霞雨 / 3 自分で自分を嫌いだった事は、多分昔から幾らでもあって。 でも、自分は自分を止められないから、そんな自分を好きであろうと嫌いであろうと、なんとか折り合いを付けて生きて行くしかない。 嫌いなら、嫌いで良い。愚かだと罵るならそれで良い。 茨の中に棲む自分を、外から呼ぶ声は何度もいつだってあった。 それでも頑として茨の裡に留まり続けたのが自分だ。 そういう人たちのきれいな心ややさしい手を傷つけてでも払い除けて。 だからこそ、何の忌憚もなく自分を嫌いだと言って憚らない、あの子供の小憎たらしい顔や所行は、少なからず自分をいつも安心させてくれていたのだと思う。 茨の絡んだ手は、伸べる迄もなく受け取られない。 伸べてみれば、掴んだフリをして斬り払ってくる。 そんな、小憎たらしい子供が近くで自分を嫌い続けてくれて居たからこそ── * 「な、なんだ?!」 「闘技場が!」 膳を前に悠然と愉しんでいた幕臣達が泡を食った様子で腰を持ち上げた。狼狽えた彼らの視線は落ち着き無く周囲と、闘技場とを見回している。 頑丈な観戦席の壁や闘技場を睥睨する硝子には傷ひとつついていなかったが、地から響く様な音と振動とが地下空間の全体を、ひととき不気味に揺らした。 窓から見える、周囲の他のVIP用観覧席でも同じ様な騒動がどうやら起きているらしい。贅に余した連中は、得てしてこう言った緊急事態に弱い。まさか己には『何か』など起こりはしないのだと、SPに常に護られる身はそんな日和った思考になって仕舞うものなのだろうか。 倒れている土方を押し退ける様にして、佐久間が窓から眼下を見下ろす。その額に伝う脂汗は、これが老人の口にした『最後の余興』とは異なるものであると雄弁に語っていた。 重たい着物を掻き寄せて、土方は畳の上に尻をついた侭、誰もいない窓際へと身を寄せた。何とか首を擡げて眼下を伺おうとするが、闘技場も、階段状になった観戦席も、白煙に包まれ様子が知れない。 (爆弾、だ) 逃げ惑う人々は兎も角、地下空間を構成する構造物そのものに被害が伺えない所を見れば、そう威力の高いものでは無い様だが、音や振動の距離を考えると、偶々なのか、ここから眼下の闘技場に至る迄の壁面かどこかに仕掛けられたものなのかも知れない。 (偶々、の筈が。ある訳無ェ…!) ぐ、と軋む身体を僅か持ち上げる事で己を叱咤し、土方は眼下の煙の中に少しでも状況を伺えるものはないかと目を必死で凝らした。 あいつがこんな爆発程度でどうにかなって仕舞うとは思えない──思いたくはないが、無事を確認するまではおちおち安心してもいられない。 偶々、ではない。 ここに来て、佐久間の居る観覧席に近い場所での『爆弾』の作動。間違いなくこれは、朝倉ら神明党の仲間を奪還せんとする、坂巻らの指し手だ。 但し今度は線路に仕掛けた示威表明ではない。勝負に出た、と言う手。 とは言え、此処に佐久間との『取引』に坂巻が呼ばれたとしても、坂巻が投宿した部屋は地下煉獄関への直通エレベーターの通っていない階層だった。と、なると、坂巻らに地下の所在と、そこに佐久間や朝倉が居る事を何者かが告げ、一般観戦客の使う入り口などへと誘導したのだ。 (って事ァ、俺の情報は上に届いた筈だ。なら、動いたのは山崎か?) 坂巻らが佐久間に敵対する立場になった時点で、連中を陽動に使う手は有効手に違い無かった。そして今の山崎にならその工作は容易いだろう。 ちらりと左手の人差し指を見る。そこには普段と何も変わらぬ己の指先と爪とがある。だが、軽くなったその下に録音装置はもう無い。 土方が『上』へと持ち帰る様に渡した、佐久間らの犯した犯罪の行為の数々を『本人の口が直接語った』と言う、何よりの証拠である録音装置は、これからこの煉獄関を摘発し、佐久間やその仲間が完全に失脚させられるには充分過ぎるな材料となる筈だ。 坂巻らのこの行動が現状をどの程度まで動かすかは知れないが、闘技場に彼らの仲間である朝倉がいたのだから、それを巻き込む様な愚は犯すまい。と、なると、その相手をしていた黒い鬼面も無事と言う事になる筈だ。 (ザマぁ、みやがれってんだ…) 思わず、く、と喉を鳴らして嗤った土方の声を聞きつけたのか、佐久間は足音荒くこちらへと戻って来るなり、顔へと鋭い平手を浴びせてきた。 「っ」 身構える間もなく振るわれた暴力に、土方はがくりとその場に膝をつく。そこに更に再び、腹部へと容赦のない爪先がめり込み、横倒しに倒れた所にまで足が振り下ろされる。 「がはっ、」 胃酸と口中の血の混じった咳を繰り返しながらも、口角をわずか持ち上げた表情を崩さない土方へと、佐久間はのし掛かると首に手を掛けて来た。 「この、駄犬めが!これだけ自らの立場を思い知らせてやろうとも、猶も飼い主に牙を向けようとするか…!」 怒りの滲む形相で、土方の首を掴む手がめきりと音を立てる。 「っは!…か、ぁ、あ、」 頸動脈を落としに来ない、素人の手つきだ。首輪ごと気道を潰される息苦しさに、土方は容赦なく佐久間の手に爪を立てた。暴れ回る脚が老人の頭の直ぐ横を薙ぎ、そこで漸く佐久間は土方の首から手を離した。 急激に酸素の行き通る肺に、喉がひゅう、と音を立て、土方は蹲った侭噎せ返り、必死で呼吸を繰り返す。決して抗えない暴力と言う訳では無かったが、何故か抗おうとも思わなかった。 己の脆弱さと、自嘲めいたその行為とに忍び笑いながら、土方は長い単衣の袂をそっと掴む。 「佐久間殿。下の騒ぎがどうであれ、この席は安全でしょう。少し落ち着かれては如何か」 口を開いたのは幕臣仲間の一人だった。騒ぎに少々狼狽えはした様だが精一杯表情には出さぬ様にしているその姿を一瞥すると、佐久間は苛々とした様子で上げ床から降りた。 「どちらへ、」 「羅刹を出しに行く。愚かな狗めの余興になど付き合ってはおれぬわ!」 その背を追う声に、怒りを顕わにした叫びを返すと、佐久間は足音荒く観覧席を飛び出した。 残された形になる幕臣らは、常の余裕など欠片も持たない佐久間の変貌ぶりに、呆気に取られた様に顔を見合わせている。騒ぎが闘技場だけの事と知れたからか、何度も額の汗を拭ってはいるが、大分余裕の体を取り戻している様だ。 佐久間があそこまで怒りを滾らせているその理由は、これが土方の──狗の謀ではないかと思ったからに他ならない。その的外れな憤り故に理不尽な暴力を振るわれた訳だが、これで結果的に、土方の謀では無かった筈の差し手が、手番を回してくれたことになる。 自らの余興を締め括る手番となる筈のタイミングで差し挟まれた手が、冷静ではいられぬ程の怒りを呼び起こした。そんな老人が果たして、対する次の手をも上手く指せるだろうか。 牢はもう解放されているだろうか。工作に抜かりの無い事を信じて、土方は殴られた事で無駄に使った体力の回復を僅かでも図りつつ、筋肉の緊張を倒れ伏した侭でゆっくりとほぐして行く。 「皆様方、ご無事ですか」 そんな所で、佐久間の開け放った侭でいた戸から、不意に下男が顔を覗かせた。 「佐久間様はどちらへ…」 彼はゆるりと覆い越しの目で室内を見回し、佐久間以外の人間がそこにいる事と、状態とを確認し、おずおずとそう問いを発する。 「羅刹を動かすと言っておった故に、控え室へ向かったのではないか。 それよりも、この騒ぎは如何様なものなのか説明せよ」 この期に及んでまで膳を前に酒でも愉しもうとでも言うのか。幕臣の一人が上げ床の上でふんぞり返りながら言い放つ。呆れた危機感の無さとしか言い様がないが、下男は阿る風情で低い頭を更に下げた。 「賊どもが闘技場へと侵入した様子です。鎮圧を急いでおりますので、今暫くお待ち下さい」 その言葉に──己の安全の保証に──一応僅かに残っていた緊張を消し去る事が出来たのか、幕臣らはそれぞれ密やかな嘆息を交わしつつも黙った。小さくなった下男は彼らの様子を伺い見て、それから部屋の隅に居る土方の姿を視界へと捉える。 「佐久間様のご注文の御品をお持ちしましたので、こちらへ置いておきます。危険な物ですので、取り扱いには注意をとの事です。 あと、振動で脆くなっている可能性もありますので、余り窓にはお近づきにならないようお願いします。上から何が剥がれ落ちて来るとも知れませんので」 手早く言い置くと、下男は廊下に置いてあったらしい長櫃の様な形状の木箱を室内へと運び入れた。ついでにか行きがけの駄賃の様に、先程の振動で辺りに散らばっていた膳などを横に除け、もう一度頭を下げてから観戦席を出た。扉を、閉じる。 「佐久間殿も、意外と小胆な御人ですな」 「あの慌てぶり、一体どうした事か。あ奴と指しておってもあの様な為体、ついぞ目にした事がないわ」 同志、仲間とは言え、所詮は足の掬い合いをする者らの所行。幕臣らは今し方目にしたばかりの佐久間の様子を囁き交わしては笑い合っている。闘技場の騒ぎ──下々の事など最早気に留めてもいないのか、下男の口にした『鎮圧中』の言葉を額面通りに信じ、膳の前に悠然と構えている。 成程、そんな危機感の無い日和きった様を目にすれば、佐久間の賢しさも幾分好ましく思えるから不思議なものだ。 こう言った輩の護衛と言う任務は度々回って来るものだが、肉体的より精神的に大いに疲労させられる。 自らの危機感を知らぬ者へ、どう『危険』を伝えるか。それが実の所護衛任で最も重要で面倒なものである。護衛対象の当人が危機を感じていないと言うのは、襲撃者の有無を問わず厄介な事この上無いものだ。 日頃の己の苦労をそんな風に思い出せば、これを、楽、と言うべきか。少々悩ましいところだ。 呆れ混じりの溜息を吐き出して一息をつき、土方は横たわった侭室内を静かに見回した。 四人の幕臣はそれぞれ、上げ床の上で手酌を再開させている。暢気なものだ。 入り口付近には二名の護衛。浪士の様な風体の男二人は、木刀を腰に下げて室内を見ている。が、彼らも危機感らしきものはそこまで感じていないのか、雑談をしている様子は大凡真面目な職務態度とは言い難い。 まあ、この様な違法な場所へ、真っ当な警察由来の護衛など連れ込める筈もないのだから、犯罪者や攘夷浪士から適当に見繕われた者なのだろう。致し方のない話だ。 体つきは悪くない。そう熱心に鍛えている風ではないが、喧嘩程度には憶えぐらいあるだろう。 そこまで観察した所で、土方はのろのろと上体を起こした。 まずは、この二名の護衛を排除するのが先決だろうと、段取りを考えつつ、ふらふらとした足取りで立ち上がる。 この機会の為に、今まで極力体力を温存する様努めていたのだ。酷使されていた下肢は重たかったが、立ち回るのにそう問題はないと判断すると、土方は着物の袷を寄せつつ如何にも怯えた風で上げ床から降りた。じゃらりと鎖が音を立てるのに、幕臣達がこちらを向く。 「おや。『狗』めが、逃げる心算か?」 「少々折檻が足りなかったのではないですかな。佐久間殿の躾が足りておらぬのやも知れませんが」 護衛も二人おり、こちらを見ている。如何な武装警察の副長とは言え、鎖に移動制限をされた上、散々に弄ばれ輪姦されて精も根も尽き果てた様に倒れ伏していた者に何が出来よう。と。笑う声達を背中に受けながら、土方は憶束ない足取りで蹌踉めきながらも入り口へと向かって行く。 仮にこの観戦席を出た所で、逃げられなどはしない。嘲笑う様な声に恰も押し出される様に踏鞴を踏んだ土方は、にやにやと下卑た笑い顔でいる護衛らの前に進み出る。 「なんだい、お嬢さん?いや犬か?俺らとも遊んでくれるのかい?」 土方が今身に纏わりつかせているのは、ここに連れて来られた時に着替えさせられた女物の単衣一枚だ。それ故の揶揄だとは解っていながらも顔を顰めずにいられない。 顰めた顔を隠す様に俯いた土方の腕を、護衛の一人がぐいと掴んで寄せた。ふらついている足取りの侭に引き寄せられるその様は、男の癖に、本当に力のない遊女にも似てるに違い無い。──全く、反吐が出る。 「ご隠居。俺達にもちぃと愉しみを分けてや頂けませんかね?」 土方の身を抱き留める様な形で支えた護衛がにやにやとした顔でそう言い、上げ床の上の幕臣らは、それも面白い余興かと、変わらぬ笑い声を上げる。 (……は) 実際、土方には自らの体勢をここでわざわざ崩す愚など犯す心算は無い。 蹌踉めいて腕に落ちる様なフリをして、その足は長い単衣の裾に隠れ、確りと地を踏んで立っている。 (ったく……、あのドS王子らしいイヤガラセの品だ) 気取られない様にひとつ息を吐いて笑った土方は、唐突に長い袂を掬い上げる様に腕を振り上げた。その一動作の中で朝倉から受け取った煙草の箱を抜き取り、乱暴に封を切ると、目の前の男に向かって投げつける。 お見舞い。激辛マヨネーズ。朝倉の口にしたその二つに合致するもので土方が連想し得るものは、土方が襲撃の翌日に沖田から受けたイヤガラセのそのものだ。曰く、見舞いだと宣って持って来た、見た目に何の変哲もない癖、火の出そうに辛いマヨネーズ。 なれば恐らく、この煙草も同様の、ドS王子謹製の対土方用のイヤガラセアイテムに相違ない。 朝倉が何故それを知っていたかは解らない。山崎か、沖田にか直接渡され頼まれたのやも知れない。 受け取ってからはずっと袂の中に潜ませて、着物を脱がされることで奪われたり離されたりする事の無い様に、頑なにその布地を掴み続けていた。 幸い、乱れた遊女にも似た、紅の単衣の中で男の身体が悶える姿はさぞ滑稽で卑猥で、連中の目を愉しませていた様だったが。 ともあれ、それは大層胡散臭い事この上無い逸品だが、今の土方にとっては反撃の有効手に充分成り得る。そうなればと思い渡されたのも間違い無い。 見た目は何の変哲もない、土方の好む銘柄の煙草の箱でしかないそれは、封を切られた途端、ぱん、と癇癪玉が破裂する様な音を立て、放たれた手の先で派手に炸裂した。 「な?!」 護衛達が、硝煙の臭いをさせて炸裂したそれから飛び散った、墨汁の様な黒い液体を浴びせられながら身を捩る。先頃闘技場で爆発が起きた事もあり、反射的にそれを爆発物だと誰もが思い込んだ。 室内中の注意がそこに集中したその隙に、土方は狼狽えているもう一人の方の護衛の顔面に振り返り様素早く肘を叩き込みつつ床を蹴った。不自然な体勢で放った痛打の威力など端から期待していない。目眩ましになる時間はほんの僅かだ。 男らが我に返れば、未だ本調子まで立ち直っていない土方を二人掛かりで押さえつける事など容易だろう。仕掛けは一瞬、そして一度で結果を伴わなければならない。 身を翻した土方は、先程下男の置いていった櫃に飛びつくと、その蓋を乱暴に開いた。中身は今土方の纏うものと似た様な着物だ。言われた通りの『危険物』では、無い。 (危険物。脆い。上から。何が落ちて来るとも、) 『下男』の口にした符丁を辿り、土方は迷わず櫃の上蓋に手を掛けた。すると二重構造になっていた板は容易く剥がれ、その中に隠された『危険物』の姿を顕わにする。 「ってめぇ!」 土方の投げつけたものが、爆弾ではなく悪戯の類の物であると気付いたらしい、護衛の一人が、墨汁に濡れた顔を自らの袖で擦りながら、怒りの手を伸ばして来る。 だが、その時既に土方は『危険物』を手にしていた。地下に到着するなり手元から奪われた、『危険な代物』。 掴み慣れた、刃の重みが。疵ついた手に益々馴染んでいる様なそれは錯覚か。 それとも、疵を穿ったものをこそ断てる歓喜故にか。 鞘走りの音の一瞬。閃いた愛刀の刃は直ぐ背後まで来ていた護衛の頸動脈を違えず真一文字に裂き、刀を振るった土方の半身を赤く斑に染め上げた。 返り血に怯む事なく、続け様に駆けた土方は、顔面を打たれて呻いていた男の喉を真っ直ぐに貫く。 ぐぷ、と血泡を吐いた男の身体を蹴って刀を抜くと、血と脂とに濡れた刃を袈裟に振り、土方はゆるりと宴席の幕臣らを振り向いた。 何が起こったのか、正しく理解していた者は誰ひとりとして居なかった。 申し訳程度に身に纏わせた女物の紅い単衣に包まれて、その半身をそれよりも赤い血に濡らした姿を晒しながら土方は無言で嗤う。 ああ、本当に。世界は愚鈍だ。 ぺたりぺたりと、血溜まりを踏みにじった赤い足で近付いて来る鬼の姿に、漸く我に返った幕臣達が怯え上がる。 だが、口々に、「気でも違えたか!?」だの「野良狗風情が何をしているのか、解っているのか!?」だの「誰ぞ、これを取り押さえんか!」だのと喚き立てて、膳を倒して後ずさりする男らには一瞥もくれない。そして当然の様に、彼らの声に応える下男も護衛も居ない。 転げる様に逃げて道を空ける彼らの横を悠然と通り抜け、土方は硝子窓から闘技場の様子を伺った。 観客席のあちこちで騒動が起き、闘技場の中では、坂巻らか、それより早く山崎が解放したのか、『控え室』に入れられていた人間や天人たちが訳も解らずに戦い合い逃げ惑っている。正に煉獄の光景がそこにはあった。苦笑すら浮かばない。 その中で、一際飄々とした様子で、己に近付く者を片っ端からいなしているのは、黒い鬼の面を着けた少年の姿。 「総悟…」 若い頃からずっと見て感じて来た、見覚えのありすぎる太刀筋を苦々しい思いで見下ろし、土方は諦念強い溜息をそっとつく。 「鬼の居ぬ間にサボるんじゃなかったのかよ…?」 佐久間に呼ばれて部屋へ上がる土方へと、無関心の態度も隠さず手をひょろりと振っていた少年の──そう、不貞腐れているとしか言い様のない様子を思い出せば、成程これが答えだったのかと、どこか絶望的な理解をする。 珍しくも頑なにこの大阪行きを志望した理由。 何もかもを隠して、嘗ての煉獄関の時と同じ様に、沖田の犯した失態を一人で収め、今回も同じ事をしようとしていた土方に沖田なりの苛立ちが募っていたのは最早問うまでもない話だ。 散々に嫌味を投げてから、彼は言った。「旦那に抱かれんのは気が楽でしたかィ?」と。 ああ、楽だった。手前ェの囲った茨で傷つける事を気に病む必要もない相手。 幸せなど互いに望まなくて良いから、楽だった。 背負うものではないから、楽だった。 あの手をはね除ける方がきっと困難だろうと思って仕舞う程度には、楽だった。 そうして手を取り合って、向かい合って仕舞う事で、世界は見えなくなった。 (そうだ。総悟、テメーの指摘の通りに、俺はきっとあの時から腑抜けて満たされちまった) それだと言うのに──それを、"また"棄てる気なのかと。それが沖田の向けて来た嫌悪と弾劾の正体。 馬鹿な過ちばかりを、愚かな独り善がりばかりを繰り返す。そんな男に対する失望を、少年は的確に打ち込んで来たのだ。 挙げ句の意趣返しの心算か、こんな所まで、土方の醜態を知ってまで、わざわざ嘴を突っ込みに来るなど。 イヤガラセと言う意味では本当にドSだ。土方の『厭』だと思う事をするのにはどんな労さえも惜しまない。 鮮やかな体捌きで観客席へと駆け上がった黒鬼の面がちらりと、見える筈もないこちらを見上げて来た気がして、土方は縋る様に責める様に息を吐いて笑うと、こつりと硝子窓を叩いた。 「その様は似てねぇ俺の物真似って事で構わねぇが、陽動にしちゃァ態とらしくやりすぎだろ…」 佐久間は沖田のこの扮装をして、この手を土方の指したものと思い違えたらしい。まさか土方が、恥も矜持も心も棄てて銀時へと助けを乞うたとでも思ったのだろうか。だとすれば些か腹立たしい話だ。 ひょっとしたら、奉行として各種の人間の憎悪や愛情の起こす犯罪を見る内、賢しい頭には『恋人が助けを求めるのに応じる』お約束が有効手として刻まれていたのやも知れない。 銀時の──白夜叉の介入など、『今更』有り得る筈も、許す筈もないと言うのに。 そんな真似を、土方がする筈などないと言うのに。銀時が応じる筈などないと言うのに。 (駒みてェな決まり切った動きだの、お約束みてェな展開だの。そんなもんばかりで済む程、世界も、俺らも、愚鈍だとしても単純じゃねェんだ) だから馬鹿な失敗をするし、誤った選択だってする。気付かずに済む事もあれば、後悔が届かなくなる事もある。 (………だから、もう、) そこで土方はすいと目を眇め、上げ床の隅に集まって震えている幕臣らをゆっくりと振り返った。ずっと闘技場を見下ろしていた、物騒極まりない有り様の男の注視が向けられた事に、彼らは面白い程に怯えを露わにする。 「き、貴様、一体何のつもりで…!我らは幕府に尽くす忠義の臣下ぞ!我らに逆らう事はお上を敵に回す事になると解って、」 「残念ですが」 必死に己の権力を訴える幕臣──否、元幕臣らへと、土方は静かに言い放った。 「卿らの罪状は、不法賭博、人身売買を始めとした類。天人取締法にも抵触するものが含まれましょう。これらを犯すは即ちお上の定めたる司法を侵すも同義。仮にも幕府に忠誠を誓う幕閣を自負するのであれば、潔く縛につかれよ」 長い袂を掴んで刃の汚れを無造作に拭うと、その揺るぎない切っ先を元幕臣らへぴたりと突きつける。 「貴様ァ…!野良狗風情が、何を根拠にその様な、」 今ならば、佐久間か大阪城楼閣に罪を擦りつければ逃げることも叶う。証言者は被害者でもある土方や、人身売買に曝された者らしかいない。『彼ら』を首謀者であると断じる明確な証拠など何一つある筈もない。恐らくは残してもいない筈だ。 これ程にあからさまな事態にあっても、この『元』幕臣らを護る法の網は硬い。 彼らはそう思って声を上げたに違いない。 そこに奇しくも、それとほぼ同時に、闘技場へと鬨の声を引き連れた黒い服の一団がなだれ込んだ。 揃いの隊服に身を包んだ彼らは、刀を手に勇猛果敢に、神明党残党を含む浪士や天人ら、そしてこの闘技場の管理を行う者らに向かって行く。 これは、土方が上へ送る様に仕向けた、録音機器が証拠として有効だったと言う何よりの証明であり、結果だ。 真選組が大挙して乗り込んで来たのを見ると、地下闘技場と違法賭博の運営と言う証拠を突きつけられて、観念した大阪城楼閣側からの『切り捨て』かもしれない。 捕り物も加わり、益々煉獄の有り様となった眼下をちらりと見て、土方は胡乱に笑いながら、冷徹な調子で口を開いた。 元幕臣らもその視線を追って、真選組がそこに乗り込んでいるのを目の当たりにするなり、がくりと、突きつけられた切っ先の前に膝をつく。 葛藤の表情だ。苦しげなほどの。 「御用改めである。 ──さァ、どうする?天人の人権絡みの犯罪に情状酌量は一切認められねぇ。地位も名誉も権力も全て失い朽ち果てるか。 それとも、地位と名誉と権力を抱えてここで潔く腹でも斬るか」 好きな方を選ばせてやる。 そう平然と告げる姿は、『狗』ではなく、正しく『鬼』だった。 。 /2← : → /4 |