、前から思ってたんだけどさ、君一体どこに耳ついてんの?どんだけ情報通なの?」
 「蛇の道はなんとやら、なんてご大層なもんじゃねーですよ。旦那と似た様なもんで、これでも俺は市井にゃ結構顔利かせてやすんで」
 げんなりした風の銀時の問いにも沖田は淡々としか答えない。ごく当たり前の事ですが何か?と言いたげな風情ですらある。
 確かに、沖田が老若男女問わずに江戸の町中に知り合いめいたものを作っているのは、銀時もそれとなく知り得ている。
 隊服で堂々とサボりを決め込み、老人やホームレスとよく解らない会話をしたり、私服で子供らに混じってカブト相撲の様な遊びに興じていたりする沖田の姿は、外見だけ取れば血腥さとは縁遠く年相応の少年にしか見えない。黙っていれば紅顔の美少年としか言い様のない容姿もそれに拍車をかけているだろう。
 「……怖いねェ」
 脳裏をちらと過ぎるのは、世渡り上手の悪魔の笑顔。下手をすれば町中に彼の目や耳があるとも知れない想像。ぞっとしないものだが、世間話やちょっとした付き合いでさえも時に重要な情報になる事を万事屋稼業でよく知る銀時には実に実感のある話だ。
 情報を握るのがドSの悪魔と言うだけで、威力は段違いだ。例えばこんな牽制の一つだって。
 「情報が時々得られるってだけで、顔知りの人間を増やしてんのも遊びや趣味みてーなんもんですよ。悪いようにはしやせん。前も言ったでしょ、俺ァ旦那を敵に回す気だけはねーんですって」
 「散ッ々人に嫌味と抗議を投げといて今更どの口が言いますかコノヤロー」
 「それは旦那の自業自得でしょうが。俺は旦那がちゃんと協力してくれりゃそれで良いんで」
 何か恣意的な──強制力に似た──響きを持った声に誘われる様に銀時が頭を横に向ければ、だらりと背中を大きく後ろに反らして丁度視線の合う位置に仰向いている沖田の顔があった。その侭ばたりと上体が縁台の上に倒れる。膝から下は座った侭だ。
 「さっきの『痛いとこ突かれた』って面からして、旦那まさかこの侭おめおめ逃げ回ったりはしねーですよね?
 どうですかィ、馬鹿な犬っころの為ってのァちょいと気に食わねーんですが、俺に協力してみる気はありやせんか?」
 腹立ち紛れの様な表情は『共犯者』へと向ける様な、剣呑な笑み。
 受けて、銀時も口元に緩く笑みをはいた。
 ああ、なんて物騒なドS首脳会談なんだろうと少し思って、下らない癖的を射たその想像に喉が鳴る。
 「あの子の為なら惜しむ事なんざ無ェな、ってのが模範解答でオーケイ?」
 「ええ、まあ及第点でさァ」
 言いながらまるで握手をする様に持ち上げられる沖田の手を、銀時は無言で叩き落とした。それにさえも満足する様な少年のあげる密かな笑い声に、顎をしゃくって早く続けろと促す。
 全く、思いの他に有益な時間潰しになったと言うべきか。
 あれから未だ一時間も経過していないと言うのに、既に空隙は埋まっている。徒な浪費ではなく、試される様な意識によって。
 そうして沖田は、人の悪い表情の侭、今までとそう変わらぬ、ごくごく普通の調子で言った。
 謀を告げるとは到底思えぬ言葉の、その真意すら問うに惑う様に、ただ一言。
 
 「旦那。どうか『鬼』になってくれやせんかねィ?」







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