恵雨乞う種 / 5



 結局いつもの見廻りの様な風情で市街を歩いた土方が屯所に帰り着いたのは日もすっかり沈んだ後だった。丁度夕飯の時間の始まった頃だったからか、幸いにも殆ど隊士と顔を合わせる事もなく私室へと戻ることが出来た。
 襖を閉ざせば、灯の気配のない部屋の中はとても暗く、静かで。夏の前だと言うのに酷く冷え切っている。
 吐き気はもう遠い。改めて食事を今すぐ摂る気には到底なれそうもないが、空腹感も感じない。ただ、澱の底の汚泥に足を取られた侭でいる様な重たい不快感だけがここに蟠っている。
 いやに冷えて、痺れている感じのする両の手指をこわごわ開いて見下ろす土方の表情は、憑き物が落ちた様な空白だ。生憎それを傍目に見る事の出来る者は誰一人として居なかったのだが。
 ここに触れる温度はもう無く、掴めた筈のものもない。指の間から砂がこぼれ落ちるのにも似た、一瞬の喪失感。
 失ったかも知れないものを、護りたかったものを、指折り数えるのはもう止めにした。そんなもの達は、己に絡みつく茨の養分にでもなって仕舞えば良い。数えて、繰り返して、嘆いて、そんな女々しい後悔を積み上げる為に選んだ途ではない。
 左手の人差し指を目の高さに立てると、土方は無造作にその爪に右手の指をかけた。ぐ、と強く引っ張れば、僅かの痛みを伴いながらも爪がぺろりと剥がれる。
 当然自身の本物の爪ではない。否、正確には一度剥がして貼り付けた爪だ。
 佐久間の『呼び出し』に応じた時はいつも着衣を纏った侭で居る事は許されない。奉行所の執務室であれば続き部屋になっている仮眠室で刀を外し隊服を脱ぐことを命じられ、私邸ではそれらは荷物として寝室から運び出される。
 流石に佐久間も馬鹿ではない。衣服に盗聴器や映像記録装置を仕込まれているかもしれない想定ぐらいはしているのだ。『現場』の証拠は土方にとっては真選組も含む己の醜聞にしかならないものだが、土方が──否、『狗』が自棄を起こして道連れを狙うのではないかと言う可能性を一応憂慮している。
 身に鎖のついた首輪の一つしか許されない事自体は老人の趣味の悪さの際立った嗜好のひとつなのだろうが、人間としての矜持を折る事と、土方の万が一の反撃の一手を封じる役にも立っていると言う訳だ。
 土方とて、自分はともかく真選組の風聞に関わるそんな『証拠』は使いたくないし残したくもないのだが、何がどう言った叛逆の牙になるとも知れない可能性にさえも縋りたいのが現状だった。
 衣服や刀などの手荷物にそう言った『証拠集め』の為の機器を仕込めないのであれば、己の身に仕込むしかない。とは言え、そう言った用途に使える物としてまず有効なのは集音装置だ。だがこれは薬物の密輸入などとは異なり、体内に仕込むと言う確実な手段は使えない。盗聴器を呑み込んだ所で外部の音など拾える筈もないのだから。
 なれば、後は何処に隠せるだろうか。後孔は論外。耳や鼻腔や口腔は発見のリスクが高い。裸身でいる以上皮膚に埋め込むのも同様。
 そこで思いついたのが爪だった。自分で剥がすと割りそうだったので、山崎に頼んで剥がさせた。大層厭そうな顔をしながらも特に反論はせず、爪の裏に仕込める極小サイズの集音装置──何処かの星からの密輸品だ──と強力な鎮痛剤とを用意して来た辺り、山崎もまた土方が研ごうとしている牙の深刻な必要性を同じ様に感じていたのかも知れない。
 死に体になってでも、それこそ狗の妖怪の様に、生首一つになってでも噛みついてやろうと言う執念と決意は確かにあったのだが、実際それは侭ならずに、良い様に弄ばれるだけの焦燥の時を徒に過ごすしか無いのが現状だった。
 執務室の書類を盗み見たり、電話などの遣り取りや佐久間自身の日々の行動に注意は払い続けて来たが、流石に老獪な男はそう易々と土方の付け入る隙など見せはしなかった。
 ギリギリの所で、私邸の書斎を泥棒よろしく漁ったりもしたが、神明党の存在を匂わせる様な証拠は疎か、攘夷浪士との関係性すら何も見えては来なかった。
 矢張り、神明党との繋がりなぞ端から佐久間には無かったのではないか。奉行所内部に疑いがある事実は変わらないが、佐久間老人はあの件に関してはシロなのではないか。そんな可能性もいい加減浮かんで来る。だがそうなると今度は土方の置かれた現状を打破する手段が何ひとつないと言う現実に直面する事となる。
 それが恐らく今有り得る最大の痛苦だ。なにもない、と言う無意味さに、折れそうになる心だ。
 坂田銀時と、彼の護るものたちが無事であれば良いと願い差し出した支払い額の重さをある意味で支えていたのは、彼の存在そのものだった。褒めて貰いたい訳でも礼を言われたい訳でもない。ただ、銀時が今までの様に暮らしていてくれればそれで良かった。
 だが、土方の記憶の中の銀時は、あれからずっと酷く冷めた顔でこちらを見ている。
 何勝手に余計な事してるのお前。それで何疲れて傷ついた様な面晒してるの。 そんな、否定以外の何の感情もない目で。
 嫌悪や侮蔑ならばまだいい。否定と言うそれだけは堪え難い。己のした事への後悔以外のものを生まないから耐え難い。
 (……今更、止まれる筈も止めれる筈も無ぇんだ。なら、叩いて埃が出るまで叩く以外の何が俺に出来るってんだ)
 それが無為になろうが。徒労になろうが。土方にはそれしか出来ない。反撃の牙を研いでいるのだと、そう抵抗する意識や意義さえも失って仕舞えば、もうそれはただの『狗』だ。
 剥がした爪の裏から、それより少し厚い電子部品の様なものを外し、人差し指と中指とで摘み上げたそれを見つめる。
 常に三十分程度の録音をするその中には、無様に、『狗』の様に啼く己の声が残されている筈だ。無論、何かを命じる佐久間の声も共に。今日は執務室だったが電話や余計な会話は殆ど無かった。聞き返すまでもなく何も益になる内容など無いのだが、後で全て聞いて確認しなければならない。理性の崩された己では拾い損ねた『何か』がそこにあるかも知れないと、徒労めいた期待を抱いて。
 ああ、今日は自分の指で慣らして強請る事を強要されたから、体内に突き入れた指はさぞかし卑猥で汚らわしい音を記録しているに違いない。
 思ったら、乾いた笑いが、喉を震わせる度にぽろぽろと剥がれ落ちた。
 壊れそうだ。
 何が?
 心が。或いはそれによく似た何かが。
 (は。この鬼の副長がそんな繊細なタマか?)
 崩壊するとしたら、それは自分だけで良い。気狂いを装ってでも、一人で立ち向かってでもあの老人を道連れにしてやろうとは思う。
 (それ以前に、こんな所で壊れてやる訳にはいかねェだろうが)
 馬鹿馬鹿しい気の迷いだ、と即断し、嘲りの色濃い表情を剣呑に歪めた土方は、卓の隠し抽斗に集音装置を放り込むと隊服を脱ぎ始めた。取り敢えず風呂に入って、それからデスクワークを片付けて、明日の早朝会議に提示する案件をまとめて、それから。
 ……ほら、まだ必要な事がこんなにもある。だから未だ、弱音も諦めも吐いて良い所ではない。
 
*

 人の多い時間では無かったが、大浴場は避けて夜勤時や病気の時などに用いられる個人用の一人風呂で湯を浴びた。
 手首の縄の痕については「仕事に支障が出る」と可愛げのない真っ当な抗議をした事で、以降考慮される様になった。……とは言え、単に痕の残りにくい素材の枷に変えられただけだったが。
 風呂場でいつも入念にチェックをするが、傍目には恐らく情交──否、被虐の痕などは見て取れないとは思う。何しろ鬱血の痕などを残す様な甘い関係では無いのだ(寧ろ願い下げだが)。だが、それでも大浴場を使う事を何となく憚って仕舞うのは果たして、良からぬ所業に対する後ろめたさからなのだろうか。
 剥がれた爪の痕を気取られぬ様に、指先にガーゼを巻きテープでしっかりと留めて、もう一度全身を隈無く確認してから、土方は寝間着代わりの浴衣を纏って脱衣所を出た。
 湯には浸かっていないから身体は温まっているとは言えなかったが、残滓を洗い流した事で気分は幾分すっきりとしていた。相変わらず身体も気もどこか重いが、この程度ならば何事もない風に取り繕える筈だ。
 そんな事を考えてから、取り繕う必要のある事態を思って土方は渋面を浮かべた。取り繕おうなどと意識して思って仕舞う程には、自分は普通ではいられていないのだろうか。
 後で山崎にでも訊いてみようと思う。何となく厭な顔をされそうな気はするのだが。
 「あっ、おーい、」
 トシ、と。馴染んだ響きが己の名を呼ぶのに、土方はゆるりと振り返った。この響きで土方の事を呼ぶ人は今は二人しか居ない。うち片方はこんな夜半に屯所に居る筈も無く。
 「近藤さん」
 呼べば自然と口元が甘く弛むのが解った。意識してではない、この人と向き合う時には自然とこうなる。それは微笑むと言うには至らない、ほんの少しの変化でしかない。土方自身山崎にそれとなく指摘されて初めて気付いた事だ。
 ここでは何も憚らなくて良いと、肩肘など張らずとも良いと。本能的な安堵が心を浸すのに任せて立ち尽くしていれば、何か良い事でもあったのか、笑顔の近藤が近付いて来て隣に並んだ。弛めてはあったが、こんな時間だと言うのに隊服姿で、息からはほんの少しのアルコールの匂いがする。
 確か、と局長の今日のスケジュールを脳裏に書き出してみれば、幕閣連中との会合を兼ねた慰労会──要するに接待だ──だったと記憶から答えが返る。
 列席するのは警察や公安関係の重鎮で、見廻組よりも真選組に便宜を持っており、幕府関係者の警護などの任務も持ち込んでくれる連中だった。また、彼らは予算回りにも関わる決定権の大きなウェイトを占めてもいる。幾ら真選組内部が現在騒然としていたとしても、ご機嫌伺いは欠かす事の出来ない、局長として宛われるべき重要な仕事だった。
 予定の決まった当初の近藤は、殺害された隊士の襲撃犯も挙げていない中で宴席など、と難色を示していたのだが、土方と松平との進言に推される形になり出席する事を渋々ながらに承諾していた。が、この様子を見るだに、どうやらちゃんと目的を果たして帰って来れたらしい。
 「遅くまでお疲れさん。忙しい中に下らない事を任せて悪いな」
 「いや。何であれこれも仕事さ。まぁ今日はとっつぁんも一緒だったし気楽なもんだったよ。なにしろ、不謹慎だが羽伸ばす心算でいろやって言われてたんだけどさ、言った張本人が一番羽伸ばしちゃってもう」
 松平の酒癖の悪さは有名な話だ。宴席の浮かれっぷりと「大変だった」と苦笑する近藤の振り回されっぷりを想像し、土方はそれに少し笑う。
 やっぱり大丈夫だ。まだ馬鹿な話に笑える程『普通』で居るのだから。
 近藤の報告兼土産話を聞きながら廊下を歩いて行く。その侭促されて局長の私室まで入り込めば、自然と酒が出され、穏やかな調子で会話が拡がり始めた。
 会合についての内容は後日近藤から改めて文書で提出して貰う心算だったが、世間話も交えてあれやこれやと遣り取りを交わす。恐れていた、今回の神明党の一件での叱責などは特に無かった様で、労いと、早い事件の解決へ尽力し給えとだけ言われたと言う。
 「そう言えばお奉行の佐久間殿から、副長殿はご健勝かねと言われたぞ」
 不意に、笑顔の侭の近藤の口からそんな言葉が飛び出すのに、土方は表情をさっと強張らせた。
 会合の面子を全員確認したかどうか。それすらも思い出せはしないが、真選組寄りの警察関係の幕臣の会合ならば、奉行である佐久間が出席しているのは当然だ。
 昼過ぎの執務室で『狗』をいつもの様に嬲った後であったとして。きっとあの老人は何事もない様に上等の着物を纏い、高級な車に乗って料亭へ赴いたに違いない。何でも無い顔をして、何も知らない近藤の笑顔や感謝の言葉を聞き、それを恐らくは嘲笑いながら酒と肴とを愉しんでいたに違いない。
 まるで近藤までも嘲り穢される様な心地に不意に陥り、土方の裡では憤怒と畏れとがない交ぜになっていく。
 自分だけならばいい。自分ならば幾らでも堪えられる。でも、真選組が、この人たちが嘲られるのは到底赦せなどしない。
 猪口を掴んだ手指が震えそうになるのを堪え、意識して表情筋を弛める。幸いにも言葉を口にした瞬間の近藤は徳利を傾けていて、土方の方を見てはいなかった。
 大丈夫だ。未だ。気付かれていない。取り繕える。なんでもない。
 「…そうかい。あのジジイがね」
 意図せず苦笑の様になった土方の顔に向け、近藤が諫める様に唇を尖らせた。ぴしりと指先で額を弾く様な仕草をして言う。
 「こらこら、ジジイとか言ったら駄目だぞぅ、トシ。佐久間殿は真選組(うち)にとって大恩ある御方なんだ。こうして副長(おまえ)の事まで気にかけて下さるくらい買ってくれてるって事だろう。後から礼と挨拶の文でもしたためたらどうだ?」
 「…ん。そうだな。そうした方が良いか…」
 笑顔で、年長者からの忠告めいた物言いをする近藤の表情にも、向けられる気持ちにも悪いものなど何一つ無い。それは解っている。解っているが、土方は上手い表情を形作る事が出来ず、曖昧に笑いを返すほかない。
 近藤は弟や子供を褒める様に鷹揚に頷くと、空になった土方の猪口へと徳利を傾けてくる。それを受けて一息に干すと、もう良い、と仕草を返してから、土方は強張った手指から苦労して猪口を手放した。
 何らかの異常を感じる程に空気は変わってはいない筈だ。だが、杯を傾ける手をすっかり止めて仕舞った土方の様子を前に、近藤は疑問符を浮かべながら首を傾げる。
 「…?大丈夫か、トシ」
 「ああ、…ちょっと疲れでも出てんのかもな。酒の回りがなんだか早ェみてぇだ。悪ィがそろそろお暇させて貰うよ」
 近藤の、気遣い以外の何でもない、優しさの乗せられた言葉から土方はそう言い繕って目を逸らした。遠くなった筈の嘔吐感や耳鳴りが、忙しなくなった鼓動に合わせて遠く近くに煩く響く。
 「何だかお前本当に顔色が悪いぞ。部屋まで一緒に行こう」
 「ガキじゃねぇんだし、良いって。あんたも疲れてんだ、酔っ払いの世話なんざで煩わせたか無ェ」
 立ち上がろうと膝をついた土方に先んじて、近藤はその横に回り込んで来ると、肩を支える様に手を伸べて来た。
 「っ、」
 自分よりも頑丈で逞しい手の、優しい気配を良く知っている。いるからこそ、まるで触れられたそこから冷え切って仕舞いそうな恐怖が不意に生じた。
 触れたものが冷えていく憶え深い感触。二度とは触れない掌の温度と優しさの感覚。
 己にだけ向けられていれば良い、屈辱や嘲りが、堪え難いその痛苦が、触れあった箇所から漏れて伝播して行く様な不安感。
 「トシ?」
 引きつった様に笑うのを止めた土方の、強張った表情を近藤が静かに覗き込んでいる。不審さではない、どこまでも心配しているだけの感情が、大型の野生動物にも似た優しい眼差しには確かに込められていた。痛い程に。拒絶したくなる程に。
 「……すまねぇ、近藤さん。実はちょっと最近疲れてて…、あんま具合良くなかったのに、あんたから報告を早く聞きたくてつい無理しちまったんだ。ちゃんと言っておけば良かったな」
 するりと、余りにも簡単に喉から滑り出た己の言葉に、土方は力無い笑みを浮かべた。失望か、はたまた自嘲でしかないそれも、きっと今なら、無理をして申し訳なかったと言う表情に見える筈だ。
 いつから自分は、この人にこんな風に嘘を吐ける様になったのか。いつから、こんな事に慣れて仕舞ったのか。
 副長として、清廉な局長には負わせる訳にはいかないあらゆる責や汚い真似を望んで負う様になって。それでもこの人の笑顔はずっと変わらなかったと言うのに。
 (…………なんだ。もう、とっくの昔っから、俺はあんたに顔向けなんて出来ねェもんになってたんじゃねぇか……)
 真選組の為の事であれば、汚れ仕事も平然と負った。あんたの為だ、などと近藤に向けて言った事もなければ思った事もないし、もしもその事を咎められたとしたら、全て副長の判断でした事だと言い切る心算だった。
 きっとそれでも近藤はその事を気に病むだろう。解っている。解っているからこそ、土方は自らが真選組の為にしてきた、到底表沙汰には出来ない所業の数々を墓場まで持っていく心算だった。僅かでも気取らせる様な真似は絶対にするものかと、強く思う。
 ならばこの、真選組の為の事ではない『汚れ仕事』には……どんな建前が通じるのだろうか。
 男同士の恋情に。あれだけ日頃相性の悪さを自他共に知られていた男に抱いた慕情に。貰った愛情に。育った感情に。対して明け渡したものには、個人的にした事だと言い切る程の正しさなどあるのだろうか。
 近藤や隊士らの向けるだろう侮蔑の念に晒されて、後悔はないと言い切る様は、果たしてどれだけの失望を生むものか。
 鬼の副長などと日頃は呼ばれている男が。男に抱かれる事を慣らされた身体を支払って、愛してくれたものの安全を買った挙げ句、それを失った事に平静で居られず憔悴していっているのだ。無様にも。惨めにも。
 連日の職務に因る疲労と、先の見えない無為にただ抗い続ける徒労とに、ひょっとしたら土方の心は、自分で思う以上に疲れ果てていたのかもしれない。
 思考が碌でもないネガティブな方向に傾いている自覚はあったが、それはまるで甘美な泥濘の寝台の様に、土方にまとわりついて離れない。
 「折角の酒を不味くしちまってすまねぇな。この埋め合わせは今度、」
 もう大丈夫だからと、日だまりの様な温度の優しい手をそっと引き剥がし、土方が腰を浮かせかけたその時。
 「トシ」
 言葉に被せる様に響いた呼び名。慣れきった響きには、名前だけで不思議な引力がある。
 咎める様な。留める様な。真っ向から何かを告げる時の声だと。短い二音だけで悟って仕舞った土方は、半ば無意識に腰を座布団の上へと戻していた。
 土方は思う。この人の言葉には安らぎや安堵と同質の、無視の決して出来ない効力があるのだと。
 親にも似て、兄にも似た、ただ一人の友として放たれる言葉には、土方の裡の過ちや誤りを是正しようとする強い意志がある。
 ここにはいつだって、銀時に対するものとは種類の違う、然し同じ様に、絶対に失いたくはないと願う気持ちがある。
 留まった土方が、続きを待つ様に近藤を見上げれば、近藤はその両肩に軽く手を乗せて来た。
 逃がさぬ様に。誤魔化されぬ様に。じっと、真摯な眼差しが向けられる。

 「最近、万事屋とは会っていないのか?」

 先程までと同質の。心配以外の何の恣意も孕まない声音がそんな言葉を紡いだのを理解した瞬間──土方の身体がびくりと大きく跳ねた。同時に弾んだ鼓動と呼応する様に。ざっと頭から血が引いて、乾いた喉が悲鳴を呑み込む様な音を立てる。
 まるでこうなることを予見していたかの様に、両肩に置かれた近藤の手が、震え出しかかる土方の身体を抑えていた。
 「っな……んで、」
 否、と脳が叫ぶ。なんてことのない世間話の様なものかも知れない。近藤には他意など何もないのかも知れない。
 ああでもそうしたらこの手は何なのだ。まるで怯える子供を宥める様な優しい手は何なのだろう。まるで今の自分のコンディションでは隠せない事を知っていたかの様に。誤魔化せないから逃げようとする道を塞ぐかの様に。
 否、と理性が叫ぶ。駄目だ。なんてことのない世間話なのだ。きっとこれは。意味などなにもない。
 「──なんで、あの野郎がここで出て来るんだよ?」
 土方は肩を竦めながら嫌悪に似た表情を浮かべてみせる。あの元攘夷志士が真選組の副長と特別親しいなどと、そんな事実は本来あってはならないものの筈だったのだ。だからこれは正しい。真選組の副長として、これは正しい。
 だが、両肩に置かれた近藤の手が、向けられた真剣な視線が、離れて行く事は決して無かった。
 「最近とんと見ないが、アイツはよくお前を訪ねて来てただろう。借りたDVDを返しに来たとか。飲み屋の支払いを持って来たとか言って」
 まるで普通のことの様にそんなことを言われる。隠そうと、理解出来ない話だと突っぱねようとする土方の言い分の方がおかしいのだと、そんな錯覚を憶えて仕舞いそうな──少なくとも近藤はそれを普通に受け入れ見ていたのだと言う様に。
 確かにそれらの話は事実だ。内容は何れも銀時のついた適当な嘘だが。
 そうそう毎度不法侵入をするのも面倒だったらしく、土方の迷惑顔も気にせずに、あの男は時折真選組の屯所にそんな理由を携えて現れた。門番の隊士幾人かと顔見知りになる程度の回数は軽く。
 「じゃ、用が無いなら来ねェのは道理だろうが。どうしたんだよ、近藤さん。あんな元攘夷志士のデケェ看板下げた様な野郎が屯所を出入りするって事の方が寧ろ問題なんだ。あの野郎も一度手錠掛けられて漸くテメェが犯罪者だって自覚が出て来たんだろ」
 皮肉げな笑い顔は作れているだろうか。いや、きっと上手くはいっていない。思って、土方は諦念の強い癇性に、今にも近藤を突き飛ばしてこの場を出て行き、頭を掻きむしりながら煙草を思い切り吸いたくなった。
 きっと自分はいま酷い表情をしているのだろう。それをじっと見つめる近藤の顔が一瞬泣きそうに歪むのが見えた。
 「こんどうさ、」
 「トシ」
 何であんたがそんな顔をするのだと、疑問を浮かべかけたところで、被せる様にもう一度名前を呼ばれた。
 静かな声は断罪にも似ている。抗う気などもう起きない程に慣れきった声音が紡ぐ響きが、はっきりと告げてくる。
 逃げるな、と。
 「お前は、万事屋…いや、銀時と、想い合う関係なんだろう?」
 「──、」
 なにをばかなことを。喉を震わせた筈の音が声にならない。
 否定も肯定も無い侭、近藤の静かな声だけが耳朶を冷たく撫でて、土方の心をただ凍えさせていく。
 いつから知られていたのか。いつ気付かれたのか。どちらでも同じだ。終わりが確実である事の一点に於いて、同じだ。
 真選組の副長として、元攘夷志士のしかも男と懇ろな関係にあったと、事実を淡々と突きつけられている今となっては。今までどれだけ必死で隠そうと足掻いていたのか。その徒労感が絶望の名前になって土方の心をじわじわと蝕んで行く。
 凍り付いた様に動かない土方に、近藤は狼狽の乗った声で続ける。
 「……あー。あのな、トシ。別に俺は、そのことについてをどうって言うんじゃないんだ。立場の違いとか男同士だとか、そんなんを言いたい訳じゃあないんだ。怖がらせちまってすまない」
 ぽん、と。子供にする様に頭の上に乗せられた手を、次の瞬間には土方は思いきり払い除けていた。
 ぱしん、と遅れて響く乾いた音に、一番狼狽しているのは土方自身だったと言うのに。一度出た手は、退く事を知らない。
 違う、違う、と何度も繰り返す。かぶりを振りながら。嘘も誤魔化しもなく、ただ違うのだと。言い張るだけの子供の様に。
 「っ、違うんだ、違うんだ、近藤さん…、俺は、!」
 「違わないだろう。良いんだよトシ。言ったろう、俺にはそのことを責めたり咎めたりする気など無いんだ」
 むずがる子供を宥める様な掌が、俯いてかぶりを振る土方の頬を挟んで持ち上げた。逃げ場の無い優しい眼差しに晒されて、土方はどう抗えば良いのかが解らずに唇を噛む。
 「お前が銀時の事を好きなのも、銀時がお前に惚れているのも、俺は前から知っていた。気付いていたけど、ただ見守っていたんだ。それで解るだろう?お前は立場や世間体を思ってきっと隠し通そうとすると思っていたから、したい様にさせていたんだ。それは今でも変わらん。お前の望む侭にしているのが一番良いと思っているんだ。
 だから良いんだ。俺には隠したり嘘をつかないでも良いんだ、トシ」
 そう優しく告げる近藤の眼差しに嘘はない。それは解る。解るからこそ、土方はぐっと唇を引き結んだ。咽せ返って喚きそうになる癇性を堪えて、もう一度かぶりを振る。
 「違うんだ。確かにそんな感情はあったかも知れねぇが、俺は、そんなもんの為に真選組を蔑ろにしようとしたんじゃなくて、」
 そうだ、これが最大の失態で恥辱だ。真選組の事よりも、あの銀色の男を選んで仕舞った事実が、近藤は知らない筈の事実が、土方の裡には確かに罪悪感として在る。
 ああ、そうだ。あの男への慕情の為に矜持を棄てた、この無様な為体を、この人にだけは見られたくない。知られたくはないんだ。
 混乱している、と土方は思いの外静かに認めていた。だが、冷静になど到底していられない。
 (この人は、俺の過ちを赦そうとしている)
 無論、近藤は土方と佐久間との取引を知る由もない。だから、それを知らずに『赦される』事は、酷く惨めで無様で──己を許し難い程の痛苦を伴うに違いない。
 「!──っこ、」
 頑なに否定を紡ごうとする土方に焦れた様に、近藤は土方の頭を自らの肩に押しつけた。とんとん、と宥める様に背中を優しく叩かれる。
 「なあトシ。お前は確かに俺や真選組の為にいつも尽力してくれているし、それを俺は凄く感謝している。し足りない程に」
 でもな、と続く言葉に静止をかけたくとも、温かく男くさい身体に封じられた唇も喉も、茫然とそれを聞くほかない。
 「だからと言ってお前の全てが真選組であって欲しいだなんて、俺は思っちゃいないんだ。
 解るか?トシ。お前がしたい事や貫きたい事、大事にしたい思いや護りたいもんがあるなら、それが真選組に関わるものでないからと、諦めちまう必要なんて無いんだよ。
 俺は、真選組(ここ)もトシも総悟も皆も全部大事だ。だから、真選組(それ)に縛られるばかりになんてなって欲しくねぇんだ」
 頭を強く抱き寄せられてなくとも、土方はただ言葉を失った。紡げないのではなく、真っ白になった。
 「お前が、真選組の為だからって、お前の望みや心を殺しちまうくらいなら、」
 やめてくれ。
 白く塗り潰された心でただ強くそう思う。
 そんな風に赦されたくなどない。
 だってあんたはなにもしらないから。何も知らせてないから。
 俺が今どんな無様で惨めな思いを抱えて、真選組よりあの男を選んで仕舞った事実に──後悔なんてないそのエゴに苛まれているのか。
 あんたは何も知らないから。
 あの男を選んだ、この醜くて厭わしい慕情の事を、知りもしないから。
 (だから、赦すなんて言うな──言わないでくれ!!)
 「俺はそんな真選組なんて要らんよ。
 お前や誰かの痛みを犠牲にしなきゃ生きられん様な、そんな侍でなど居たくはないよ」
 聞こえない様に叫んだ悲鳴をいとも容易くすり抜けて、近藤の、慕わしさと真摯な優しさの込もった声音は土方の耳朶を甘く叩いていた。
 黒髪の後頭部をあやすように何度か上下していた大きな手が、やがてゆっくりと離れるのを待って、土方はそっと近藤の肩を押して身体を引き離した。俯いた侭力無く笑う。
 「……狡い言い方は止してくれ。方便でも、あんたが真選組を否定する言葉なんざ、俺も、誰も、聞きたくねぇよ」
 誰あろう、近藤の夢と願いとを皆で一緒に叶えた、その形が『真選組』と言う解答だ。
 その近藤が、それを否定したくないからお前は赦されなければ駄目だなどと言うのは、まるで脅迫に近い。少なくとも真選組に心血を注いで来た土方には脅迫そのものだ。
 「…………すまんな。だがなトシ、お前がもしも、真選組の為に銀時への思いを諦めようとしているんなら、俺はやっぱりそれを見過ごす訳には行かん。これだけは、局長ではなくて、お前の友として言わせてくれ」
 卑怯な言い種であった事は自覚があったのか、近藤は少しばつの悪そうな調子でそう言って寄越すが、そこには土方同様の明確な頑固さを伴った響きが確かにあった。
 土方は反射めいて、それを厭だと思ったが、近藤に退く気がないのもまた明白に過ぎて、結局口を噤むほかなくなる。
 無言の侭俯いている土方に、やがて近藤はゆっくりと続ける。
 「…お前が仕事に専念し過ぎて、今こんなに疲れて弱っちまっている原因は銀時にあるんだろう?暫くあいつが来ていないって事は、…例えば何か擦れ違いがあって、お互い顔を合わせ辛い状況なんじゃないのか?
 俺は、今回の事件でお前が真選組の事に夢中な事であいつが拗ねて、そこからこう…拗れたんじゃないかと思ってたんだが……ホラ、あいつ子供っぽく独占欲が強い所があるだろう?」
 別れ話、や、喧嘩、と言う言い方だと重くなると思ったのか、近藤は最後には態とらしく茶化す様な調子でそう言って土方へと笑いかけて来る。
 思えば、土方が佐久間と取引をし、襲撃を受けたあの日の昼間。遅々として進まない捜査の進捗に苛立っていた土方が、近藤を捜しに行った恒道館道場で銀時に遭遇したあの時も。そして恐らくは他の時にも。
 (…こんな表情でこの人は笑っていてくれていた様な気がする)
 悪意も、嘘も、何もない。心配や労りや優しさ以外の、本当に何もない、そんな近藤の表情を見上げて、土方は居た堪れの無さに目を閉じた。
 アイツとはもう終わったのだと。だから無関係なのだと。どう弁解が出来るのか。
 否、きっと近藤の事だから、土方が真っ当にそう答えれば、では今鬱ぎ込んでいる原因は何なのかと慮るに違いないのだ。
 なんでもないのだと、誤魔化す事などきっともう出来ない。こんなに酷い面を晒しておいて、これ以上の無様な嘘を積む事など無意味だ。
 土方の沈黙をどう取ったのか。近藤は静かに言う。
 「トシ。どうかもう一度、考えてみてくれ。お前にとって銀時はどんな存在なのか。どうしたいのかを。
 お前がそれに答えを出す事が出来たと言うのなら、俺はそれを信じるよ。それがお前の決断なのだと信じるよ。
 だから、もう一度考えてみてくれ。お前はあいつを選んでも良いんだと、ちゃんと知ってくれ」
 何も知らないのに。何も知らない筈なのに。
 近藤の言葉は土方の裡で蟠る澱の底に正しく落ちて来た。
 銀時を選んだ事は間違いではなかったのだと。
 今一体、後悔以外の何の痛苦に苛まれているのかと。
 (……ああ、そうか)
 いっそ暴力的な激しい混乱の中で、土方は不意にそれに気付いていた。
 足下の石ころが玉石だったのだと気付かずに今まで踏み付けていたのだと知った様な、そんな呆気のない理解。
 
 俺は。
 お前が今笑っていないのが、辛くて堪らないんだ。





近藤さんはナチュラルKY。

/4← : → /6