恵雨乞う種 / 4 ざり、ざり、と靴底が砂を引っ掻く音を引き連れて歩く。 不快で、重たい連続音は己の無様さの形そのものの様で、非道く息苦しく、非道く心を灼く。 耳障りだ。身の裡から苛む様な苦痛も、屈辱の痕も、掠れて荒い呼吸も、熱の無い男の声も。 脳裏を過ぎる銀の色を、軋る奥歯で擦り潰して、噛み潰して、呑み込みきれない侭で心の裡へと必死で押し遣る。 上手くやれていたのに。いつも通りに──否、いつも以上に背筋を正して、神経を尖らせて、僅かの乱れなく纏った隊服の下に全部隠した心算だった。 これは自分の誇りだから。ここに居る事を、理由を、己に課して来た生き様の在り方そのものだから。真選組と言うものの、そこに生きる侍の証のそのものだから。 楯の様に。或いは鎧の様に。纏えば心は自然と引き締まり、腰の刀の重みを強く実感する。 だから、こんな無様を晒す事など無かった筈だった。 自分自身に課して、命じて、与えた矜持は、何よりも強く己を護ってくれるものである筈だった。 だが、これはどうだろうか。この様は、何なのだろうか。 「──っぐ、」 背筋を冷や汗が濡らすのを感じた瞬間、その不快感とは逆に喉奥から迫り上がる様な嘔吐感を覚えて土方は咄嗟に片手で口元を押さえた。嘔吐きそうになるのを堪え、胃酸の臭いと喉を灼く痛みとを無理矢理に押し込める。 ぐらぐらと視界が定まらないのは呼吸のし過ぎだと理解はしていたが、幾ら酸素を交換しても息苦しさと、涌き起こる吐き気が止まらない。 ずき、と痛みを訴えたのが身体の何処なのかが解らない。もっと別の、もっと深い場所からの悲鳴だった気もするが、どうでも良い。 いつもの『呼び出し』の帰り道に、急いでいたのもあって大通りではなく近道になる路地裏を抜ける事を選んだのが間違いだったのか。そこに踏み入る迄、すっかりそれを失念していた事が悪いのか。 何れでも良いし、何れでもないのかも知れない。思って土方は喉に力を込めた。喘ぐ様に空を仰いで、呼吸だけを苦労して吐き出しながら、出来るだけ足取りを正そうと無益な努力を続けながら己を罵倒する。 先頃ほんの少し常よりも早い歩調で入り込んだのは、奥に行くに従って先の細くなる、まるで先行きの知れない未来そのものの形の様な薄暗い隘路だった。高い壁に挟まれたその狭間に滑り込んだ土方は、ただ通り抜けるだけの道でしかないそこに、暫く前に会った銀髪の男の姿を思わず描いて仕舞った。 あの男に、ここで、知らしめられた事。真っ当とは大凡言い難い行為の痕跡を冷笑の下に曝された。 ただの安心と言う担保に自らの身を引き渡した意味も情もない行為を、厭わしいものとして曝された。 大体にして土方は非道い嘘で銀時を自ら遠ざけた後なのだ。もう二度と手に入る筈のないものを、もう二度と同じ様なものを向けられる筈はないのだと理解も覚悟もしていたのだから、何を言われようがされようが痛痒などありはしないと。 ……思えるならばそう思っていたのに。 実際はどうだろうか。銀時の向ける冷たい無関心さにも似た視線に曝されたその時に、憶えたのは絶望めいた諦念だった。 銀時の裡に僅かにでも残っていたかも知れない、知己としての土方十四郎の存在さえも、この厭わしい様を前に打ち砕かれたに違いないと悟った。 ………だから……? だから何だと言うのだ。もう自分には関係の無い話だ。 既に恋人めいたごっこ遊びの様な関係からは分かたれた者たちなのだ。 だから何も。痛痒も。後ろめたさも。後悔も。 ……なにかが、瓦解していく様な狂おしさも。 あの銀の色彩の男が、ただそこで、、 「……っ、?!」 思い出した瞬間。堪らない寒さと嘔吐感とがどこからか涌き起こり、土方はまるで逃げ出す様に路地裏からまろび出ていた。後はなるべく目立たない道を選び、臓腑がひっくり返りそうな不快感に苛まれながらも理性と意識とを掻き集め、目についた公園へと足早に飛び込む。 時間が原因か薄暗い天候が原因か。子供の声のしない広場を横切って、余り衛生的とは言えない風情の公衆トイレへ転がり込むと、個室の戸も閉めぬ侭に洋式の便器の前に土方は蹲った。 程なくして、押し上げられる様に逆流した胃酸が喉を焼いて通った。朝から時間が余り無かったのもあって、『呼び出し』の前に昼食をまともに摂る暇も無かったのが今回は幸いした。咳き込む様に吐き戻される胃の中身は少ない。 胃の痙攣する苦痛に暫し耐え、まるで泣いている様な音を立てて喉奥が嘔吐くのを黙って聞く。 ざりざりと。砂を食む様な音がそれと混じり合って脳内に耳鳴りの様にこだまし続けている。足を止めていても猶、苛むかの様に。 (……耳障りなんだよ) クソが、と毒突くと、排水レバーを乱暴に蹴り倒し、土方は壁に寄り掛かりながら身を起こした。落書きや無意味な伝言や汚い言葉。ついでに水商売の宣伝らしきチラシまで貼られた個室内を睨む様に見遣り、その薄汚さが今の自分に酷く似通って見えて、自嘲めいた嗤いが浮かぶ。 何よりも大事なものの為に纏った筈の隊服が疲れきった身体にはやけに重たく感じられる中、未だふらつく足取りで洗面台の前に立つ。 蛇口を捻った途端溢れ出る強い水流に手を晒して顔を洗って顔を起こせば、錆びた、これもまた落書きや汚れだらけの鏡の向こうから、ここ数週間で侍と言う言葉から酷く遠ざかって仕舞った気さえする、覇気もなく憔悴しきって不抜けた男の顔がじっとこちらを見ていた。 「……手前ェは、本当に『俺』か?」 自らの誇りそのものである筈の隊服を纏っての為体。幾ら人通りが少ない道を通って来たとは言え、チンピラ警察の名で認識されている真選組の、しかも幹部用の装束の男がまるで酔っ払いの様に憶束ない足取りで歩いていたのだ。風景に埋没出来る筈がない。目立たぬ筈がない。 ただの二日酔いか腹でも壊した程度にしか見えないのだろう無様な姿は、江戸を護る真選組の副長が、職務中と知れる隊服姿の侭で簡単に晒して良い様なものでもない。ニュースに餓えた時期だったら下世話なゴシップ誌辺りが醜聞ネタとして食いついてもおかしくないものだ。差詰め見出しは『真選組の鬼副長が二日酔い?ストーカー局長と酔っ払い副長、江戸の平和はこんな組織に護れるのか?』と言う感じで。内容は勿論、真選組の失態や醜聞を嘘本当混じりにアレコレと穿り出して煽り立てて嘲笑う類。数日もすれば人々の関心からあっさりと外されて消える様な小さく下らない記事だ。 些事の癖に痛みだけは一丁前の。出来の悪い刃物の作った傷痕の様な。 リアルで、埒もない下らないそんな想像に、はは、と自嘲めかした嗤いを零す、情けなく歪んだ表情の男を黙って見返す。 ……これが、誇りで。役割で。自らの信念と魂とで誓った筈だった。真選組を、近藤を、護るその為にと選んだ途だった。 土方十四郎と言う刀は、その意味の為だけに在れば良かった。 そう戻っていれば良かった。 ……戻れなかったから、捨てきれなかったから、路地裏で偶さか遭遇した銀色の男に、全てを壊されなどしたのだ。 隊服を纏って得た『いつも通り』の姿も、乱れなく歩けていた『いつも通り』の姿も、帰る道すがらあの男に出会ったと言うだけの事で、ただそれだけで、全て瓦解して仕舞った。 その時の甘い苦痛を思い出した、たったそれだけの事で、己の裡の何かが堪えきれずに吼えた。すっかり作業の様になっていた筈の辱めのひとつひとつを克明に思い出し、それがどれだけ己の身と心を苛む現実であるのかと思い知らされた。記憶の中の銀時の視線に恰も曝され暴かれたかの様に。己の無様さと浅ましさとを、それに対する無様と厭わしさとをまざまざと突きつけられたのだ。 あの男を突き放す事を選んだ『今』では、その存在がどれだけ疎ましかろうが、目障りだろうが、構うまいと思っていた。 もうあの男にとっても、自分はただの薄汚い幕臣の一人となったのだろうから、どんな言葉で罵られようが嘲られようが、構うまいと思っていた。 だが、気付けば『狗』の辱めの痕跡を、暴かれ知られている今でも必死で隠そうとしている自分が居た。 ああ、それが失敗だったのだ。 何も気にせず、短くなった煙草を携帯灰皿で消して、疎ましそうな顔をしながら新しい煙草をくわえて、路地の入り口に立ち尽くしていたあの男を押し退けて通って。それで良かった筈だった。 (本当に、あの時は失敗だった……) 呻いて、鏡の向こうで苦しそうな表情を浮かべる男の顔を、拳で強く叩く。 袖が少し動けば容易に知れただろう縄目の痕。攘夷浪士にでも捕まったか、変態じみたプレイでもしなければ出来ない様な疵。 正解はどちらでもない。あれはただの『狗』の躾だと言われたその通りの痕跡でしかないものだった。 だからそんな情けねェ面をしているのか、と問いかけ、応える様に嗤ったのも同時。 今更。そう──今更。あの男に、何と思われるのかが怖かった、などと。 「……なァ。本当に手前ェは、『俺』なのか……?」 真選組と、近藤とに全てを捧げた、真選組副長の土方十四郎は一体何処へ消え失せたのだろう? 此処に居るのは、坂田銀時を忘れる事も捨てる事も出来ずに立ち竦むばかりの、脆弱で情けない男が一人きりだけ。 坂田銀時の事が好きなのだろうと自覚した瞬間から、なにひとつ進めていなかった土方十四郎だけが取り残されて居る。 記憶の中の銀色の男の、全てを徒に暴いたあの視線を思い起こした瞬間に恐ろしくなった。大事に持っているほかなかったこの感情さえも分不相応だとでも言う様な、熱も感情もないあの男の目が。訳も解らずただ怖くて。己のした事が酷く厭わしくて。醜くて。無様で。 確かに、後悔も罪悪感も何一つとして無かったのだ。 ただ、お前の為だったと言うのは烏滸がましくて、恐らく醜いエゴでしかなくて、だから何も告げずに切り離した。お前がそれで俺を見限ると言うのならば猶の事良かった。 もう二度目、三度目と、疵など一切つかずに『これ』をただの作業だと思える様になる。 何より、お前に否定されずに済む。何事もなく、今までの日々が進む。 「…………これも、未練って奴なのか?だとしたら──、」 とんだお笑い種じゃねェか。 諳んじた筈の声が震えて出なかった事には気付かぬ素振りで、土方は鏡の中から己を見ている、未練がましい男の顔から目を逸らした。 自分で雁字搦めになって、簡単には解けそうもない感情が酷く邪魔に思えた。一度は大事にした事もある気はしたが、そんな過去の事実はどうでも良い。未だに解けない茨が知らずの内に負わせた疵や痛痒などは考えるだけ無駄だ。痛い場所も苦しい箇所も、何処にあるかなんてわざわざ探す必要はない。 それが汚らしい未練で、棄てきれない思いだと認めてしまった以上は、それをどうやり過ごすかを講じた方が余程建設的だ。 食い込んで解けない茨の痛みも、年月と共に段々と麻痺して消えて行くのを知っている。 そうしてもう何も感じなくなる迄、押し込めた侭で居れば良い。 それが、痛みが無くなる訳ではなく、痛みに慣れて仕舞うだけなのだと言う真実には、疾うに気付いて仕舞っているのだから。 * 薄暗い公衆トイレから出ると、同じ様に薄暗い曇天が迎えてくれた。 もう日も沈む頃合いだと言うのに、薄暗い日の天候は世界の明度をただ下げるだけでそれを知らせてくる。ぐるりと見回しても夕暮れ時とはっきり知れる様な柔らかな色合いは見つからなかった。 雲間の灰色をひととき縁取る薄く冽たい光が、忌々しいあの色に見えた気がして目を逸らす。踏み出した靴の一歩は重たく、足取りも静かだ。背筋に力を込めれば姿勢が自ずと正され、佩いた刀が存在を主張する様に音を鳴らしてくる。 これが、いつも通りの自分。 これで、いつも通りの自分だ。 (まず屯所に戻って、出来たら風呂入って…それから) 書類が山積みになっていた机を思い出し、その片付けの算段を考える内に徐々に思考が落ち着いて来るのを実感すれば、つい浮かぶ苦笑は寧ろ安堵だった。刀と、真選組と。矢張りこれが最も自分に相応しいものなのだろう。 仕事に従事する事で現実を忘れる、と言うのは厭な言い方だが、生憎望んでいようがいまいが雑務はこうする内にも分単位で増えて行く。山崎が不在とは言え、補佐役は居る。副長の目を通さなければならないもの以外はちゃんと選別してくれているだろうしそう手間のかかる程には嵩んでいないとは思うのだが。 「随分ごゆっくりでしたねィ、土方さん。腹でも下しやしたか。それとも便秘とか痔ですかィ?」 「……人聞き悪ィ事往来で抜かしてんじゃねェよ」 思考半分に歩き出した土方の横へと不意に投げられた声に、驚きは辛うじて呑み込み苦々しい顔で応じる。そう大きな声量ではないが、特別抑えている訳でもない平坦な調子に溜息混じりに振り返ってみれば、そこには声色にも想像にも違えない栗色の髪の悪魔が居た。 ぷらりとした足取りの沖田が自然と斜め後ろを歩いているのに、果たしてコイツは一体何処に居たのか、何処から居たのか、と疑問を浮かべれば背筋が薄ら寒くなる。 「今晩から飯にマヨの代わりにボラ○ノールかけて食べる事をお勧めしやすぜィ。ちゃんと気ィ利かせて得用サイズ買って来たんで安心して下せェ。領収書も土方で切ってあるんで」 「何が安心?!安心って言葉が何処にもかからねーよ!つーかお前なボラ○ノールを食いモンと分類してる時点で何かおかしいから。何もかもおかしいから」 さらりと言うなり、ドラッグストアの袋と領収書とを差し出して来る沖田の手を思い切りはたき落とし、土方は全身で溜息をついた。上がる血圧と自分の声とが脳を揺すり、眩暈が酷い。 「要らないんで?」 「棄てろ!そうでもなきゃその辺で痔に呻いてる忍者とか居たらそいつにやっちまえ」 「幾らかぶき町でもそんな変なのが都合よく居る訳ねぇでしょうが」 やれやれ、と肩を竦める仕草をした沖田は、足下に落ちた袋には目など少しもくれず、その侭すたすたと歩いて付いて来る。まるで普通の巡察の時の光景の様に。 (……総悟が真面目に巡察してる時点でそもそも気持ち悪ィ。偶然の訳無ぇだろどう考えても) 薄ら寒い想像が尽きぬ侭、だがそれを悟られるのも本意では無い。平常心、と何度か胸中に言いつけながら土方は煙草をくわえて火を点ける。 (………いや。違うか) 楽観的な事を考えている、と、いつになく弱気な己に気付いて仕舞えば、眉間に力が込もった。 奉行所から沖田が尾行していたと言う事は無いだろう。だが、その後ならば解らない。ふらふらと急ぎ足でトイレに飛び込んだ所までを見て、わざわざドラッグストアまでイヤガラセのネタを購入しに行って……、 そこまでの一連の行動がただの沖田の『日課』だとまで楽観的には思えない。寧ろいつもの沖田だったら、土方が憶束ない足取りで歩いている時点で、背後から親切ごかした襲撃やらをしている所だ。 (万事屋……が言う訳無ぇし、山崎の口が割られたとも思えねぇ) 考えながら背後の気配を伺うが、その正体は如何とも知れない。いつも通り、と言えばその通りなのだが、いつもでは有り得ない様な奇妙な寓意が差し挟まれた、それこそ背筋が薄ら寒くなる様な感覚を憶える。 とは言えその違和感は、考え過ぎ、穿ち過ぎ、と言い切れば、それもそうか、と頷けて仕舞う程度のものでしかないのだが。 本音から先に言えば、沖田にも、近藤にも、事の次第は探られたくないし知られたくない。後ろ暗いのは確かだが、単純に、こんな事は出来れば隠しておきたい。出来なくとも噤んでおきたい。 恥や外聞よりも。銀時との間に憚る関係があった事実にと言うよりも。 真選組の不利を生むかも知れない可能性よりも、盾に取られたそちらを選び、屈服した事を知られたくはなかった。 手前の魂や信念を、一人の男の為に売り渡して膝を屈する様な真似は、やっておいて、あまつさえ『後悔はしていない』と認めていながらも、土方自身で未だ許せる事ではない。自身で律した局中法度に当てれば切腹は一度や二度じゃ済まない。 それが、手前自身にも真選組にも課した、『侍である』信念そのものを裏切った選択だとは思う。士道不覚悟の誹りを受けるのは正しい。 だが、責められるも咎めを受けるも、覚悟の上でも『今』あってはならない。自分のした事への尻拭いはしなければならない。佐久間老人にあるかも知れない罪状、或いは無いに等しい嫌疑でも構うまい。それを暴き、二度と万事屋に、真選組に、関われない迄に叩き潰してやろうと思う。 『狗』が諾々と尾を伏せているばかりと思っている様だったら大間違いだ。 これは、真選組の副長ではない、ただの土方十四郎として為さねばならない事だ。だからそれまでは、誰にもこの事を知られる訳にはいかない。 山崎は協力者だから除く。銀時は無用に他人にこんな事を触れ回る様な奴ではない。さて、沖田はどうだろうか。 日頃の曰く『日課』。土方殺害計画とルビを振っても良さそうなその儀式は、臥している間も嫌味を投げる程度の威力で続けられ、今に至るまでこうして続いている。 ……続いている、と分類して良いのかは解らない、実に厭な角度でのイヤガラセであったが。 (……問われたとしても、探られたとしても、誤魔化すしか無ェだろうな) 無駄に聡く、土方の苦労する様を見る為なら労力はさほど惜しまない沖田が最初の夜道の『襲撃』について思う所がない筈はない。だからこそ、担ぎ込まれて目を醒ましたばかりの土方に「随分ひでー面にされたもんで」と嫌味めいた一言を落として去っていったのだろうと思っていた。 元より銀時と土方との関係にも何かしら気付く所があった風ではあった。そこから邪推は幾つか浮かぶだろうが、果たして何の手がかりも無しにそれ以上に至るだろうかと考えると、有り得ないだろう、と言う安心材料めいた結論しか結局出ては来ない。 「旦那にゃ期待してたんですがねィ」 不意に、独り言の様な沖田の呟きが、土方の意識にすとんと入り込んで来た。この場に居ない者を指す単語に思わず顔を上げる。 すれば沖田の、歩きながら辺りを窺う様な、遠くへと背けられた苦い横顔に出会う。 屯所の方角に向かってはいたが、沖田が合流したことで何となく一日の終わりの巡察めいたコースを自然と取っていた。巡察だから先程の様な人通りの少ないうらぶれた道ではなく、繁華街や怪しげな店の点在する界隈を通る。そんな賑やかな雑踏たちの中だからだろうか、ぽつりと落とされた響きが何を言っているのかが全く知れなかった。 「ま、アンタがその様子じゃ、あん人でも匙を投げたくなりまさァね」 否。知りたくなかったのだと、その瞬間にこちらに視線を戻した沖田の、感情の全く読めない硝子玉の様な目に射竦められて、土方は静かにそう認めた。 「オイ、総悟…、」 「旦那に抱かれんのは気が楽でしたかィ?やっと、満たされて腑抜けたアンタの幸せ面に不意打ち一発ぶち込んでやれんのが楽しくなって来た所だってのにねィ。枯れかけたジジイの夜伽に勤しんでたのがバレた挙げ句に、別れ話でもやらかしやしたか?」 「──ッ!?、てめ」 侮蔑や嘲りの色さえも浮かんでいない無表情が何の先触れもなく叩き付ける事実に、土方は顔色を無くした。声を荒らげかけ、然し雑踏の群れの中に居る事に気付いて思いとどまる。人々は連れ立って歩く警察二人組になどさしたる興味も無さそうに通り過ぎて行く。わざわざ声を上げたり不審な行動を取って注意を惹く必要など無論無い。 先を行きかけていた歩調を緩め、隣に立った沖田の眼差しが無表情を保った侭見上げて来る。『日課』の土方虐めではこう言う時は普通、悪魔の様な微笑みを天使の様な造作の顔に浮かべているのが常だった。こんな、感情のまるで無い様な表情など向けて来た事はなかった。 ミツバの為に、彼女の婚約者であり犯罪者でもあった蔵場を見逃してくれと願いを寄越した時ですら、そこにはそれを突っぱねた土方に対する純粋な怒りがあった。それは、沖田が姉の事を何よりも大事に思っていた故の、思う様にならない土方の行動や信念に対しての反発と失望から出た感情の吐露だ。 なれば今、沖田の浮かべる表情の無い──然しはっきりと失望や侮蔑と知れる眼差しの正体は、果たして何から出たものなのだろうか。 元より土方の事を疎ましいと憚らず宣い、あらゆるイヤガラセを行って来た沖田だが、その根底にはちゃんと理由がある。それと同種の感情であれば、こんな淡泊に沈んだ表情になどなりはしない。 「別に俺はねェ、土方さん。アンタがどうなろうが何をしようが知ったこっちゃ無ぇんですよ。旦那に身体開かれて女にされてようが、小汚ぇジジイ相手に雌犬宜しく腰振ってキャンキャン喚いてようが、アンタの勝手だ。そんなんはどうでも良いんでさァ」 無表情の横目が見上げて吐き捨てるあからさまな揶揄に、土方の頬にカッと血が昇る。思わず周囲を伺うが、触れずに通り過ぎる人々にはこちらを少しも気にする風情など無い。 完全に猥雑なざわめきに埋没した、酷く不穏な会話。「夕飯何食べよっか」「待ち合わせ時間もう十分も過ぎてるんだけど?!」「いらっしゃいいらっしゃい!」「お前それは無いわー」「あははは」「今度一緒にさぁ」そんな平穏で暢気で無意味な他人の会話達に一滴混ざった毒の様な。 背筋がざわりとする不快感。蘇る吐き気を、カラカラに乾いた口を押さえて堪える。事実を指摘された羞恥よりも勝るその感覚の正体は、恐怖と焦燥だと、認めるまでもなく気付く。 沖田の事を茫然と見返す自分はどんな顔をしているのだろうか。言われた通りの『ひでー面』とやらを無様に晒して、彼らにだけは知られまいとした心の奥の最も柔らかで脆い部分を穿った激痛に顔でも歪めているのだろうか。 未だ二十歳にも達していない青年にそれを知られた事が後ろめたい、などと言う常識的な範疇の反応ではない。同じ志で同じ名前の剣を手に取った友らにだけは、侍の矜持を慕情ひとつで棄てた無様な姿など見られたくは、知られたくは無かったのだ。 耳鳴りと血流が身体の内側を叩き続けるだけで、何の言い訳も言葉も問い掛けも出ては来ない凍りついた沈黙。それを軽く払ったのは沖田の方だった。 「……なーんて。言うとでも思ってましたか?」 翻された言葉には先程までは無かった笑みの成分が乗っている。髪の色同様に色味の薄い瞳が明確な笑みを刻むのに、場違いと解っていても土方は思わず安堵を覚えずにいられない。 その僅かの感情の綻びを聡くも感じ取ったのか、「は」と嘲りの吐息をひとつ寄越した沖田の表情が、今度こそ紛れもない侮蔑の色に染められた。 「ジジイの萎びた一物くらいとっとと食い千切っちまえば良いんでさァ。今の手前ェは雌臭くて堪んねェや。胸クソ悪ィんだよ死ね土方」 いっそ旦那に斬られちまえば良いんでィ、と、いつものそれより辛辣な響きを持った棄て台詞を置き残して、沖田は歩調を早めた。「総悟、」呼びかけた筈の声が掠れて消えて、届かない儘見る間にその背中が遠ざかって行く。何故追いつけないのか、と疑問を抱きかけ、そこで漸く土方は自らの足の方がその場に止まっていた事に気付き茫然とした。 些か冷たすぎる嵐の様な不穏な今の時間が、果たして現実だったのかどうかすら判然としない。ぐら、と揺れる視界の中で奥歯を噛んで立ち尽くし、思い出した様に蘇る吐き気を堪える。 (総悟に知られ…、いや、知ってた……?) 長い時間をかけて、今し方の毒の海から結論だけを酷い痛みと共に取り出すが、そこから先の考えが纏まらない。いつ知られたのか、何を知っているのか、どう知っているのか、どうやって知り得たのか、何を怒っているのか、何を考えているのか。疑問は尽きない筈だと言うのに、それらの解答への推論すら開く事が出来ず徒に胸中の暗雲を引っかき回す。 何かが終わって仕舞った様な、何かを取りこぼして仕舞った様な不安定感が、ざわついて疑問と焦燥を訴え続けるとりとめのない思考をぐちゃぐちゃと絡まらせて行く。 いつもの様に脅す素振りを見せてこちらの反応を楽しんでからかい倒す心算か、と楽観的過ぎる答えを手繰り寄せて、脳裏に過ぎる無表情の侮蔑がそれを打ち消すのを黙って見送る。 そんなものである筈がない。悪戯やイヤガラセは沖田が日々楽しんで行う日課だが、これは──考えるも不快であると吐き捨てられたこれは、ただの……、 (……止めだ) 手繰れば手繰るだけ絡まっていく思索の糸を引いて、それが傷口に引っ掛かった釣り針の様な手応えを得た所で土方はかぶりを振って思考を放棄した。憤るも落ち込むも自嘲するも、今こんな所でするべき事ではない。 否。それ以前に。 (解りきってた事じゃねぇか…) ぼんやりと見下ろした己の掌から続く手首。腕。脚。胴体。醜悪な『狗』への躾の痕が刻まれたそれが、まざまざと思い知らせて来る事実に、覚悟が全く無かった訳ではないと言うのに。 銀時に、沖田に、そして──何れはきっと近藤にも。失望や侮蔑の視線を向けられる時が来るだろう。当然だ。真選組に顔向け出来ない様な真似をやらかして、誤ったのはきっと自分の方なのだから。 だと言うのに、そこから目を逸らしてどこまで己は無様に足掻くのだろう。溺れている事など解っているのに。縋る藁の一本さえ自分の手で投げ棄てたと言うのに、未だ藻掻いて何処かへ向かおうとしている。 (総悟にしちゃ、俺が無様に取り繕うのなんざ今更…、だったのかも知れねぇ) 後悔はないと言いながらも、知られるには後ろめたい。それは、己が正しい選択を取れていなかったと認めているのも同義だ。 だから、銀時に偽を簡単に暴かれ、その事実に打ち拉がれた事に今でも一丁前に傷つき、胃を引っ繰り返して痛苦に喘ぐ。 だから、総悟に在りの侭を突きつけられ、後ろめたさと居た堪れの無さに立ち尽くしている。 そして、自分の意に沿わぬ事はしない山崎に疵を晒して、自分は間違ってはいないから平気なのだと思い込む。 「──」 これはなんて無様で、なんて脆弱で、なんて怯懦なイキモノなのだろう。 侍の矜持を棄てたどころではない。何もかもをたったひとつの臆病風の為に投げ渡して閉じ籠もろうとしたこれは、土方十四郎と言う男以外の何者なのだろうか。 …もう、とっくに根は腐って仕舞っていたのだ。恐らくは初めから。間違えたと気付くよりもずっと前から。強い雨に打たれて枯れて、長く得ない日光と雨とに餓えて、土の底でひっそりと種子は死ぬ。何事も無かった様に、誰にも知られず死んで仕舞う。 賢しい理解と冷めない情熱との齟齬が、ぽっかりと開いた孔の様に、虚ろな空隙を静かに差し挟んで来るのに任せ、随分と長い間立ち尽くしていた気のする雑踏へと、土方は再び身を沈めて行った。 薄く笑いを刻んだ頬に、ぽたりと天から雫が降り落ちた気がした。 ゆっくりと空を見上げてみるが、そこは変わらぬ連日の曇天をその侭拡げる空模様が、土方に、江戸全体に、覆い被さる様に佇んでいるばかりだった。 。 /3← : → /5 |