雨降りの庭 / 4 「……、……、…、」 消えゆく声は喉に突き立てられた刃によって音にはならなかった。 ごぷり、と気管に溢れた血が男の口蓋を満たし、抜こうと反射的に思ったのか、震える手が刃を掴む。 思いの外の膂力に、簡単には抜けない、と判断した土方は、目の前の男が取り落とした刀を目で探った。一旦持ち替えようと判断は瞬時。横合いから飛びかかる殺気をひしひしと感じる中では逡巡ひとつがその侭死になる。 愛刀の柄を離したその時、男が激しく咳き込み、その口蓋から溢れた血が吐き出された。咄嗟に片目を閉じた顔に腥いものがどろりとまとわりつくのに背筋が粟立つ。 死の呼吸をする男を思い切り蹴り飛ばし、先程確認していた刀を掴むべく身を屈めるが、寸時生まれていた空隙に殺気が僅かに入り込むのを感じ、手を寄せるより先に顎ごと上体を思い切り逸らす。 ち、と頬の辺りに熱。土方の首を狙って振り下ろされた刃の先端はその侭肩から胸を浅く斬りつけるに留まり、浅かった事を悟った浪士が返す刀を振り上げるより早く、刃の背を手で押しつつ踏み出した一歩の逆足で顎を蹴り上げてやった。 ふら、と脳震盪を起こした浪士から刀を奪うか、先程拾い損ねた刀を拾うか。近いのは後者。ところが土方が柄に手を伸ばすよりも早く、背後から別の男が猪の様に飛びかかってきた。その存在がノーマークだった訳ではないが、失念はしていた。 クソ、と土方が毒づく間も無く、既に覚束無かった足下が人ひとりの体重のかかった突進に耐えきれずに転がり、横倒しにのしかかられた。罵声も上げたかったがそれ以上に周囲の状況確認をすべく頭を持ち上げかけ、頭を横向きに踏み付けられて封じられる。手で刀を、地面を探ろうと足掻けば、今度は掌を思い切り草履で踏み潰される。 そうする内に、突進してきた浪士が土方の体を仰向けに転がして馬乗りになっていた。自分より遙かに体重のある相手に遠慮無くのし掛かられた内臓や四肢が悲鳴を上げ、罵声どころか喘ぐ様な掠れた呼吸だけが出て終わる。 馬乗りになった男が、別の浪士から刀を渡されるのが見えた。 これが終わりか、と。その時意識に転がされたのは、まるで下らない三文芝居を観ている様な、感慨の無さ。 脳震盪を起こしていた浪士や他の、殺し切れなかった連中が、目的の達成間近と言う現状に気付いて歓声を上げるのが耳障りだ。 多分、自分は非道く醒めた目でそれらを見ていたのだろう。 浪士らの間に揶揄や嘲りの言葉が拡がり、めいめいの顔に宿った憎悪或いは興奮の眼差しが、地面に縫い止められた哀れな獲物を──本来であればこんな時にこんな場所に転がる筈もなかったものを見下ろしている。 恨みの正当な理由も、下卑た嗤い声も、ちらつかせられている喉上の刃も、無様に死のうとしている自分も。全てに何処か現実感がない。 手前の命の行方にさえ興味が無くなるとは相当だ、と、そんな事を思って小さく笑えば、刀の柄で横隔膜を打たれた。体が自然とくの字に跳ねて激しく噎せ返る。 どっと湧いた哄笑に晒されて大きく息をした時、土方の鼻孔に、さきほど顔面に被った腥いあの臭いがふと蘇った。 頬をぬるりと伝い落ちる血の感触が、間近の死よりも遙かに強い嫌悪感と拒否感を以て肌を一気に粟立たせる。 ぬめる舌の感触にも似た生ぬるさと吐き気をもたらす様なイキモノの生臭さ。 現実感の遠い世界の中でそこだけが厭に鮮明で、土方はともすれば喉から出掛かりそうになる悲鳴を呑み込んだ。 無意識に握ろうとした拳を草履で更に強く踏み付けられる。僅かの抵抗を嘲笑う声に、漏れる小さな苦悶。眇める目。 細い夜空しか覗けない隘路。翳された鈍い色の刃。どう嬲り殺してやろうかと交わされる声たち。 (……これは、何だ……?) この日に。こんな時に。なんの冗談なのだろうと嘲り喉を鳴らして笑えば、それが余程気に障ったのか、平手で頬を打たれた。 馬鹿げたこの死に様の理由を、あの男が知ったら果たしてどう思うのかと寸時考え、そんなのは御免だと強く思った。 だから、その時。ほんとうにタイミングよく、聞き知った靴底のリズムを耳が捉えた時には、都合の良い夢でも見ているのではないかと思えて心底に嘲笑いたくなった。腑抜けきった体にこんなにも重たい泥を詰め込んで、腑抜けきった心にこんなにも安堵を流し込んでくれたあの男に、こんな時でも縋ろうとするのかと。 転じた浪士共の声に、心底己を罵倒しながら視線を横へ転がせば。 夜の闇を裂いて、そこには白と銀色の姿が── * 不覚を取った、と。そう一言で説明するにも割り切るにも、件の夜の出来事は単純ではなく、もっとはっきりと言って仕舞えば『有り得てはならない事』の一つに分類される。 腕にも、鬼の二つ名も聞こえる、江戸を護る武装警察である真選組の副長が、三下の攘夷浪士達に殺されかけた、など。冗談事でも単なる風聞でも、決してあってはならない事だった。 故に件の出来事は『無かった事』にされた。土方と、助けに入った銀時が路地裏に屍と戦闘不能者を幾つか作っただけのそれは、『攘夷浪士共が分を弁えず土方副長に挑み、当然の様に返り討ちに遭った』事として判断・処理される事となった。銀時が気を失わせただけの幾人かも、情報を聞き出した後には不逞の輩として処刑されるだろう。 口は封じられる。たった二人の渦中の人物と、土方を運んだパトカーに乗り合わせた原田と隊士一人、知る義務のある近藤。そして枕元に正座し、地味顔をいつになく暗く思わし気な表情に固めながらも土方から経緯を聞き、どう内々に処理するかの段取りを作成する監察の部下を除いて。 元よりあの銀髪の侍がそんな『有り得てはならない』事実を軽々しく吹聴する男だとも思っていないし、真選組の仲間達は沈黙を守るだろう。 若干趣の異なった思いを、危うい所なのは承知の上で吐露せずにいられないのは、寧ろ当事者である土方本人の方だった。 「……情けねぇ話だな」 一部始終を出来るだけ客観的な物言いで説明し終えた土方は、最後にそう付け足して大きく息を吐き捨てていた。真っ当な言語ではなく、符丁などの単語で暗号めいた調書を記していた山崎は、自嘲の色濃い表情でいる土方に何かを言いたげに視線を少しだけ持ち上げるものの、結局口は開かず溜息も呑み込んだ。手にしているボールペンをくるり、と挟んだ指で器用に回し、彼以外の人間には内容の知れないだろう単語の刻まれた紙面に再び視線を落とす。 「人相や名前からして、恐らく連中は二週間前に挙げられた神明党の残党でしょうね。幹部の朝倉を含めた数十人は未だ手配中でしたから。大方、同志の復讐とかそんな所でしょう。五日前にうちの隊士が襲撃された件の犯人もこいつらでまず間違いないです。連中の所持していた刀からは隊士の血痕(DNA)が確認出来ましたから」 副長の補佐と監察を務める立場からか、山崎は隊の深く絡む攘夷浪士関係の事件の殆どの概要をほぼ正確に記憶している。当然土方の頭にもそれらの内容は入っている為、山崎の意見を受けて直ぐに該当するデータを脳内から検索する事は容易だった。特に懸念事項のあるものや重要性の高いものは常に思い出せる位置にある。 「…確か、」 件の話は記憶を巡らせるでもなく直ぐに出て来た。土方の眉間に深い皺を幾つか刻みながら取り出された記憶は、余り憶えの良いものではない。 「あん時は真選組(ウチ)の出動に奉行所が難癖つけて割り込んで来たんだったな。前々から別件で内定を進めていたとかで」 「ええ。結局あの縄張り争いの所為で朝倉らを取り逃がす結果になりましたからね。奉行所の方は狙った件での捕り物をまんまと成功させてたみたいですけど、こっちには良い迷惑ですよ」 その『取り逃がし』さえ無ければ、今こうして土方が布団に身体を沈めて不機嫌そうな表情をする事も無かったのだと、そんな事を言いたげな表情で山崎の漸く零した小さな溜息を、土方はより大きな吐息で吹き消した。今度は自嘲よりも苛立ちが強い。 「大きな動きも見せる様子は無ェし、桂や高杉らとも繋がりが無ェみてェだからと捨て置いたのが仇になったか」 手配はかけたものの、そう熱心に追い回していた訳でもない。神明党はテロリズムに生きる攘夷浪士と言うよりは、ならず者に毛が生えた程度の連中だったのだ。それこそ地域の奉行所が強盗や不正な違法物品の取引などの軽犯罪で検挙を狙う程に。幾ら幹部が混じっているとは言え、所詮そんな連中の残党だ、と、殆ど注意を払っていなかったのは間違い無い。 さほど気に留めていなかったのは土方もだが、山崎とて同様だ。手配だけをかけて放ったらかしにした、と言う点では申し開きも出来ない。だが、真選組にはそんな雑魚の残党に構う程に手が余っている訳ではないのも確かだったのだ。 五日前の夜。相方と離れ、単独で巡回をしていた隊士が恐らくは複数の人間に襲撃を受けた。 件の隊士は翌朝、人目に付き易い広場に首を落とされた亡骸を晒され、一時は真選組だけではなく江戸市民、マスコミをも騒然とさせた。 通常二人一組(ツーマンセル)以上での行動が義務づけられている真選組の任務に於いて、単独行動を行った隊士が規則違反を犯した故の自業自得、と言えばそれまでだが、組の面子も、仲間を卑劣な手で討たれた隊士らの怒りも相当なものだった。 犠牲者が直接的な接触などほぼ無かった末端の隊士とは言え、土方とてそれは同様で。そうでなくとも、葬儀で泣き崩れていた遺族が、近藤と土方の姿を目にした途端に、申し訳ありませんとひたすらに謝罪を繰り返しながら土下座をした姿は忘れ難いものがあった。 局中法度を破った訳ではないが、定められた規則を破った上での死は殉職ではなく寧ろ罪、或いは恥なのだ。真選組が成り上がりの侍の集まりとは言え、それは決して軽んじられてはいけない事だ。彼の隊士の遺族が没落した武家だったのもあってか、その感じただろう責は老いた夫婦の肩には些か重そうにさえ見えた。 ご丁寧にも真選組の揚げ足を取る様な報道では声高にその点が報じられ、それを隊士の誰もが正しく理解していたからこそ遺族は萎縮し、土方は襲撃者への怒りを、隊士の咎にではなく自らの不甲斐なさの引き替えに据えた。上に立つ者として表面ではそんな事はおくびにも出さずに厳しい処断を課しはしたが、規則を一瞬でも軽んじる環境を作ったのは上の責であり、重く受け止めなければならない現実だからだ。 ただその時点では、襲撃者を捜す事に全隊士が躍起になったが、それが件の神明党の残党だ、とは結びもついていなかった。 真選組隊士一名を複数人で卑劣にも襲撃した犯人達、を探す事は急務とされ、様々な過激派攘夷党が調べ上げられ、幾つもの的外れな捕り物が日々行われた。 そんな経緯もあってここ五日間は土方にとっても忙殺の日々だった。移動中などに仮眠は摂っていたが、本格的に身体を休める意味での睡眠時間は、計算した訳ではないが、恐らく半日分にも満たないだろう。 そして幾らそんな疲労を取り除く間も無い中の、外出だったとして。 (……情けねぇ、無様な話だな) 先程は忌々しく吐き捨てた言葉を今度は胸中でだけ飲み下して、土方は苛々と顰め面を作る。煙草を吸いたい所なのだが、一応医務室だからと、目の前の山崎に既に数度要求しては断られている。 今も、土方の渋面から言いたい事を察しでもしたのか、山崎は小さく首を左右に振って答えるのみだ。その山崎の無駄な聡さと煙草を吸えない現状とに苛立ちが更に募るのだが、ここで山崎に八つ当たりをしても仕方がない。寧ろ余計に情けなさが増すだけだろう。 (全く──あの程度の事で。腑抜けたもんだとしか、言い様が無ぇ) 厳密には、土方があの路地裏で受けたのは襲撃ではなかった。 真選組の面子を懸けた、焦りにも似た連日の捜査疲れの中で、神明党の残党を記した手配所の事などは土方の頭から抜けていた。土方が、真選組が今急務として最も優先して追うべき相手は隊士を襲撃し殺めた凶悪な攘夷浪士達であり、ただのチンピラじみた集団の、しかもほぼ壊滅した残党の存在などは意識に端から無かったのだ。 それに関しては土方の過失ばかりとは言い難い。隊士の誰もが恐らくは同じだった。犯人探しに忙しく立ち働いていた山崎にも件の残党共は全くのノーマークだった。 手配書の人相を脳裏に咄嗟に思い描ける状態になかったのは、徹夜疲れの脳の所為か、単なる怠慢か。どちらかと言えば後者であると、問われたとしたら土方は間違い無くそう答える。 己の過失に言い訳など不要だ。 仮令、それが原因で生命の危機に瀕したとして。 まずは一人。屯所に戻るべく急ぎ足で単身夜道を歩いていた土方を呼び止めた男がいた。 町人風の男は泡を食った様子で路地裏から飛び出し、「知り合いが突然襲われたのだ」と、隊服の上着を着ていなかったとは言え一目で幕臣、警察であると知れる土方の姿に飛びつき、助けを訴えて来た。 ここでなまじ「真選組隊士が襲撃されている」と嘘などをつかなかったのは上手いと言える。飽く迄一般人が被害に遭ったのだと、その訴えは否定や論破も出来なければ、棄て置けるものでもないからだ。 そしてすっかりパニックを起こした風の男に促される侭に薄暗い路地裏へと入り込み、斬られ倒れた男と、それを囲む連中を目の当たりにした。それは彼らのセッティングした『状況』でしかなかったのだが、薄暗く視界の悪い場所で、しかも蓄積された疲労と今し方負った瑕に浸された土方のコンディションではそれを咄嗟に看破する事が出来なかった。 警察である真選組の何某と知っても退く気配を見せない、己の実力も弁えないチンピラの挙動その侭の連中と状況とを見て、単純な喧嘩になる、と思い刀を抜き放った土方にまず襲いかかったのは、斬られ死んでいた様に見えた男だった。 襲撃者らの隙を見て、土方は被害者にまだ息があるのかを確認したかった。未だ生きていれば人質にされる恐れもあるが、それは同時に、処置が間に合い救助出来るかも知れない可能性をも意味する。 故に浪士らを牽制しながら慎重に被害者の方へ接近し。それがその侭仇となった事に気付いたのは、倒れていた男が土方の膝裏目掛け、身体の下に隠していた棒を叩きつけて来た後だった。 気付けなかったのは、それこそ疲労か怠慢か。日頃は鋭敏に過ぎる土方の反射神経もその瞬間には全く役に立たなかったのは確かだ。倒れ込む前に足下の男を無理な体勢で斬りつけ様、身を捩って出来るだけ仰向けになる様に転がった。追い打ちをかける様な刃の気配を横向きに身体を逸らして躱し、勘だけで翳した刀で別の刃を受け、上からの力に押し負ける前に相手を蹴り飛ばす。 状況判断よりも速く起き上がった所を、浅く斬りつけるに留まった『被害者』役に再び飛びつかれ倒れ込む寸前に、浪士らと相対した時に放り棄てていた自らの上着を偶然手に掴んだので、それを目眩ましの様に投げつけ、今度こそ一人を斬り捨てる。 死体役が本物の死体となった。浪士らの間にその瞬間走ったのは紛れもない緊張感。五日前の隊士同様に簡単に殺せると思った相手の思わぬ抵抗に、然し動揺はほんの一瞬細波の様に拡がり、直ぐに消えた。 これで、退いてくれるか、と考えた土方の期待は淡くも崩れた。 寧ろ彼らは強敵を相手取り、数の上や地の利の優位さは未だ通じると判断したのだ。後は自分たちの慢心を棄て、リスクや犠牲を承知で挑むだけだ。 今しか土方を殺せるかも知れない機会はないのだ、と確信を全員が浮かべていた。一個のイキモノの様に。 彼らの決意に似た執念を瞬間見て取った土方は、ここに来て漸く、連中が神明党の残党である、と言う事に気付く事が出来た。己の迂闊さ加減と腑抜けた精神と肉体とに苛立ちを最早隠す必要もない。自分にはただ、明確な殺意を乗せて襲い来る刃を捌く事だけしか出来ないのだから。 神明党の残党らにとって、真選組への仇討ちは至上の目的であったと伺える。彼らにどんな理由や物語があったかなどは知れないし、知る必要もない。土方にも生き延びねばならない理由ぐらいあり、その為には身体が動く限り剣を振るうしかない。 被った血の匂いに眩暈を憶え耳鳴りと嘔吐感が止まない。その足下が憶束なかったのは果たして連中に悟られていたのか。細かな手傷を負わされつつ、四人ばかりを斬り捨てた所で、最終的には──最初に土方に救いを求めて来た男に体当たりで押さえ込まれた。 完全なる詰みの気配に、笑いさえ浮かばない。後は散々に嬲られた挙げ句無様に路地裏に転がる亡骸になるのを待つばかりだった。 ……それは全ては己の怠慢でしかない。 手配書をよく記憶していなかったのも。 件の残党を全く気にも留めていなかったのも。 その所為でまんまと騙され襲われたのも。 疲労と徹夜と自身の責に追われた中で、ついぞ何かを求める様に万事屋に単身足を向けて仕舞ったのも。 (……最後のが、致命的だ) 数え挙げて小さく呻く。犠牲になった隊士と同じミスを真選組副長が自らなぞったのだから、『あってはならない事』である以上に笑えない。 昼間、いつもの様にストーカーじみた行動を行う事で、働き詰めの現場から少しでも土方を引き離そうとした近藤に、余計な世話を、と思う反面でそんな気遣いが嬉しくて、気が付けば事件が解決しない苛立ちを忘れて笑っていた。 だから、久々に真っ当に顔を突き合わせた銀時にも思わずその笑みを向けて仕舞った。僅かに戻った安堵の時間の延長線上には銀時が居てくれるのだと、その時の土方は疑いもしなかった。 大凡土方らしからぬ姿だったに違いない。それを見た銀時が具体的にどう思ったか、などとは知れないが、ともあれそれが恐らくは原因で、彼は気分を害した様にその場を立ち去って仕舞った。 近藤に無言で促された、何時間振りかの休息を折角だから摂るかと。甘味を奢るくらいの時間なら許されるかも知れない。そんな事を土方が考え初めていた矢先の銀時のそんな態度の意図や原因が知れず、どうにも上手くない感情を持て余しながら結局その侭仕事に戻り、夜半唐突に『呼び出され』て屯所を出る事になった。 その帰り途、約束などした訳ではないし面など合わせられるとは思っていなかったが、万事屋の住まいを見上げてみようと不意に思った。深夜だし訪ねる心算などなかった。ただ、そこに銀時が、万事屋が『居る』のだと確認したかっただけだ。 そんな私的な感情が、この為体の一端となったと言って過言ではない。 先程様子見に訪れた沖田も、土方らしからぬ失態が疲労よりも「単独行動を取った」事とその原因にあると概ね見抜いていたらしく、いつも通りの悪態を投げつつもその眼差しには呆れや侮蔑の色が灯っていた。 「なんでィ、怪我したって聞いて来てみりゃァ、随分ひでー面にされたもんで」 ノックも伺いも無しに医務室を覗き様、沖田の投げつけて来る辛辣な言葉と表情とを、曰くの「ひでー面」なのは承知で見上げて返す。無論、顔を多少打たれはしたが酷く腫れる様な程度ではない。腑抜けきった情けない、と言う意味だろうと受け取った土方には、真っ当に返すべき言葉も見当たらない。 見舞いの暇があるなら他の残党の追跡に入れ、と命令する事で、沖田の非難めいた視線から逃れた土方だったが、沖田が去っても、次には思わし気な表情を隠そうともせず調書を取る山崎が居る。 「……副長、」 渋面の侭溜息と自嘲とを繰り返す土方に焦れた様に、これ以上の報告も相談も無くなった山崎が遂に口を開いた。少し変わった声の調子から、それが今後の指針や事件に関してではなく、土方個人に向ける類のものである、と容易に察せて、また一つ胸中に重たい自己嫌悪が降り積もっていく。 「…その、余り気に病まれん方が。犯人の素性が捜査線に全く上らなかったのは副長の責じゃありません。連中を舐めちまっていた点は寧ろ俺の責任です。それに、まさかそんな連中が副長(アンタ)を狙う様な大胆な真似に出るのも、」 全ては予想外の事態で、土方の責任が全てだとは言い難い。連日の疲労もあった。昨晩に限って『悪いこと』が偶然重なっただけなのだと。 山崎の紡ぐ言葉は、土方の思った通りのよくある慰めの類だ。 確かに、全てを己の責にする程に土方は傲慢では無いが、己の身すら守れず無様に死ぬ所だった、その事実一点に於いては妥協も開き直りも出来る気がしなかった。山崎とてそれは解っているのか、言い辛い筈の気休めを敢えて真っ向からぶつける様に言う。だが、下手に気を回されるよりは土方の気が楽だろうと言う、それもまた、気遣いだ。 「山崎、もういい。別に馬鹿な事は考えちゃいねーよ。こっちは良いから、お前は逃走中の残りの連中を挙げる方に回れ」 布団端に正座し、膝の上で両の拳を固めていた山崎は、土方の命令にほんの少し逡巡する様な間を置くものの、やがて 「…解りました。差し出がましい言い種を、済みません」 弁えを知る賢しさか、はたまたそれを隠しきれない若さか。どちらとも取れない様な不透明な首肯一つを残し、記した調書を小脇に抱えると、山崎は申し訳程度の声音で暇を告げて立ち上がる。 「…山崎、」 音を認識してから初めて、自分が呼び止めたのだと気付き、土方は背筋を密かに震わせた。着物の袷を誤魔化す様に掴む。 「はい?」 振り返る山崎の表情は、いつもの質と変わらない、様に見える。先程までの様子に伺えた、申し訳無さや不甲斐なさは一切見て取れない、酷く平時の見慣れた地味なその姿に、続けるべき言葉が浮かばず土方は狼狽した。 問うべきだ、とは思う。 山崎の事だから、疾うに確信しているかも知れない。医務室に運び入れた後、医療班を呼ばずに一人で土方の怪我の程度を診たと言う彼の行動は、暗にそれを示しているとも取れる。 幾ら薬学や医学の心得があるからと言った所で。土方が負傷した事が『無かった事』にされなければならないからと言った所で、本来山崎の手に余るだろう状態の土方を医療班の誰にも任せなかったのは、それを土方ならばきっと望まないだろうと理解しているからだ。 知っているのか、と。問うべきだ。 だが、振り向いた山崎の様子が余りにもいつもの侭だったから。土方は澱の中からどろりと首を擡げた問いを呑み込んだ。 「…いや。なんでも無ぇ」 草履で踏み躙られた右手には包帯が丁寧に巻いてある。左手にも同じ様に。仄暗い思いにともすれば囚われそうになる感情を真白なそれに映し見て、土方は出掛かった言葉を拳ごと握り込んだ。厚く優しい布に阻まれ、爪は掌に決して食い込まない。 「………傷、痛む様でしたら、そこに痛み止め処方しときましたんで飲んで下さい。くれぐれも無理せんで、大人しくしといて下さいよ」 己の手をじっと見る土方の動作からそう悟った事にしたのか、枕元を指さした山崎は柔い笑みを口の端に乗せて寄越した。 そういうことなのだろう。 思いの外に静かな感情で思い知った土方は、自嘲めかした言葉を吐きかけて止めた。代わりに、「は」と笑う。 「一日は寝ててやる。明日からは溜まった書類の片付けぐれェはさせろ。傷が治っても部屋が仕事の山じゃァ、治った気もしねーわ」 「アンタの辛抱はたったの一日なんですか…。まぁいいです、お元気な様なら何よりですとも」 じゃ、書類運ばせる様にしときましょう、と、いつもと変わらない、どこか軽い悪態の混じる様な物言いを残して山崎は今度こそ土方に背を向けた。 …………そういうこと、なのだろう。 ぐ、と湧きかけた嘔吐感に似たものを堪え、土方は枕に頭をことりと落とした。 怪我の痛みより、脳に重たい鈍痛。それでも、甘いエーテルに浸されて、最も痛む瑕には決して触れない。触れてはいけない。 ……………………そういうこと、にしなければならない。 そう言う事にしておきましょう、と。声にはしなかった山崎の気遣いを、土方は拾わなければならない。仮令それが飲み下す事でとてつもない痛みや嘔吐感を伴うものであっても、そうするべきなのだ。自分の感傷や苦痛を一時楽にしたいだけの我侭で、ただ自嘲し続ける様な腑抜けであってはならない。 「手前ェ自身の事を、甘やかす心算なんざ…、無ェと思ってたんだがな」 乾ききった声で呻く。たった今、部下に甘やかされた奴の言える事でも無いのだが。どうやら今回は万事屋ばかりではなく、あの地味顔の部下にも相当自分は世話になって仕舞ったらしい。思って土方は長い息を吐いた。溜息の心算はない、ただの息継ぎ。 (……だから。てめーが、俺に対してでなく、手前ェ自身に憤る必要なんざ無ェんだよ……) 不甲斐ない。その一言を胸中に呑み込んで仕舞い込んだ様な山崎の、彼らしくもない硬い表情を閉ざされた襖まで追い掛け、土方は意図せずこぼれそうになった舌打ちを寸での所で止めた。その代わりに枕元の痛み止めとやらの錠剤を乱暴に掴み取り、口に放り込むと、水差しから直接水を煽り、吐き気を堪えて無理矢理に嚥下する。 水の滴る顎を乱暴に拭った土方が再び後頭部を枕に戻すと、ほどなくして程良い酩酊感に似た睡魔が訪れる。 それに余り逆らわず、ぼんやりと天井板に物思いを描いてみる。 本来、山崎は土方と同じ考えを沿って持ってはいけない立場だ。──否、正確に言うと、土方の思考以上の可能性を常に考慮し、提言出来るならしなければならない役割も持つと言う事だ。ただ愚鈍に命令に従うばかりでは監察の役は成せない。時に土方の事ですら疑い、見誤りや間違いや助言を探さなければならない。それ故に山崎は監察方でありながら副長の補佐も行うに至る。 だからこそ。山崎は、今回土方が仮想敵に示した中に件の攘夷党の残党の存在がまるで無かったのであれば、その可能性をも示唆して考え、土方へと提言しなければならなかった。 土方や近藤、隊士らの目が向く方角には注意が疾うに払われているのだ。なればこそ、寧ろ後ろや足下の警戒をしなければならなかったのだ。 偶然にも、か。それとも隊士の襲撃と言う事件で浮き足立った心があったからなのか。山崎は土方の見据えた仮想敵のみをその侭警戒した。それ以外の可能性を端から排除して仕舞っていたのだ。 結果。 ……血に塗れ、意識を失った土方の姿を見て、その時山崎が何を思ったかは想像に易い。その時点では未だ下手人達の正体までは知れなかったろうが、正体不明の集団に因って先の襲撃事件の隊士同様の手口で土方が斬られた、と言う事実から既に、それが自分や土方の警戒しなかった角度のものだ、と推察出来たに違いない。 そこに来て、土方の裏口からの外出を容認した事も多分にある。再度の襲撃に警戒するこの時期だからと何がなんでも止めるか、自分で送り迎えの運転手まで務めるべきだった、と、後悔もしただろう。 (てめーの過失じゃねぇ。……あれは、俺が思うよりずっと腑抜けた事考えてた、俺自身の油断や失敗で起こった事でしか無ぇんだ) ……とは、既に医務室を去った山崎には、伝えてやりたくとも届かない。伝えられるものでもないが。そのことにまた一つ自己嫌悪を積み重ねて、土方は寸時の間目蓋をきつく閉ざした。 手前の見た馬鹿に因って、部下が角度の違う落ち込み方をするのは間違っている。途方もない程にそれだけが理解の中に重たくのし掛かっているのを感じて、土方は忌々しい表情を浮かべる自らの顔を片手で覆った。 それでも、万事屋の姿を見たいと思う、そんな己の願望こそが、今は最も疎ましかった。 山→土が熱愛敬愛モードなのは平常運行。 /3← : → /5 |