恵雨乞う種 / 6 初めから、棄てる心算でお前の手を取った訳じゃなかったんだ。 お前の世界の裡に自分が確かに存在していたと知れただけで、嬉しかったんだ。 それだけで良かったのに。 お前の伸べた手があって。その先には照れくさそうに笑っている姿があった。 それだけで良かったんだ。 お前の護る世界を、きっと護れている。 ……それだけで。 良いだろう、認めてやる。 これは、悲鳴だ。 あれから、部屋まで送ろうと言う近藤の申し出をやんわりと断った土方が私室へ戻ると、先程よりも暗くなったそこには布団が敷かれていた。直ぐにでも休める様にと言うその気遣いは、風呂に行っている間に山崎が施していったものだろう。 平時だとして、土方が卓の上に書類が残った状態で眠って仕舞う様な事は滅多に無い。布団を整えた者も、この部屋の主が机に築いた小高い山を横目に眠る様な事はないと恐らく解っている筈だ。 だからこれは多分、出来たらゆっくり休んでくださいと言うメッセージだ。それ程までに今の自分は弱って見えるのかと、頼りない状態なのかと、穿ったそんな事を思って自分に失望する。幾ら『鬼』などと呼ばれているとは言え、土方十四郎と言う男は人の気遣いを真っ向から受け取る事も出来ない様な、そんな愚かで狭量な人間だっただろうか。 慕わしさや優しさや思い遣りの表れの様な布団は避けて、土方はその横の冷たい畳の上に背筋を正して正座し、ただじっと無言で虚を見つめていた。 頭の中では近藤に言われた言葉がぐるぐると回っている。 選んでも良いのだと、優しい声が囁きを寄越してくれるのに然しかぶりを振って、膝の上で拳をぐっと固める。 醜くて汚いものが心の何処かに巣くっているのには疾うに気付いていた。それが全てを蝕んだ原因であると言うのに、それが酷く得難くて堪らない。それを棄てたくない一心で形振りも構う事の叶わなくなった己が最も厭わしくて堪らない。 自己嫌悪に押し流されぬ様に力を込めて、土方は静かに認める。 あの男が笑っていれば良かった。 あの男の、血に塗れた過去がどんなものであったかは知らない。だが、きっと苛烈で凄惨なのだろう、その経験がつくりあげた男の酷く達観した人生観や自堕落にも見える現在の生き様はよく知っている。 金も時間も大事に出来ずに、人々の間をするりと抜けて生きて、僅かの縁でも涌いた情は棄てられない。それが自分の思った事だと、したい事だと決めたものには躊躇わない。まるで、明日死に別れても良いかの様に。 厭世観にも似て見える、世界を睥睨する眼差しはいつでも優しく、同じものを見ている筈なのに違うものを見出していた。 本当はみっともないくらいに寂しがりな癖に、何をいつ棄てても良い様な、何かにいつ棄てられても良い様な。そんな目をした男が、大事なものや人に囲まれて足を留め、酷く幸福そうに目を細める表情が好きだった。 それを見ている視線に気付いて、照れ隠しの様に下らない憎まれ口を叩きながらも、幸せそうな表情の侭でこちらに歩いて来るのを待つのが好きだった。 それらの感情を一度でも形にして表現したり、言葉で伝える事が出来なかった事だけが心苦しい。 お前が好きだと馬鹿みたいにそればかり繰り返して告げて来るのに、恥ずかしいから止めろと突っぱねて。それでも解っている様に伸ばしてくれるお前の手を、渋々と言った顔で受け取って。 だからだろうか、老人に持ちかけられた、彼の安息を護る取引を耳にした時に感じたのは、絶望と僅かの歓喜。お前を、お前の世界を、失いたくない大事なそれらを、やっと護れる時が来たと思い違えた。 あの時俺は何かを間違えた。護りたかったと思い、間違えた。 お前や、お前に幸福そうな表情をさせるものたちを失いたくない。だから護りたい。 その望み自体は間違えていなかったとしても、手段を見誤った。 やっとお前に何かを返せると嘯いて、それが刀以外の手段ではない事に絶望しながら手前の矜持を易々と売り払った。己を騙し、魂を折る事だと理解しながらも、護れず失う事を畏れた。 或いは。お前に、足を開く事を許して仕舞ったあの日から。 お前に、負けをくれてやっても良いと認めたあの時から。 こんなものでも、お前のくれた想いに応える事が出来るならと、己の身など殊更に道具か手段の様に思って差し出した。向けられた想いの重さと存在感と願いとに、そんな事でしか応える術が解らなかった。 ……あの時、そんな意地めいた行為の受諾ではなく、俺もお前の事が好きなのだと告げていたら、果たしてどうなっていたのだろうか。 想像の中の銀時は驚いた様に瞠目し、それから照れくさそうにはにかんで、手を伸ばして笑いかけてくれた。 埒もない、もしも、以上に意味のない都合の良い妄想だと、冷静な己の何処かが指摘を投げて来るのに、土方は仄暗さの灯った感情その侭に嗤った。 そんな想像ですらどこか薄ら甘い。ただの想像だから、縋る前に過ちと気付ける。 手遅れだったのだ。既に。否、本当は始まってなどいなかったのだ。 そして、侮蔑と失望とで終わった。 始まってもいない筈なのに、終わりだけは確実だったなんて、酷い話だ。 でも、もう良い。終わったのであれば、もう良い。 近藤の言った通り、望んでくれた通り、土方は銀時を選んで、そうしてそれが叶わなかった事に気付いた。初めから間違えていた事に気付く事が出来た。 棄てる心算で取った筈ではなかったあの手を、掴み損ねて取り落とした。何度も繰り返し思った様に後悔はないけれど、失ったものを思うと悲しい。失ってしまった事が寂しい。 だから、もう良い。終わったのだから。もう良い。 今度こそ何も憚るものは無くなった。沖田総悟にも、近藤勲にも、坂田銀時にも。 過ちを知り、残された土方がしなければならない事は一つだけだ。 銀時の生活や幸福を脅かそうとした者を、道連れにしてでも葬る事。 でっち上げでも、冤罪でも構うものか。真選組に喧嘩を売って寄越した神明党共々に滅ぼしてやる事。 思って、土方は口の端を吊り上げて嗤う。きっと酷く歪んだ、鬼どころか幽鬼めいた表情をしているのだろうと思うが、どうせこんな暗い部屋の中の事だ。誰も見ないし、誰も知らない。 布団端にじっと畏まった様に座る姿は、まるで切腹を覚悟した侍の様だ。介錯は居ないからきっと苦しみは長い。腹腔からの失血だけで死ぬには、相当うまいことやらなければならない。 誰かそっと首を落としてはくれないだろうか、と寸時思いを巡らせるが、生憎部下にも上司にも、そんな事をしてくれる人物の心当たりはない。それはひょっとしたら僥倖な事なのかも知れないなと思うが、幸福感を感じられる様な甘さは今は涌いて来てくれそうもない。 と。耳に飛び込んで来た、廊下を軋ませる足音に意識を叩かれ土方は埒もない想像から戻った。この、態と音を立てて来る小さな歩調は聞き慣れた、監察の部下のものだと直ぐに気付く。ノックや伺いに先んじて、覚悟と準備をお願いします、と言う、地味な男の気遣いの様なものだ。 ややしてから、土方の背中側にある、襖の外に膝をついて止まる気配。 「土方さん」 地味な声が呼んだのは、副長職の男ではなく、土方の名のほうだった。と、なると用向きは仕事の話ではないだろうと当たりをつける。 本当ならばこの侭一晩中何かを考えながら何も考えずに一人で座していたかったのだが、そうならば話は別だ。 「…入れ」 秒単位の逡巡を置いて応えれば、「失礼します」と、襖が引かれた。軽く頭を下げてから、仲居の様に殊更に丁寧でゆっくりとした動作で入ってくる山崎は、訪いはしたものの何かを考え倦ねている風にも見える。 「……夜分にすいません。お休み前でしたか?」 そうは思っていない様な問いだった。土方の背中に向けて投げられている視線には、気遣い…と言うよりは心配に質を似せた気配がある。 それもそうかと思う。真っ暗な侭の部屋の中一重一枚で布団の横、姿勢を正して座している上司の姿など、今まで見た事などない筈だ。見せた憶えもない。 「いや」 一言だけの簡素な否定は、構うな、と言う意味で口にしたのだが、実際音になって出てみれば思いの外硬い声が出て、土方は、うまくないなと思う。まるで拒絶している様に聞こえただろうか。 「それで、どうした」 山崎が訝しむ類の問いを投げて来るより早く続きを促せば、これもまた声が硬い事に気付いて仕舞う。不機嫌の最中か、それとも何かあったのかとも取れる。隠しきれない子供の癇性の様だと己にほとほと呆れる。 「…、報告です。本日の夕刻ですが、俺の監視対象だった隊士が不逞浪士の襲撃を受けました」 前者と取ったか後者と取ったか。斟酌する必要もない。真剣な口調でそう続けて来る部下を土方は振り返る。 「まだ襲撃の目的に関してのはっきりとした証言は被害者加害者何れからも出ていませんが、このタイミングですからね、口封じ目的だったのは確かでしょう。まあ浪士らの方は数日中には落ちると思います」 視線をちらと横に走らせて曖昧に言う山崎に、土方は理解を示す意味で小さく頷きを返した。つまり、取り調べ、と言う名の拷問中と言う事だ。 「今度は間違っても口封じされねぇ様にしろ。で、隊士の方は何と言ってる?」 「勿論です。隊単位ではなく、原田が自身含め個人的に選出した信頼の置ける人間だけで警備を回してくれているので抜かりありませんよ。 隊士の方ですが、副長の見立てた通りに隊士自体からは攘夷浪士との繋がりは何も出ていません。『上』から相談を受けた事で『気を遣っ』って、副長を襲撃した連中を拷問中に殺害した事については自供しました。……ただ、」 警備についての自信たっぷりな物言いから一転、そこで山崎は言葉を切った。歯にものが挟まった様な顔を作りながら続ける。 「残念ながら佐久間からの直接の打診、と言う証言は得られませんでした。仲介人を通したらしく、隊士が目にしたのは証書のみだったそうです」 件の隊士が、元々は家柄のある幕僚の縁者の出自で、幕府崇拝者として真選組に籍を置いた事は既に調べがついていた。それが山崎の判断した容疑者の絞り込みの決定打となったのは言う迄もない。そして土方の推測通りに彼は佐久間の名前を出した者に『便宜』を頼まれ、真実も詳しい理由も知らぬ侭に自ら手を汚して、土方を襲撃した神明党の浪士を取り調べ中──実質拷問だが──に殺めた。 「そこまであのお奉行も馬鹿じゃあないですね矢張り。隊士の記憶している限りの仲介人の人相で調べましたが、佐久間の周囲にはそれらしい人間は存在しませんでした。変装かもしれないし、誰か人を使ったのかも知れません。 勿論隊士も当初は疑いはしたと証言していますが、御紋入りの御免状を持たされた事で、本物であると確信しちまった様ですね」 「御免状?」 疑問の声を上げる土方に、山崎は小脇に抱えていたブリーフケースから、透明なビニールでしっかりと封じられた一枚の書面を抜き出すと差し出して見せた。 証拠品を示すシールの貼られたビニール袋の中には、皺のきちんと伸ばされた紙が入っている。触れずとも、それが公式な証文などに用いる上質の紙であると土方には解る。 書面には流麗な筆書きで、要約するに『この者のする事は御奉行によって保証されるので罪咎を与えるべからず』と言った旨が綴られており、末尾には佐久間の名と朱印、そして裏面──折り畳んだ時に上になる位置にはお奉行の御紋が押されていた。 「保険か。ついでに信用。……で、これは勿論」 ざっと文面と但し書きとをあらためた土方がそれを返しながら言えば、山崎は「はい」と頷いて返してくる。 「贋物です。証拠として用いれないのは承知で、公文書に記述された佐久間の字で筆跡鑑定を行ってみましたが、これは全く別人の手による物です。朱印も御紋も全て偽造でした」 受け取った書面に視線を落としながら言う山崎の口調は淡々としていたが、それだけに悔しそうな風情だった。 こんな贋物に保証を信じて、幕府の為にと思い込んで手を下した隊士の方が余程悔しい──と言うよりは無念か──事だろうが。 「まあ実際良く出来てるからな。あるかないかも知れねェ文書の偽造にしちゃ『らしく』したもんだ」 例えば土方の様な役職の人間であれば度々目にする様な公文書や密書の類であれ、一般人にはそうも行かない。『それっぽさ』をある程度備えた、然し急ぎ用意された様な簡素さが逆に真実味を持たせる。お奉行様の保証に護られた大義の為の殺人なのだと頼まれれば、幕府を崇拝する一介の武士にはまるで密命を与えられた様な優越もあっただろう。実に汚い事だが有益で無駄の無い手段だ。 然しどこか感心する土方とは真逆に、山崎は心底と言った感で悔しさを堪えた口調で言う。 「これなら隊士が証言した所で佐久間の言い分は、自分を騙った者が居る、と言う事に出来ますからね…。思ったより周到ですよ。隊士も利用されただけですからこれ以上の有益な情報も証言も得られません。神明党との繋がりを暴くどころか、これじゃあ…」 「或いは、本当に佐久間は神明党なんぞとは何の繋がりもなく、奴さんの政敵が仕組んだ謀り事かも知れねぇ」 土方が苦々しい言い種に重ねてそう言えば、どうやら自嘲的に聞こえたらしい。山崎が咎める様な視線を向けて来る。 「土方さん」 ここに来て目論見が外れるのも痛いが、佐久間に付け入る隙が無くなれば無くなるだけ、土方が佐久間との取引から解放される事がより難しくなる。だからこそそんな諦めの強い物言いはするべきではないと言う事なのか。山崎の言葉は少し強く、硬い。 (諦め……た訳じゃ、無ぇんだがな…) 己で諳んじてもどこか空々しいその響きに、土方は無言で頷きに似た仕草だけを返した。どちらとも取れる。肯定とも、否定とも。それを見つめて来ている山崎の表情は相変わらず浮かない。慮る様な、疑う様な。……それとも、心配する様な。 きっと肚が決まって仕舞っているからだろうかと。土方はそう思う。今すぐに自棄を起こしたい訳ではないが、佐久間と神明党に纏わる事実が黒であれ白であれ、明確な殺意と言う一点は固まって仕舞ったのだ。 「後の頼みは、その隊士を口封じに始末しようとしたって言う、不逞浪士達か」 「ええ」 僅かの間もなく山崎の首肯が返る。が、逆に態とらしい。 気休めをくれようとしているのだと。悔しさやもどかしさはなく、土方は淡々とそう気付く。 この分だとその浪士たちからも幾ら拷問した所で碌な証言は出まい。神明党の一員かその末端か、関係者である可能性はあるが、何者から指示されたかなど、恐らく望む答えは出まい。浪士らは嘘を吹き込まれて隊士を殺害に出た、或いは辿る事も出来ない人伝に『命令』されたか。そんな所だろう。 今までの経緯を追ってきた土方が痛い程に理解していたのは、彼の老人が思いの外に周到で、狡猾で、趣味が悪いと言う事だ。それこそ盤上の駒をじっくりと進める指し手の心算なのかも知れない。 然し、不愉快さは確かに胸の裡にあると言うのに、どうした事か土方に憤怒や苛立ちの感情は湧いて来なかった。苛烈で、炎の様な気性の、あの『鬼の副長』が。 諦めた訳ではない。ただ酷く平坦だ。 負ける心算はない。ただ昂揚感は皆無だ。 「…あの、副長」 土方の反応が余り芳しくない事に何かを思ったのか、狼狽の気配を携えた山崎が口を開いた瞬間、低い振動音が暗闇の部屋に響き渡った。思わず二人共が視線を音の出所、卓の方へと向ければ、書類の上に放り出された携帯電話が着信を示して震えていた。 立ち上がった土方が、二つ折りのそれを取り上げぱちんと開けば、薄く光るディスプレイの中には空白の名前が表示されている。 誰からなのか、とは言うまでもない。山崎にもそれを見せれば、息を呑み、不快さを示す様な気配だけが返ってくる。 (……何で、お前が俺の代わりに怒ってんだ?) 当事者ではないだけに、山崎にも思うところは色々とあるのだと土方は知っている心算でいたが、今は相容れない様な妙な温度差がある気がして、難儀なものだと嘆息した。 だが、山崎の憤慨を目の当たりにした所で。それでも土方は皮肉気な台詞一つすら吐けない。正にこの忌々しい話題の矛先の人物からの着信に、無言で通話ボタンを押した。 耳に受話口をを当てながらなんとなく壁の時計を見遣れば、時刻は丁度九時を回る所だった。 もしも昼に続きまた『呼び出し』だとしたらお盛んな事だが、それはないだろうとは思う。思いたい、のかも知れない。 「土方です」 老人が先に名乗る事はない。そして、余計な尻尾を出す様な真似もしない。 ああ全く。何事も苛々する筈だと言うのに、上手い感情をここに運ぶ事が出来ない。だから殊更に口調は平坦で、疲れる。 《今、少し話せるかね》 形ばかりの挨拶もなく唐突にそう言われ、土方は顔を顰めながら山崎の方を見、そして首肯した。 「はい」 別に電話越しなのだから憚る必要もないのだが、土方は軽く払う仕草をして山崎に退室を促した。受話口の音声が、室内に控える山崎の耳にまで明瞭に届くとは思っていないが、楽しい話題なぞどうせ出ては来ないのだ。碌でもない表情などわざわざ晒したいとも思わない。 山崎は暫くの間、あからさまに不機嫌──というよりは不満めいた渋面を作って土方を見上げていたが、やがて、諦めた様に息を小さく吐くと、口の動きだけで「お断りします」と告げ、開き直った様に背筋を正した。 居座る意図しかない山崎の態度に、土方は拳骨を握る仕草をしてみせる。殴られてぇのか、と直球の意で。 だが、それでも山崎が動く気配はない。通話をしている以上、言葉ではどうとする事も出来ないし、脅しの意味しかないジェスチャーでさえ躱され──否、真っ向から受け止められた。 山崎なりに、こんな時刻の佐久間からの連絡と言う事に、思い当たる何かでもあるのか。それとも全く別の理由によるものか。まあいい、と億劫さを半分に土方は諦め、通話に意識を集中させる事にした。 《今日の会合で君の所の局長殿の顔を久々に見たよ。相変わらず豪放磊落で面白い男だねぇ。部下がしっかりと働いてくれている事に何一つ疑いなど無い様だ。上に座る者はああして堂々たる姿を示していなければならんと言う良い手本の様だ》 「……近藤局長から伺っております。お気遣いの程痛み入ります」 受話口の向こうから聞こえて来る老人の世間話めいた切り出しに、ぴり、と神経の何処かが警鐘めいた痛みを訴えて来る。昼に散々好き勝手をしておいて、よくもいけしゃあしゃあと言ったものだと相槌を打ちながら、土方は壁に背を預けてずるずると座り込んだ。 全く、腹立たしい事もこの上ないと言うのに、やはりどうしたって土方に何かしら、自らの感情を端的に示してくれる様な有益な感情は涌いてきてくれそうもない。 麻痺しているのだろうか、と言う考えが寸時脳裏を過ぎる。 否、単に疲れているだけだ。 いっそこの老人が「張り子の虎は立派であるに越したことはない」などと、近藤を揶揄する類の暴言でも吐いてくれれば、勢い斬り返してやれる所なのに。 寸時そんな思考を流した己に気付き、土方は苛々と奥歯を噛んだ。仮令反撃の矛先を向ける方便だとしても、近藤への侮辱を望むなど。有り得ない。 (やっぱり疲れてるとしか言い様が無ェな、これは…) 脳裏に浮かんだ近藤の笑顔に謝り、土方は胸中に蟠った徒労感に素直に身を任せて項垂れた。何を話しているか気になるのか、山崎がじっとこちらを伺う様に見ているのに、視線を顔ごと背ける。 《それでだがね、君に少々頼まれて貰いたい事があるのだよ》 電話の向こうの老人の声音が、漸く本題を紡ぐ響きを見せるのに、「どうぞ、なんなりと」淡々とした声音が自らの喉を滑り落ちて行くのを土方はこれもまた淡々と受け入れていた。 ……殺意だけで良い。 そう、胸中で静かに転がせば、口元に自然と剣呑な笑みが浮かんだ。 嫌悪も、醜態への恥辱も、折れない矜持の屈辱感も、侭ならない苛立ちも、耐え難い憤怒も要らない。 殺意だけで良い。 (殺してやる) 疲弊した心の草臥れた悲鳴に、土方は強く目を瞑った。 良いだろう、認めてやる。 これは──、 … 。 /5← : → /7 |