雨上がりの花 / 4 雨は降らない。 上がって、枯れた侭、あれ以来ずっと。 斬られた一太刀の痛みが、あれからずっと疵口を抉り続けている。 「土方、」 見間違える筈の無い銀髪から目を逸らす様に俯けば、降って来るのは銀時の静かな声。 「土方」 もう一度、同じ様に呼ばれる。解っている。聞こえている。 面倒だから返事をしない訳じゃない。声が出ない訳でもない。いや、ある意味では出ないのかも知れない。 解らない。 解らない、けれど。 「ひじかた」 困った様に繰り返されて、唇が戦慄く。みっともなく叫びそうになり、止めようと益々強く口を引き結んだ。 顔を上げる気などしない。酷く無様でみっともなくて、どうしようもない様な無惨な心地がする。 歪んだ視界には目の前に立っている男の、足先と影とだけが見える。 目を向ければきっと、闘技場の天井から下がっていた照明の光を背に浴びて、きらきらと光る銀色の髪が見えるだろう。困った様に、どうしたら良いか解らない様に──でもきっと、いつもの様にへらりと笑っている男の顔が、そこにはきっとある筈だ。 ある筈のないものが、ある筈だ。 頭の奥が酷く痛む。軋んだ身体の何処かが強い拒絶を訴えていて、動く事が出来ない。 「なぁ」 業を煮やしたと言うより、困り果てたと言う様な声だった。促す様に、一歩。銀時の履いている、脚絆を巻いた地下足袋がじゃりりと硝子片を踏みしだく音が。近付く。 これ程惨めな心地になった事など、今まで無かった。 酷い目に、キツい目にも遭った事だってある。もっとしんどい修羅場だって潜り抜けて来た。 それでも、きっとこれ程までに無惨な思いをしたことなんて、ない。 「土方」 呼ばれる。銀時の声だ。 優しさと情の深さを思わせる。静かな声だ。 「………………っは」 思った途端、土方の喉から滑り出たのは、乾いて貼り付いた笑い声だった。 傷ついたからだ。決まっている。 瑕をまた自覚させられたからだ。解っている。 「何しに来た。万事屋」 肚を決めて口を開けば、そこから出たのは、いつも以上に冷えたつまらない声音だった。 簡単な事だと気付けば早い。堰を切ったこの不満を。お前への罵詈雑言を。溢れる侭に流せばいいだけの話だ。いつもの様に。今までの様に。 「わざわざこんな所まで、真選組副長の無様な姿でも見に来たか?──ああ、なんでかんで情は深いテメェの事だ。一度はフッた男が、きっと手前ェにも知らない事情があったんじゃないかと、そんな下らねぇ幻想でも抱いて来たのか?だ、としたらご苦労なこったな。生憎この通りだよ」 まくし立てる様に言って、緋色の女物に包まれた自らの身体を見下ろせば、そこにあるのは散々に薄汚い幕臣共に輪姦され弄ばれた侭の姿だ。多少拭った所で、この状態をまともだと見る者はいないだろう。 正しく。鎖を首からぶら下げた、『狗』の姿だ。 「テメェは恋人面していちいち煩ェからな。だからフられたなァ、俺にゃ丁度良かった。ああ、いや、合意ならテメェもフラれたって事になるか。 ま、別に、元より野郎同士の実も意味も無ェ関係だ、どっちでも構わねぇかそんなんは。 で、こう言う趣味の連中相手が『取引』っつってこんな男の汚ェ身体をご所望だってんなら、こっちにゃ応じねェ手は無ぇんだよ。それを今更情人気取りして、お得意の説教でも垂れに来たのか?」 飽く迄、銀時には『取引』の正体が、白夜叉と言う対価の元に成り立っていたのだとは、悟られてはいけない。だから、侮蔑されようが詰られようが──或いは、本気で心配をしていたのかも知れない思いに救われようが、それだけは。それだけは、知られる訳にはいかない。 あの時、嘘をついて銀時を遠ざけようとした時から。それだけは、護らなければならない。 早口で言い終えた土方に、銀時から返る言葉はない。 「テメェに、俺の『取引』の話漏らしたのは総悟か?っは、何て言いくるめられたか知らねーが、総悟も、真選組も、この捕り物の為に動いてる。俺も結果的に潜入捜査してた様なもんだ。でなきゃ組の連中が雁首揃えて、こんな規模にはならねェだろ? テメェは精々、体よく『捜査協力』させられただけだ。わざわざ大阪まで連れて来られて、攘夷浪士の代わりに牢屋に押し込められて。報酬が出るとも知れねぇ話だってのに、全くご苦労なこった」 言いながら、朝倉の扮装をしていた銀時の様子を思えば、山崎も一枚噛んでいたのだろうと言う答えに至って、密かに唇を噛む。 山崎が、土方の醜態をわざわざ銀時に話すとは思えないが、大阪行きと言う時点で難色を示していた様子を思い出せば、『保険』として銀時を嗾けた、と言う線も有り得る。 だ、としたら実に余計な話だ。実に厄介な話だ。実に、面倒な。話だ。 山崎とて、土方が具体的に『何』を対価に『取引』に応じたかは知らない筈だ。話した憶えもない。だから、この男が何処までを知っているのかは知れないが──否、恐らく何も知らないに違いない。そうでなければ、この男ならばもっと早くに何かの手を出して来ていてもおかしくなかっただろうから。 「……消えろや。もう気は済んだだろう?お生憎様だが俺はこの通り、まあ多少は汚れてるが無事だし、テメェの手出しなんざ必要としちゃいねぇ。文句ならテメェをここまで引っ張ってきた、総悟だか山崎だかに言え」 嘘だ。 自分の事だから、解る。 浅ましい事にも。未練がましい事にも。お前が来てくれて、確かに安堵している自分がいる。 嘘をついて、突き放して、互いに合意で分かれて、それでお終いだと。そう決めていたと言うのに。 いざ目の前にお前が立った、たったそれだけの事にも『期待』をせずにいられない。 恐ろしいのは、お前に全てを知られる事だ。 お前に気付かされた、疵が瑕である痛みを思い出させられる事だ。 お前を護る為にだなんて思い上がって、お前の意志や感情を無視して、お前の大事にしてくれたものを容易く売り払った事だ。 真選組の土方十四郎をひととき忘れる程に、お前を大事に思って仕舞った事だ。お前に、どうしようもなく落とされて仕舞った事だ。 或いは。 テメェを失いたくない一心でこんな事にも堪えたのだ──などと本音を言えば。この男はこの侍を標榜する愚かな狗を見限ってくれるだろうか。 それはとても素晴らしい考えの様に思えて。同時に、口には決して出せない本音だと思った。 「本物の『狗』以下になって、そりゃァ無様にキャンキャン啼いた。散々手前ェに拓かれて、男悦ばせる方法だけなら、幾らでも真似事が出来たからな。 もうちょい早く来りゃァ、狗を躾けて交尾に励むジジイ共を叩き斬れただろうに。俺も、連中も、到底見れたもんじゃ無かったからな」 喉奥からくぐもった様な笑い声が溢れた。 口に出して仕舞えば酷く簡単だ。自分を貶めて嘲る言葉など幾らだって出てくる。嘘ではない本音の侭に、幾らでも。 子供じみた独占欲や執着と、人並み以上の義侠心を持つ男がこんな所までわざわざ来たと言う事は、沖田にでも、山崎にでも構わないが、助けて欲しいと言う旨を乞われたに違いないのだ。 そんな銀時が、一度は心を向けた相手の不貞以下の無様な所行を知れば、そこから侮蔑を得るのはきっと容易い筈だ。 (テメェに知られない為に、テメェを追い払う為に、叶うなら、何だって言ってやらァ) どうせ嘘ではないのだから。これだけは、嘘ではないのだから。 だから、早く目の前から消えてくれ。 お前への、棄てきれなかった想いを、微塵に叩き斬ってくれ。 強く思って目を閉じれば、歪んだ視界がひととき閉ざされる。 じゃり、と言う音と共に、衣擦れの音がした。銀時が何か動いた様だ。空気の動きは感じられなかったから、こちらへ向かった音ではない。ひょっとしたら踵を返したのかも知れない。 「……なぁ、土方。頼むからさ、まずちゃんと俺の事見てくんねぇかな?」 「──」 何か言うなら『俺』に向かって言ってくれよ、と続けられる苦笑に、思わず息を呑んだ。目を開けばその縁が熱くて、かぶりを振る。 俯いた視界を歪めていた涙が、目の淵ギリギリに留まろうとしている。今顔なぞ見て仕舞ったら、何かが堪えきれなくなりそうだった。 ふわ、と空気の動く音。視界に男の足の他に辛うじて膝が映り込む。しゃがみ込んだのだ。 ばりばりと頭を掻く音。溜息にも似た息遣い。 「なぁ。土方」 声がする。変わらない。 涙の理由ぐらい解る。お前が来てくれて、そんな風に変わらない声を掛けてくれて、それが嬉しいんだ。それに安堵を覚えているんだ。 だからそれを拒絶するべきなのに。解っているのに。解らなければいけないのに。 なんでそれが、こんなにも苦しいんだ。 お前が、なにか一言を言う度に。なんでこんなに痛いんだ。 ただ、名前を呼んでいるだけだ。 何を知っているとも言わない。何を責めているわけでもないのに。何でその顔を、姿を見る事が出来ないのか。 (ただ、お前が、変わらないでそこに居る事だけで、) 苦く、苦く笑おうとして、失敗した。 ああ、なんて惨めで。なんで無様で。──なんて。幸福なんだろう。何で、幸福なんだろう。 最早意味を失った慕情の欠片たちが、その上げる歓喜の叫びが。こんなにも。こんなにも。 せめて、こぼれそうな涙を堪えたくて目を硬く瞑れば、逆に、縁に溜まった熱い雫がぼたりと落ちた。 「土方」 もう一度、繰り返される。根気強く。むずがる子供を待つ親の様に。 仕方なしに涙に歪んだ視界をぐいと乱暴に拭い取って顔を起こせば、その場にしゃがみこんでいる銀時の、驚くほど真剣な笑みがあった。 笑っているのに、真剣だった。緊張に硬い口元で、それでも笑いかけてくれていた。 泣いているのも、拒絶したいのも、知った上で、そんな変わらぬ様子で居てくれている。 「話、しようや。俺と」 ちゃんと話そう。そう、本当に子供にする様な調子で言うのに、重たい目の侭かぶりを振る。 無様に目は赤くなっているだろうが、どうせ涙の理由など解りはしないのだからどうでも良い。それでも、許してはいけない領域に何ら変わりはない。だから、土方は無言で首を振った。 「……テメェと、話す事なんざ、何も無ぇ」 にべもなく斬れば、銀時は膝上に預けていた手を自らの後頭部にやってばりばりと頭を掻いた。それが何かを考えている時の癖なのだと、知っている。 「じゃ、勝手に話すな。俺が勝手に話してくから、オメーはちょっとの間黙って聞いてろや」 テメェの話なんざ聞く必要は無ぇ、と。出掛かった言葉は何故か喉に引っ掛かって出ようとしてくれない。 結局無言となった土方の応えを、是と取ったらしい。銀時はしゃがんだ侭頬杖をついて、宣言通りに勝手に口を開き始めた。 「俺は、よ。ガキん頃からだけど、何かを得るって実感、あんま持てた事無かったんだよ。死体から物剥いだり人様のもん盗んだりして来てたからか、手前ェだけに与えられる様なもんってのがずっと良く解らなくてな。先生、つーか……その。恩人、て言や良いかな。そいつに会って、色んなもん貰ったんだけど、それも他のガキ共と共有するもんが殆どで。俺『だけ』のもんってのに、多分凄ェ執着があるんだと思う。 まあ、そんなんが関係してんのか、それとも元からなのか知らねーけど。お前にも言われた通りで、俺、独占欲とか一度手前ェの領分に得たもんに対する執着は凄ェ強ぇのな」 どこかばつが悪そうな調子で言って、銀時は小さく笑う。 思えば、銀時の子供の頃など今まで訊いた事のない話だ。だが、あからさまに興味を示すのも癪で、土方は極力表情を変えない様にして、その笑みを伺い見た。 「だから、ひょっとしたら俺は卑屈だったのかも知れねぇけど。あの時、お前が俺の手を取ってくれたのがスゲー嬉しくて堪らなかった。でも、頭の中じゃ解ってんだ。お前ェが真選組の為に生きてて、俺に譲ってくれたのはほんの少しでしかないんだって。解ってたんだよ。解ってたのに、つい欲をかいちまった」 それは違う。そう言いかけた土方の唇は然し強張って動かない。 銀時は土方に、気休めを言って貰いたくてこんな話をしている訳では、きっと無いのだ。 「コイツは、近藤の為や真選組の為にしか生きてねぇんだろうって。俺はずっと思ってたんだ。いつだって淡泊で、人の気も知りやしねぇでゴリラ優先なんだって。仕事優先なんだって。 幾ら育てても咲かねぇ花みてーなもんだと、勝手にそう決めつけてた」 ふっ、と。子供が笑う様に、目の端を柔らかく緩めた銀時の手がふと伸びて、土方の目元にそっと触れる。 遠かった筈の距離は、腕一本分。 指がそっとなぞる、涙の痕。 「……逆だった。お前はきっと俺なんぞに全部をくれる様な奴じゃねぇんだろうって、そうやって全部お前の所為にして、誤魔化してたのは俺の方だったんだ」 触れた指の温度が温かい。それを握り返したくなる衝動を、土方はひととき堪えて息を呑んだ。 逃げなければならないのに。棄てなければならないのに。動けない。 「情けねぇ話だけど、多分俺ァ怖かったんだ。俺は手前ェの届く範囲のもんを護んのに妥協は一切しねぇけど、お前は俺に護られてくれる様な奴じゃねぇから。それが恐かったんだよ。 ウチのガキ共は何れ大人になりゃ、万事屋(うち)を離れる。それぞれ手前ェの生き方護って、護りてぇもん護って、そうやって生きてってくれるんだろうって、そうなりゃ良いやって。その覚悟は一応してんだよ、俺ァ」 ひととき惜しむ様にとどまった銀時の指がそっと離れた。遠ざかる温度に、縋るものはない。手は出ない。声も出ない。 ただ、痛みだけが蘇って、涙がまたひとつ。こぼれた。 困った様に、どうしようもない様に、銀時が目を細めて、行き場の無い様な手が躊躇う様に震えた。 「でも、お前にだけはその覚悟が出来ねぇんだ。俺が護ろうとしなくても、お前はお前の護りてぇもんの為に生きるし、死ぬ時ァきっと、アイツらの所で刀振り回して死ぬんだろうって。解ってんのにな。そんなお前だから惚れちまったってのに。 でも俺ァ、お前を失いたく無ェんだ。ガキ共みてぇな具体的な未来像も無ェ、似た様な年頃の似た者同士で、ひょっとしたらお互いずっとジジイになっても変わらねぇで、馬鹿みてーに喧嘩したり笑い合ったりして行けるんじゃねぇかって。そう思ってんだ」 これが独占欲なのか執着心なのかは解らないけれど、この感情だけは本物なのだと。 そうして、震えた指先が躊躇いながらも、土方の、床に着いた手に重ねられる。 びくりと跳ねた身体は、それを払い除けるべきだと。言っているのに。 強張った土方の手を、包む様にしてくる銀時のてのひらもまた強張っていて。緊張しているのだろうと知れる。そんな痛みにも似た理解の上へと、こぼれた涙が落ちて、重なった指を、濡らして行く。 否。きっとこれは、理解ではないのだ。 思うが、合致する様な言葉も、感情も見当たらない。 土方の言葉も、嘘や虚勢で作った拒絶も、きっと今のここには無意味だ。 理由はなくて、是も否もなくて。ただ紡がれているこれは──きっと、もっと大事なものだからだ。 銀時の、心だからだ。 あの時から住まわせて貰っていた、銀時の護りたい世界だからだ。 「土方。なぁ、土方。オメーだけだ。お前だけなんだ。恋とか言うものかどうかは知らねぇけど、こんな風に思うのは、俺はお前だけで良い。こんな風に願うのは、俺ァお前だけが良い」 ぐ、と銀時の手指が握り締められた。土方の指を掴んで、離すまいと抱き締める腕の様に。 「……お笑いだろ?俺は、お前を無くしたくないから、お前は遠いもんなんだって思い込んでたんだ。思い込もうとしてたんだ。お前はあんなにも、俺に向き合ってくれてたのに。忙しかろうがなんだろうが、俺に会いに来てくれてたのに。 そんな都合の良い事を、俺だけに都合の良い事を認めちまったら、俺はお前を失いたくねぇばかりで、もっと欲しくなるばかりで、駄々捏ねてどうしちまうか解らなくなっちまうぐらい、怖くて堪らなかったんだよ。 お前が、俺の世話なんざ無くても咲いててくれてる花なんだって、俺は気付きも、認めもしてやれなかったんだよ」 震える、手が。 宣誓の様に。紡ぐ。余すこと無い、こぼれた想いを全て。繋ぐ。 なんて無惨で。なんて──何で、何で、何で、幸福な。 しゃがんでいた銀時の、膝が床に落ちる。詰まった僅かの距離が、腕をその侭引き寄せる。 「なぁ、土方。お前は多分、間違えた。俺も間違えたけど、お前も確かに間違えてた」 逃げる事も、逃がす事をも許さない様に近付いた距離と、言葉の刃とに、土方はびくりと身を竦ませた。 ああ。間違いない。 銀時は、土方が『何』を取引にと差し出したのかを。知っている。 知っていて、何も変わらずに居てくれようとしている。 知っていて、ここまで来てくれている。 それは絶望だったのか、それとも歓喜だったのか。解らない侭、かぶりを振ろうとする動きを封じる様に、銀時は土方を強く抱き締めた。 「……!」 息が詰まったのは、抱擁の強さにではない。嗚咽が漏れそうになったからだ。 否定の言葉を喚き散らしかかる唇を、土方は強く噛んで堪える。 「ごめんな」 柔らかな銀髪と、静かな声とが耳を打つ。 「お前を間違えさせたのは、俺だ。──白夜叉がどうのって言うんじゃねぇ。お前にそこまで思い詰めさせたのは、俺の弱さだ。お前に何も言おうとしなかった、お前に何も訊こうとしなかった、俺の弱さだ。 お前が、俺を護ろうなんて思っちまうくれェに。俺が、お前を護りてぇなんて思っちまうくれェに。俺達は互いを信じられてなんて無かったんだよ」 「──ッ、」 言葉にではない。衝動で、土方は息を呑んだ。 茫然と。歪む視界の端で耿る銀の髪を見つめながら、ただ茫然と、その衝動が悲鳴を上げようとするのを堪えた。 戦慄く両腕が。血に塗れた身体が。狗として売られて穢れた無様な心が。叫んでいる。 違うのだと。お前ではなく、俺が、俺の弱さが、お前を手放したくないその一心で、惨めな想いに身を窶してでも、足掻いたのだ。 正しいことなどないと解っていたのに、それでも真選組よりも、ほんの少しだけお前を強く望んで仕舞った。 それが、お前に貰ったものたちを踏みにじる所業と知っていても。俺に信頼を寄せてくれている真選組の皆を裏切るに等しい事だと、知っていても。 俺は、浅ましい俺自身の為に、お前を選んで仕舞った。 それはきっと、選んだ方法以上に正しさのない決断だった。そうと理解しながらも選んだのは誰あろう俺自身だ。 お前ではない。お前が謝る事ではない。 弛まない腕の力の前に、土方の裡で張り詰めていた糸がふつりと切れた。身体の両脇にだらりと落ちていた腕が戦慄いて、抱きしめ返すも、突き放すも出来ずに行き場を失う。 ごめんな。もう一度繰り返す銀時の声が震えた。 「好きだ。だから繋がろうとして、そっから先何が出来た?想い合う言葉ひとつ交わしもしねーで、ガキの恋愛みてぇに浮ついた部分だけで、手だけ取り合って、身体繋ぐことばっか憶えて。一丁前の妬心や、お互いへの不安だの羨望だのばっか嵩んでった」 強張った背中を抱き締める腕がますます強くなって、宥める様に指が背骨を奏でる。 「もっと話すべきだったんだよ、俺達はさ。簡単な事だった。でもそれが出来なかった。 言葉にしなくても解るだなんて、そんなのァ、ひねくれて負けん気ばっか強くて、出した言葉引っ込める事も出来ねぇ、天邪鬼な上、似た者同士の俺らには土台無理な話だったんだ」 だってそうだろう? 言い聞かせる様に、銀時の笑い声。 震える腕の、それでも弛まない強さ。乾いて落ちそうな言葉の、それでも違えない正しさ。 「簡単な事だったのに、なァ」 仕方ない、と笑い声をあげる銀時に、土方も笑みを自然と浮かべた。きっと無様に歪んだ、泣き笑いめいた表情だと思う。 全くだ。実に自分達らしい。馬鹿馬鹿しい話。 意味のない行為に過ぎた情は要らないからと、力なく吐き出した言葉を覚えている。 意味がないなら、どうしてその手を取ったと言うのだろう。 意味を求めたから、お前が望んだ侭に赦してみようと思ったのだ。 お前に差し出せるものは、きっとこれしかないからと。お前が望むならば、それで良いと。 お前の所為にしていたのは、俺だ。 お前が、どうして俺なんかを好きだと言ってくれたのかが解らなかったから。だから何も惜しくないと思った。これが僥倖ならそれでも良いと。何も、なにひとつ問おうとしなかった。 なにひとつ、本当はくれてやれてなんていなかったのに。なにひとつ、本当は譲ってなどいなかったのに。 それだと言うのに、この男は。 こんなところまで。 こんなものを、伝えに。 お前は馬鹿だ。何処までも酷い、大馬鹿野郎だ。 震える唇で辛うじてそう紡げば、音になったかは知れないが「ああ」と小さく頷かれた。 「本当は喜んじゃいけねぇのは解ってる。でも、俺は、お前が──俺の為に、俺を選んでくれた事が、嬉しい。許す事なんざ出来ねぇくれェ腹は立ってんのに、それでも嬉しかった。 俺は間違ってる。お前以上に間違ってる。でも、………でも。俺を、俺たちを護ってくれて、ありがとうな」 吐息に乗せる様に、独り言の様に紡がれたその独白が、銀時の本心なのかは知れない。知る必要もないと思った。 ただ、肩に乗せていた重しがまるで落ちた様に、すとんと全身から全ての力が抜け落ちた。すかさず崩れない様に抱き留める腕の強さに縋る様にして土方は咄嗟に銀時の背を掴むと、その肩口に強く目元を押しつけた。 「……酷ェ野郎だ」 そんな事を言われたら、もう二度と選ぶまいなどと思えないではないか。二度と選ぶなと、許さないと、釘を刺しておいて。 選ぶのだろうか。選ばせられるのだろうか。思って喉を鳴らして笑えば、「お互い様だろ」と同じ風な笑い声。 その辛辣な調子から、きっと許してくれる気など無いのだろうとは伺えた。 「…………酷ェ、野郎だよ」 涙の染み込んだ布地に目蓋を押し当てて、力無く笑いながらそっとこぼす。 優しさに包む様な真似をしながら告げる、これは痛烈な弾劾だ。 「どっちが?」 「るせぇな。お互い様なんだろ」 面白がる様な銀時の問いを素っ気なく振り解くと、土方はぐいと密着していた体を引き剥がそうと腕に力を込めるが、そこで左の手を捕まえられた。 咄嗟に振り解きかかる手の力をやんわりと封じる指と、その向こうの、目を細めた銀時のいつにない真摯な表情とに晒されて、土方は寸時言葉を失った。動けない。 「なぁ、土方。俺はやっぱりあの時と変わらねぇ、お前の事が好きだ。……お前は?」 「な…、」 迫るでもない。追うでもない。淡々とした、二度目の告白の向く先に何があるのかを、土方は知っている。 故に出掛かって何とか止まった反論は、問い返しではなく憤りに似た感情だった。 変わらず此処に来て、変わらず振る舞う男が、今更此処に来てまで、土方の手を離す筈などない。解っている。 だから、お前ももう、虚勢だの嘘だので繕わずに、諦めないで向かい立ってはくれないかと。そう言っているのだ。今を通り越した『この先』を見てはくれないかと。そう望んでいるのだ。 (──本当に、酷ぇ野郎だ…) 強制力などまるで無い手は、振り解くのはきっと容易いだろう。 「……決まってんだろう」 地面に落ちて彷徨った右手が、拭いきれない血と脂とを纏わせた愛刀へとそっと落ちた。まるで、初めて竹刀を手にした子供の様に、土方は辿々しい手つきで探った柄を、握り締める。 「俺が選ぶのは、いつだってこっちだ。他は、考えられねぇ」 かたた、と地面で立つ鍔鳴りの音。ああ、手が震えていやがる。思って舌打ちをした。 今までの様な強がりだったら、こんな無様は晒すまい。だからこれは──これが本心だから、誤魔化せない。 ──もう一度考えてみてくれ。お前はあいつを選んでも良いんだと、ちゃんと知ってくれ。 いつか近藤に言われた言葉が土方の喉元を甘く擽って行く。そこに呑んだ決断を吐き出せと誘う。 (煩ぇ。俺はそんなに器用な人間じゃないんだ。そんな事はあんたも、万事屋だって知ってるだろうに。飽く迄俺に決断を迫る心算なのか) 「ひじかた」 (なんでそんなに自信無さそうに困った風に笑うんだ。さっきまで鬱陶しいぐらいに確信を得た様な笑みを浮かべていやがった癖に) 掴まれた腕の、繋がれた指の温度に目を閉じる。 逆の手には汚れた刀。 叩き斬るには良い場所だ。無様な想いを抱えて動けない、この腕ごと。 「俺には、他には、何も無ぇ。何も無くて良い」 繋がれた手だけを通して。それだけの距離の先で。開いた視界には、たった一人。 銀髪の侍が、一人だけ。 「何も、要らねぇ。──が、」 「ああ。……知ってる」 強くなる指の力に引っ張られる様に、土方は声を絞り出した。喉からというより、もっと奥の何処かから。 「それでも、俺ァ今此処に居る」 お前を選んで仕舞ったから、此処に居る。 散々な目に遭って、後悔ひとつ無く。間違った正しさであると知って猶。此処に居なかった未来など、有り得ない。 「うん。…………ちゃんと知ってるし、解ってる」 縋る様に、硬く握り返した手の先で、銀時が幸福そうに目を細めるのが見えた。 ──これが、見たかったんだ。 自分も大概馬鹿野郎だと思いながら、土方も倣って漸く目の間から力を抜いた。上手くは笑えてはいないだろう。でも構わない。どうせ、誰も見ていないのだから。 「だからよ、」 握手をする様な指が悪戯っぽく動いて、てのひら同士が触れあえば、その侭指が甘く絡まった。 「もっぺん、『ここ』からゆっくりやり直してみねぇ? 好きだって一言すら言えねぇぐらいに負けず嫌い同士で、酒一緒に飲んだり互いの飯に難癖付け合ったり。デートとかあんま出来ねぇでもただ一緒に町歩いたりさ。そんで事件や仕事に巻き込まれて背中合わせて共闘したり。その侭疲れたけど興奮した勢いでホテルしけ込んじゃったりしてさぁ。 そうしてぐにゃぐにゃ曲がりくねって、あちこち寄り道して、どうでも良い話とか沢山して、足下の花に気付いて季節感じたりしながら、もっかい俺と一緒に歩いてくんねぇ?」 格好良いとは言い難い、でも銀時らしい言葉の紡いだ問いに、なんだか酷く可笑しくなって土方は喉奥で笑い声を上げた。 こんな単純で、下らない『ごっこ』遊びすら無かった。ただ、過ちに気付くまで、夢中で互いの心を貪っていただけの関係だった今までの、さぞ爛れて見えただろう様に。笑うほかない。 土方の上げた笑い声を諾と取ったのか、銀時はひとつ満足そうに息を吐いた。ひょっとしたらそれは安堵の溜息だったのかも知れない。 「な。今度はよ、お前が俺を落としてみろや」 「…は。何ボケた事抜かしてやがる」 あの時応じた土方の、喧嘩腰の様な物言いを真似て言う銀時へと向けるのは相も変わらぬ挑戦的に過ぎる笑み。寸時瞬きをした銀時が息を呑む。 「テメェはとっくに、俺に落ちてんだろーが。ベタ惚れなんだろーが」 今更だろう?言って土方が釣り上げてみせる口角に、自然な動作で腕を引いて、銀時の唇が近付いた。 「…参った。惚れ直すどころじゃねぇわコレ」 触れる寸時そう囁かれ、笑う吐息が混じり合った。 手を、取り合う所からもう一度。今度は間に面倒な感情を沢山挟んで、臆病で面倒臭くて厄介な恋をしよう。 。 /3← : → /5 |